Nonsection Radical

撮影と本の空間

寝呆ける

2016年05月11日 | Weblog
ふと目がさめると外は薄明るい。
時計を見ると5時40分だ。
いかんいかん、お昼寝して夕方まで寝てしまったようだ。
夕飯の用意をしなければと起き出す。
電灯をつけない室内を見渡すとご飯ジャーの電気がついている。
朝食用に炊いたままそのまま通電していたようだ。
もう一度新たに今晩分を炊かないと。
再び時計を見るとやはり5時40分過ぎだ。
さてと流しを見るとまだ洗っていないはずの食器がない。
あれぇ?と思って、炊飯器を開けるとまだ手をつけていないままのご飯がある。
ええっ?と思って室内を見渡し、薄明るい外を見る。
どうなってんダァ?
トイレに行って、再び台所で思案した結果・・・
朝の5時40分なんだ。
夕方だと思ったのは勘違いで、キチンと寝て、朝が来ていたんだ。
夜と朝の区別がつかないぐらい寝ぼけていたんだ。
そうわかると一気に眠気が襲ってきて、あと30分寝ようっと布団に戻った。



由比の街並み 5
静岡県静岡市清水区由比今宿
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時50分
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一事が万事な世の中

2016年05月10日 | Weblog
オヤジってウザくてキモいよねと口にする人って「ほぅ、すごい」と思ってしまう。
自分の感覚を肯定して口に出せる自信があるのだから。
そうやっていろいろなことを自分感覚で判断して生きていけるのだからうらやましいと思う。
こちとらすぐに「こんなことを考えるのって変かなぁ、偏っているよなぁ、異常だよなぁ」と思ってしまうので、自分の立ち位置を偏り側に規定しているのに。

都内某所で写真展が行われていて、それがいわゆる「ろりこんしゃしん」だというので、その”異常性”を投げかける投稿がいろいろ出ている。
感覚的には、昔は良かった、自由に人を撮影できて、声をかけて写真を撮ることもできたぁ、という”ノスタルジー”ものであるのだけど、それが少女を撮った”ろりこんしゃしん”ということで、ふざけるなぁと批判の声が上がったのだ。
声をかけているという”いいわけ”に当事者であった女性からは、当時も怖くてキモくてイヤだったという声も出てきて、当然のごとくろりこんおやじ粉砕の流れとなっているのだが、そのことをどうこう思っているわけではない。
街なかをカメラを持ってウロウロしているのは不審人物で、危険だから通報対象者となるということについてだ。
ここで撮影の自由とか表現の自由とかいうわけではない。
なぜならそれ以前に自由であるからだ。
撮影することだって自由だ。
ただ最近は”肖像権”とか権利侵害に対する問題とバッティングするケースがあり、何も問題が起こらないとは限らない。
権利侵害について「話し合わなければならない」ケースも出て来るだろう。
だからと言って、自粛を求められることもないし、自粛する必要もない。
その時には「話し合い」を持てばいいのだ。
そう思うからカメラを持ってウロウロしているオッサンをキモいとかウザいと断定する”自分感覚”がすごいなぁと思うのだ。
そこには他者に対する”思い”が一切入り込まないでしょ。
すごくない?

一方で、テレビやマスコミが映し出す街なか風景など撮影に対しては寛大な気持ちが働くようで、むしろ逆にうつされて(写され、映され両方の意味)嬉しいとかの感覚がある人も多い。
その感覚はわからないのであるけど。
当然自分の肖像権をどのように取り扱うかは自由なので、誰に撮影を許可するかは勝手に決めていいのだけれど、何に使われるかわからないという点ではマスコミによるものの方がずっと影響力があると思うのだけどなぁ。
だって、それを見た人がどんなことに、どんなふうに使うかはもう手の届かないところで起きることなんだから。怖いよ。

そして怖いということなら、ろりこんおやじがケシカランことをしているので、すべてのオヤジはケシカランし、そういうケシカランことを放置しておくのは”おかしい”という風潮が広がり、街なかを撮り歩くヤツはケシカランという世界になっていくことがもっと怖い。
今回のことで、なかには文筆を生業にする人もいて”参戦”しているけど、たとえば(たとえばではなく実際に現在でもそうなのだが)大手マスコミ(変な言い方)の人間が取材に歩くのはありだが、どこ野馬の骨ともわからないヤツが取材に歩き回るのはキモいし、ウザいし、怖いと”認定”されたらどうするのだろう。
まあ実際には、そんなことは日常茶飯事で、などと言うだろうが、ではなぜ”自粛”しないのか?
そこには自分なりの”正義”があるからなのか。
一方ではキモい、ウザいを肯定し、自分には当てはめないのはどうしてなのか。
それとも、すべてのキモい、ウザいに対しても、自分のことには当てはめなくていいんだよとアドバイスするのであろうか。戦えと。

自由は誰に対しても平等にあるから自由の価値があるので、日頃自由に活動している方々が、世間の風潮が息苦しい方向に向かうことが多い昨今に、一つのことが全体を取り締まる傾向がますます強まっていることに無関心であるはずはないのだろうに、感覚で言葉を発する”軽さ”にすごいなぁと思ってしまうのだった。



由比の街並み 4
静岡県静岡市清水区由比今宿
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時45分
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懐かしがってはいけない

2016年05月09日 | Weblog
色々と過去のことに興味を持って調べたりするんだけど、昔は良かったなんてことは思わない。
昭和を懐かしがる人もいるだろうが、良かったかというとそんなことはないと思う。
今の方がずっと”まし”だ。
懐かしく思う人には「成功体験」があると思う。
世の中がだんだんと良くなっていく時期に生きている人は、それが自分の力でつかんだ成功であると思う人も多いだろう。
だからそういう人は、同じように今も努力して頑張れば同じように成功体験を味わえると考えているようだ。
ということは、現在はあまり成功している世の中とは思っていないということか。
頑張って作り上げた成功した世の中のはずではないのか。
はずだと思っているから、昔よりは良い世の中だと思うのだけど。

昔は良かったという声は多けれど、昔は悪かったという人はあまり多くない。
それはどうしてなんだろう。
何が良かったのだろう。
生活がだんだんと良くなっていくことが良かったのか。
貧乏だったから良かったのか。
だったら今でもずっと貧乏でいれば良いことだ。
過去を振り返ってみる余裕がある人が考えるのが”ノスタルジー”なのか。
なにか”成功組”に入っていた自分たちという甘美な酔いがあるような気がする。
頑張って成功した日本国の一員というレベルでの。

でもそのレベルでいえば、バブル期に働いていた人たちが一番の成功者たちだと思うのだけど、あまり良い評価は受けないのはどうしてだろう。
最高のレベルの経済状態だったではないか。
たとえそれが数年で終わってしまったとしても、高度成長期が終わって長い不景気が続いた時代となんの違いがあるというのだ。
戦後の成長は1970年代で終わってしまったではないか。
それがその時代に働いていた人たちの”成果”だろ。
もし本当の成功なら今においても成功し続けているはずだろう。
そうではないということは、成功と言っても一時的なものであったと言わざるを得ない。
そんなものにいつまでもしがみついていたり、懐かしがっていても仕方ないではないか。
中国経済がそうであったように、必ず成功体験は終りを告げるのだ。
それを身にしみてわかっているはずである。
だから好景気が続いても、必ず終りがあることがわかっていて、「中国もすぐに破綻するさ」と”負け惜しみ”をぶつけていたではないか。
そして現実にそうなったわけだ。
あの頃は良かったというのは、その一時期にその場所にいたというだけのことであり、自分の力云々の問題ではないだろう。
でなければ、その後の”敗戦”も自分の力不足ということを認めなければならない。
そのことは自分の責任ではない、というのは身勝手な言い分である。



由比の街並み 3
静岡県静岡市清水区由比今宿
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時40分
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温故知新

2016年05月08日 | Weblog
暇を見つけては古本屋さんに行って(おもにブックオフ)2,30年前の本を買いあさっている。
ほとんど108円で手に入るものだ。
2,30年前といえば、1980,90年代のものである。
それぐらいの本ならまだ手に入る機会があるのだ。
読み終えた本のおわりのページにある刊行案内をみて、気になる本をメモしておくことも多いが、その場で面白そうな本をピックアップすることも多い。
だいたいその時代のことに興味があるのは、自分の記憶も多少あるし、その記憶が一体どういうことなんだろうと検証する意味合いが大きい。
で、読み進めるとともに、新たな疑問がわいてきたり、上記と同様に刊行案内で新たな本を”発見”したりして次の本を探す手掛かりにしたりする。

今日も「ニュースの冒険」猪瀬直樹著 文春文庫 1993年発行 を読んでいるのだけれど、これがまるで現在のことを読んでいるようで面白い。
東京都知事をおわれたダーティーのイメージが強い猪瀬だが、ライター時代の作品はガサツで伝法なのだが、なかなか面白いと評価している。
そして著者が取り上げるテーマというのが、現在でも通用する問題を扱っていて興味をひく。
もちろん著者個人だけの資質ではなく、猪瀬にそういうテーマで取材させた出版社側にも共通してそういう視点があったということで、ある意味良き時代であったと思うのだ。
ニュースの冒険は、発行が1993年だが、取材発表された時期はおもに1988,9年だ。
時はバブルの真っ最中である。
そういう時代に、ある種斜め視線で出来事を切り取り、雑誌に発表できたというのは、それだけ時代に余裕があったこともあるだろうし、単に浮かれポンチ(死語)だけではなかったということでもあろう。
現在ならすぐに「偏っている」とネットで叩かれたかもしれない話題が、消えることなく現在にも書籍として残っているというのは、なにかスゴイことかもしれないと感じる。
で、本の中身を紹介すると、「日本経済を支える女性の消費パワー」「文化論としてとらえたい原発問題」「地価高騰は老人問題を解決するか」「ディベートの流行に期待する」「異文化体験なき海外買い物ツアー」「”外国人労働者”流入は国際化の試金石」などなど
結局時代は変われど同じことをずっと話題にしてきて、何も変わらず変えずに放置してきただけであることがわかる。
そして”問題”の核心は、現在よりも当時の方がハッキリと認識されていることがわかる。
もっとも認識されていても何も変わらなかったわけだが、それも現在と変わらない大人の事情なのだろう。



由比駅前
静岡県静岡市清水区由比今宿
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時40分
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反比例

2016年05月07日 | Weblog
ネットで金儲けをしようという動きはますます増えてきているわけですけど、それにつれてつまらないサイトも増えている気がする。
面白いことや興味を持ったことを伝えたいという気持ちより、金儲けをするために利用するネタという感じで中身の薄いコンテンツを並べただけというサイトが、困ったことに検索上位に来たりして、本当に知りたいことが書いてあるサイトを探すのに苦労したりするだな。
ネタの流用なんか当たり前で、それが流用であれ引用であれ、そのことで何かを伝えたい気持ちがあるのならまだしも、単に利用しているだけというものもいただけない。
だから二次利用、三次利用のネタが蔓延してしまうのだが、上記のようだと元ネタ以上の価値のあるものなどないので、検索結果の数は増えるけれど中身は薄いという悲しいことになる。
さらに不思議なことだが、新聞社などの有料サイトは無料だったときのほうがずっと中身が濃い感じがする。
もっと深い話をと思うところで記事は終わってしまったりして、これじゃあ金は取れないだろうなと思う。
当然お金を払うのだから、それに見合った中身を期待するのだけれど、現状ではお金を出しても有用だと感じるところはほとんどない。
それどころか、会員登録をするといくつか無料で記事が全て読めるなどという、やはり金儲けに結びつけようとするサイトも多いのだけど、会員登録してまで読みたい記事などないという現状をどう感じているのだろうか。
まあこれは個人的感想なので、きっと知らないところではうまく動いているのだろう。
たとえばBSの番組など多くが通販番組化しているけれど、これはこれでうまくいってるんでしょ。
地上波だって、どんなにつまらないと言っても、面白いと思う人だけが見ていればいいんだし。
ネットだって、そうやって面白いと思う人だけが利用することになっていくんだろう。
でも一時期の書きたい人が多いけど、読みたいと思う人は少ないという出版界みたいになって衰退していくんじゃないのだろうかね。
一方で期待するのは、グーグルに成り代わって、有用なサイトだけ検索されるというようなエンジンを積んだサービスが現れること。
昔手動で行っていたヤフーの検索サイト作りを自動化して”厳選”したりできたら面白いことになるかもしれないと夢みたいなことを考えたりもする。
時代はそういう流れだ。



由比の街並み 2
静岡県静岡市清水区由比今宿
撮影 2016年1月1日 金曜日 14時35分
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