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「当たり前の医療ができない」「仲間を守れるのか」大阪・看護師たちの悲鳴

2021-05-16 15:30:00 | 日記

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です

 新型コロナウイルスの感染者が爆発的に増え続ける大阪府。累計死亡者が1700人を超え、今なお入院もできず、自宅やホテルでもがき苦しむ重症者が数多く存在する。5月上旬の7日間の大阪府の死者数は人口100万人あたり22.6人。インドの同16.5人を上回っている。その最前線に立つ看護師たちの本音とは――。
 大阪府内の病院の救急科で日夜、重症者対応に追われる看護師・Aさんが現状を吐露する。
「私たちが限界と言ったらいけない……そんな思いでなんとか踏ん張っていますが、正直言ってしんどいですよ。できることならもう辞めたい。疲れた……。通常の3倍、4倍の業務量なので、日勤も遅くまで残業したり、16時間にも及ぶ夜勤は普通、仮眠を2時間ほど取れるのですが、それも取れていません。17時に入って、入院対応や急変対応しているうちに気がつけば午前0時になっているとか、酷い日は午前3時、4時になっているなんてこともざらです。一度も休憩せず、飲み食いもせず、忙しすぎてトイレに行くのさえ忘れることも。もう滅茶苦茶な状況です」赤く染まった通天閣
 大阪市内の民間病院で働く看護師・Bさんもこう語る。
「毎日、毎日、不安の中で働いていて、感情のコントロールができなくなってしまっている。定時にはもちろん帰れません。時間外勤務が増え、基本的には朝8時45分から夕方5時半までの勤務ですが、5月に入り重症者が増えてからは8時半とか9時になることも。師長も、深夜24時くらいまで残って対応しています。コロナの重症患者の方に加えて、一般の重症患者も見ているので、そうした患者さんの退院調整やマネジメントもある。師長にはそこに職員の感情面のフォローも重なって相当な負荷がかかっています。とにかくマンパワーが足りません。加えて、4月は新人が入ってきている。新人教育をしながら、慣れないコロナ患者さんも診なければいけないんです」
 こう激務の状況を打ち明けるのだ。
「実際のところ、みんな、いつ辞めよう、いつ辞めようと思いながら、自分が辞めると益々周りが大変になるから言い出せなくて、辞められずにズルズル来ているような状況です」大阪医科薬科大学病院のICU
 もちろん自身や家族への不安もある。
「自分たちも伝染るんじゃないかという不安感はあります。特に第4波以降は急変する患者さんが増えており、今まで以上の緊張感を強いられる。これまで1年以上頑張ってきましたが、終わりが見えないどころかさらに追い打ちをかけられている状況です。急変の割合が第3波の比じゃないのに加えて、感染力がすごく高い。ちょっとした間違いで自分も感染するんじゃないかという不安は常に消えません。若手もベテランも何とか気を張っていますが、ちょっとしたことで泣いてしまう看護師も多い。患者さんの命ももちろん大切ですが、一緒に働いている仲間をどうしたら守れるのか、悩みながら日々を過ごしています」
 過酷な環境の看護師たちをさらに悩ませているのが、「看取り」だ。
「家庭内感染が増加していて、家族も陽性や濃厚接触者という場合が多く、家族に会えないまま亡くなられていった患者さんが数多くいます。人生の最期に、私達だけが見送る状況です。ご家族の気持ちを思うと、『本当にこれでよかったんだろうか』と。ご家族が陽性や濃厚接触者でなければ、うちの病院では感染対策をきちっと取ってもらった上で、本当に数分ですが、最期のお別れをしてもらえるよう努力しています。『会わなかったら絶対後悔する』という気持ちが私達の中にあるので」
 先日、コロナで亡くなった患者の遺品を片付けていると、ハーモニカを見つけたという。
「ああ、この人、ハーモニカを吹く人だったんだって。患者さんのことを何も知らず、何の関わりもできないままだった。この人のことを『人』としてちゃんと診れていないと愕然としました。コロナの場合、こちらもフル装備で、マスクをして、ゴーグルをして、表情も見えません。看護師として当たり前のケアもできないのは本当につらい」
 大阪府堺市にある総合病院の看護師・Cさんも、「看取り」についてこう語る。
「第4波では家庭内感染が増えていて、家族が濃厚接触者だったりすると、病院まで来てもらうこともできない。本来、お亡くなりになられたら看護師の方で体をきれいにさせてもらい、身支度をしてご家族にも面会をしてもらうんですが、今は極力、亡くなった後も曝露のリスクがあるのでご家族は体には触れないよう徹底しています。納体袋に患者さんを入れ、棺に入れるところまで看護師がするんです。ストレッチャーと棺をお預かりして看護師がベッドから移し替える。霊安室に移動してからご家族に対面してもらうんですが、お顔を見ることも、触れることもできない。いままでの看取りとまったく状況が違います」
 Cさんも、やはり第4波の危険性を肌身で感じているという。
「第3波までは入院患者は高齢者が中心でしたが、今は若くなっている。40〜50代が中心になっています。30代が複数いた時もありますし、30代の重症化もあります」
 振り返ると、大阪が緊急事態宣言を前倒しで解除した2月末が悔まれるとCさんは言う。
「感染者が減って、病棟全体で陽性の患者さんがはじめて0になったことが3月頭にあったんです。でも、それも2週間くらいで、あっという間に増えだした。専門家の方々が指摘されていますが、解除を前倒しした後、他の地域に比べて感染が急拡大したのは否めません。本当ならPCRの検査数をもっと拡大するべきだったと思います。例えば高齢者施設では、多くのクラスターがスタッフから持ち込まれています。結果論ですが、スタッフのPCR検査が徹底されていれば多くのクラスターは防げたんじゃないかと思います。吉村(洋文)府知事はイソジンとか、ワクチン開発とか、たいそうなことをぶち上げる前に、もっと地道にできたことがあったんじゃないかなって思います」
 看護師の日常生活にも深刻な影響が出ている。
「本当に職場への往復と日用品の買い物くらいで、電車に乗るのもはばかられるような状態が続いています。外出は、もう1年くらい控えています。つらいです。この4月からはさらに厳しくなって、同居者以外とは一切会わないで下さいと病院からは言われています」
 今、前出のBさんが強く訴えたいのは、変異株が中心となった「第4波の危険性」と、それと乖離した人々の行動だ。
「私達も驚くのですが、10代の子でも感染している状況です。小・中学生でも感染し、症状が出ている。それなのに、『慣れ』が人の流動を止めない。大阪の人口100万人あたりの死者数はインドより多いと報道されています。重症化の速度は速く、発熱外来を予約して自分で歩いて来た方が、病院に到着した頃には低酸素ですぐにでも挿管が必要な状況になってしまっている。ものすごく怖い」自宅療養中の患者。ハンガーに点滴をつり下げている 
 Bさんは、時々、コロナで亡くなった方の遺族から優しく「どこも断られていると聞くのに、自分の家族は受け入れてもらえただけで感謝しています」と声をかけられるという。
「ご遺族にそんなことまで言わせてしまって、益々やりきれない。本来当たり前のはずの医療がもうできてないので、完全に医療崩壊だと思います」
 Aさん、Bさん、Cさん。3人に共通するのは、「医療現場の危機感を、少しでも多くの人に共有してほしくて取材に協力した」という思いだった。
 5月11日(火曜)16時配信の「週刊文春 電子版」および12日(水曜)発売の「週刊文春」では、今大阪の医療現場で何が起こっているのかを徹底取材。大学病院のICUの様子や、病院長の実名インタビュー、医師や保健師の証言をもとに、「もう70歳以上は受け入れられない」という医療崩壊の現場の詳細を報じている。


「36人を殺した放火魔の命を救うべきか」主治医が苦しみぬいて出した答え

2021-05-16 13:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

2019年7月、全身の9割以上に深刻な火傷を負った男が病院に運ばれてきた。京都アニメーション放火殺人事件の容疑者だった。主治医はどんな思いで治療にあたったのか。当時の主治医で、現在は鳥取大学医学部附属病院救命救急センターの教授の上田敬博氏が振り返る――。
※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 7杯目』の一部を再編集したものです。
上田敬博(うえだ・たかひろ)/福岡県福岡市生まれ。1990年近畿大学医学部卒業。2014年兵庫医科大学 医科学研究科(生体応答制御系)修了。医学博士。2020年4月より鳥取大学救命救急センター教授に就任。広範囲熱傷の救命・治療に力を入れている。
阪神大震災のボランティアで体験した無力感
その日、上田敬博が床を出たのは、いつもより早い、朝5時半だった。夜、大阪城ホールでビリー・ジョエルのライブが予定されていた。窓口に並んだ甲斐があり、上田はいい席を手に入れていた。大好きなビリー・ジョエルを間近で見られると興奮して眼が覚めたのだ。
そして5時46分、地面が激しく揺れた。これまで体験したことのない揺れだった。自分の部屋はマンションの一階である。それでもこれだけ揺れるとは、もう終わりだ。
(お父さん、お母さん、ごめんなさい)
と心の中で呟いた。
95年1月の阪神淡路大震災である――。
幸い、上田の住んでいた一帯は倒壊などの被害はなかった。近畿大学医学部の二回生だった上田は、震災の約一カ月後に神戸市長田地区にボランティアとして入った。
そこで目の当たりにしたのは、心の傷ついた人たちだった。
「旦那さんだけが瓦礫の中に埋まって亡くなってしまったという60才から70代の女性がいました。お二人の間に子どもはなかった。一人残されたことが悲しかったんでしょう。なんで自分だけ生き残ったのだろう、寂しい、死にたいってずっと言っていた」
上田たちは交代で彼女を見守るために家を訪問することにした。しかし、彼女は夜中に手首を切り、自殺した。
「何もできなかった。自分たちがやっていたのは単なるパフォーマンスというか自己満足やったんかなと思った記憶があります」
賢くて器用な外科医の父に抱いた劣等感
上田は71年に福岡市で生まれた。父親は九州大学の勤務医だった。幼稚園のとき、父親の医院開業に合わせて北九州市に一家で移った。
男の子にとって父親は最初の壁である。上田の前に立ちふさがったのは、とてつもない高い壁だった。
「九(州)大に行くような賢い人で、IQが高くて、何かを読んだらすぐに覚えてしまう。五カ国語ぐらいできるんですよ。外科(医)出身で、手先が器用」
彼は患者に寄り添う医師でもあった。深夜に患者から痛みに耐えられないと呼びだされ、上田は往診に付き添ったことがあった。鎮痛剤を打ち、これで帰れると思った。ところが父親は腰を上げない。鎮痛剤が効くのを確認してからでないと帰れないというのだ。患者のことを第一に考える男だった。
そんな父親とひき比べて上田は劣等感を抱えていた。
「小学校のとき掛け算を覚えるのがクラスで一番遅かった。サッカーやラグビーをやっていたけれど、頭抜けているわけじゃない。ドジでのろまな亀だって自分で分かっているんです。そして不器用」
強く地面に叩きつけられたのは、大学受験のときだ。父親の母校、九州大学医学部を受験したが不合格。三浪の末、近畿大学医学部に進むことになった。
「大学に入ったとき、(国立大学信仰のある)親から医者になっても認めへんって言われたんです。これは見返さないといけないって、勉強しました。一般教養の基礎医学も臨床医学も全部、成績は良かったです」
まだ世の中にはバブルの残り香があった。高級外車を乗り回す同級生の中で、上田は汗をかきながら自転車で大学に通った。そして、夏や冬の休暇期間は、研究室に入り浸っていた。珍しい学生だと呆れ気味に褒められたこともあった。
救急医療の熱病に冒された怒涛の日々
阪神淡路大震災の被災地には、大学卒業するまで通っている。ただ、卒業後は、父親のつてを頼って、九州大学に入り、心療内科に進むつもりだった。心療内科は、内科的症状を呈する神経症や心身症を治療対象とし、内科治療とともに心理療法も行う。
「心療内科では精神面からアプローチする傾向が多い。せっかく関西にいるんだから、まずは一般内科、一般外科を市中病院で勉強したらどうかと当時の(九州大学の)医局長に言われたんです。そこで、震災のとき一番頑張っていた、東灘区の東神戸病院に行くことにした」
この東神戸病院で上田は救急医療の熱病に冒されることになる。
「ものすごく熱かった。みんなで助け合うという雰囲気があった。ぼくは週5(日)、病院に泊まっていました。月曜日に5日分の下着を持って行き、週末に洗濯物を持って帰る。若いときって、失敗も成功も自分の経験になる。何事もプラスになることが分かったので、そこから遠ざかるという選択肢はなかった」
経験を積んで心療内科に進むという当初の目論見はすぐに霧散していた。
「しんどいことをやるというのは、最初は眼中になかったんですけれどね」
と上田は照れたような笑顔を見せた。
「自分は不器用だと分かっている。だから努力するんです」
「とにかく相手に期待せず、話を聞くしかない」
関西で救急医療に関わっていた上田は“大事故”とも縁がある——。
大阪府立千里救命救急センター時代の2001年6月、大阪教育大学附属池田小学校で小学生を無差別殺傷した附属池田小事件が起こった。
「そのときはペーペーだったので、そんなに患者さんとか家族に関わるというところまではなかったです」
そして、2005年4月兵庫医科大学病院救命救急センター時代にはJR福知山線脱線事故――。
「ぼくは何人か患者さんを受け持っていたんです。その中の一人の若い女性が、お母さんとおばさんと一緒に乗っていて、2人が亡くなってしまった。彼女は背中を50針ぐらい縫ったけれど助かった。なんで自分だけ生き残ったのか、自分なんか死ぬべきやった、生きたらあかんかったと責めていた。震災のときと同じです」
彼女はCT(コンピュータ断層撮影)検査装置の中に入ると絶叫した。狭い場所に閉じ込められると事故の記憶が蘇ってくるというのだ。
「頑張れって言えないじゃないですか。まだ未熟で言葉がなかった。完全に同じ感情になるとか、同じレベルの悲しさになるのは無理じゃないですか。とにかく相手に期待せず、話を聞くしかない」
京アニ放火殺人事件容疑者の主治医として自問自答した言葉
2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件では、上田は容疑者の治療を担当した。彼は90パーセント以上の全身火傷を負っていた。最初に診察したとき、命を助けるのは難しいですと、上田は京都府警の警官に言ったほどだった。
上田は容疑者を裁きにかけなければ、亡くなった方たち、遺族が悲しむと必死で治療した。その過程で加害者と向き合った。当初投げやりだった加害者は次第に上田に心を開くようになったという。
救急医療は、時に患者の“毒”を飲み込む。その重みに耐えきれず、精神的に参る、そして自殺を選ぶ医師もいる。
「緊張感が常に高ぶっているというのも原因の一つ。そしてもう一つは優しい人だからと思うんです。ぼくはもちろん悩むけれど、切り換え、割り切ることが出来る」
その割り切りを身につけたのは2001年に尊敬する父親を失ったときだった。
「父親が亡くなったとき、これより悲しいことはないなって思ったんです。そこでぼくは泣かなかった。それ以来、すごく冷静というか、感情を押し殺す癖がついてしまった。しゃべらへんかったら、感情がないというか、むっちゃ冷たく見えると言われますね」
山陰の“最後の砦”としての責務を果たせるか
2020年3月、上田は鳥取大学医学部附属病院の救命救急センター教授に就任。とりだい病院の救急医療を立て直して欲しいという打診を受けたのだ。
「100人いたら99人やめとけ、絶対に上手くいかないって言われたでしょう」
上田は入局前、密かにとりだい病院を視察している。それも計5回、だ。
「まずナースがどんな感じで働いているのか、一生懸命業務に取り組んでいるのか。雰囲気で分かるじゃないですか。まず感じたのはポテンシャルはあるということ。吸収したいという欲求も感じた。伸びるという確信があった。声を掛けていただく機会というのは誰にでもあるわけではない。やってみようと」
まず手を付けたのは、治療方針の徹底だった。
「(治療)ガイドラインや(論文等の根拠あるデータである)エビデンスをベースにして治療する。それらを知った上で意見を言って欲しい。前の施設がこうだったから、とかそういうのはあかんと。そして、理屈が合っていればそこからずれてもいい」
そしてガイドライン等に則っていれば責任は自分が取ると言い切った。やがて、この病院の強みと弱みは表裏一体であると上田は考えるようになった。
「山陰では高次医療を行えるのはここだけ。最後の砦としての責務は重い。ただ、最後の砦という意味で、あぐらを掻いていた面も否めない。あと、すぐに自分たちは山陰だから、米子だからと口にする。でもそんなん関係ない。ネットも物流も発達している。地域のハンディキャップは実はなくなっている」
山陰という言い訳をして、限界を設けているのは自分たちではないのか。そういう言い訳はやめようと上田は言い続けることにした。その上で、こう宣言した。
ガチでとりだい病院の救急救命は全国でトップレベルを目指す、一、二年でそこまで持って行く、自分は本気だ、と——。
「ここにはドクターヘリもドクターカーもある。都市部に行かなくても、救命救急はここで勉強できる。都市部で働いていたぼくが言うんだから間違いない」
救急医療にはスーパースターなんかいらない
とりだい病院に赴任して一年が過ぎた。今、上田には確かな手応えを感じている。例えば、以前、人工心肺装置――ECMO(エクモ)は年に数回程度の使用だった。ECMO使用の必要がある患者に対して尻込みしてしまい、県境を越えて他病院に搬送したこともあった。現在、ECMOはほぼ毎月、稼働している。
「学会発表、論文がすごく増えているんです。自分がチェックするから出そうと言ったら、みんな書いてくるんです。なかなかそんな病院はないです」
自分が目を通す時間がないので待ってくれと頼んでいるんですよと、微笑んだ。
鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 7杯目』
「山陰って、控えめな文化と関係あるのか、新しいことはやりたがらない。でも軌道に乗るとばーっとやってくれる。最近は本当に頼もしい。ぼくのお陰とかじゃなくて、もともとポテンシャルはあったんです。スポーツと同じでちょっとしたコーチングで人は伸びる」
上田が念頭に置いているのは、彼の愛するスポーツ、ラグビーである。
「ノックオン(というファール)をした人を怒るんじゃなくて、そのボールを拾ってサポートすることが大切。味方が失敗したら、なんで失敗すんねん、じゃなくて自分がカバーしようという組織が一番強い」
救急医療にはスーパースターなんかいらないんですよ、と付け加えた。上田の理想は、強いラグビーチームのように、アンサングヒーロー——“無名の英雄”の集まりなのだ。

田崎 健太ノンフィクション作家


急に「解決金を払う」と言いだした小室圭さんに宮内庁が口が裂けても言えないコト

2021-05-16 11:00:00 | 日記

下記の記事はデイリー新潮オンラインからの借用(コピー)です

文書を自ら否定
「小室さん側から連絡が事前にありませんでした。事後も話を聞いていない」──4月22日の定例会見で宮内庁の西村泰彦長官(65)は、小室圭氏(29)が金銭トラブルの相手に解決金を渡す意向を示したことについて、こう語った。
 ***
 これがどれほどの“異常事態”か、改めて経緯を振り返ってみよう。
 2020年の11月20日、秋篠宮さまは55歳の誕生日を前に記者会見を行った。その際、長女の眞子さま(29)と小室氏の結婚を容認するとの考えを示した。
 だが、金銭トラブルを抱えたままの結婚に対する国民の反発は今でも根強い。西村長官は同年12月10日の定例会見で、「きっちり説明することで批判に対しても応えていける。説明責任を果たすべき方が果たしていくことが極めて重要」と指摘、小室氏に対応を求めた。
 4月8日、小室氏は母親の代理人を通じて文書を発表した。概要4ページ、本文24ページという超長文の文書は、分量だけでも大きな話題となった。
 この“小室文書”は、解決金の問題に言及した。《解決金をお渡しして和解することができればそれがよいのでは》と考えた時期もあったと明かしたのだ。しかし、弁護士に相談したことで方針を変えたという。
《複数の弁護士に意見を求めたところ、たとえ解決金としてお金を渡したとしても、そのお金は借金の返済だったと誤解されてしまうだろう、世間からはやはり借金だったのだと見られてしまうだろうがそれでもかまわないか、といったアドバイスを受けました》
宮内庁長官の“太鼓判”
 小室氏は《話し合いもせずにお金をお渡しするという選択はしない》と決断。《借金でなかったものが借金であったことにされてしまう事態を受け入れることはできない》と考えたという。
 特に自分と母親が「借金を踏み倒そうとしていた人間」だと見なされることに強い異議を表明。更に、解決金の支払いは《将来の私の家族までもが借金を踏み倒そうとした人間の家族として見られ続けるということを意味します》とまで踏み込んだ。
 眞子さまや秋篠宮さまが《借金を踏み倒そうとした人間の家族》として見られる可能性があると訴えたことになる。
“小室文書”が発表されたのと同じ日、西村長官は定例会見に臨んだ。記者から文書についての質問が行われると、次のように評価した。
「非常に丁寧に説明されているなという印象です。私としては小室さんのお母さんと、元婚約者との間のいわゆる金銭トラブルといわれている事柄の事実関係や、話し合いの経緯についても理解できた」
突然の解決金
 更に翌9日には、加地隆治・皇嗣職大夫が定例記者会見で眞子さまのコメントを明らかにした。「今回発表された文書を読まれていろいろな経緯があったことを理解してくださる方がいらっしゃればありがたい」というものだった。
 宮内庁も眞子さまも一丸となって“小室文書”によって国民が納得してくれるように求めた。ところが、である。それから4日後の12日、小室氏の代理人はメディアの取材に応じ、「解決金を渡す意向がある」ことを明らかにしたのだ。
 NHKが同日に報じた「小室圭さんの代理人『解決金を渡す形で解決する意向』 母親と元婚約者との金銭問題」から一部をご紹介しよう。
《(代理人は)基本方針としていた十分な話し合いによる解決は難しいとする一方で、元婚約者の男性に支援を受けたことは間違いなく、小室さんも母親も一貫して感謝の気持ちを持っていると述べました》
《その上で、「今の時点では、話し合いというよりも、小室さんが元婚約者の男性に解決金を渡す形で解決する意向がある」と明らかにし、小室さんがこの点についても眞子さまと相談していると話しました》
宮内庁と小室氏の関係
 一体全体、何があったのか。つい数日前に解決金は払わない、《一般的には金銭トラブルと呼ばれていますが、切実に名誉の問題でもありましたし、今でも、同じように受け止めています》と啖呵を切ったばかりだったではないか──。
 小室氏の言動は全く理解に苦しむとしか言いようがないが、宮内庁への配慮も全くなかったことに気付く。
 何しろ宮内庁のトップが「非常に丁寧に説明されている」と太鼓判を押したにもかかわらず、数日が経過すると、その内容が書き手によって否定されてしまったのだ。皇室ジャーナリストの渡辺みどり氏は、こう指摘する
「文書が発表されるまでは、宮内庁と小室さんは歩調を合わせていたように見えていました。文書の内容についても、宮内庁長官と眞子さまご自身が評価していると明らかにされました。ご結婚に賛成か反対はともかくとして、眞子さまと小室さんがご結婚にむかって動き出されたと感じた方も少なくなかったと思います」
 昨年12月に西村長官が説明責任を求め、今年4月に小室氏は文書を発表した。この流れからも、両者の間でしっかりとコミュニケーションが取れていたことがうかがえる。
皇室の危機
 だが、解決金に関して西村長官は「全く聞いていない」と全否定したのだ。
「長官は率直に、事実を語ったのだと思います。小室さんがどのような判断から解決金を払う意思があると明かしたかは分かりませんが、宮内庁は寝耳に水だったに違いありません。宮内庁は『聞いていない』としか答えませんでしたが、内部では小室さんに怒り心頭でもおかしくないでしょう。まさに面子を潰されたということではないでしょうか」(同・渡辺氏)
 文書を発表すると、小室氏サイドは結婚に反対する世論が多数を占めることに改めて気付かされた。そこで前言を翻し、解決金を持ち出した──このような観測が報じられたのは事実だ。
 だが、急に解決金の話が持ち出されたことで、世論は更に強く反発した。「あの文書は何だったんだ」と非難が殺到した。
 小室さんの評価は下がる一方だが、渡辺氏は「小室さんの問題は、日本人の皇室に対する敬愛を失わせてしまってもおかしくありません。それほどの大問題なのです」と警鐘を鳴らす。
それでも結婚!?
「戦後、天皇家は一貫して、国民に愛される皇室を目指してこられました。昭和天皇、上皇ご夫妻、そして現在の天皇、皇后両陛下といった方々の並々ならぬご尽力の積み重ねにより、今では世論調査で8割近くが『皇室に親しみを持っている』と回答します。しかし、敬愛を獲得するのには長い時間がかかりますが、失うのは一瞬です。小室さんの問題で、日本人の心が皇室から離れるという可能性もあるのです」
 結局、となると、小室氏が解決金を支払うと言いだしたことは良かったのか、悪かったのか──渡辺氏は、そうは簡単な話ではないと言う。
「眞子さまが小室さんと婚約を破棄すれば、世論は歓迎するかもしれません。しかし、眞子さまのお心が深く傷つかれることは看過できない問題だと考えます。眞子さまは当然、ご自身の判断で幸せになろうとする権利をお持ちです。それを止めることは誰にもできません」
 結婚を強行すれば、日本人の心が皇室から離反するかもしれない。その一方で、結婚を認めないのも眞子さまにとって気の毒な話である……。
 まさに「あっちを立てればこっちが立たず」という難問だが、渡辺氏は「国民が納得できるかどうか、少なくとも2点のポイントがあるのではないでしょうか」と指摘する。
「まず1点目は、世論の反発が強い結婚一時金を辞退される必要があると考えます。最大で1億5000万円が予算として計上されたという報道もありました。小室さんと眞子さまが一時金の受け取りを辞退され、日本赤十字などに寄付されるわけです」
 2点目は、小室氏と眞子さまが日本国外に居住することだ。
「小室さんはアメリカ・ニューヨークのフォーダム大学に留学しています。また眞子さまも留学生の多い国際基督教大学からイギリスの大学院に進まれました。英語圏ならコミュニケーションにご苦労されることはないでしょう。日本の外で新しい生活を開始されたのなら、世論の軟化が期待できるかもしれません」
デイリー新潮取材班


もの忘れ、集中力の低下… 「脳は加齢で衰える」は本当?

2021-05-16 08:30:00 | 日記

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脳の特性を理解すれば、脳の健康は維持できる
 「脳の機能は加齢によって衰えるもの」「脳の老化は止められない」。そう思っている人は多いでしょう。その考えは、ある意味では正しいといえるし、間違っているともいえます。
 なぜなら、私たちの脳は一定の発達を遂げたあとは、脳細胞が徐々に減り、萎縮していきます。脳の体積も減っていき、機能も低下していきます。こうした加齢による脳の変化は避けられない事実である一方で、脳の機能はいくつになっても高められることが近年分かってきたからです。
 具体的には、(1)脳の一部では年齢を重ねても神経細胞が新たにつくられること、そして(2)脳には外部からの刺激によって変化する力があることが分かってきたと、東北大学加齢医学研究所教授の瀧靖之さんは言います。
脳は10代で体積が最も大きくなり、その後ゆっくりと老化が始まる
 脳の構造は「大脳」「小脳」「脳幹」の3つに大別されます。このうち、全体の80%を占めているのが大脳。大脳はさらに、4つの領域に分かれています。ものを見る視覚機能を司る「後頭葉」、音を聞く聴覚に関連する「側頭葉」、触覚や運動機能を司る「頭頂葉」、そして、思考や判断、感情や理性、コミュニケーションといった高度な働き(高次認知機能)を担う「前頭葉」です。
 大脳の発達には、個人差があるものの、成長する順序や時期にはおおよその流れがあり、瀧さんはその様子を、「後ろから発達して、前から壊れる」と表現します。
大脳は後ろから順に発達して、前から壊れ始める。原画=(C)Peter Lamb-123RF、(C)aalbedouin-123RF
 生後からすぐに発達するのが、脳の後方に位置する後頭葉と側頭葉。3歳になる頃には、見る・聞くことは、大人と同じレベルまでできるようになります。また、言葉の理解も生後6カ月頃から進んでいきます。3〜5歳頃には、脳の中央部の発達に入り、頭頂葉にある感覚野や運動野の成長スピードが加速します。
 最後に発達するのが、脳の前方に位置する前頭葉。前頭葉の発達は12歳前後の思春期がピークで、人によっては20歳頃まで成長。この前頭葉が完成すると脳の体積は最も大きくなり、子どもの脳から大人の脳になります。
 そして、大人の脳が完成した直後から、脳の老化がゆっくり始まるのです。それも、「最後に発達を終えた前頭葉から、すぐさま萎縮し始めます」(瀧さん)。
脳にはいくつになっても「変化する力」がある
 もっとも、20歳代で脳の加齢がゆっくり始まるといっても、そのスピードは緩やかで、直ちに脳機能に影響が及ぶわけではありません。ただ、脳の神経細胞の数はどんどん減っていき、ごく一部を除いては、その後に増えることはありません。その代わり、神経細胞同士の結合、すなわち「神経細胞間のネットワーク」を増やすことはできます。そして、健康な脳を維持するために大切なのは、実は神経細胞の数よりも、このネットワークのほうです。
 「脳の発達」とは、神経細胞同士が結びついていき、それにより脳の体積が大きくなることを意味します。この脳の発達には、先述したようにそれぞれのピークがあります。そして発達のピークの時期を過ぎると、脳の回路を増やすことは難しいとかつては考えられていました。ところが、ピーク期より時間はかかるものの、脳に刺激を与え続けることで、いくつになっても既存のネットワークを強化したり、新たなネットワークを広げたりすることができることが分かってきました。
 「脳はいったん完成すると、その後は形態が変わることはなく、加齢や病気による萎縮が起これば変化すると考えられてきました。しかし、2004年に科学雑誌『ネイチャー』に掲載されたドイツの大学の研究チームが行った実験報告をはじめとする様々な研究から、成人してからも神経細胞同士をつなぐ情報伝達回路を変化させ、それによって脳の体積を増やすこともできることが明らかになっています。こうした脳の変化する力は『可塑(かそ)性』と呼ばれています」(瀧さん)
いくつになっても、少なくとも「海馬」は神経細胞が新生する
 「可塑性」のほかにも、近年の研究で明らかになったことがあります。先ほど「脳の神経細胞の数はどんどん減っていき、ごく一部を除いては、増えることはない」と述べましたが、このごく一部の例外では、いくつになっても神経細胞が新たにつくられていることが、1998年、米国のソーク研究所のチームによる研究で判明したのです。
 その例外が起こっているのが、「海馬」と呼ばれる領域です。
脳の細胞は脳が完成した後に新しく生まれることはないと考えられてきたが、少なくとも記憶を司る「海馬」は、何歳になっても神経細胞が新生していることが近年分かった。画像=(C)decade3d-123RF
 海馬は記憶のコントロールという重要な役割を担っています。 「アルツハイマー型の認知症は、この海馬の萎縮から始まり、高次認知機能を司る前頭葉の萎縮へとつながっていきます。その結果、思考力や判断力といった認知機能の低下が起こり、最終的には歩く、食べるといった生きるために必要な運動領域のコントロールも失っていくのです」(瀧さん)
 つまり、認知症の予防をはじめ脳の健康を保つには、海馬と前頭葉の体積を維持することが重要だと考えられるわけです。「いくつになっても海馬で新たな神経細胞がつくられることに加えて、外部の刺激によって変化する『可塑性』によっても、海馬をはじめとする脳の体積を増やせることが分かっています。このことは、脳は何歳からでも変えていくことができるという大きな希望といえます」(瀧さん)
大人の脳には刺激を与え続けることが重要
 大人の脳を成長させたり、健康な状態を維持したりするためには、脳に「刺激」を与え続けることが重要です。神経細胞をつなぐ情報伝達回路のネットワークは、使えば使うほど太く、丈夫になっていきます。
 それには、主に3つの刺激を与えることが重要だと、瀧さんは指摘します。その3つの刺激とは「好奇心」「有酸素運動」「コミュニケーション」です。また逆に、脳の老化、萎縮につながる要因も、大きく3つあるといいます。それは「喫煙・飲酒」「肥満」「ストレス」です。