Nonsection Radical

撮影と本の空間

オヤジなら肘鉄

2014年06月10日 | Weblog
朝の電車内、隣にカワユいジョシ学生が座った。
カバンからノートを取り出して膝の上に。
横目で見ると、何やら医療系の授業ノートのようだ。
しばらくするとこっくりこっくりと舟を漕ぎ出してsatoboにもたれかかるように。
アラサーのムスメが二人もいるオヤジなので、ジョシとハグすることや腕を組んだりするのはまったく平気なんだけど、腕にしがみつくように寝入るジョシの髪の毛が触れたり、イイにおいがしてくると、逆に自分がカレー風味は発していないか、イヤな思いはしていないか、あらぬ疑いをかけられはしまいかと、そっちの方が気になる。
あまりにも熟睡しているので、乗り越さないかと心配になり、ターミナル駅に着くたびに、姿勢を正して、それとなく目覚めを誘うのだが降りる気配はない。
ホントは「乗り越してませんか?」って訊きたいけど、そんなことをしたらたぶん即アウトだからねぇ。
何度か繰り返す、ぼんやりお目覚め、即熟睡。
自分が降りる駅に着いたので、急に起こさないようにそっと席を立ったのだが、また寝入ってしまいそうだった。
きっと勉強が大変なんだろうなぁと好意的に見守ったオヤジである。




阪急 園田駅前
兵庫県尼崎市東園田町9,5丁目
撮影 2014年5月1日 木曜日 12時50分
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末端は沈黙

2014年06月09日 | Weblog
きっとTPPと関係があるんだろうなと無知なくせに勝手に思ってしまうのが農協の問題。
どうして国とかが上から単なる協同組合のあり方をウンヌンするのか、またニュースに出てくるのは農協”上層部”のコメントなのか全然わからないんだけど。
そんなもの組合員同士で話し合えば済む問題じゃないかと思うんだけど、そうじゃないんだろうな。
協同組合なんてのは”建前上”はすべて平等な地位にあることになっている。
それは農協でも生協でも漁協でもそうやって”民主的”な立場を取っているわけだ。
でも現実は違うでしょ。
もの言えば・・・の世界が”末端”の組合員の口を塞いでいるのがニッポンの民主主義でしょ。
そんなものは国だって同じで、平等な立場の国民が選挙で代表を選んで、みんなであれこれいう煩わしさを代行させているだけなんだけど、そんなことは青二才のいう理想論で、現実は戦前から引き継がれた”お上”が支配しているのは身にしみて理解しているわけね。
”自治体”などと住民が”自治”をするための組織みたいな呼び名があっても、だれも自治なんてことを考えていない。
そもそもそんな発想は戦勝国のアメリカが”押しつけた”発想だし。
教育委員会なんてのも日本の国体にあわないしね。
もっと末端の自治会なんか、単なる自治体の下部組織としか思われていないし、本当に住民が自治をやろうとすると必ず横やりがはいる。
住民、国民はそれぞれがそれぞれの思惑を持っているんだけど、みんな黙るのは、思惑をぶつけあって調整するという方法よりも、黙っている方が波風立たずに平和裏にすませられて民主的だと思っているからかな。
それがニッポン人の特質かと思っていると、宮本常一なんかの本を読むと、明治期ぐらいの農村ムラ社会では、何日もかけてボソボソと討議をして調整の上”全会一致”を見るなどという”民主的”なことが行なわれていたとあるのだから、黙って従うというのは案外最近の処世術なのかもしれない。
まあそうであっても、なにかしらのグループを作って民主的にやるというのが、リーダーを立てて他の者はまかせて「何も考えない」というのでは、どうやらウマくいかない時代になったんだと思うんだよね。
むしろこれからは、好き放題言ったあげくに、苦労してなんとかまとめあげていくという、メンドクサイことをして”結果”を出すことが重要視される時代なのかもしれないね。
それをまとめあげることが出来る能力があるのが管理者というリーダーであり、そういう場所で各自が考えて好きなことをするのが「任意団体」のあるべき姿じゃないのかなと思うんだけど。
でないと、末端はつまらなくてやってられないでしょ。




南山手町の街並み 2
長崎県長崎市南山手町,松が枝町
撮影 2014年3月23日 日曜日 16時05分
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その先にあるもの

2014年06月08日 | Weblog
6月は写真月間ということで各地で催し物が開かれているけど、大阪でもギャラリーが連動して写真展が催されている。
それでいくつかのギャラリーへお邪魔したんだけど、ちょっと途中で唸ってしまった。ンンンンン・・・
みんな視点が同じなんだよねぇ。
同じようなものを見て、同じようなものに興味を抱き、同じようなものを撮影する。
それってみんな同じ価値観ってこと。
同じ価値観だから同じようなものに視点が向き、同じような写真を撮る。
それってマズいと思わないの?撮っていて。
見る方はマズいと思うんだけど。
何人かの写真がギャラリーに並び、どれも誰が撮ったか区別がつかないような写真って。

ハッキリ言うけど、そんな写真なんにも面白くないのよ。
どれもすでにこれまで何千回も誰かに撮影された視点なんだよ。
そこに何を見ろって言うのだろう?
平凡であることを確認しろとでも?
もっと違うものを撮影しろなどとは言わない。
もっと違う価値観を持てと言いたい。
つまり根源的なものを見つめた方がイイんじゃないのかと。
自分はなぜこういうものを撮影して、つまらんと言われてしまうのか?
「大大阪」と言われる21世紀の大都市で、なぜ前世紀に撮りつくされたものを前世紀と同じ価値観、視点で撮ってしまうのか?
それに何の価値があるのか?現在の自分にも他人にも。
生きていく上で、時代と共に変わる価値観とどのように折り合いをつけていけるのか。
そしてそれを表現する上で、どのように活かせるのか?
そこんとこ、ちょっと考え直してみないとなぁ・・・
それがすべての表現に関するもっか最大の課題なんだから。
写真だって逃げられない。



一条通の街並み 2
京都府京都市北区等持院南町,大将軍坂田町,右京区谷口唐田ノ内町,花園猪ノ毛町,花­園寺ノ中町,谷口梅津間町
撮影 2014年3月8日 土曜日 16時40分
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ポストカード収集

2014年06月07日 | Weblog
唯一の収集趣味といえるのはポストカードだろうな。
かれこれ35年にはなる。
見に行った展覧会などの案内ポストカードを集めだしたのが最初だ。
現在もギャラリーに出かけてはポストカードを収集している。
もう何百枚あるかわからない。
それ以外にもギャラリーショップなどで買ったり、ポストカードブックなども買う。
ポストカードは集めて良し、知り合いに出して良し、眺めて良しの良いこと尽くめの趣味だと思っている。
単体で買っても多くが150円前後だし、ポストカードブックなら一枚当たり数十円だ。
ポストカードをフレームに入れて飾れば、お手軽なインテリアにもなる。
これで名作の雰囲気が味わえたり、カワユイデザインを楽しんだり出来るのだから、もっと広まればイイと思うんだけどねぇ。
また収集しても保管場所のスペースを取らないしね。
一生かかっても段ボール1箱も集められないよ。
で、最近はどんなポストカードブックがあるのかなぁとアマゾンで探してみたついでに個人的書籍データーベースサイト「~に関する本」にまとめてみた。
100枚組ボックスセットなんてのが、ドンドン発売されるようだ。
個人的には、写真家のポストカードブックがもっと発売されたらと思うんだけど、まあこれは写真集でということで。




東園田町9丁目の街並み
兵庫県尼崎市東園田町9丁目
撮影 2014年5月1日 木曜日 12時40分
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読み終えた本

2014年06月06日 | Weblog
貧乏は正しい! 橋本治著 小学館文庫
貧乏は正しい!ぼくらの最終戦争 橋本治著 小学館文庫
貧乏は正しい!ぼくらの東京物語 橋本治著 小学館文庫
貧乏は正しい!ぼくらの資本論 橋本治著 小学館文庫
貧乏は正しい!ぼくらの未来計画 橋本治著 小学館文庫

どうやって若者は今後生きていけばいいのかを考えさせるために1991年にヤングサンデーに連載されたものをまとめて出版された本の文庫版。
昭和が終わり、ベルリンの壁が崩壊した1989年。
バブルの最中でもあるが、大きな事件が起こるたびに、世の中がこれからどうなっちゃうんだろうと考え始めた時期に、著者橋本治はさっさと古い時代の終わりだと考えた。
そして2年後から、ソ連が崩壊、バブルの破裂、阪神淡路大震災、オウム事件と世紀末を感じさせる激震が日本を襲い、ホントにひとつの時代が終わっちゃったわけだ。
それに先駆けて、古い時代が終わっちゃったんだから、これからは新しい時代を生きていかなければならない、特に若者は、というわけでこのシリーズが連載される。
新しい時代を生きていくには、新しい世の中を作っていくには、古いこれまでの時代を理解してないと失敗すると橋本は考えて、17歳をターゲットにマンガ雑誌に世の中の成り立ちを説いたものを単行本化の後、1998年に文庫化された。
読んでの感想は、おおむねこれまで考えていたことと相違はなくて、自分では言語化出来なかったものをわかりやすく(文体はかなりわかりにくいが)まとめたものだと思えた。
もっともそう思ったのは自分だけかもしれなくて、世間の”常識”では無茶な話ととらえていたのかもしれない。
しかし時代が進んでしまえば、結局著者の言うことが間違っていなかったと言える世の中になっていて、だから当時この本を読んで“運良く”自分の身の振り方を考えることが出来た若者は、オッサン、オバハンの入り口にさしかかるであろう現在も強く生き抜いていることだろう(か?)。
世の中を知るのには当時としては大変有意義な教科書だと思う。
ただし20世紀の教科書だ。
世の中はすでに21世紀。
あれから時代は進み、「これからの未来」はすでに「今の時代」になっている。
当然”教科書”には書かれていない。
だから”その後”は各自が自分で考えて生きていかねばならないのだ。
その考える力の基礎をこれらの本が担ってくれるのは間違いない。
だから今読んでも役に立つと思う。

「事件」を見にゆく 吉岡忍著 文春文庫
週刊文春に1987年から88年にかけて連載された記事を書籍化したもの。
バブルの時代に起きた事件を取材したものだが、同じような事件が現在も同様に起こっている。
橋本治流に言えば、時代はすっかり変わったのに、相変わらず人がやることは変わっていないということか。
偽やせ薬、不倫殺人、人員削減、餓死、児童淫行など今も新聞雑誌をにぎわしている。
やっていることが変わらないということは、やっている思考も変わらないということで、おいおい新しい世の中を迎えて考え方は変わらなかったのかい、とツッコミを入れてしまいたくなる。
まあ変わらないから、世の中こんなザマなんだけど。

ペログリ日記’95~’96 田中康夫著 幻冬舎文庫
「噂の真相」連載の書籍化。
20世紀末期の個人的日記であるはずのものが、文章のすきまから当時の世相を垣間みることが出来て面白い。
日記文学とはだいたいそういうものだろう。
超多忙な筆者の毎日と超人的な体力とPG数にあきれるが、そういう時代であった。
もうすでに日本という国からは何も生み出されてはいない時代であったはずだが、相変わらず世の中は忙しく動いていて、後から思えば最後のあがきであったのかしれないと思える。
そういう時代を面白がりつつ、冷静な目で時代を観察していた人はどれぐらいいたであろうか。
特別付録のペログリ嬢4人による対談は、他の追随を許さない真の田中康夫”研究”であり”分析”である。
ただし誰もその後W嬢と結婚するとは予想していなかった。




南山手町の街並み 1
長崎県長崎市南山手町,相生町
撮影 2014年3月23日 日曜日 16時00分
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