新婦人大津支部

女性と子どもの幸せを願って活動する国連NGO認証団体です

ひがし昌子医師のお話し

2011-12-16 | 管理人の日記

12月10日、「いのちとくらしを守る大津市政の会」の演説会での中で ひがし昌子さんが話された内容を掲載します。管理人も体調がよくなくて参加できませんでしたが、HPで読んで大変感動しました。

東日本大震災の折 宮城県に医療支援に行かれた時の様子についての部分のみ掲載しますが全文はURLにてご覧ください。           http://change-otsu2012.com/?eid=11#sequel

(前略)  今年、3月11日の東日本大震災と福島原発事故は私の人生において大きな衝撃を与えました。発生翌日に私たちの職場から医師、薬剤師、看護師、介護士などが宮城県の被災地に支援に出向き支援を続けました。

 私自身は被災4か月後の7月に宮城県気仙沼市の市立本吉病院へ一週間、医療支援に行き、被災された住民や自ら被災しながら不眠不休で患者さんたちを守り抜いた医療従事者の実体験を聞き、心の大きな傷に触れる経験をしました。(中略)

  そこにあった生活のすべてが流された人、そこにあったすべての生活を置き去りにして避難せざるをえなかった人々、家族が離散し生活復興ができない人々。福島原発の放射線被害に怯え続ける生活をおくる人々。これらの人々の「苦」は仕方なかったことですか。なぜ住民のいのちを、健康を守れなかったのですか。たくさんの医療支援が現地に入りましたが、「何もなくなってしまった。どうやって生きていったらいいのか。死にたい」という被災者に寄り添うことはできても、救うことはできない無力感を感じました

 被災者に対して国は何をしてくれましたか。結局現地で地域住民を守るために最前線に立ったのは市町村でした。しかし、市町村合併で職員が減らされ、行政単位が広くなるなかで、住民の状況がしっかり把握できていなかったため対策が遅れた市町村もあったのが現実でした。

 大震災でも原発事故でも被害が社会的弱者に集積しました。

 私が医療支援で入った気仙沼で出あった女性はお産のため帰省していた臨月の娘さんと姑さんを津波でなくしました。いっしょに逃げたのに妊婦さんとお年寄りが逃げ遅れたのです。姑さんは行方不明のまま。娘さんは遺体で見つかりましたが、胎児が飛び出した状態でした。初孫でした。娘さんのお棺と小さな初孫のお棺を前に、婿さんと嫁ぎ先に申しわけなく土下座したそうです。深い悲しみは被災4か月たっても少しも癒えていませんでした。

 避難中や避難所で震災関連死をしたのは要介護のお年寄りでした。私たち全日本民医連の介護事業所である宮城県松島の通所介護施設「なるせの里」では利用者と職員が犠牲になりました。地域の避難所に指定されていた小学校に避難したのに避難所ごと津波にのまれたのです。職員は自分だけでなら逃げることは可能であったはずですが、利用者さんといっしょに犠牲になったのです。死に顔は前歯が折れ、最後まで歯をくいしばり利用者を守るために力をふりしぼっていたのであろうと仲間は思ったそうです。

 原発事故で避難勧告がでても、車がない、寝たきりのお年寄りと介護者は避難できませんでした。放射線の被害を将来にわたって受け続けるのは子どもたちです。放射線被害を恐れ子どもを連れて移住したいお母さんと仕事の関係で同意できないお父さんとの離婚話、家庭崩壊があとを絶ちません。

 壊滅的な被害をこうむり復興の見通しがたたないのは農業、漁業、畜産業の人々です。

 今回のような大災害時には地方自治体と行政の根本的な有り様が問われました。地域住民、特に社会的弱者のいのちとくらしを守りぬくという姿勢が行政の根幹に据えられていなければ非常事態のさいに住民のいのちもくらしも守れないのです。

 3,11を経験した日本国民は、わが地元の自治体の在り方を真剣に考えたはずです。大津にも活断層があり、隣県福井には原発があり大津まで40-80kmです。他人事ではないと思います。地域住民を原発事故から守るには脱原発の立場を県都大津市としてはっきり宣言すべきです。災害に強いまちづくりを社会的弱者の視点からすすめることが3,11後の今求められる最大の課題であると考えます。(後略)

 

  


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