守られるはずのない約束に
ついて考えてみる。
あなたが困っているのか
喜んでいるのか
よくわからなかった。
あなたの気持ちがよくわから
なかった
私を傷つけないように やさ
しくしているのか
本当にどうしてもやさしくした
いのか
よくわからなかった。
何かあったの?ってどういうこと?
私は おめでたいの?
私は 悲観的なの?
あなたをなくす予感
あなたを感じる予感
あなたを求める予感
一日千秋の思いで待つ電話
せめて 声だけ聞かせてほしい
あなたの心が 読めなくても
声だけ 聞かせてほしいと思う。

決めたら
とても穏やかな気持ちになった
友だちのままでいられませんか?
愛にいちばん近い友だちのままで
好きになってしまったことを
もう私の人生から消せないから
だから友だちのままで
一度だけくちぢけをかわし
一度だけ胸に抱かれて眠った
その短い時間の中で
何年も何十年も生きようと思った

女の嘘を見抜けない。
「女性の言葉の中から
本心を捜し出す?
見たまえ。ゴビ砂漠でひとつ
ぶのイクラを見つける方を人々
は、あんなに望んでいるじゃ
ないか」。
-永尾カルビー
一般的に、女性はよくウソをつく。
男も嘘をつくことはつくのだが、
すぐバレます。
対して女性は、バレにくい。
ナゼか?
当人に、ウソをついている自覚
がない。
女性は生まれながらに女優なん
です。
白鵬も強いが自覚のない人間も
強い。
女性はズルい。
平気で嘘をつく。
が、それは太陽が東から昇ること
と同じく、普通の真理です。
ともあれ、男たちは女性の言葉
にはいつも細心の注意をはらう
必要があります。
しかし、女性のウソを属座に
見抜ける男というのは、どこか
女性的でもあります。
この両方を同時に求めても、
少し醜いという気もするのですが。

エリートの中には、自分の説や
考え方にこだわって、
少しも人の意見を聞こうとしな
い、人を許そうとしない人がい
ます。
本当に頭がいい人というのは、
小さく固まって「自分だけが
正しい」としてしまう思い上が
った人を言うのではないはずで
す。
人を許せないのは、人間が小さく
器が小さいからです。
この世の中、自分が正しい、相手
が悪いと簡単にさばけるほど単純
ではありません。
世の中の善悪というのは、自分に
とって都合がいいか悪いかだけの
ことです。
立場を変えて相手の立場に立って
みると、百八十度変わることもあ
ります。
本当に頭がいい人とは、相手の立
場に立って考えることのできる心
の豊かな持ち主を言うのだと思い
ます。
本当に人を愛したり尊重したりす
る気持ちがあれば、人の意見にも
耳を傾け、「いろいろ心配してくれ
てありがとう。私も考え直してみ
よう」と言えるはずです。
才能が乏しければ自分を生かすこ
とはできないが、才能に愛がこも
っていなければ人をいかすことは
できません。

―日が暮れそうで、
なかなか暮れないー
あなたを想わないときなんて
一瞬だってないんだけど
夕暮れが近づくと 高鳴るこの胸
もうどうしょうようもなくなって
しまう
“何時(いつ)はしも 恋ひぬ時とは
あらねども
夕方設(ゆうかたま)けて
恋はすべて無し
万葉集/柿本人麻呂
当時は夕暮れから宵にかけては
男が女のところを訪れる時間帯
だったため、このような歌が生
まれた。
:上三句は、「これこれの時は
恋しくない、などという時はな
いのだが」
◇夕方設けて→夕刻になると
◇すべ無し→どうすることも
できない
今月に入ってから、君の電話の
声は、少しシャープ(♯)した。
ボクに気を使っている証拠だよ。
間の空き方も、少し変わって来た。
君は、もう、ぼくのすき間に
入り込んで来て、
ぼくの心をいやそうとも、笑顔で
埋めようとも
してくれなくなった。
つめが、息できなくなるみたいで、
いやなの、
とやめていたマニュキアを(薄く
てきれいな)、ぼくは見つけた。
手に取るようにわかっていた
君の心も
手に取るようにわかられていた
ぼくの心も
今は、もう、わからない。
君をなくしていく予感。

信仰の世の中を嘆いてこう言っ
ている。
「今の人は、科学が発達して、昔
の技術なんて古くさいと言って相
手にしないが、それは間違ってい
る。
ついこの間まで、学者たちは古い
建築物の再建に鉄を使って長持ち
させろと言ってきたが、
鉄はせいぜい三百年も持てばいい
という代物だ。法隆寺の檜の建物
は千三百年も持っている。
千年をすぎた木がまだ生きていて、
塔の瓦をはずして下の土を除くと
次第に屋根の反りが戻ってくる。
鉋(かんな)をかければ今でも品
のいい檜の香りがする。
みんな新しいことが正しいことだ
と信じているが、古いことでもい
いものはいい。
経験を信じず、学問を尊重するよう
になったのは明治以来だ。しかし、
いくら科学が進歩してきても、
千三百年前に法隆寺を建てた飛鳥
の工人の技術に私らは追いつけな
い。飛鳥の人たちはよく考え、木
を生かして使っているからだ」
まず現実があって、それを体系化
して確率的に普遍化したものが
学問なのに、
月日とともに現実から逃避し始め、
現実が間違っていると言い出すか
ら変になる。
企業でも、スタッフが陥りやすい
落とし穴だ。現場、現実を絶えず
尊重することを忘れてはいけませ
ん。

“日本の幕の内弁当は世界に
誇るグットデザインである“
ほどよく仕切られた容器の中に、
煮物、焼き物、揚げ物、生野菜、
肉類、魚介類、穀物、漬物、
果実、調味料、香辛料、そして
ご飯、箸は当然として爪楊枝、
お手拭きまであります。
ほぼ全類目の食材があり、ほぼ
全調理法を駆使したものがあっ
て、
分量だけではない食べることの
満足度と栄養バランスが考えら
れています。
味を邪魔しないための仕切り材
を最少限にして、食べられるも
のを隙間なく詰め込んでいます。
内容充実とはまさにこのことで
しょう。
好みをくすぐるネーミングのつ
いた包装紙でくるんでいます。
開けると、中身ぎっしり、
いろどりもよく整えられていて、
目にも食欲をそそります。
幕の内弁当は、「読んでもらう
ためのいい実用文」の見本
です。
まったく異なる星のもとに
生まれ落ちたふたりの人間。
育った場所も、見てきた風
景も、
言葉も、今住んでいる世界も、
まったく違う。
それでも「仲の良い友だち」
だった。
わたしたちは、途方もなく
遠く離れているのに、夜空
にあってはぴたりと寄り添
って見えるふたつの星、
あるいはその欠片(かけら)
あるは欠片の放つ輝きだった
のかもしれない。

H2Oが問題なのです。
井戸水に限るという物がいる
かと思えば、いや井戸水はい
けないという者がいる。
そこへ、ミネラルウォーター
が良いと口をはさむものがい
て、
水道水で充分という者がおり、
それならば断じて浄水器を使
用すべしと忠告するものがい
る。
また、山水こそ至上と力説す
る自称党総裁が出現し、
清澄なる湖水に勝るものなし
との異論が生じ、
果ては、アラスカの氷(南極
ではいけないという)を丁重
に削り取り、
メキシコの銀器に収め、赤道
直下の陽光で溶かし、さらに
カスピ海の・・・
茫洋壮大なる無限軌道にさまよう
者もある。と思えば、そっとあた
りを伺い、声をひそめ、
ただひと言、春の雨です、と耳
うちする者がいたりする。
北大路魯山人先生によれば、
「よろし、よろし、なんでも
よろし、飲めればよろし、
うまければよろし」という
ことになる。
さて、あなたは?
週末の今夜、どなたと、
水入らずで・・・・。
モジリュニの描く女は、すらり
としていて、首がほっそり長く、
そしてアーモンド型の目には、
なにか捉えがたい深さが湛(
たた)えられている。その女
の声は、我にだけ聞こえてくる
ものだ。
秋について愛についてアンニュ
イについてー
下の句は字余りだが、「あ」音と
「につて」の繰り返しリズムを形成。
「秋」「愛」「アンニュイ」は、もち
ろん語呂合わせのために選ばれた
のではなく、この三つの取り合わせ
が、三重奏のように響きあっている。
いずれも一言では説明しにくい広が
りを持つ語だが、このうちの二つの
語の組み合わせが、残り一つの語の
像を、結ばれてくれる。
つまり愛とアンニュイを足したの
が秋のイメージであり、秋と愛を
足したのがアンニュイのイメージ
である、というように。
晩年(といっても三十代だが)の
モジリュニは、十四歳年下の妻ジ
ャンヌをモデルに、数多くの作品
を残している。生まれた娘にも、
彼はジャンヌという名前をつけた。
が、幸せは長く続かず、モジリュ
ニは三十五歳の若さで亡くなって
しまう。そしてその翌日、二人目
の子をみごもっていた妻は、アパ
ートの五階から身を投げて彼の後
を追った。
歌に詠まれている絵は、ジャンヌ
の肖像だ。まさに彼女の人生は、
秋と愛とアンニュイの交差する
ようなところに、あった。