東日本大震災以降、福島県内における地域主導の再生可能エネルギー事業が県内各地で多様な形で立ち上がってきた。
今回は、南相馬市の「一般社団法人えこえね南相馬研究機構(以下、えこえね南相馬)」、いわき市の「いわきおてんとSUN企業組合(以下、いわきおてんとSUN)」、について、各々のたちあがりの経緯と事業の特徴、今後の展開方向について、活動の中心となった2人へのインタビュー結果をもとに概要を紹介する。
●農業とエネルギーでまちの復興
えこえね南相馬の理事長である高橋荘平氏の父親は、産婦人科の医師であった。被災後も現地に残り、動けない妊婦のことを考えて活動をしていた父親の影響を受けた高橋氏は、妊婦や線量の高い人への支援のため、放射線の測定や除染等を始めた、2011年8月に除染研究所を設立した(現在も活動を継続)。
しかし、「線量の不安の解消とともに、将来への希望が必要だ」と考え、農業と再エネ発電を一体化したソーラーシェアリングに関心を持った。当時を振り返り、「地元の高校生と話したとき、5月には田植え、9月には稲穂が実った風景が見られたのになくなってしまったと言っていた。農業を元気にしたい、農業を仕事にできるように売電と組み合わせて収入源になればと思い始めた」という。また、「浜通りは原発で働いていた人がとても多かった。原発は将来的にはなくしたほうがよい。ソーラーシェアリングを広めて地域で電力を作れれば、原発を止めてもらって構わないといえる下地づくりをしていこうと考えた。」
2012年、任意団体として、えこえね南相馬が動き出し、2013年3月に一般社団法人として登記した。国の補助事業を利用してソーラーシェアリング等の可能性調査を行い、パイロットプラントを2013年8月に設置、さらに2015年2月に1カ所、同年9月、10月に7カ所を設置し、合計8か所(合計332kW)を稼働させている。
えこえね南相馬の立ち上げメンバーは、工場長、林業の専門家、市議会議員の農家、有機農業やっている人など、震災後の繋がりで集まった10名。地域づくりへの意識が高い人だった。「地域で主導していかなければと思っていた。外から来た人が主体になると、おんぶにだっこになる。支援してもらって当然という感覚にはなりたくなかった。」という。
その後、新たな発電所を設置はしていないが、バイオガスプラント等の新たな事業の話もある。今後も、「被災をきっかけにこういうことができたとなれば、過酷な震災から学びを得て地域が進んだことになる。農業とエネルギーによる地域の再生というテーマからぶれずにやっていきたい。」という。
●自分たちでもできることを示す
いわきおてんとSUNの事務局の島村守彦氏は、クレジットカード会社に勤める転勤族だったが、赴任経験のあったいわき市が持つ懐かしい(感じがする)風景に魅力を感じ、10数年前に移住した。
大阪営業所勤務時代に阪神淡路大震災にあい、都市ガスの復旧が遅れ苦労した経験から、オール電化の時代になると確信した。オール電化事業をしている会社で現場修行を積み、独立していわきに開業した。やがて、顧客から太陽光パネルの問い合わせが増え、大熊町に多く太陽光パネルを設置していった。
東日本大震災後、太陽光発電事業のために、土地を探している東京の会社からたくさん連絡があった。「放射能をばらまかれたから安いだろう」という態度で頭に来た。売電収益はぜんぶ地域外の事業者が持っていき、地元には固定資産税の収入くらいしか入らない。「どこが復興なのか、おかしい。それならば自分たちでやろう」と考えた。
2012年、いわき市のプロジェクトが緑の分権改革に採択された。その時に集まったメンバーでいわきおてんとSUNプロジェクトを立ち上げた。市のプロジェクトでは、地域の再生に何が必要かを議論し、①耕作放棄地・農業の再生、②再エネによる再生(原発・エネルギーの問題)、③観光の再生という3つの方向を整理した。
2012年12月、太陽光パネルを設置するため、いわき市内に土地を購入し、山を伐採するところから始めた。友人の土地750坪を県の3分の1補助、地元信金で購入した。設計や事業手続きはすべて島村氏が行い、仲間と首都圏から来た被災地支援できていたボランティアが作業を担った。2013年5月25日に、30kWの発電所が設置された(後に20kWを追加)。
今後は、小さな太陽光パネルをつくり、普及啓発活動を進めていく。「作る楽しみ、使う楽しみから学んでもらい、地域に人材が生まれてくれれば」と考えている。
本稿の記述は、環境自治体会議小澤はる菜氏と共同で実施したインタビュー調査の結果に基づいている。次回は、白河市の「白河エナジー株式会社(以下、白河エナジー)」、会津若松市・喜多方市の「会津電力株式会社(以下、会津電力)」を紹介する。