往診専門の治療師(さとはま)のきまぐれブログ! (注)治療事例や中医学的なことは書きません。ごめんなさい。

往診専門の施術家としての悩み、苦しみ、時にはちょっと考えたことなどをつぶやいています。
不定期更新。きまぐれブログ!

私はしょせん赤の他人

2017年06月22日 20時17分40秒 | 雑感

私は、患者様との関係は、

先生というひともいれば、

治してくれる人という概念の人も多い。

しかし、しょせん赤の他人である。

でも、赤の他人だからこそ、そのひとのことを真剣にみることがある。

とはいえ、もし、患者様に何か命の危険性があったら、わたしは

恩師がいったように、何が何でも、そのひとを守る義務がある。

といって、患者様のことを考えることがある。

私が、盲学校時代に、教えてもらった医師がいる。

そのひとに、「あなたたちは、ファーストコンタクトなのだから、

絶対に、何か兆候があったら、すぐに主治医に連絡することを忘れてはいけない。」

そのために、基礎医学を学んでいるのだから。

決して、病名を診断するのではなく、あくまで、命にかかわるか否かを見極めることを

忘れないように、といわれたことがある。


そんなことをおもいながら、いつも仕事をしている。

そんなとき、いつものように、往診しているお宅から、sosがはいった。

明らかに調子がおかしい。

そんなとき、わたしはためらず、救急車を呼ぶ

それは、命があぶないと思ったら、なにがなんでもよぶ。


しかし、そのときは、ちょうど、日曜日で、いつもお会いしたことのない

ご家族の方がいらっしゃった。


そんなとき、わたしは救急車を手配を頼んだ。

しかし、その家族の方は、赤の他人に何がわかる。

といって、拒否された。

もちろん、その家族の方は、医学的なお仕事をされていない。


こういうとき、あなたならどうするだろうか。

わたしは、命が危ないと思ったら、私が判断して

救急車を呼ぶことにしている。

結果、よび、そして、脳こうそくということがわかり、

緊急入院となった。

あと、数時間遅れていたら。。

ということだった。



このとき、家族の方のことをいっていることを第一優先にすべきなのか。

それとも、主治医に連絡するのか。

それとも、ケアマネに連絡するのか。

わたしは、最初に救急車、そのご、ケアマネ、主治医という順に

対応した。


ただ、家族の方の赤の他人が何をする。

という言葉をきいたとき、ふと、この方はどうしたかったのだろう。

ちなみに、この方と、ほかの家族の方の関係は、この件をもとに、ぎくしゃくし

家族崩壊にまで発展した。



わたしは、医師ではない。

わたしに、最終的判断をもってはいない。

けれど、命というものが判断されたときは、全責任をおってでも

わたしは助ける。


わたしは、赤の他人である。

しかし、赤の他人でしかできないことがあることをわたしは

わすれてはいけないとおもう。

在宅の意味

2017年06月21日 20時13分06秒 | 雑感
在宅の意味はとても重要で、

おうちでどうやって生活をしていくのか。

ということ。

おうちの中で、自分のできる力が発揮できることを

最大限に引き出すことができるようようにすることが私たちの仕事。

わたしの持論は、施設での、リハビリも、理学療法士さんのリハビリでも

効果があれば、そのほうがいいとおもう。

つまり、自分にあっていない人にやってもらうことが一番つらい。

だって、どんな手技や技法をつかっても、患者さんが信じなければ

意味がない。

意味がないということは、やる気がないということだから、

やはり、それはつらい。

人間対人間

だから、いつも真剣勝負。

真っ向からぶつかって、そして、悩む。

患者様のほうが辛いことはおおいことはよくわかる。

でも、私たち、かかわっているものに、どうぞ、

なんでもはなしてください。

そうすれば、きっと、きっと良くなる方法を

一緒に考えましょう。


といっても、すぐにはできないことが多いです。

1か月、いや1年かかることもある。

でも、いつか、できることを願って・・・

やっぱり、おうちで死にたかった・・・・

2017年06月19日 05時47分41秒 | 雑感

この仕事をしていて、とてもつらいことは、

やっぱり、おうちで死にたかった。

といわれること。

特に、再発して、入院して、1か月後には、リハビリ病院と呼ばれる

慢性期病院に入院する。

その間、家族は、その後のことについて、考えなければならない。

選択しとしては、在宅に戻るか、施設にはいるか。

施設でも、特養か、有料か、はたまた、老健か。

いずれにしても、お金がかかる。

そう考えると、ショートで、場をつなげるという選択肢もある。


いずれにしても、家族も時間的余裕もなく、精神的にも疲労する。

こういうとき、本人のほうが冷静で、やはり、施設にいくしかないな。

とおもうことがある。

悲しいけど、どうすることもできない。

ふいにいわれることが、なんとなく、悲しい。

「ずっと、おうちで死にたかった・・・。」

このことばをいわれると、どうにもやりきれない。

本音がそこにある。

ただ、そばで、そうだね。ともいえず、

ただ、何もできない。ふがいなさだけが残る。


よく、同業者の先生方にいわれることがある。

在宅を終了したら、それからは、次の先生がおこなうのだから

こちらは、これで終わり。

そうしなければ、こちらも身がもたない。


しかし、人間対、人間。

ただ、割り切れないことがある。

ふと、わたしは、お見舞いにいくことがある。

ふらっと。

もちろん、家族の方の同意は必要なのだが・・・。


いままで、断られたことはない。


何もできないのに。

ただ、ふと、その人のことが気になる。

それなのに、何故会いたいのだろう?


自分がなにもできなかった、罪滅ぼしなのかもしれない。

そうおもうと、心に隙間風がはいったような感じがぬぐい切れない・・・・。



Fくん

2017年06月15日 00時51分58秒 | 雑感
 fくんという友人がいる。

 かれは、昔から病気がちで特に入院をよくしていた。

 そんな彼が、最近、健康志向に目覚め、トレーナー

 になった。

 トレーナーという言葉を聞いたとき、彼が正直

 トレーナーになるとはおもわなかった。

 それだけ、体力に自信があるのか?

 とおもったから。

 スポーツトレーナーという

 わたしはてっきり?ポケモンのトレーナー?と

 おもってしまった。

 そんなことはないのだが。

 スポーツトレーナーは、選手のメンタルをみていないと

 いけないので、彼の今までの状況がとても役に立つという。

 彼にとっての転職。

 うまくいってほしいと切に思うのである。


生きる力をどうやってもたせるか

2017年06月09日 11時03分54秒 | 雑感

訪問マッサージやら、訪問リハビリという人はごまんといる。

わたしもその中の一人だ。

わたしは、毎日いろんなひとにいわれながら、考え、そして落胆しながら

毎日をいきている。

そのなかで、ある患者さんが脳こうそくを再発し、急性期病院に入院した。

そんななか、わたしたち訪問マッサージや訪問リハビリをやっているものは

あのとき、こうしておけばよかった。

あのとき、これがわるかったのかもしれない。

と自問自答する。

しかし、それは、後での後悔しかない。

なぜなら、患者さんにとって、今をいきているのだから。

悔やんでもしょうがないのである。

そうかんがえるとき、わたしはつねにおもうことがある。

生きる力をどうやってもたせるか。

担当の医師にいわれたのは、この人をどうやって生きる力をもたせるのか。

つまり、2回目、3回目の場合、モチベーションはさらにひくい。

たぶん、在宅で戻ることは難しい。

そんななか、どうやって、生きてもらえるのか。

そこにシフトをしていかないといけないとわたしはおもう。


技術は、セミナーなどで自分自身で向上できる。

しかし、患者様にどうやって生きる希望をあたえることができるのかは

難しい。

その人の人間力が試されるからだ。

同調しながら、次のステップにどう進めていけるかだ。


たしかに、在宅マッサージ師は、病院や施設に入ったら、引継ぎしておわり。

ということだろう。でも、わたしはそんなものではないとおもう。

縁があって、施術させてもらったのだから、その人がせめて元気になるまでは、

何かできることを自分がやらせてもらうようにこころがけている。

これが、独立しているからこそできるのであって、企業でつとめていたら

そうはできない。

開業者の醍醐味だとわたしはおもう。


わたしは、常に息詰まる。

この仕事がむいていないのではないか。

どうすればいいのか。

胃が痛む毎日だ。

でも、この仕事を選んだ以上、逃げられない。

どう立ち向かっていくのか。

その塩梅がむずかしい。

明日も楽しみにまっている、あの方に自分は何ができるのかということを・・・・