今年もあと1日となってきました。スーパーも元旦から開いているのでお節料理といってもね・・・
とはいっても孫の大好きな黒豆とたたきごぼうと出し巻きは作ろうかと思い準備にかかった。
さてなんと今年は随分早く出来上がった。(味の方は食べてのお楽しみ!)
それが上の写真の保温鍋のお蔭! 黒豆も棒だらもホイホイと柔らかくなったのだ!!
亡父のレシピにはことこと弱火で二日煮るとあったが、沸騰してきた材料を保温鍋に入れておけば翌日柔らかくなっている。有難いことだ。
今年もあと1日となってきました。スーパーも元旦から開いているのでお節料理といってもね・・・
とはいっても孫の大好きな黒豆とたたきごぼうと出し巻きは作ろうかと思い準備にかかった。
さてなんと今年は随分早く出来上がった。(味の方は食べてのお楽しみ!)
それが上の写真の保温鍋のお蔭! 黒豆も棒だらもホイホイと柔らかくなったのだ!!
亡父のレシピにはことこと弱火で二日煮るとあったが、沸騰してきた材料を保温鍋に入れておけば翌日柔らかくなっている。有難いことだ。
年末の整理をしていたら新聞の切り抜きが本の間から出てきた。福島の事故以来、原子力のことを学ぼうという思いで残しておいたのです。読み返してみて一番大事なことが大きな権力の前では、ねじ伏せられて、まげられてしまっていくのだなあ・・・と感じてしまいました。怖ーい!怖ーい! でも負けたらおしまいになってしまう。子供らに未来を
1956年に「学術会議内の物理学者は「早急に特定国と動力協定を締結しようとする動きは、わが国の原子力開発の健全な発展を制限する」という声明を発表。58年には「地震、洪水はじめ天災の多いわが国の事情」を考慮した安全対策を最優先するように政府に申し入れしていたのです。
節電が言われていますが、孫の庭にイルミネーションを飾りたいという声に押されて、もともと光りものが好きな私も寒いのLEDのイルミネーションを二人で飾りました。
東北の方々への思いも込めて暗くなってから点灯
もみじの木に咲いた光。もちもちの木を連想させました。
ひがし昌子さんのツイッターへのフォローをしました。 ひがしさんの状況がよくわかります。
沢山の方々がフォロワーになってもらえますように
ひがし昌子さんのツイッターは
アルプス班で「ひがし昌子さんと語るつどい」がありました。ひがしさんの人柄を知ってもらい、自分たちの市政に対する願いを伝える機会にと20名ちかくの人が集まりました。
同じ会場で算数小組がもたれていて若いお母さん方も参加されていろいろな要求が出されました。
夜間の救急診療や中学校給食、中学の通学路の問題、地域の路線バスの運賃が高い、介護職の仕事について等々だされました。
ひがしさんからは大津市は、お金がないないと言っているがガス事業では黒字で140億くらいのお金がある。それらを使えば学校にガスを使ってのクーラーも実施でき、自校方式の給食も実施、待機者のいる老人施設も作れるなどと話されました。
やさしくてわかりやすい言葉で話されるひがしさん あたたかさが伝わってきました。
原発には きっぱりと反対と。
12月10日、「いのちとくらしを守る大津市政の会」の演説会での中で ひがし昌子さんが話された内容を掲載します。管理人も体調がよくなくて参加できませんでしたが、HPで読んで大変感動しました。
東日本大震災の折 宮城県に医療支援に行かれた時の様子についての部分のみ掲載しますが全文はURLにてご覧ください。 http://change-otsu2012.com/?eid=11#sequel
(前略) 今年、3月11日の東日本大震災と福島原発事故は私の人生において大きな衝撃を与えました。発生翌日に私たちの職場から医師、薬剤師、看護師、介護士などが宮城県の被災地に支援に出向き支援を続けました。
私自身は被災4か月後の7月に宮城県気仙沼市の市立本吉病院へ一週間、医療支援に行き、被災された住民や自ら被災しながら不眠不休で患者さんたちを守り抜いた医療従事者の実体験を聞き、心の大きな傷に触れる経験をしました。(中略)
そこにあった生活のすべてが流された人、そこにあったすべての生活を置き去りにして避難せざるをえなかった人々、家族が離散し生活復興ができない人々。福島原発の放射線被害に怯え続ける生活をおくる人々。これらの人々の「苦」は仕方なかったことですか。なぜ住民のいのちを、健康を守れなかったのですか。たくさんの医療支援が現地に入りましたが、「何もなくなってしまった。どうやって生きていったらいいのか。死にたい」という被災者に寄り添うことはできても、救うことはできない無力感を感じました。
被災者に対して国は何をしてくれましたか。結局現地で地域住民を守るために最前線に立ったのは市町村でした。しかし、市町村合併で職員が減らされ、行政単位が広くなるなかで、住民の状況がしっかり把握できていなかったため対策が遅れた市町村もあったのが現実でした。
大震災でも原発事故でも被害が社会的弱者に集積しました。
私が医療支援で入った気仙沼で出あった女性はお産のため帰省していた臨月の娘さんと姑さんを津波でなくしました。いっしょに逃げたのに妊婦さんとお年寄りが逃げ遅れたのです。姑さんは行方不明のまま。娘さんは遺体で見つかりましたが、胎児が飛び出した状態でした。初孫でした。娘さんのお棺と小さな初孫のお棺を前に、婿さんと嫁ぎ先に申しわけなく土下座したそうです。深い悲しみは被災4か月たっても少しも癒えていませんでした。
避難中や避難所で震災関連死をしたのは要介護のお年寄りでした。私たち全日本民医連の介護事業所である宮城県松島の通所介護施設「なるせの里」では利用者と職員が犠牲になりました。地域の避難所に指定されていた小学校に避難したのに避難所ごと津波にのまれたのです。職員は自分だけでなら逃げることは可能であったはずですが、利用者さんといっしょに犠牲になったのです。死に顔は前歯が折れ、最後まで歯をくいしばり利用者を守るために力をふりしぼっていたのであろうと仲間は思ったそうです。
原発事故で避難勧告がでても、車がない、寝たきりのお年寄りと介護者は避難できませんでした。放射線の被害を将来にわたって受け続けるのは子どもたちです。放射線被害を恐れ子どもを連れて移住したいお母さんと仕事の関係で同意できないお父さんとの離婚話、家庭崩壊があとを絶ちません。
壊滅的な被害をこうむり復興の見通しがたたないのは農業、漁業、畜産業の人々です。
今回のような大災害時には地方自治体と行政の根本的な有り様が問われました。地域住民、特に社会的弱者のいのちとくらしを守りぬくという姿勢が行政の根幹に据えられていなければ非常事態のさいに住民のいのちもくらしも守れないのです。
3,11を経験した日本国民は、わが地元の自治体の在り方を真剣に考えたはずです。大津にも活断層があり、隣県福井には原発があり大津まで40-80kmです。他人事ではないと思います。地域住民を原発事故から守るには脱原発の立場を県都大津市としてはっきり宣言すべきです。災害に強いまちづくりを社会的弱者の視点からすすめることが3,11後の今求められる最大の課題であると考えます。(後略)
岩間寺に先日行ってきました。
松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ・・・・」と詠まれた池だそうですが・・・
岩間寺から奥宮神社までは約15分ほどで楽に行くことができます。
神社の展望台からははるか三上山も見えてとてもきれいでした。
1月15日告示(22日投票)の大津市長選で新婦人大津支部はひがし昌子氏(医師)と政策協定を結びました。
11月27日には膳所駅前で、ひがし昌子予定候補者が「会」の街頭演で被災地で医療活動をした時の経験をもとにいのちとくらしを守る大津市をつくるために奮闘する決意を述べられました。
12月10日(土)14時30分よりピアザ淡海で演説会が開催されます。
昨日は田上学区九条の会で「原発はなぜ危ないか」の講演がありました。講師の福田先生のお話はわかりやすく、原発について私たちが殆ど知らなかったことや知らされていなかったことがよくわかりました。福島の方たちの苦しみや怒りを自分たちの事としてちゃんと受け止めることが本当に大事だと思いました。
「広島の原爆は800グラムのウランが核分裂したもので、標準的な原発1基で毎日3キログラムのウランが核分裂している。1年間で広島原爆の1000発分の核廃棄物ができ、現在80万発分の死の灰がある。これ以上死の灰を増やしてはいけない。未来のために」と話されました。
電気使用量明細のお知らせの中に電源開発促進税とか放射性廃棄物の最終処分費用の積立金とか他にもいろいろ含まれていたのですね。これ等がなかったら電気料ももっと安くなりますね~。