Nonsection Radical

撮影と本の空間

真面目は善か?

2014年07月15日 | Weblog
表題の答えは「ケースバイケース」でしょ。
以上。チン!(笑)


昨日来のろくでなし子逮捕事件では、主にネットで様々な意見が交わされている。
まあ逮捕という重大な事なので、弁護活動に動く人や、抗議声明を発する人など当然の動きもある。
一方で、表現に関わる問題ととらえる人、法律問題として考える人、ジェンダーとしてとらえる人など様々な人が発言している。
satoboもこれはどういう事なんだろうと考えはするが、所詮シロートなので、他の面から考える事は出来ないかと思ったりする。
多くの場合、このような外れた思考を試行するのを嗜好するのだけれど、それは「だってみんな真面目なんだもん」。
こんな場合にふざけているのはケシカランといつも顰蹙を買うんだけど、真面目対真面目の対決だと多数派の真面目が勝つんだよ。
特に今回のようにワイセツが問題になっているような場合は、「良俗」を盾にした社会の多数を相手にしなければならない。
当然まともに戦っても勝つ見込みはない。
これまでにも「四畳半襖の下張り裁判」のようなワイセツを”裁く”事がいくつもあったけれど、真面目に芸術論争を裁判の場でやっても理解は得られなかった。
もっとも「四畳半裁判」では、かなりユニークな法廷闘争を繰り広げたけれど。
そこに真面目だけでぶつかっていっていいものだろうかと思うんだよねぇ。

考えてみたら芸術家なんて自称だろうが他称だろうが胡散臭い呼称なんだよ。
秋山祐徳太子なんかみてるとそう思わないかい。
だからこそ逆に、自称芸術家って言い方は、存在を否定しきれない結果の呼称とも言えるんだけどね。

真面目さに金縛りになっている人に、「亀甲縛り」もあるよってチャチャを入れるのも、そのことに気づかずに煮詰まってますよってサインなんだけど、真面目な人は不真面目な人の言動を”攻撃”と受け取ってしまうので、息を抜こうよ、他にも考えられる選択枝があるのでは、というサインを受け入れないんだよ。orz
でもさぁ、淋しい事なんだけど、イイもの作っているなぁと思う人も、真面目な人ほどいつの間にかいなくなっちゃうんだよねぇ。
そこに何があったのかはわからないけど、もう少し別の考え方、とらえ方、息の抜き方なんかを駆使すれば、もっと良いものを末永く続けていけたんではないのかなぁと思うんですよ。
絶対にこれは譲れない、そんなことはしたくない、なんて事もしょせん自分の頭の中で考えている事で、発想を変えれば思考も変えられるんだけどねぇ。
もう少し何か出来ないかと余計な事を考えるんだけどねぇ。

ろくでなし子さんの作品はとってもキュートで好きですよ!




長崎駅前
長崎県長崎市大黒町
撮影 2014年3月22日 土曜日 11時55分
コメント (4)
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