奈良県南部の十津川村。ここの中心部に大きな石碑が建っています。「荒木貞夫終焉之地」と佐藤栄作首相(当時)の筆で書かれたそれは、陸軍大将の最後を記した石碑という点で珍しいものです。そして、十津川における荒木の存在感が伺いしれる史料です。
前回(下記リンク)、
荒木貞夫の軍刀目当てに来村してから2年経ちましたが、今回は、その荒木の最期の部屋に泊まりました。ですから、十津川を終点とする戦後の荒木貞夫について徒然書きます。
なお、荒木にとっての「戦後」は、巣鴨プリズンから出所して日本社会へ復帰する、1955年6月18日とします。
1 荒木貞夫について
荒木貞夫は1877(明治10)年、旧一橋家家臣・荒木貞之介の長男として東京に生まれました。
陸軍士官学校(9期)を卒業後、日露戦争に従軍し、その後は陸軍大学校を経て、ロシア駐在武官、参謀本部初代ロシア班長などロシア畑の道を歴任しました。最後は陸軍大将となりました。
1936年、二・二六事件後の粛軍のため現役を退いた。その後は第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣で文部大臣を務め、米内光政内閣で内閣参議を務めました。
2 荒木貞夫に対する先行研究など
そんな昭和戦前期における重要人物たる荒木貞夫を主題とした研究は近年、博物館教育に着目した後々田氏の論文など盛んになってきたものの、多いとは言えません*。「荒木貞夫関係文書」という荒木の旧蔵していた文書がありますが「一次史料を全面に用いた研究はない」(伊藤隆ほか編『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館、2004年、18頁)と指摘されているようにこちらもさして注目されるものがないのが現状です。
*富田武「荒木貞夫のソ連観とソ連の対日政策」『成蹊法学』67号、15-65頁、成蹊大学、2008年や、後々田寿徳「荒木貞夫にみる日中戦争期の博物館像(一)」『東北芸術工科大学紀要』13、2006年など
3 荒木貞夫の「戦後」
荒木は1955年6月14日、病気を理由に連合国側の許可によって、仮出所が承認されました。18日に夫人の迎えを伴って出所しています。
すでに巣鴨時代から雑誌に寄稿するなど言論活動を再開していた荒木ですが、出所して2ヶ月後には「巣鴨から出て日本を見る」『政経指針』を発表し、そのなかで、「かれらに希望がないからだ…前途に希望がなければ、建設の意欲が湧かないのはあたりまえである」と、日本が低迷している理由として現在の若者に希望がないという主張をします。
そこから3ヶ月後の11月にはラジオ「マイクの広場」に出演、「戦争に対してゴタゴタ言うな」発言が反発を呼ぶなど、話題に事欠かない人物でした。
その後も近藤日出造や、女優中村メイコとの対談など誌上を賑わせる傍ら、1965年には自衛隊に対する講演や、『昭和経済史への証言』の取材インタビューに応じるなど、陸海軍最長老として活動していました。
その翌年に彼は十津川村の招きで同村に赴くこととなったのです。
4 なぜ十津川村へ
荒木は1966年10月31日、十津川出身の国会議員前田正男(荒木貞夫陸軍大臣の秘書官だった前田正実の養子、実祖父は十津川郷士で陸軍中将男爵の前田隆礼)の案内で来村しました。
荒木が十津川村に来た理由を、碑文はこう記しています。
「将軍は予て、天誅組の処刑が君側の奸策に因ること二二六事件と酷似せるを聴き、かくの如き事が繰り返えされては、我国体を危くするを憂え、一度現地に就き、事跡を調査したき念願を持って居られた。」
どうやら荒木は天誅組の処刑と二・二六事件が「酷似せるを聴き」、関心を持っていた為来村したようです。
では、天誅組の処刑とはなんでしょうか。二・二六事件と、似ているのでしょうか。
5 天誅組
天誅組とは、江戸時代末期に、中山忠光を中心とした幕府を倒して尊皇攘夷を行うための集団でした。1863年に、五条の代官所を急襲して代官を斬首し、新政府を宣言しましたが、最後は幕府により鎮圧され組は壊滅、ほとんどが討死や捕縛ののち処刑されました。この一連の出来事を天誅組の変と言います。
戦前にはかなりの著作が出ていましたが、戦後はローカルでしか研究がされていませんでした。 一方、単行本では近年に舟久保藍『実録天誅組の変』が出され、それで最新の詳しい流れを追うことができます。
6 二・二六事件
二・二六事件は、1936年2月26日に日本陸軍の青年将校に率いられた歩兵第三連隊約1300名が、当時の総理大臣岡田啓介以下閣僚のほか政府首脳を殺害し、新たな内閣成立を企図した軍事クーデターです。
高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍大将ら政府・宮中・陸軍中枢の人たちが殺害されましたが、結局政権交代は成功ならずに部隊は帰順しました。率いた青年将校のほとんどは非公開の一審裁判で処刑されました。荒木はこの事件で青年将校に一貫して寄り添った行動をしていました(筒井清忠『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、2014年)。
7 荒木はなにを聴いた?
以上が二つの事件(変)の簡単なあらましですが、荒木はこの二つから何が似ていると聴いたのでしょうか。
国立国会図書館憲政資料室に所蔵される「荒木貞夫関係文書」に「十津川郷士調査資料書抜」というのがありますが、中身は南朝に関する人物の略歴と十津川郷士に対する文書を筆写したものです。ここからは荒木が積極的に十津川郷士に関心を持っていたとは言いきれません。
武田泰淳の言葉を借りれば、荒木は戦前に「さかんにしゃべりまくり、書きまくっているから彼の文章をしらべる資料に不自由はしない」(『政治家の文章』59頁)し、戦後はもちろんですが、その中でも十津川郷士や、天誅組について触れたものは管見の限り見つかりませんでした。
となると、本当に最晩年に「聴いた」のでしょうか。可能性としては前述のように、荒木に近く、十津川にも近い前田正実-正男がありますが、史料的に確認が取れないので推測でしかありません。
8 訪村そして死去
荒木貞夫は10月31日に十津川村に来村し、村役場にて時局講演を行いました。何を語ったのか史料がなく確認できませんが、天誅組に関わってたのは推測できます。
その後に荒木は、史料調査やフィールドワークをしたのち、宿泊先の「十津川荘」にて宴会のあと、温泉にて倒れました。「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」とする遺言を残して亡くなったのでした。90歳でした。
筆者が泊まった荒木貞夫最期の部屋(筆者撮影)。
略年譜
1954.9 「巣鴨からもの申す」『丸』
1955.6.14 仮釈放認め
1955.6.18 仮出所
1955.8 「巣鴨から出て日本を見る」『政経指針』
1955.11 「スガモ断腸の記」文藝春秋
1956.4 ラジオ文化放送「マイクの広場」
1959.7/pp48-53日出造見参 やァこんにちは」『週刊読売』読売新聞社
1958.3 「風雪十三年-陸海両軍の最長老」『丸』
1958.12 「対談 老将軍と女優」『週刊明星』1(23)集英社 24-26
1959.7 「軍隊としての信念と誇りをもて」『丸』
1960.12「テロ事件の抜本策」『新民』
1961.1 「わが師団と太平洋戦争」『丸』
1961.10 「山鹿素行の日本学」『新民』
1962.8 「日本の今昔と世界の将来」『新民』
1965 「戦は総て計り事なり」『現代防衛論集』
1965『昭和経済史への証言』取材
1966.10.31 十津川来村
1966.11.2 十津川荘にて死去
1966.11.9 「荒木貞夫氏に銀杯」毎日新聞13面。財団法人奉仕会顧問
1975 風雲三十年史発表
1987 荒木将軍の実像発表
なお十津川歴史資料館に展示してた荒木の軍刀は、現在はしまわれてしまい、見学不可能です(2021年3月現在)。
訂正(4/10) 3荒木貞夫の「戦後」の「戦争に対してゴタゴタ言うな」→「戦争中にあったことを、いつまでもグズグズ言うのは間違いだ…」(『読売新聞』1956年12月29日朝刊8頁)。
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