先日の新聞報道では、またまた阿久根市長が民主主義を否定しだしているとのこと。報道内容は、「市議報酬の日当制」「固定資産税の税率改定」だが、どちらも市長の専決処分で決定したとのこと。また、現在は6月なので、多くの自治体では今年2回目の定例議会が開催されているところだが、それも招集しないでいるとのこと。
タイトルに「職権乱用」としてしまったが、これは明らかな法律違反である。まず、市町村の定例議会は、条例で開催月や回数を決めることになっている。月がずれることは時々あるようだが、「開かない」という選択肢はない。定例会は、市町村長が招集することになっているが、それをしないのは法律違反という人になる。そして、「専決処分」である。専決処分には2種類ある。地方自治法の179条にあるのは、議会を招集する時間的余裕のない場合であり、その場合でも事後の議会承認が手続きとしてある。180条の専決処分は、議会があらかじめ一定の条件(例えば、契約金額の10%以内かつ500万円までの契約変更など)を決めて、諸事業をスムースに遂行するための「専決委任」だ。報道のものは、恐らく179条だ。
近代・現代の統治システムは、中世までの王や将軍といった権力集中の弊害を除去するため、三権分立が採用され、お互いに権力を分散してチェックしあうことにしている。日本の地方自治体には裁判所はないが、監査委員などそれに近いものが存在する。大きくは、執行機関としての首長と議事(立法)機関としての議会である。とはいっても、実際には首長の側が権力的には優越している側面があり、この間「二元代表制」を名実ともに実現させるためのいろんな改革に取り組んでいる最中でもある。
1つの権力が暴走することが許されれば、仮にいくら「いい人」でも間違いを犯すことになる。世の中には(特に議会の動きがよく見えていない=議会不要論=方たちは)、阿久根市長のふるまい(議会無視、職員給与の公開など)を称賛し真似したいという方があるようだが、トータルとして見れば、民主主義の否定であり独裁者である。
それを見定める1つの視点は「何のため。誰のため」である。政治家の言動には、ほぼ「目的」がある。いろんな提言もするし、現状を批判もする。だが、それ自身が自己目的化している場合は要注意だ。いわゆる「批判のための批判」の類である。私も、今回の一般質問で国保加入者の窓口負担の高さや減免制度の不徹底を批判したが、それは現実に窓口負担に耐えられない方々の「受診抑制(本当は医者に診てもらうべきだが、3割が払えないため我慢したり、自己流判断で市販の薬でしのぐこと)」が発生しており、結果として命を落とす・病気を重篤化させるという「悲しい現実」を避けるためである。
もう1つ、住民や政治家が時々勘違いしていることがあるように思う。それは、「政治家は何でもできる。なんでもありだ。」という勘違いだ。先にも書いたが、政治家ができるのはあくまでルールの範囲である。談合や裏口採用といったことは「やってはいけないこと」である。それを依頼したり、請け負ったりすることが現実にあるらしい。そこまで、違法性をもたなくても、ルール無視もある。また、明確なルールがない場合も、あるべき姿で判断すべきだが、この場合も「自己都合」で解釈してしまうケースもある。勘違いも甚だしい。
ともかく、権力を持っている者は、それにおごらず謙虚になるべきだ。
タイトルに「職権乱用」としてしまったが、これは明らかな法律違反である。まず、市町村の定例議会は、条例で開催月や回数を決めることになっている。月がずれることは時々あるようだが、「開かない」という選択肢はない。定例会は、市町村長が招集することになっているが、それをしないのは法律違反という人になる。そして、「専決処分」である。専決処分には2種類ある。地方自治法の179条にあるのは、議会を招集する時間的余裕のない場合であり、その場合でも事後の議会承認が手続きとしてある。180条の専決処分は、議会があらかじめ一定の条件(例えば、契約金額の10%以内かつ500万円までの契約変更など)を決めて、諸事業をスムースに遂行するための「専決委任」だ。報道のものは、恐らく179条だ。
近代・現代の統治システムは、中世までの王や将軍といった権力集中の弊害を除去するため、三権分立が採用され、お互いに権力を分散してチェックしあうことにしている。日本の地方自治体には裁判所はないが、監査委員などそれに近いものが存在する。大きくは、執行機関としての首長と議事(立法)機関としての議会である。とはいっても、実際には首長の側が権力的には優越している側面があり、この間「二元代表制」を名実ともに実現させるためのいろんな改革に取り組んでいる最中でもある。
1つの権力が暴走することが許されれば、仮にいくら「いい人」でも間違いを犯すことになる。世の中には(特に議会の動きがよく見えていない=議会不要論=方たちは)、阿久根市長のふるまい(議会無視、職員給与の公開など)を称賛し真似したいという方があるようだが、トータルとして見れば、民主主義の否定であり独裁者である。
それを見定める1つの視点は「何のため。誰のため」である。政治家の言動には、ほぼ「目的」がある。いろんな提言もするし、現状を批判もする。だが、それ自身が自己目的化している場合は要注意だ。いわゆる「批判のための批判」の類である。私も、今回の一般質問で国保加入者の窓口負担の高さや減免制度の不徹底を批判したが、それは現実に窓口負担に耐えられない方々の「受診抑制(本当は医者に診てもらうべきだが、3割が払えないため我慢したり、自己流判断で市販の薬でしのぐこと)」が発生しており、結果として命を落とす・病気を重篤化させるという「悲しい現実」を避けるためである。
もう1つ、住民や政治家が時々勘違いしていることがあるように思う。それは、「政治家は何でもできる。なんでもありだ。」という勘違いだ。先にも書いたが、政治家ができるのはあくまでルールの範囲である。談合や裏口採用といったことは「やってはいけないこと」である。それを依頼したり、請け負ったりすることが現実にあるらしい。そこまで、違法性をもたなくても、ルール無視もある。また、明確なルールがない場合も、あるべき姿で判断すべきだが、この場合も「自己都合」で解釈してしまうケースもある。勘違いも甚だしい。
ともかく、権力を持っている者は、それにおごらず謙虚になるべきだ。