皆さんと一緒に考えましょう

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

小学生で「ヤングケアラー」となった彼女の苦悩

2021-05-28 15:30:00 | 日記

 

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

その女性は、母親から虐待を受けて育ちました。母親自身も幼少期に虐待を受けた影響から、重度の精神疾患を抱えており、女性は小学生の頃から母親のケアをしてきたといいます。届いたメッセージには、母親の突発的な自傷行為への対応や、彼女自身も精神疾患を患ったこと、ヤングケアラーとして感じたことなどが書かれていました。
ヤングケアラーというのは「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行う18歳未満の子ども」のことです(『ヤングケアラー 介護を担う子ども・若者の現実』より)。
一般的にヤングケアラーというと、家事や介護をするイメージが強いですが、親が精神疾患の場合は特に、家族の「感情面のケア」の負担も大きいことが調査でわかっています。
ケアラーであることは子どもにとって、どんな体験なのか? 連絡をくれた亜希さん(仮名、20代)に、11月のある朝、Zoomでお話を聞かせてもらいました。
キレやすい母との毎日は地獄のようだった
亜希さんは、両親と妹の4人家族でした。小さい頃から、母親は「怒るとものすごく怖い」と感じていたそう。例えば彼女が6、7歳の頃には、こんなことがありました。
この連載の一覧はこちら
「視力が悪くてメガネをつくることになったんですけれど、そのとき母親が錯乱状態になっちゃって。母親自身もメガネでいじめられた経験があったせいで、たぶんいっぱいになっちゃったんです。それで私と心中しようとしたのか、私を包丁で刺そうとしたんだか、とにかく刃物をもって暴れまわっちゃって」
娘のメガネで、錯乱? 度肝を抜かれる話ですが、亜希さんにとっては、そう驚くことではなかったようです。母親は「自分が受け入れられない現実があると、急にスイッチが入り、刃物をもって暴れまわる」のが日常だったからです。子どもたちを殴る蹴るは当たり前で、寝ているときに急に耳を引っ張られたり、お風呂で突然冷水をかけられたりしたことも。刃物で流血したことも、慣れるほど「よくあった」といいます。
父親は「問題に向き合わないタイプ」でした。「父親の足音が聞こえるだけで母親がパニックになる」ので、最初は亜希さんと妹で両親が顔を合わせないように対応していましたが、亜希さんが10歳の頃から父親がアパートを借りて家を出て、そのまま現在にいたるということです。
母親自身も幼少期に自分の父親からひどい虐待を受けており、そのことを亜希さんに繰り返し語っていました。勉強中でもなんでも、つねに聞き役を求められるのは負担でしたが、「うるさい」などと言えばまた暴れだしてしまうので、「とにかくひたすら我慢」して聞き続けていたといいます。
病院で母親が受けた診断は、うつ病、パニック障害、境界性パーソナリティー障害など。とくに、亜希さんが小学校高学年だった頃は「キレやすく、毎日が地獄のようで、包丁や放火にビクビクしていた」と振り返ります。しかも母親からは宗教的な虐待もあり、さらに両親からの性的虐待もあったとのこと。
母親の症状が悪化したきっかけのひとつは、祖母との同居でした。虐待を受けていたときに助けてくれなかった祖母に対し、母親は当然よい感情をもっていなかったのですが、その祖母がアルツハイマーになったのです。事情により数カ月間、亜希さん一家と同居したところ、「母の暴動が毎日のように起き始めた」のでした。
「携帯で電話がかかってきて『今、どこどこのビルの屋上にいるから』とか。電話越しに『そんなこと(飛び降り)しないで』と言って、とにかく説得して帰ってきてもらったりして。靴も履かずに探しに行ったこともありました。あとは刃物で手首を切ったり、家の2階のベランダから飛び降りたり。死ぬとかじゃないけれど、骨折とか。母としては、いっぱいいっぱいだったようです」
ときには家族に激しい他害行為をして、警察を呼ばざるをえないこともありました。
「でも母は、自分がしたことを全部なかったことにしちゃうんです。事実をすり替えちゃうし、平気でうそをつく。でも、本当に記憶が入れ替わっているんだと思うんです。だから、母がひどいことをしたから私たちが警察を呼んだんだといっても、自分が被害者だと思っているので、話がまるで通じない。警察の方には親子げんかだと思われてしまうので、児相などに保護されたことは一度もなく、ただ耐えるしかありませんでした」
「地域に知れわたるほど」の激しいいじめを受け…
家事全般も、小学生の頃から亜希さんが担っていました。母親の症状が最も重く寝たきりだった頃は、トイレや食事の介助までしていたといいます。母はパニック障害でもあったため、電車に乗る際や、通院、買い物に付き添うこともたびたびありました。
このように家ではつねに神経を張りつめていた亜希さんでしたが、中学校では「地域に知れわたるほど」の激しいいじめも受けていました。2年生のときに転校したものの、転校先の中学でもいじめのことは知られており、再びいじめられるようになってしまいます。
ストレスの影響か、亜希さんの心身にはだんだんと異変が出てきました。パニック障害になって動悸がしたり、唾液恐怖(唾を飲むことが気になる)になったり、ヒステリー球(のどから食道にかけて詰まった感じがする)の症状が出たりするようになったのです。
高校は近くの進学校に入ったのですが、次第に教室にいるだけで「動悸や唾液のことで頭がいっぱいになって、足裏に脂汗をかいたり、全身に冷や汗をかいたり」するように。もう、勉強どころではありませんでした。
「アルバイトして貯めたお金で心療内科のクリニックに通ったりしていました。本末転倒というか、滅茶苦茶なんですけれど(笑)。でもそこで出してもらった薬も強すぎちゃって、授業中に眠ってしまったりして。もうフラフラな状態で、どうにかこうにか卒業できた、みたいな感じでしたね」
残念ながら当時、亜希さんが置かれた厳しい状況を理解する先生はいませんでした。症状や薬のことを相談したら「病気を言い訳にするな」と突き放されたことも。信頼する先生に家の事情を話したところ、「(親との関係について)お前は間違っている」と笑われてしまったこともありました。
YouTubeでたまたま見た○○○○に勇気をもらった
高校を卒業後、亜希さんはいくつかの仕事を経験してきました。いじめの影響もあってつねに人の目が気になり、さまざまな症状を抱えつつ薬を飲んで、なんとかやっていたそう。そんなつい数カ月前、気持ちが少し上向くきっかけがあったといいます。何があったのでしょうか。
「プロレスにハマったんです。真壁刀義さんってご存じですか? タレントもされている、現役のプロレスラーの方なんですけれど。私自身、今年に入ってからいろいろあったんですね。もう人生終わりにしようと思って、首を吊ったんですけれど。なんかこう諦めきれなくて、ただただ時間を潰すためにYouTubeを見ていたら、その方のチャンネルが『オススメ』とかに出てきて。それではまっていって、勇気をもらった感じでした。
真壁さんは新人時代に理不尽なしごきを受け続けていたんですけれど、『自分は後輩に同じことはしない』っていう強い決意があったそうなんですね。だから真壁さんの後の世代の新人には、そういう理不尽ないじめがなくなったというエピソードがあって。ネットでその話を知って、すごく勇気をもらって。悪いものは次の世代に継承しないという、そういう決意や覚悟をくれたんです」
まさかの、プロレスでした。申し訳ないのですが、筆者はあまりにも門外漢なため、熱く語り出した亜希さんにひたすらあいづちを打つことしかできなかったのですが、それが亜希さんに大きな力を与えてくれたことは、よくわかりました。
「ずっと自分の存在を許せていなかったんです。母からは『生まなきゃよかった』とか言われて、家でも学校でも否定され続けてきたので、もはや死にたいとかじゃなくて、『私の存在をもともとなかったことにしたい』という感覚があって。だから、疑問に思うことがあっても、表現なんてしようとは思えなかったですし。
真壁選手も、プロレスの世界で必要とされない不遇の時代が長かったんですけれど、そこで腐ったりあきらめたりせず、ただ淡々とやるべきことを真面目にやり続けて、結果、花を咲かせている。それを知ったら、私も自分の存在を責めたりしている場合じゃないなって。何かにつながらなくても、やれることをやっていこうと思って」
なぜ、こんなにもハマっているのか。最初は亜希さん自身にもわからなかったのですが、真壁さんやプロレスから受け取ったメッセージの意味に気づいたとき、自分でも腑に落ちたということです。
亜希さんは現在、両親とはほぼ絶縁状態だということです。母親に対しては、だいぶ前から「わかり合える人ではない」とあきらめて連絡を絶っており、数年前には父親からも連絡が来ないよう、携帯電話の番号やLINEのアカウントを変更しています。
父親は暴力をふるったことはないものの、両親の問題が子どもに与えた影響をまったく自覚できず、亜希さんに自分の愚痴を聞かせるばかりでした。そのうえ、お酒を飲むと亜希さんが傷つくことを告げるため、もうかかわる必要はないと判断したのです。
「子どものときに『ああ、私、親を子育てしてるな』って、はっきり言葉で思っていたんですよね。生意気ですけれど。親に教えられたこととか、そういうものが一切なくて。言われて響いたこととか、『こうやって生きていけばいいんだ』という受け取れたメッセージが、何一つ残っていない。むしろ反面教師にすべきことばかり。
私のほうから『こうやって関係性を作っていこうよ』とか、父と母に働きかけ続けてきたんですけれど、結局は何も実らなかった。本当に、親を子育てしてきた感覚というのが私のなかには強くあって。意外とそういうお子さんは多いのかもしれないな、と思っています」
「家族」に頼りすぎるから、ヤングケアラーが生まれる
ヤングケアラーだったことについては、こんなふうに感じているといいます。
「国もそうですけど、家族、世帯という単位に頼りすぎちゃっているから、ヤングケアラーが生まれるんじゃないかなと思います。家族だからケアすることが当たり前というふうに、いまは社会全体が思っちゃっているけれど、個人個人にだって生活がありますし、人生がある。だけれど結局『家族のなかで、なんとかしてよ』という制度だったりするじゃないですか。それはやっぱりまずいな、というのを一番思います」
そしていま、かつての亜希さんのような状況にある人には、こんなことを伝えたいそう。
「自分の違和感かとかストレス、不安だったり、むかむかしたり、いろんな形で出てくると思うんですけれど。『これは何から来ているのかな』というのを、しんどいと思うけど、探ってみてほしいなって思います。『あのとき、お母さんにああ言われたことから来てるのかな』とか『お父さんにあのとき殴られたときの感覚なのかな』とか。
絶対しんどさを伴うんですけど、そこを見つめ続けて、たくさん葛藤して、その先に見えてくる自分なりの正解があると思うんです。それは親との和解という場合もあると思うし、絶縁という場合もあると思いますし、あとは適度に付き合っていく、とか。そういうところをうまく見つけていけたらラクになるのかな、というのは感じますね」
取材から5カ月。今月ひさしぶりに亜希さんに連絡したところ、なかなか連絡がつきませんでした。ようやく話を聞いたところ、その後、PTSDやうつの症状が悪化して苦しんでいたことを教えてくれました。いまは、体調を崩しながらもなんとか働いているといいます。一進一退で、でもちょっとずつ前に進んでいる、亜希さんなのでした。
大塚 玲子 : ジャーナリスト、編集者


「私が倒れても、仕事に行きなさい」就職したばかりの娘にそう言い聞かせる母の真意

2021-05-28 13:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

母と娘の対話を通して認知症の祖母が記憶を失くしていくことの意味と、ある種の救いについて描き出した絵本『いつかあなたをわすれても』(絵=オザワミカ/集英社)。作者の桜木紫乃さんは、48歳のときに直木賞を受賞。その後も家族をテーマに多くの作品を発表し、精力的な作家活動を行っている。そんな桜木さんが娘や息子に言い聞かせていることとは――。
年齢を重ねて、よりいい仕事ができるようになる
——改めて『いつかあなたをわすれても』を手にしてみますと、これまで小説で性愛を含んだ男女の関係を描いてきた桜木さんが絵本を出したというのは意外な気もします。
【桜木紫乃さん(以下、桜木)】自分でも想像していませんでした。でも、デビュー前、新人賞に原稿を送っていた頃から親子や家族を描いてきたんですよ。そこに入れた性愛はフックでしかなくて、そうすれば誰かに読んでもらえるんじゃないかという短絡的な考えだったんですね。それから20年経ち、50代の今、性愛を絡めなくても家族の物語が描けるようになった。歳を取るのも悪くないなぁと思っています。いろんなことにとらわれなくなり、物書きとしていい仕事ができるのはこれからという気持ちでいます。

——キャリアを重ねてより自由に仕事ができるようになったというのは、仕事する女性にとって希望のあるお話です。
【桜木】常に新しい展開をしていける自分でいたいですよね。仕事の声をかけてもらったときに、「50歳だからできない」「女だから」「お母さんだから」と、できない理由を思い浮かべるより、とにかくやってみて、できなかったときに立ち止まればいいのではないかと思います。
それに、私、人との出会いには自信があるんですよ。今回の絵本についても担当編集者や友人の漫画家さんの温かい応援があり、オザワミカさんにも出会えて、決してひとりで作ったわけではない。そんな関係の中で「この人にやらせてみよう」と思われる私でいたことがうれしいです。自分が大好きなんですよ(笑)。
この2、3年でより精力的に
——なんでもやってみようという積極的な姿勢は、デビュー時から貫かれているのでしょうか。
【桜木】いえ、この2、3年でそうなりましたね。というのは、正直に打ち明けると、ようやく更年期のきつい時期を抜けて楽になったから。課題を見つけ、自分の中でその答えを見つけるために書いています。『家族じまい』は自分自身をネタにしてどれぐらい話を広げられるかというチャレンジでしたし、一章が原稿用紙80枚分でそれを5本分そろえるというのは、これまでからすると難しいことでしたが、やればできると思いました。その後に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』(KADOKAWA)という本で疑似家族を描いたので、この2作を並べてみると、今の私の家族観が見えてきます。
——そういったキャリアの大成期に、ずっと描いてきた家族をテーマにした絵本を出したということになりますね。
【桜木】『家族じまい』を書いて客観的にものを見られるようになったかも。母の介護についても、父が精一杯やっているのがわかるんです。さらに、この絵本を書いたことで、語り手となる少女と同じ年頃に戻れたような気がし、自分の少女時代をよい形で振り返ることもできました。この年齢になってみて初めて理解できる過去の自分もいるんですね。
他人に文句を言わないで生きていきたい
——書くことで過去の傷を癒せるということでしょうか。
【桜木】心の落としどころも、落ち着く場所も人それぞれ。私は母が自分を忘れたときに、母の子ではなく、違う存在になれた。母の中で私はいなくなったような状態で、それを絵本では母親に「あなた、親切な人ね」と言われるという極端な場面として書きましたけど、そんな感覚なんです。私も40代の頃は、親にされた「嫌なことを毎日思い出していると、それに慣れて気にならなくなる」と書いたこともあるけれど、今はもう人生の残り時間を意識しているので、できるだけよい仕事をして、おいしいものをたくさん食べて、他人に文句を言わないでやっていきたいなと思っています。
——お子さんに対しても口出しはせずという感じですか?
【桜木】思うに、親が子に生き方を教えようと思ってしまうと、たいへんなんじゃないですかね。私は56歳の今、子どもたちがひとり立ちし、「あとは死んで見せるだけ」だと思っています。親ってかっこよく死んでなんぼかなと思うんです。
「私が倒れても仕事に行きなさい」
——現在、40代から50代ぐらいの女性は、これから親が要介護になってくると想定すると、このまま仕事を続けられるのかなという不安がどうしても出てきますよね。
桜木紫乃・文、オザワミカ・絵『いつか あなたを わすれても』集英社
【桜木】わが家も本当に介護がたいへんになるのはこれからですよね。介護は甘いものではないと知りつつ、それでも、逆の立場になって考えてみると、私なら親である自分のために子どもの時間を使わせたくない。わが家は娘が就職し、取材のある仕事に就いたんですが、「好きで選んだ仕事をしている以上、親の事情でやめてはいけない」と伝えています。例えば、私が倒れるとか、なにかあっても取材先には行って仕事をしてきなさいと。逆に、私も親が危篤という状況でもインタビューの日であれば取材を受けるので。

——それは家庭よりも仕事を優先すべきだということでしょうか。
【桜木】優先ではなく、個として不本意な生き方をしちゃいけないということです。何か不本意なことが起きたときに、誰かのせいにしてしまうのが人の弱さ。親の介護に限らず、不本意な生き方をしていると、都合の悪いことを他の人のせいにしたくなりますよね。そうなるぐらいなら、わがままと言われても自分を大事にしたい。息子や娘にも「好きな仕事に就いて明るく暮らしなさい」と言っています。
——読者の中には、子育てに悩むワーママも多いです。正解がない中でもがく女性たちに、先輩からのアドバイスをお願いいたします。
【桜木】子育てって悩むもんだよ(笑)。悩まないお母さんがいたら不思議です。ただ、お母さんがよく笑う人だと、その子どもも上手に笑うし、上手に荒波をのりこえていける人の子は生きる馬力もあるのではないでしょうか。そのぐらい楽観的になれる、お母さんが笑っていける環境を作っていけたらいいですよね。働ける体があるうちは働いて、稼いだお金で温泉に行くことを目標に一緒に頑張っていきましょうよ。 


小室佳代さん「長期入院のウソ」を撮った トラブル対応は眞子さま任せか

2021-05-28 11:00:00 | 日記

下記の記事はNEWSポストセブンからの借用(コピー)です

 秋篠宮家の長女・眞子さまと小室圭さんとの結婚において、大きな障壁となっているのが、小室さんの母・佳代さんと元婚約者との金銭トラブル。4月8日に公表した28枚の文書では、「返済の義務はない」と繰り返した小室さんが、その後、解決金を払うことで事態の進展を望む旨を明かし、さらに佳代さんの長期入院が取り沙汰されるなど、騒動は収まる気配がない。
《現在、佳代さんは体調が悪く、長期間の入院中と伺っております》
 小室さんが、母親の佳代さんと元婚約者Aさんとの金銭トラブルに対して「解決金」を渡す意向だと明らかにされたのが4月12日。それから約2週間後の27日、Aさんが発表したコメントでは、「佳代さんの長期入院」というショッキングな事態が表沙汰になった。世間からの向かい風に、体調を崩したのか──しかし、小室家の近隣住民は「寝耳に水です」と話す。
「佳代さんは、“健康であるのが取り柄なの”とよく話していたほど元気な人。この4月に入ってからも、勤務先の洋菓子店に働きに出ていました」
 5月3日の夕暮れ時、神奈川・横浜市内の自宅マンション近辺でベージュのロングワンピースに同系色の女優帽を合わせ、グレーのカーディガンを肩がけした佳代さんの姿があった。両手にスーパーで買ったとおぼしき大量の荷物を抱え、しっかりとした足取りで足早に家路を急ぐ。誰が、何のために“長期入院”とウソをついたのか──。
 秋篠宮家長女の眞子さまのご結婚問題は、4月に入り、新展開を見せている。4月8日、小室さんは、金銭トラブルについて説明した28枚に及ぶ文書を公表した。Aさんへ「返済の義務はない」という主張を繰り返したが、その4日後には一転、解決金を渡す意向を表明した。
 一方のAさんは小室さんの文書を受け、前述の通りコメントを発表。自らの金銭トラブルが世間を騒がせていることへ謝罪した上で《今後、代理人を通じて解決金についての交渉ができればと考えています》と、事態の解決へ前進したい旨を明かした。
 さらに《私はあくまで交渉の相手は小室圭さんではなく小室佳代さんだと思っております》として、佳代さんと話し合いの席につきたいという意向を再度示した。ある皇室ジャーナリストはこう話す。
「Aさんはトラブル発生当初から一貫して、佳代さんとの直接の話し合いを求めてきましたが、今日まで実現していません。解決金の交渉は佳代さんの出方次第ですが、今回、Aさんへ長期入院中とウソをついたのだとしたら看過できないことでしょう。まったく見通しは立っていないというのが現状です」
 誰よりも早期解決を望んでいるはずの佳代さんが、なぜAさんとの話し合いに乗り出さないのか。それについて、「小室家が、“トラブル解決は眞子さま任せ”のスタンスを取っているからではないでしょうか」(皇室関係者)という声がある。
 2017年12月の金銭トラブル発覚から3年半近く、小室さんは問題を“放置”してきた。
「トラブル発覚後にもかかわらず、何の説明もないまま留学で渡米。秋篠宮さまから『国民が納得できる説明をしてほしい』と求められ、翌年1月に『金銭トラブルは解決済み』という趣旨の文書を公表したものの国民の理解は得られず。その後も何もしない姿勢に、“解決する気はあるのか”と心配されてきました。
 そんな状況下で、“無視”を決め込むほど強気な姿勢でいられたのは、眞子さまの後ろ盾があったから。むしろ、トラブルへの対応はすべて“眞子さまに丸投げ”だったのではないでしょうか」(前出・皇室関係者)
眞子さまの尻に敷かれる小室さん
 眞子さまが小室家の金銭トラブルの対処に深くかかわられていることが明らかになったのは、小室さんの文書発表翌日のこと。秋篠宮家の最側近である皇嗣職大夫が会見で、「眞子さまのご意向が大きかった」と語ったのだ。
「これまでは、“眞子さまは小室さんに利用されている”という声が少なからずありました。ですが、実状は違った。眞子さまの“積極的な介入”が公になった衝撃は計り知れません。眞子さまからすればご自身が矢面に立つことで小室さんをかばうお気持ちもあったと思いますが、かえってご自身への批判を招く事態となってしまいました」(宮内庁関係者)
 解決金を払うという突然の方針転換も眞子さまの「ご意向」が大きかったはずだ。宮内庁のトップである西村泰彦宮内庁長官が「(小室さん側からの連絡は)事前にありませんでした。事後も話を聞いていない」と発言したことから、眞子さまの“独断”だったのではないかという声も上がった。
「解決金について、秋篠宮ご夫妻も発表されるまでご存じなかったのではないでしょうか。ご夫妻や宮内庁幹部、側近たちにも相談なしに、眞子さまが小室さん親子と直接やり取りをされたとしか思えないのです」(別の皇室ジャーナリスト)
 秋篠宮家を古くから知る関係者は「確かに、眞子さまは大変なしっかり者です」と言いながらも、顔を曇らせる。
「一方で、ご自分の意思を曲げない頑固さもお持ちです。小さなことにも“自分らしさ”にこだわられ、時には周囲からの提案をはね返し、ご自分の意見を通される強さもお持ちです」
 そうした強さは、小室さんにも発揮されてきたという。
「眞子さまは普段から小室さんをリードされることが多いようです。“圭、わかった?”“ちゃんとしてね”と声をかけられることもあるそうです。対して、小室さんはそんな眞子さまに引っ張られる面がある。婚約内定会見では堂々と話した印象が残っていますが、それも眞子さまの“ご指導”があったからでしょう」(別の宮内庁関係者)
 小室家に近い関係者が口を揃えるのは、「圭くんは口ベタで従順。母親の佳代さんがよどみなく話すのを、隣でうなずいて聞いている場面が多い」ということだ。前出の別の宮内庁関係者が続ける。
「小室さんにとっては、自分をリードしてくれる相手が、母親から眞子さまに代わったということかもしれません。案外、眞子さまが小室さんを尻に敷かれ、金銭トラブルの解決方針もそうですが、舵を取られている関係なのでしょう」
 眞子さまと小室さんが、国民に祝福される日はくるのだろうか


たった1回の投与で回復…東北大が発表した「ミューズ細胞」脳梗塞患者への驚くべき可能性

2021-05-28 08:30:00 | 日記

下記は文春オンラインからの借用(コピー)です

 脳梗塞で手足の麻痺や言語障害などの後遺症が残った場合、これまでは特効薬がなく、リハビリに望みをかけるしかなかった。そんな構図が近い将来、塗り替えられる可能性が高まってきた。「Muse(ミューズ)細胞」というヒトの細胞からつくられる製剤の脳梗塞患者を対象とした治験の結果が5月18日に発表され、たった1回の点滴投与で、その後の1年間で7割近くの患者が日常生活自立レベルまで回復し、3割強は職場復帰できるほどのめざましい回復を果たしたことが示されたのだ。
「脳梗塞でしゃべれなくなった患者さんがしゃべれるようになった、歩けるようになった、手が動くようになった……。臨床医の従来の感覚だと『そこまでは回復しないだろう』というレベルまで患者さんが良くなる。実際に目にしてきて、びっくりしましたし、『いや、すごい!』というのが率直な感想でした」東北大学病院 
この記事の画像(3枚)
 冨永悌二・東北大学病院長は記者会見で、興奮を込めて語った。冨永氏が喜びを隠さないのは、「いったん脳梗塞になって障害が残ると、患者さんはそれをハンディキャップとして生涯背負う方が非常に多い」というのが医療の常識だったからだ。
誰もが持つ“幹細胞の一種”を製剤化
 ミューズ細胞とは、さまざまな細胞に分化する幹細胞の一種だ。誰の体にも存在している自然の細胞で、出澤真理・東北大学大学院教授が2007年に発見した。臓器などの細胞に何らかの異変が起こるとシグナルをキャッチして患部に自ずと集まり、修復する性質がある。しかし、脳梗塞のような重大な疾患になると、体内にあるミューズ細胞だけでは修復が間に合わなくなる。そこで培養で増やしたミューズ細胞を投与して補充しようというのが、ミューズ細胞製剤「CL2020」による治療だ。
 製剤化に取り組むのは三菱ケミカルホールディングス子会社の生命科学インスティテュート(LSII)で、治験(人を対象とした医薬品の承認を得るための臨床試験)が、複数の疾患を対象に進行している。
 脳梗塞の治験は2018年から東北大学病院で行われた。対象となったのは、明らかな運動障害がある脳梗塞患者で、発症後14~28日といった基準を満たした35人。歩行や日常生活に介助が必要だったり、寝たきりや失禁状態など常に介護が必要だったりと重い障害を抱えていた。被験者たちは二つの群に分けられ、25人にはCL2020を、10人には偽薬(プラセボ)を投与する二重盲検比較試験が行われた。ミューズ細胞
 その結果、CL2020を投与したグループは目覚ましい回復を見せた。投与後12週で日常生活自立レベルまで回復した割合は40%に上った(プラセボ投与群は10%)。52週(1年)では68.2%に達し、職場復帰した状態まで回復した割合も31.8%に及んだ。プラセボ投与群で職場復帰した割合はゼロだった。
 回復したのは運動機能だけではない。言語障害や感覚機能なども複合的に判断する指標で見ると、投与後52週で「ほぼ正常な状態」と判断されたのは23.8%に上った。こちらもプラセボ投与群ではゼロだった。
1年以上経っても回復が続いている
 治験実施責任医師の新妻邦泰・東北大学大学院教授は、言語障害の回復についてこう話す。
「口が回りにくかった患者さんがスラスラ回るようになった事例もありますし、失語症といって言いたいことが口から出てこない患者さんも徐々にしゃべれるようになり、日常的な会話や意思伝達に困らなくなった方はある程度の数います」
 さらに、治験のデータには表れない「その後」にも言及する。
「(1年間という)治験の範囲を超えますが、その後もこの治療を受けた患者さんを診ていると、さらに回復されている方がいます。驚くべき内容だと思いますが、一般的には6か月以降、回復が頭打ちになるものが、その後も良くなっているんです」
 CL2020の治験を進めてきたLSIIの木曽誠一社長は、以前のインタビューでこう述べている。
「脳梗塞を患うと、歩みを奪われたり、言葉を奪われたりと、昨日とは違う自分になってしまいます。でも、それが快復して社会に戻り、日常を取り戻すことができたら、プライスレスの価値があるんじゃないかと思います」
「この薬剤が福音になることを願っています」
 LSIIは今年度中にCL2020の新薬としての承認を厚労省に申請する予定で、早ければ来年度には、製造販売が承認される見込みだ。
 前出の冨永氏は、40年近く脳梗塞の患者や家族と接してきた医師として、また世に出る前の薬の効果をいち早く目の当たりにした病院の長として、希望を口にした。
「この薬剤が、脳梗塞の患者さんにとって福音になることを願っています」