みなさん、【識別】と【判断】の違いって、わかる?!
どちらも似たような意味の言葉に思えるけど、
実は大きく違うもののような気がするんだな、私。
例えば
【識別】だと、ただ淡々と
「はい、これは赤ですね。そしてこれは青。」
みたいな感じのものが、
【判断】になると、
「これは赤と思われる。これは青かな…。」
みたいな感じ?!
要は、【識別】は事実を単に述べたり、
事象をそのまま認識することだったりするのに対して、
【判断】はそこに、人の意思や感情が入っている感じ。
【識別】は言わば科学者が実験の数値を実測するような、客観的なものであるのに対し、
【判断】は個人個人の経験や信念などによって基準の変わる、
極めて主観的なものであるということ?!
なんでこんなマドロッコシイことを、ちまちま言っているかとゆうと、
これが、意外に重要なことだと思うから。
【好悪】【善悪】【幸・不幸】などはみな【判断】だけど、
人によってどっちにも転ぶような不確かなものは宇宙の真実に非ず。
よってそれらは人を翻弄し、
新たなカルマ(←ここでは撒いたものを刈り取るの意)の種になることが多い。
自分の首を自分で締める結果を呼び込むこともあり、
【判断】したことで、結局は自分の苦しみを増やしているのだとも言える。
まして【判断】は【分離】に繋がり、【分離】は【愛】を遠ざける。
そして【愛】から離れるほど人は波動を落とし、どんどんと【苦悩】が友達の人生になってくる。
こんなにイイとこ無しの【判断】なのに、実は私はこれがやめられないタイプの人間で、
これまで随分苦労してきた。
長年培われた自我の癖を改めるのは本当にむつかしい。
「人生の決断するのに判断が必要ってこともあるじゃん!」
なんて息巻いたこともあった気がするけど、
そういうことじゃないんだよね。
人生の分かれ道みたいな時こそ、
冷静にこれは自分に必要か不必要か【識別】して、
【選択】したのち、【決断】すればいいわけなのだ。
そして【識別】に意思が関わるとすれば、それは自分の【魂の意思】だけだと思う。
最近やっと【判断】の癖から抜けつつある私。
そうなるために必要だったのはやっぱり【愛】だった。
それまでの私には【自己愛】が欠けていた。
自分を癒す必要があったとも言える。
その【愛】とは【聖なる母の愛】
【無条件で赦し育む愛】
よくスピリチャル本で、
『自分に優しく。自分を許して愛してください』
とか書いてあったりするけど、
自我のレベルでそれをやろうとしても、そんなの無理。
自我にそんな愛があったら、もともとこんな風になってやしない
大事なのは、宇宙の神聖で広大な愛に繋がると決めて、
その【愛】を自分のハートへ息と共に吸い込むことらしい。
イメージで構わない。
吸う息と共に、自分が聖なる愛のピンクの光で満たされると思いながら、
【私は愛です】
と言い、
息を吐く時には、愛が内から外へ広がっていくイメージで、
【私は愛します】と宣言するというワーク。(←本で読んだ)
これを1回に5分間ぐらい(もっと長くてもいいよ)続ける。
実行してみたら何だか効果あり
だったので、お試しあれ。
例えば私の場合は、
いつもなら、怒りの炎がメラメラ上がる場面でこれを試したら、
一気にバケツで水をザッと掛けられたみたいになって、
拍子抜けしたみたいな感じになった。
たまたまだったかもしれないけどね
どちらも似たような意味の言葉に思えるけど、
実は大きく違うもののような気がするんだな、私。
例えば
【識別】だと、ただ淡々と
「はい、これは赤ですね。そしてこれは青。」
みたいな感じのものが、
【判断】になると、
「これは赤と思われる。これは青かな…。」
みたいな感じ?!
要は、【識別】は事実を単に述べたり、
事象をそのまま認識することだったりするのに対して、
【判断】はそこに、人の意思や感情が入っている感じ。
【識別】は言わば科学者が実験の数値を実測するような、客観的なものであるのに対し、
【判断】は個人個人の経験や信念などによって基準の変わる、
極めて主観的なものであるということ?!
なんでこんなマドロッコシイことを、ちまちま言っているかとゆうと、
これが、意外に重要なことだと思うから。
【好悪】【善悪】【幸・不幸】などはみな【判断】だけど、
人によってどっちにも転ぶような不確かなものは宇宙の真実に非ず。
よってそれらは人を翻弄し、
新たなカルマ(←ここでは撒いたものを刈り取るの意)の種になることが多い。
自分の首を自分で締める結果を呼び込むこともあり、
【判断】したことで、結局は自分の苦しみを増やしているのだとも言える。
まして【判断】は【分離】に繋がり、【分離】は【愛】を遠ざける。
そして【愛】から離れるほど人は波動を落とし、どんどんと【苦悩】が友達の人生になってくる。
こんなにイイとこ無しの【判断】なのに、実は私はこれがやめられないタイプの人間で、
これまで随分苦労してきた。
長年培われた自我の癖を改めるのは本当にむつかしい。
「人生の決断するのに判断が必要ってこともあるじゃん!」
なんて息巻いたこともあった気がするけど、
そういうことじゃないんだよね。
人生の分かれ道みたいな時こそ、
冷静にこれは自分に必要か不必要か【識別】して、
【選択】したのち、【決断】すればいいわけなのだ。
そして【識別】に意思が関わるとすれば、それは自分の【魂の意思】だけだと思う。
最近やっと【判断】の癖から抜けつつある私。
そうなるために必要だったのはやっぱり【愛】だった。
それまでの私には【自己愛】が欠けていた。
自分を癒す必要があったとも言える。
その【愛】とは【聖なる母の愛】
【無条件で赦し育む愛】
よくスピリチャル本で、
『自分に優しく。自分を許して愛してください』
とか書いてあったりするけど、
自我のレベルでそれをやろうとしても、そんなの無理。
自我にそんな愛があったら、もともとこんな風になってやしない
大事なのは、宇宙の神聖で広大な愛に繋がると決めて、
その【愛】を自分のハートへ息と共に吸い込むことらしい。
イメージで構わない。
吸う息と共に、自分が聖なる愛のピンクの光で満たされると思いながら、
【私は愛です】
と言い、
息を吐く時には、愛が内から外へ広がっていくイメージで、
【私は愛します】と宣言するというワーク。(←本で読んだ)
これを1回に5分間ぐらい(もっと長くてもいいよ)続ける。
実行してみたら何だか効果あり
だったので、お試しあれ。
例えば私の場合は、
いつもなら、怒りの炎がメラメラ上がる場面でこれを試したら、
一気にバケツで水をザッと掛けられたみたいになって、
拍子抜けしたみたいな感じになった。
たまたまだったかもしれないけどね