昭和46年より20年間、激動の時代に酒田市長を務めた相馬大作氏が逝った。その前、政権野党の市長が長く続き、国の財布に手が届かないと言われ、酒田市の遅滞を懸念する声はかなりあったが、社会党や社民党など、革新気風の強い酒田では市長を変える事は至難であった。
それを、池田政之輔の秘書をしていた相馬大作が僅差で勝った。喜びに溢れた大勢の市民が、駅前近くにあった選挙事務所に押し掛け、飛び上がって喜んだ。古い建物だったせいか事務所の床が抜け落ちてしまったのである。周辺の道路は夜遅くまで人垣で溢れ、革命でもあったのかと思われる程万歳が続いた。
勝ったのは僅差である。その後の市政に影を落とす事になる。先ず酒田北港開発が始まった。港湾荷役に山口組が入るなどといわれ、機動隊が配置される一幕もあった。住軽アルミと酒田共同火力の誘致は、公害で喘息や松林が枯れるなどと強烈な反対運動が起きた。少なくとも、どうしたら公害を無くすかと言う議論ではなかった。
度重なる対話集会。深夜議会の連続で議論を重ねたが、一部は暴徒化し、後援会長の店の窓ガラスが破られ、不買運動も始まった。市長室前の廊下は反対運動者の座り込みで歩く事すら出来ない状態だった。市長の実家周辺も反対者で埋め尽くされた。身の危険感じた相馬市長は、知事公舎に身を隠す事態となった。
終盤に差し掛かった頃、琢成小学校の体育館で市民対話集会が行われることになり「賛成の立場からも発言して欲しい」と要請があり、鐙谷課長より強烈な、にわかレクチャーを受けた。当日手を挙げた。同時にマスコミがマイク片手にどっと寄ってきた。周りは全部反対派である。足がぶるぶる震えた。酒田の未来のためにとの思いで、公害防止協定は科学的に信頼できると言った。
当時、日本一厳しい公害防止協定を結んだ。ただ、火力発電所は住軽アルミのためだけとし、増設出来ないように送電線規制を?んでしまった。再生可能エネルギーの電力を送る余力は少ない。
一連の運動で3年着工が遅れた。産業構造が変わり、住軽アルミは計画していた圧延工場を作ることなく撤退した。3年は痛い年月である。
近代酒田の基礎を作った相馬大作は亡くなった。
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