天使のような笑顔が魅力的な安藤栄里子さん。
あなたの消息をずっと知りたいと思っていたのだけれど、昨年4月に亡くなっていたことを昨年末に知りました。
ずっとあなたのことで何か書きたいなと思っていたけれど、コトバを交わした時間にしたらほんの数十時間、日にしたらほんの数日にしかならない短いお付き合いでした。でもあたなのことは強烈な印象とともに残っていました。
今日まで思いつかなかったのだけれど、あなたの名前で検索をしてみたら、足跡を知ることができました。
彼女と知り合ったのはK新聞社の記者をしておられる時でした。なんとなく意気投合し、自宅でお泊り会をした時に、持参されたお土産はワインと「メダカ」で、ちょっと私は目をシロクロ。お土産にメダカ?!
当時私は、大津市の秋葉台というところでアパート住まいをしていました。40代前半だったと思います。生き物を飼うのは・・・だったけれど、目を輝かせながらメダカの生態について語る彼女を見ていたら、迷惑だとも言えず、ちゃんと大事に育てなければと思ったものでした。
彼女はその時に「私は学生の時に新聞社の営業でアルバイトをしていて、ここに入社したのは営業に行きたかったのに、配属は記者やった。営業の人頑張ってはるのに。記者は営業の人や販売が稼いでくれはるから、お金のこと心配せんと書けているという部分もあるのに、そういうこと全然考えてはらへん。偉そうやし」と色々な職種で成り立っている新聞社のことについての思いを語り、また自分の将来については「鍼灸を学習し、グァテマラの人のために役立ちたい」と真摯に語り、会社を退職する決意を固めておられました。
とても真似はできないと思いましたが、素直にエライなーと思ったことを今でも昨日のことのように覚えています。少し酔っ払った彼女が私の部屋のスリッパや何気ないカゴに指で◯印をしてくれた何気ないことも、昨日の事のように映像がしっかりと浮かびます。私にとっては楽しい夜でした。
その後私は移動で職場が変わったり、早期胃癌が見つかったりといろいろあり、入院中は友人に時折メダカの世話を頼んでいましたが、退院して数日後にメダカは昇天されました。早期胃癌後復職しましたが、1年経たないうちにいろいろあって退職しました。
数年間は彼女と年賀状のやりとりはあったのですが、来たりこなかったりで、病気をされたと書いてあったこともありガンなのだろうかといろいろ気にはしましたが、沖縄を旅された後ろ姿の写真が印刷された年賀状を最後に来なくなりました。
今日ネットから知った詳しいことは、2003年の11月に多発性骨髄腫(血液のガン)と診断され、余命2年の宣告を受けられた後、8年生き抜き、昨年4月14日に享年43歳で亡くなられたということです。
彼女と親しかった方のブログに、彼女は1985年8月、米国アイダホ州の高校に1年間留学され、その時に米軍核施設の事故があり、そのときに浴びたプルトニウムが原因で骨髄腫になったのではないかと考えられる と記してありました。
彼女は余命宣告を受けた後も、グァテマラの被差別マヤ民族のサポート運動、パレスチナ支援運動、反原発=自然エネルギー普及運動などに積極的にその身を投じていかれたそうです。余命宣告を受けられた後も、自分の信じる道に身を投じておられたわけですが、なかなか真似のできることではないと思います。
多分私には絶対できません。だから偉大な人を目の前にして身がすくむ思いを今味わっています。
彼女と親しくされていた人々のブログには、みな彼女の真摯な生き方を讃えられていました。
知りたかった人の消息を読みながら、大きすぎる生き方に圧倒された今夜です。
そして、プルトニウムの怖さも知りました。そんな風にして数年後に命を奪って行くのです。現代の医学では治癒不可能なのだそうです。フクシマ原発の後、自体は混迷を続けています。野田政権の時に出された収束宣言は嘘っぱちなのに、表面上は日々平和に過ぎていっています。
上記のページを先日教えてもらいました。ご興味のある方はご覧ください。
ではまた明日
ご精読ありがとうございました。
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