Nonsection Radical

撮影と本の空間

二日連続はキツい

2012年08月21日 | Weblog
エアコンの効いたホテル(ビジネス一泊5000円)で熟睡し、6時30分に起床。
100円で食べれる(ら抜き言葉)朝食を食べて(トースト、コーヒー、ゆで卵、サラダ)、ジリジリしながら出発を待つのは、あまり早く出てもお店もまだ開いていないから。
そのくせお店などない路地へグイグイ入って行ったのは天邪鬼だから。
10時にはギラギラ太陽が♪安西マリアの歌声のようにカラダを焼く。
せっかく乾いたシャツもすぐにビチョビチョになる気温と湿度。
昨日歩いていない道を歩き続けると関門橋のふもとに。
思ったよりも対岸は近い。
船の行き来が激しいのに驚く。
門司港駅を目指して歩くが、今日は背中に荷物を背負っているので動きが鈍い。
昨日は駅のロッカーに預けてから歩き出したのでカメラだけの軽装だったが、今日はデイパックに折りたたみ傘とペットボトル飲料、文庫本が入っている。
ただそれだけなのだが、少しでも軽くしたい気持ちには石のような余計な荷物に感じられる。
途中で商店街を再録したりしながら門司港駅へ。
そして駅舎を念入りに撮影。
連続25分の動画になったが、これもそのうちアップ予定。
なにしろ改修工事前の貴重な映像となる予定なのだから。
電車が来たので本日3時間の徘徊を終了し、新幹線駅の小倉へ移動。
電車内は冷房が効いているのだが、濡れ鼠の服を乾かす間もなく小倉到着。
大きな街にビックリ。
駅の観光案内所に行くと駅周辺の観光地図がキチンと用意されていた。
観光都市はこうでなくっちゃね。
大阪駅になんか地図を置いていないな。
腹ごしらえのために、やはり小倉に来たのだからと豪華に「すき家」で牛丼(汗;)。
そして歩き始めましたとさ。




大阪市此花区伝法3丁目1から


尾道坂道散歩 2


名古屋市西区城西3丁目9から
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門司港レトロでの歩き方

2012年08月20日 | Weblog
福岡県北九州市門司区と表記される門司港駅周辺。
行ってみた言えない理由はあるのだけど、予備知識は持たずに出かけた。
ガイドブックでは門司港駅周辺の扱いは小さく、どのガイドブックでも小さな地図しか載せていない。
福岡市の地図を見ても端っこであるから詳細がわからない。
そこでネットで調べたのだけど、観光協会が出しているガイドマップを見つけ、どうやらそれは紙の地図のPDFであるようだ。
きっと観光協会へ行けば手に入るだろうと地図も持たず出発した。
予想通りというか、門司港駅構内にもその地図が置いてあり、安心して徘徊する事ができた。
またネットで他の人が掲載する門司港駅周辺地区のブログなども目は通したのだけれど、どこに何があるかメモしたりなどはしなかった。
そういうものがあるんだぁ程度だ。
唯一、商店街の名前と住所だけは調べた。
結局商店街の場所もガイドマップに書いてあったのだけど、調べておいたからこそ確認できたわけだ。

門司港レトロの街の売り方は、丸ごと売る方針のようで、観光名所の他にも路地裏案内や街並み、市場の紹介もある楽しいものだ。
もちろん結果的にはそういうところも歩いたのだけど、それ以外の道も区別なく歩き回るのはいつもの事で、またまた結果的にはネットに掲載されていたような場所も、歩いていて「ああ、ここかぁ」と見つけたりしたものだ。
もちろん、ネットには出ていない場所も失礼を承知でお邪魔して、”レトロ”な気分を味わったのは言うまでもない。

今回行ってたまたまラッキーだなと思ったのは、歴史のある建物が壊れかけたり、改修工事に入る前だったりして、現存の姿を見る事が出来た事だ。
1914年に出来た門司港駅は木造なのだが、今年老朽化の為の改修工事に入るとの事で、5年ほどかかると言う。
その間は、一部見る事が出来るが、姫路城のように多くが幕に覆われてしまうのであろう。
また、某中華料理店も崩壊危険の表示があり、壁も傾き屋根も崩れかけていたので、取り壊しも近いだろう。
これもただ徘徊していて気がついた物件であった。

門司港駅周辺には、大正昭和の物件がゴロゴロしてはいるが、経年劣化は避けられず、特に木造建築物は早めに見ておいた方がイイと思うよ。





大阪市此花区高見2丁目9から


尾道坂道散歩 1


江川端通商店街 名古屋市西区
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行ってみなけりゃわからない

2012年08月19日 | Weblog
17,18日と更新がなく、交信もなく、もうヤメちゃったのかと思った人、残念でした。
両日で北九州門司港と小倉へ行っていました。
最初の計画では、赤貧18きっぷを使って行こうかと思ったのですが、我が身を振り返り絶対に無理と思い、帰りは新幹線で、と変更し、また我が身の体力のなさを鑑み、往復新幹線に変更しましたとさ。
これが結果的には正しかったと思われるのは、やはりかなりキツい行動で、二日目の小倉では午後早々に根を上げて撮影を中止し、ひたすら駅構内で涼んでいたのでした。
当初の予定では普通列車で延々12時間近くかけて行き、その日はそのまま宿泊のみ、次の日一日歩き回り宿泊、翌日早々に各駅停車の旅というものでしたが、新幹線こだまの割引き切符が日本旅行から発売されているのを知って、それを利用すれば宿泊一泊代との差額がそんなにかからず、赤貧きっぷは次の旅に回せる事に気がつきましたのよ。
まあ持ち出しには変わらないのですが、移動時間が少ないというのは、こんなにありがたいとはおもわなかったねぇ。

前日予想では曇り時々雨の天気でしたが、門司港駅に着いた時にはピーカンで、気温も高く湿度も高い絶好のサウナ日和。
観光案内所で地図をゲットし歩き出したのですが、地図には住居表示が書いていないのでブラブラしていると現在地がわからなくなってしまった。
そこでバス停にたたずむ大人しそうなジョシに現在地を地図で示してもらおうとしたのですが、残念ながら簡単な地図ではよくわからない模様。
しかたなく来た道の”近くの道”(人生に後戻りはない)を歩き出したのでした。
そんな歩き方で徘徊したのだけど、観光名所は行く気がないのに結局それを含めてだいたい大まかなところは歩いてしまった。
門司港駅周辺は現在”門司港レトロ”として観光客を呼んでいて、なるほどたくさんの人が古き良き時代の街並みや建物を散策している。
地元の人も慣れたもので、知らない者がウロウロしていても目をつぶってくださる。
九州上陸は40年ぶりだから、実質初めてみたいなものだけど、一部とはいえ歩いて、驚いたり、考えたり、実際に目で見て確かめる事が出来て充実した日だったね。

歩いていると上下とも汗でグッショリするほどの暑さで、全身濡れながら(比喩ではなく)歩いてすっかり疲れてしまい、早々にホテルにチェックイン。
荷物を置いて、徘徊中に目をつけておいた中華屋さんに晩飯のためにデジカメ1台持って、まだ日の残る街へ再び繰り出す。
が、天邪鬼の性格のため、ブラブラ汗をかきつつ写真撮影に歩き回る。
チャンポン+半チャーハンセットを食べてホテルに戻ってきても、まだ6時前だが、足は棒になっているし、ビチョビチョでキモチ悪いしクサいし、さっさとシャワーをあびて、洗濯をして、スッポンポンで浴衣を着て寝て過ごす。
着替えは持って来ていないので、乾かないと外出出来ない。
エアコンがあるので乾燥時間は短い。
でも、午前4時起きだったので早く寝たいから、もちろんナイトライフはナシ。

ベッドに寝転がり、小説を読みながら夢の中へ。
で、一日目はオシマイ。
なんて健全な旅人だろう。
飯盛り女の出る幕なし。



野田阪神駅前通 大阪市福島区大開


尾道市三軒家町14から


名古屋市北区大杉3丁目4から

コメント (2)
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ツイッターに正しい使い方はない

2012年08月16日 | Weblog
ツイッターという”さえずる”サービスサイトがある。
140文字以内で何かを書いてウェブ上に時間軸で積み上げていくものだ。
同様なものにブログというものもあるが、文字制限はなく、やはり時間軸で積み上げていくものだ。
どちらも基本はそれだけ。
その使い方は自由で、日記に利用する人もいれば、メモ、発表の場、交流の場、掲示板に使う人もいるし、つぶやくだけの人もいる。
どのように使うかは、利用者本人が決める事で、変更も自由だし、このように使うべきだというルールもない。
また、どのように使っているかを、いちいち宣言して使っている人もいない。
書いている本人だけが、本人のルールに基づいて文字を積み重ねていくだけだ。
そしてツイッターもブログも第三者が閲覧する事が出来るし(フォローという)、コメントをつける事も出来る。
しかし、双方向ではなく、あくまでも主従の関係だ。
それは、そこの”主人”がルールを自分で決めて、多くがそのルールを表に出さずに運用しているから、平等にはならないのだ。
勝手のわからない他人の家に遊びに行ったようなものだ。
遊びに行った相手がどのような人かよくわかっていれば問題も少ないが、知らない人だと意思の疎通も難しい。
特にツイッターは140文字という制限があり、それゆえ何を言っているか(書いているか)は、ほとんど本人以外にはわからない。
ぎんざなう。
と書いてあれば、それを閲覧した人は、書いた人が銀座に今いるのだろうと想像するが、実態はわからない。書いた理由もわからない。
そういうものだ。
書いた事によってコミュニケーションをはかろうとしているの”かも”しれないし、そうではない”かも”しれない。
ただ、そのように”さえずっている”だけなのが事実だ。

ところが、そんなツイッターをコミュニケーションツールだと一方的に定義して、書いている本人と閲覧している人が、たとえ知らない間柄であっても平等にコミュニケーションできると思っている人がいる。
だから有名人が何かをさえずると、その意図、目的、真意など一切わからないにもかかわらず、コメントすれば何か反応があるべきだ、平等に扱われて当然だと行動する人がいる。
また、”公開”討論の場として、当然登場しなければならないはずだと、勝手に決めつける人もいる。
まったくおかしな話だ。
140文字以内で何かを書いてウェブ上に時間軸で積み上げていく、という事だけが決められているだけなのに。

そうは書いているが、ツイッターを始めた頃には、そのような考えをまとめる事も出来ず、試行錯誤してたくさん失敗もしてツイッターの特性を考え、自分のルールを作り出していった。
特にそのルールを表明しないのは、他の人と同様だ。
最近上杉隆氏に関するサイトを読んでいて、上杉氏のルールの一端を知る事が出来たが、彼は自分のツイッター上に掲載され続ける文面のすべてを見るわけでもないし、問い合わせにすべて答えるわけでもないという。
だって無理でしょ、いうわけだ。
上杉氏をフォローしている閲覧者は、上杉氏がすべて読んで、すべて返事をし、当然自分ともコミュニケーションをとってくれる平等な立場なんだと思っている人も多いだろうが、実際は、これが彼のルールなのだ。

で、satoboのルールはというと・・・
基本的に140文字では、コミュニケーションをとる事は不可能だと思っている。
わずかな文字を読むだけで、それを読んだ他人が自分の思いを100%理解してくれるとは思えない。
32文字の短歌をそれぞれがそれぞれの想像で楽しんでいるのと同様だ。
だから基本的にはツイッターを”つぶやき”の場として、利用している。
なんの説明もなく、ただつぶやいている、あるいは”ぼやいて”いるのだ。
これが自分の理解するツイッターの特性を考えた利用法だ。
ただ、フォローした人が何かをさえずった時があるとする。
そのさえずりに何かコメントをしたいと思った時には@のついた”返信”を送ったりもする。
それはつぶやいた本人宛てへの公開私信だ。
でも、フォローした人の書いてある事が100%は理解出来ない場合(それがほとんどだろう)、理解出来た範囲で思う事を返信ではなく、さえずりとして書くこともある。
理解出来ていないのだからワケのわからない事を返信されても相手は困るだけだし、こちらも相手の”真意”をつかみかねている事を自覚しているので、トンチンカンな事を知りつつさえずるのだ。
このさえずりを誰か閲覧者が自分への事かと”深読み”する場合もあるが、それはどうしようもない。
ツイッターはそういう特性(自分へのさえずりかと思ってしまう意味不明性)があるのだから。
しかし、自分のルールでは@がついた”返信”だけが、特定個人へのさえずりなのである。
また、誰かのさえずりに対して、それから連想する事柄をさえずる事も多い(むしろこちらがほとんどだ)。
ただし、あくまでも連想する事で、そのさえずり自体に100%関連するものではない。
だから当然@はつかない。
連想して勝手に話を広げていき、他の閲覧者にはワケのわからない展開をするが、それも自由に自分の空間を利用してよいというツイッターの基本事項を利用しているだけで、誰に断りを入れる必要もない。
そこに誤解が生まれる事もあろうが、それはそれでツイッターの限界なので仕方ない。
自分は他人のさえずりのほとんどが理解出来ないので、理解出来ない事を自覚した上で、自分への事かぁ、とか、理解されていないなぁ、とか、”深読み”はしない事にしている。
何かわけがわからないけどさえずっているなぁと思うだけだ。

他の利用者も自分なりのルールで運用していると思うのだけど、つぶやきには文字以外に何の背景も説明はないのはどこも同じだ。
つまり何を言っているのか(書いているのか)わからない、のが実情だ。
それを前提にすると、結局”ひとりごと”の場として利用するのが一番だとの結論になるのである。




大阪市福島区海老江2丁目11から


大曽根本通商店街 名古屋市北区


尾道市 東第1踏切から


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写真は面白い

2012年08月15日 | Weblog
久しぶりにデジカメ画像をインチキ加工した。
仏滅を仏が滅びるとか、友引は友を引くとかワケのわからない事を言うのと同様、写真は真を写すなどと言葉尻遊びをする人がいるが、じゃぁ赤口は?と訊かれても答えられないように、写真にも言葉に意味があるわけじゃないのが現実だ。
絵を描く時にシロートであっても、現実の忠実な模写をするわけではなく、思うように構図し色を塗り取捨選択をするのと同様に、デジカメになって思うように加工が出来るようになったのは選択肢の広がりであり喜ばしい事だ。
まあその前に何を見ているかという問題があるけど、これはあくまでも記念写真や旅行の思い出写真などは排除した話として、絵を描くというおこないと同レベルの目的で考えると(”表現”などという言葉を使わないで言っているだよ)、目の前にある光景というのは写真撮影するという目的の素材でしかないわけだと思うんですよ。
その素材をどう写真として表すかという工夫が、まず面白い。
そして、その元画像をどのように加工して自分のイメージを創り出すかが面白い。
その結果、出来上がったものが他の人にとって、面白く感じられたり、つまらなく感じられたりするのだけれど、それはそれぞれの人の感じ方や理解度の違いもあるし、このように見なさい、このように感じなさいと強制出来るものでもない。
それは絵画や映画などと同じでしょ。
ただ、見た人が自分の感想や疑問を直接ぶつけてきた場合に、相手にあった答えをすればいいのだと思う。
ピカソやマチスやブレッソンなどが、自らの作品を前に意図や見方などを説明する事などなかったように、そんな無粋なおこないは楽しみをなくしてしまうと思う。
が、”うちわ”での話はそれもあるだろうと思う。
うちわとは、同じ事をしている”仲間”ということだ。
最近はこれを”ビューイング”と称して時々行なわれているが、あくまでも内輪話であって、他人の考えている事を聞いて自分の参考にしようという意識の元でされるものだ。
そういう点で”同好の士”というのは、純粋な鑑賞者ではなく、見てもらってもあんまりウレシイ人とは言えない。
もし、写真を撮るのが好きというのではなく、写真を見るのが好きという人がいれば(絵画や映画にはそういう人がたくさんいる)、そういう人に見てもらえる機会がある事が見せるという喜びになるのだと思う。
見せるからには、相手任せにする覚悟が必要なのだ。
それが自分にとって好ましい結果を生まなくても、そういうものだと思うべきものだ。
時には、”作品”を見て、その感想を言うのではなく、そこから自分の”論”を言う人が”評論家”を先頭にいるけれど、それがその”作品”にとって何の意味も持たない事は、撮った写真が被写体に対して何の意味も持たないのと同様だ。
また、撮影者自身がその写真に関して語るのではなく、自分の論を語る事もあるが、その論は写真に何の意味を持つものではない。
撮ったものと撮られたものはまったく別のもの。
撮ったものと語られるものはまったく別のもの。
だから面白いんだと思う。




大阪市福島区海老江1丁目9から
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