Nonsection Radical

撮影と本の空間

マスメディアとしてのテレビ

2013年06月28日 | Weblog
テレビっていうのは今現在でも日本国内の”均質化”としての役割りがスゴく大きいと思うのね。
全国どこでもエリアならエリアで、全国規模なら全国規模で同じ番組を視る事が出来る。
近畿、東北とかそのエリアで地方局が独自番組を流し、全国放送なら東京をキー局に同じ番組を流す。
どちらも結果的には、そのエリアの話題、情報、流行などを等しく均していく。
だから誰でも同じ情報を持ち、逆に言えばそれ以外の情報は遮断されてしまうわけだ。
人口の移動の少ない地域では、ひとつの情報だけが共有される事になる。
特に最近は何かと文句ばかり言う視聴者が増えたから、判断が分かれるもの、マイナーなもの、難しいものなど避けて放送する傾向にある。
こういう様々な考えがある、という放送を視て、こういう様々な考えがあるのだなぁ、と思えばイイものを、自分の考えとは違う、気に入らないなど個人的事情をマスメディアに反映させようと、あるいは反映させる事が出来るのだと考える人が増え、数の問題ではなくひとつでもクレームが来るとそれを問題視して、結果当たり障りのない、つまり情報として価値の高くないものをお茶を濁すようにお茶の間に送る事になる。
一方、権力的クレームに対しても、それが公平であるかどうかを別にして、クレームがある事を問題として、やはり当たり障りのないものを放送する事となる。
その結果、日本全国当たり障りのない放送内容ばかりになり、様々な考えがあるという前提をないことにするような娯楽性の高いもの中心の放送になってしまう。
それが視聴者に当たり障りのない考えだけを植えつける事になり、当たり障りのない思考が蔓延する”国民性”を作り出してしまう。
これって「一億総ムラ社会」と言えるのではないか?
同じ情報で同じ価値観だけを持ち、その価値観で価値観の違う事もある外の事を判断して、また文句を言ったりする。
ムラの生活がイヤなら出て行けが、全国規模で行なわれていないか?
その片棒を担いでいるのがテレビなのではないか?
詳しい情報、様々な意見、別の価値観などメンドクサイものは安易に省いて、”わかりやすく”、目で見えるカタチで、多数の人から文句のでない内容で、だけ言いっぱなしで放送しているのではないか。
またそういう放送にしか頭を使わずに視る事が出来なくなっているのではないのか。
テレビ以外のマスコミ媒体は現在壊滅状態で、別の面から切った情報、知らされない情報、都合の悪い情報などが届く事が少なくなった。
それだけにテレビの情報が増々幅を利かせる事になるのだが、そこにあるのは大した内容のないキャッチーな娯楽的な要素でしかないのではないか。
そんな情報をアリガタガッて視ても、昨日は見えても明日は見えないのではないか。
そんな価値観をテレビには求めていないというのなら、どこに求めているのか?
結局どこにも求めていなくて、テレビだけの情報ですべてを判断しているのではないか?
そんな判断価値はテレビにはない、という堂々巡りが起きてしまうのだが。





藤塚神社 高浜宮殿 石川県白山市


西天下茶屋商店街 中央通 大阪市西成区
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