Nonsection Radical

撮影と本の空間

文学少年

2010年06月14日 | Weblog
某月某日
若い頃は文学作品など読まずにもっぱらルポやドキュメントものばかり読んでいた。
やっと最近(この十年ぐらい)になって小説というものを読み始めたが、名作というものはなかなか手に取る事なく、新刊の小説などを読んでいたのは、名作と呼ばれるものは古くさいものとなっているかも、あるいは個々の現象に対してでなく大局を語る物語になっているのではと思っていたからだ。
人間愛など語るようなものは好きではないのだ。
語るなら、君との愛だよ・・・(ゲロゲロ)

しばらく前に川端康成の短編集「掌の小説」をなにげなしに購入した。
短編の方が馴染めるかと思ったのだ。
それに川端康成といえばノーベル賞作家で中味が悪いはずがないという期待もあった。
もちろん雪国や伊豆の踊り子は読んでいないし、映画でも観ていない。
風説だけだ。
なんとなく青少年の淡い恋愛ものというイメージを持っていた。
そういうきれいな物語を書く作家が川端康成だと思っていたのだ。
ところが「掌の小説」を読むと、男女というか人の心の中のドロドロとした部分をえぐるような内容なのでビックリした。
こんなもの「も」書くんだと。
そして先日「山の音」というのを読んだ。
やはり心のドロドロを描いている。
ひょっとして川端文学とは「こっち」の話がテーマなのか?

それを確かめるために今日さらに2冊購入した。
「雪国」「眠れる美女」だ。
中味は知らない。
読んでのお楽しみだ。
さて川端康成とはどんな小説を書く人なのだろう。
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サッカーは日本の姿 なのか

2010年06月13日 | Weblog
某月某日
サッカーの世界選手権が始まったようだが(詳しくは知らない)、ほとんど誰も日本が活躍するとは思っていない。
前情報や実績で、どうやっても点が取れそうもない事がわかっているからだ。
ゴールに向かってガツガツと突き進んで行く事がないのは草食系ダンシだからか(昨日言った事を忘れたか)。
また、ダメだダメだと減点法で評価するのも南伸介以来の伝統か?
つまり一人ガツガツと突き進む者がいれば協調性がないと非難して芽をつぶし、団体行動をすれば責任の所在が曖昧になって誰もリーダーになりたがらず、周りは犯人探しに躍起になって非難を繰り返すだけ。
これを今の日本の社会の姿と重ねあわせるべきなのだろうか。
ガラパゴス化日本人なのか。

自身も含めて、まあどうしてこんなに細かい事までいちいち文句をつけるんだと思う事が多い世の中だけど、やはり自身も含めて、その割には自身の事には寛容であるなぁと思うのだ。
これまでは居酒屋談義といえば、プロ野球が中心で、あたかも「俺が監督なら」と、ろくに野球などセンスもないのに、あるいは社会生活において「俺が社長なら」と、ろくに経営センスもないのに、あの時はこうだった、俺ならこうしたと、お呼びでない事で話を弾ませていたのだが、今はそれがサッカーに取って代わり、「俺が監督なら」、「俺がチェアマンなら」と、ろくにセンスもないくせに話を弾ませる事となった。
「俺が~なら」というのなら、「~」になればイイのだけれど、そうはならずに口先だけで結局誰かを非難して溜飲を下げるだけになっている。
サッカー選手の中でも「俺ならゴールした」と言いながら、結局誰もゴールキックをしないでいるのだろうか。
それは当人でないからわからない。

サッカーという「スポーツ」に社会を重ねあわせて考える事が適切かはわからないけど、やはり当時も個人を非難していた創成期のJリーグでの、カズやラモスなど(シロートだから他の名は思い浮かばない)が今となっては「肉食系(笑)」と思えるのが、今の社会から振り返った世の中の移り変わりなのだろうかと考えてしまう。

まあサッカーはサッカーとして楽しんで見る事が本来の姿なのだけどね。
satoboは手癖は悪いが、足は器用ではないのでサッカーはやった事がない。
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二分法は簡単だけど

2010年06月12日 | Weblog
某月某日
「負け組勝ち組」「肉食系草食系」と二つに物事を分けて理解するのはわかりやすいが、本来持っている複雑なことを切り捨てて、単純に物事を判断していることに気はついているのだろうか。
物事には前提があって、こういう前提ではこうなる、と限定的な決まり事であるはずだったものが、その前提が無視されて、あたかもすべてに当てはまるように考えてしまうのは無謀な事である。
無謀であるから例外もたくさん現れてくるのだが、それをあくまでも例外として排除し、本来の限定的だという事を顧みない決定的事項と信じてしまうのは、それが簡単だからなのだろうか。
血液型占いなど、100種類以上にも分類出来る血液型を単純に4つに絞り込んでしまうのだから、ほとんどメンデルの法則以上の知能がない仕業である。
これではエジソンが「どうして1+1は2になって、3にならないの」という質問や、「どうして人を殺してはいけないの」という質問には答えられないだろう。

なぜこんなつまらない事を考えているのかというと、ふと飯を食っていて、今食っているのは草食なのか肉食なのかと考えたからだ。
喰っていたのは、ホルモンの味噌炒めなのだが、キャベツとタマネギとインゲンがたくさん入っている。
これにアサリの汁物と御飯。

どう考えても「雑食」だ。

ジョシも好きだけど、イケメンダンシも好きというのはどうだ?
ジョシは美人でなくても好きだが、ダンシはイケメンに限るというところにsatoboの弱さがあるが。

甘党辛党というが、キスチョコを手にしてウイスキーを飲むのはどうだ?
ジェリービーンズでもいいが。
そういえば最近ジェリービーンズを見ないな。ジェリー藤尾も見ないが。
羊羹で飲むのもオツだな。
その場合、羊羹はよう噛んで食べなければならん。
くだじゃれー事を言ってしまった。

パンツ派とスカート派があるが、キュロットスカートはどうだ?
男にとってキュロットスカートはサギだと思う悪魔の衣装だが。

パンに御飯を挟んで食べるゴパンはどうだ?
どうだといわれても困るだろうが。
御飯の上にライスを乗せて食べる御飯ライスもだが。

このように世の中には簡単に二分出来ないものがあふれているのだ。

ところでsatoboはバカか天才か?
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らくがき

2010年06月10日 | Weblog
某月某日








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おみあし

2010年06月09日 | Weblog
某月某日
今朝の南関東地方は時折小雨が降る不安定な天気でした。
駅に駆け込んできた人の中に、ちょっと目につく光景が。
中年女性ですが、駅のひさしに入るとハンカチを取り出し、少し濡れた御御足を丁寧に拭いだしたのです。
初めて見る光景です。
当然目が引きつけられます。
ヒールを履いたストッキング足を拭きます。
このような「気遣い」は素敵です。
濡れたら濡れたままでカツカツ歩く女性が多い中で、足元に気を使うとは。

流行の靴だろうにみすぼらしく汚れた靴を履く女性が多すぎます。
たぶん靴の手入れなどしないのでしょう。
汚れとりクリームを塗って、靴と同色のクリームを塗り込めば、靴はいつまでも買った時の輝きが保てます。
靴は意外と見られています。
どんなにオシャレをしても靴が汚れていれば印象はずいぶん悪くなるものです。
カッコ良く足を組んでも、その先に汚れた靴があれば自分でも興醒めでしょう。
自分で磨くのがイヤなら、誰かに磨かせましょう。
靴を磨くのが好きだという男子も多いようです。
ただし、磨かせる靴がクサいのは禁物です。
100年の恋も一瞬で消えますが、ニオイはなかなか消えません。
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