精華よもやま話   佐々木まさひこ議員のつぶやき

京都・精華町会議員佐々木まさひこのローカル日記

受益者負担

2009年12月08日 00時04分54秒 | 議会・地方自治

 今、地区集会所の建て替えに伴う地元負担をどの程度にするかが焦点となっている。現行の条例では、1/2負担となっているが、この間の集会所の建設費が5000万円程度で、こり1/2となると、2500万円、仮に250戸の自治会では、加入率100%としても1戸当たり10万円の負担となる。しかし、果たして、1戸あたり10万円分もの活用するかといえば、そんなことはない。地方自治法でも「受益の範囲」を超える地元負担金を自治体が住民に求めることを禁じている。もし、そんなことを認めれば、法や条例で平等になるように決めている「税負担」に比べ、行政の恣意的な判断で「税外負担」をいくらでも取ることができることになり、税制民主主義が侵害される。
 日本では、「受益者負担」といえば「当然だ」という雰囲気があるが、国際的には少数派だ。なぜかというと、現瞬間に利益を得る人と負担する人を同じにするということは、普通の「売買取引」であり、社会保障でも所得の再分配でもないからだ。簡単に言えば、政治の存在理由が「所得の再分配」といって、儲かった人・企業から「税
」という形でお金を頂き、それを社会的システム(警察とか道路とか裁判所とか学校とか・・)に回すとともに、一定水準以下の所得しかない=低所得者層に文化的な最低限度の生活を保障することが最大の理由だからである。
 しかし、社会的システムである以上、受益と負担が同一になるものばかりではない。例えば「学校」。小学校・中学校は義務教育だが、ここではまったく儲からない。施設費や教職員の人件費が膨大にかかる。でも、これを「切れ」という人はまずいない。それは、今すぐに結果は出ないけど、将来的には意味がある営みだからである。
 集会所は教育施設でも福祉施設でもないが、「的」存在だ。だが、「地元負担」の内容は、「これまで自治会員だった人の負担」である。その中には、「すでに亡くなった方」「他の地域に転居された方」も含まれる。この方達は、集会所を使うことができない=受益者ではないということになる。反対に、「地元負担金」を払った後に自治会員になった方や自治会に加入していなかった方は、「負担はなく受益だけがある」ことになる。
 現行の制度では、このあたりの矛盾を解決できない。
 政治がもっと信頼されていれば、北欧諸国のように「高負担高福祉」が最適だと思うが、政治に信頼がないため「受益者負担」という形で、「福祉サービスを受けた時」「病院にかかった時」「子どもを保育所に預けた時」など、その瞬間の具体的な受益を基準に「負担基準」が決まる。まるで「買い物」である。
 私たちは、短期的視点だけでなく、長期的視点で物事を見ていかないと、結局は「高負担低福祉」の国になる恐れがある。

コメント
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