さて、そもそも神社とは、【人の願いを叶えるために在らず】
本来は、今風にいう、パワースポットに建てられたものだと思う。
古代、人々は、大樹(森)を敬い、水(川)を敬い、お日さま(天)に感謝し祀った。
なぜなら古の人々は、
それらの恩恵なくして、自分達が生きていくことは出来ないと、
知っていたから。
災害が起きないように、十分な実りが得られるように、
穏やかに暮らせるように、
自然という神々(精霊)を敬い祀った。
そこに謙虚な畏れがあった。
だから日々の感謝の上、供物をそなえる祭りを行い、
また神(精霊)も、それに答え人々を見守り助けた。
※例えば富士には、
ある時龍神が顕われて、村人たちに噴火を知らせたため、
皆、逃げおおせて難を逃れたという話が残っている。
そして神々を祀る際に、
人と神の間に立ち、
それぞれの仲立ちを勤めたのが、
本来の神主や巫女の姿。
やがて時が過ぎ、
世に大和朝廷の王制が敷かれると、
まず王家の祖先と言われる存在が、
既存の社に神として加えられ、主祭神として祭られるようになった。
※人が死んで後、神として祭られる例は近い時代にもある。
「菅原道真」の天満宮とか「徳川家康」の東照宮などもそれにあたる。
だから、天津神と言われる、アマテラス系の神々は、
もとは、実在の王族の人達だったのだと私は思っている。
当時は普通にこの世に生きていた人間で、
死して後、神となった人々。
ここで驚くべきことは、
卵が先か、鶏が先かのような感じで、
神として祀ったから神になったのか、
もともと神的な力を持っていたから神となったのかは
謎ながら、
確かにそういう神々は、広大なパワーと共に、
現実に、この世に存在されていることだ。
※(余談になるが、それを確信したのは、
神として姿を現された、
織田信長公にお会いしたときだ。
生前、自分を神として崇めよ!みたいなことを言われていたのは知っていたが、
まさか死後、本当に神になられていたとは知らなかった。
あの時は本当に驚いた。
長くなるのでこの話は、また別の機会に詳しくしようと思う。)
さて本題に戻るが、
よって、日本の神社の神々が、
人のお願いごとを叶えるために存在されているのではないという事が、
何となく分かっていただけたかと思う。
(特に、もともとの自然霊たる精霊系の神々にとっては、願われるのは迷惑至極)
「御守り」やその他神社で買い求められる開運グッズは、
ことの始まりとしては、
祭りに使われた稲わらとか木切れ、お供えものとかを、
(神事に使われたものなので、
きっと神さまの力が、少しなりとも宿っているに違いないから、
どうかその物を持つことで、御神徳に預かれますように…)
という気持ちで、
持ち帰ったものなのでは無いかと思う。
それが、徐々に、
神社の運営や存続、
神官たちの生活費を得るためのグッズとして、
社務所で売られるようになったのではないか…?
それが私の推測だ。
もちろん御祈祷をして作られているものなので、
それらをインチキ商品呼ばわりするつもりは更々なく、
けれど、それを持っているからといって、
誰もが、御神力を受けられるという品でもないと思う。
だって「御祈祷」とは、「お願い」である。
神主さんから、神さまへのお願い…。
だから「御守り」などには、その神主さんの「お願いパワー」は宿っている。
だけれど、
お願いされた神さまが、その「お願い」をお聞き届けになるかどうかは、
神さまの御意志次第。
イヤなら無視される。
当然だよね。
まあ普通、完全無視はないと思うけど…。
だからと言って、(ここが重要だが、)
「御守り」なんて、気休めというわけではない。
ここでポイントとなって来るのが、
【ご縁】であり、【自分の在り方】なのだ。
先祖代々お世話になっている氏神さまには、
誰もがそれぞれのご縁を生まれながらに頂いている。
氏神様は氏子のことを、
大抵はちゃんと気にかけて、護って下さっている。
それから産土の神。
これは自分が生れた場所に祭られている神様のことで、
この神も、生涯に渡り、自分をサポートして下さる神となる。
そういう【ご縁】をいただいている神社の「御守り」などを持つことは、
神さまとの形ある物質的な物を通しての繋がりを持つことになり、
神さまのお力も、その物を通じて働き易くなるのである。
更に加えて、そこに【自分の在り方】も関係してくる。
これは人付き合いと似ている。
人間同士だって、
こいつイイ奴だと思えば、仲良くなったり力になったりするだろうが、
欲深だったり、傲慢だったり、
ともかく嫌な奴のためには、働きたくなくて当然。
結局は、自分が、今どう生きているかということが、大切なのだと思う。
そして付け加えるに、もちろん神さまは、
災難を軽くしたり、命を助けて下さったりすることはあるが、
望みのものを、魔法のように下さることは殆ど無い。
「棚からぼた餅」を狙って、何にもしないでお願いだけしていても、
まず、何も得ることはない。
【夢は叶う】とは、成功している人から、よく聞く言葉だが、
そういう人達は、「自分の努力?」も人一倍していたり、
本当に、心から他者のために、働いていたりする。
【人智を尽くして天命を待つ】というのが、正しい人間の在り方なのだ。
そういう態度で生きている時、
本当に自力だけでない、
奇跡としか言いようの無いサポートを得る。
☆ ☆ ☆
と言うわけで、
年明けに甥っ子の御守りを熱田神宮に頂きに行ったのは、
そこが、うちの家系的にも、私の個人的にも、
大変ご縁の深い神社だから。
ですから皆さん、まず氏神様に感謝を忘れず、
より確かな、良いご縁を育てて下さいね。
生まれ育った場所に住んでいない人も心配しないで大丈夫。
今からでも、その土地の氏神さまに出向いてご挨拶し、
そののち感謝を忘れずに暮らせば、
ちゃんと氏子にして下さりお守り下さいます。
遠くの人気神社にわざわざ出向いても、
何のご利益もないということは大有りなので要注意。
そして基本的に、神社の神々は、
人の願いを叶えるために存在されているわけではないという事も、
忘れずにお願いします。
神社に参ったらまず感謝。
それだけで、実は自然に恩恵をいただけるものです。
願わずが花。
神には、その人に必要なものや事、
すべて分かっておられます。
本来は、今風にいう、パワースポットに建てられたものだと思う。
古代、人々は、大樹(森)を敬い、水(川)を敬い、お日さま(天)に感謝し祀った。
なぜなら古の人々は、
それらの恩恵なくして、自分達が生きていくことは出来ないと、
知っていたから。
災害が起きないように、十分な実りが得られるように、
穏やかに暮らせるように、
自然という神々(精霊)を敬い祀った。
そこに謙虚な畏れがあった。
だから日々の感謝の上、供物をそなえる祭りを行い、
また神(精霊)も、それに答え人々を見守り助けた。
※例えば富士には、
ある時龍神が顕われて、村人たちに噴火を知らせたため、
皆、逃げおおせて難を逃れたという話が残っている。
そして神々を祀る際に、
人と神の間に立ち、
それぞれの仲立ちを勤めたのが、
本来の神主や巫女の姿。
やがて時が過ぎ、
世に大和朝廷の王制が敷かれると、
まず王家の祖先と言われる存在が、
既存の社に神として加えられ、主祭神として祭られるようになった。
※人が死んで後、神として祭られる例は近い時代にもある。
「菅原道真」の天満宮とか「徳川家康」の東照宮などもそれにあたる。
だから、天津神と言われる、アマテラス系の神々は、
もとは、実在の王族の人達だったのだと私は思っている。
当時は普通にこの世に生きていた人間で、
死して後、神となった人々。
ここで驚くべきことは、
卵が先か、鶏が先かのような感じで、
神として祀ったから神になったのか、
もともと神的な力を持っていたから神となったのかは
謎ながら、
確かにそういう神々は、広大なパワーと共に、
現実に、この世に存在されていることだ。
※(余談になるが、それを確信したのは、
神として姿を現された、
織田信長公にお会いしたときだ。
生前、自分を神として崇めよ!みたいなことを言われていたのは知っていたが、
まさか死後、本当に神になられていたとは知らなかった。
あの時は本当に驚いた。
長くなるのでこの話は、また別の機会に詳しくしようと思う。)
さて本題に戻るが、
よって、日本の神社の神々が、
人のお願いごとを叶えるために存在されているのではないという事が、
何となく分かっていただけたかと思う。
(特に、もともとの自然霊たる精霊系の神々にとっては、願われるのは迷惑至極)
「御守り」やその他神社で買い求められる開運グッズは、
ことの始まりとしては、
祭りに使われた稲わらとか木切れ、お供えものとかを、
(神事に使われたものなので、
きっと神さまの力が、少しなりとも宿っているに違いないから、
どうかその物を持つことで、御神徳に預かれますように…)
という気持ちで、
持ち帰ったものなのでは無いかと思う。
それが、徐々に、
神社の運営や存続、
神官たちの生活費を得るためのグッズとして、
社務所で売られるようになったのではないか…?
それが私の推測だ。
もちろん御祈祷をして作られているものなので、
それらをインチキ商品呼ばわりするつもりは更々なく、
けれど、それを持っているからといって、
誰もが、御神力を受けられるという品でもないと思う。
だって「御祈祷」とは、「お願い」である。
神主さんから、神さまへのお願い…。
だから「御守り」などには、その神主さんの「お願いパワー」は宿っている。
だけれど、
お願いされた神さまが、その「お願い」をお聞き届けになるかどうかは、
神さまの御意志次第。
イヤなら無視される。
当然だよね。
まあ普通、完全無視はないと思うけど…。
だからと言って、(ここが重要だが、)
「御守り」なんて、気休めというわけではない。
ここでポイントとなって来るのが、
【ご縁】であり、【自分の在り方】なのだ。
先祖代々お世話になっている氏神さまには、
誰もがそれぞれのご縁を生まれながらに頂いている。
氏神様は氏子のことを、
大抵はちゃんと気にかけて、護って下さっている。
それから産土の神。
これは自分が生れた場所に祭られている神様のことで、
この神も、生涯に渡り、自分をサポートして下さる神となる。
そういう【ご縁】をいただいている神社の「御守り」などを持つことは、
神さまとの形ある物質的な物を通しての繋がりを持つことになり、
神さまのお力も、その物を通じて働き易くなるのである。
更に加えて、そこに【自分の在り方】も関係してくる。
これは人付き合いと似ている。
人間同士だって、
こいつイイ奴だと思えば、仲良くなったり力になったりするだろうが、
欲深だったり、傲慢だったり、
ともかく嫌な奴のためには、働きたくなくて当然。
結局は、自分が、今どう生きているかということが、大切なのだと思う。
そして付け加えるに、もちろん神さまは、
災難を軽くしたり、命を助けて下さったりすることはあるが、
望みのものを、魔法のように下さることは殆ど無い。
「棚からぼた餅」を狙って、何にもしないでお願いだけしていても、
まず、何も得ることはない。
【夢は叶う】とは、成功している人から、よく聞く言葉だが、
そういう人達は、「自分の努力?」も人一倍していたり、
本当に、心から他者のために、働いていたりする。
【人智を尽くして天命を待つ】というのが、正しい人間の在り方なのだ。
そういう態度で生きている時、
本当に自力だけでない、
奇跡としか言いようの無いサポートを得る。
☆ ☆ ☆
と言うわけで、
年明けに甥っ子の御守りを熱田神宮に頂きに行ったのは、
そこが、うちの家系的にも、私の個人的にも、
大変ご縁の深い神社だから。
ですから皆さん、まず氏神様に感謝を忘れず、
より確かな、良いご縁を育てて下さいね。
生まれ育った場所に住んでいない人も心配しないで大丈夫。
今からでも、その土地の氏神さまに出向いてご挨拶し、
そののち感謝を忘れずに暮らせば、
ちゃんと氏子にして下さりお守り下さいます。
遠くの人気神社にわざわざ出向いても、
何のご利益もないということは大有りなので要注意。
そして基本的に、神社の神々は、
人の願いを叶えるために存在されているわけではないという事も、
忘れずにお願いします。
神社に参ったらまず感謝。
それだけで、実は自然に恩恵をいただけるものです。
願わずが花。
神には、その人に必要なものや事、
すべて分かっておられます。