Nonsection Radical

撮影と本の空間

置いてけ堀

2014年07月23日 | Weblog
ニュースとかネットを見ていて思うのは、いわゆる”大衆”は躊躇がないのだなという事だ。
たとえばmixiとかTwitterとかFacebookとかLINEとか話題になると、すぐに使い始める。
使い方がわからなくても、いろいろいじったり、誰かに訊いたりして動かす。
それで便利さを手に入れるのだが、一方でセキュリティとかがわからなくてエラいことになる場合もままある。
でもそれに懲りるわけでもなさそうで、次々現われる新手のサービスに手を出していく。
まあ多くが「コミュニケーションツール」と呼ばれるもので、コミュニケーションを円滑にするのに便利なものだ。
ところが、コミュニケーションをとる相手がいなくて、ツールを使ってコミュニケーションをとる相手を捜すという本末転倒な人も多いのも事実だが。

他の”大衆”と違って、どういうわけだかこの手のツールに手を伸ばすことに慎重なのは単なるジジイだからだが、そもそも用途が浮かばないんだな。
そして使うには使用法を知らないとダメと思うタチなのだ。
誰かに訊いてホイホイと使える柔軟性も持っていないし。
スマホにしても使う用途が思い浮かばないので買い替えない。
ケータイは電話とメールが出来ればイイとしか思っていないので、いまだにカメラ機能もメモリーカードの使えないガラガラケーで満足している。
ガラパゴスと言いながら、独自進化もしていない。

でもさ、電車とか運転中とか歩行中にスマホを使っている人を見ても、ちっとも便利そうに思えないんだよね。
ただの暇つぶしの(その割りには高価な)ツールにしか見えないんだよ。
残念ながら暇がない貧乏人なのでニュースや天気なんかは、あとでパソコンで見ればイイと思うし、ゲームをしている暇があれば山積みの本を読み進めていかないとと思うし、四六時中”無駄話”でつながっているわけにもいかないし。
そうやってひとつひとつを吟味していくと必要がない事がわかってしまうんだな。
それはすごく大きな画像が撮れる一眼なんとかという大きくて重いデジカメの場合も同じなんだよ。
身のたけにあった生活を考えると自然にそういう”付加価値”の必要性がなくなる。
そうやって情報化社会から置いてけぼりをくらうんだけどね。
まあしかたないや。




須恵1丁目の街並み
奈良県五條市須恵1丁目
撮影 2014年6月21日 土曜日 12時30分
コメント (2)
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