醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  375号  白井一道  

2017-04-19 14:23:22 | 日記

 文章を解釈するということ

句郎 いつだったか、辻井伸行さんが弾くショパンの「幻想即興曲」を聞いてフジ子ヘミングさんのものと比べて、こんなにも同じ曲でありながら違うのと、華女さん、言っていたことあったよね。
華女 フジ子ヘミングさんの「幻想即興曲」と比べて薄っぺらく感じたのかな。そんな気がしたように思った。
句郎 「薄っぺらく」感じたというのはどういうことかな。
華女 ただそう思ったというだけで、たいした意味はないと思うけれど。テレビに出たフジ子さんがインタビューに答えて、「私は音符に色を付けて弾いている」と言っていたわ。きっと音符に色のついた演奏をフジ子さんはしているのじゃないかしらね。
句郎 「音符に色を付け」るとは、どんなことなの。
華女、知らないわ。句郎君はどう思うの。
句郎 そうだね。一つの音符にはきっと無限の表現がある。その無限にある表現の中から演奏者は自分の解釈によって一つの表現を選ぶ。「音符に色を付け」るとは、その音符にについての解釈のことを言っているのじゃないかな。
華女 そうかもしれない。だから、音符についての解釈に基づく演奏は表現であると同時にクリエイティブな行為でもあるのね。演奏は創造なんだ。
句郎 僕たちが芭蕉の言葉を理解し、解釈するということは、同時に創造的なことなのかもしれない。
華女 「おくのほそ道」を読むということは、ピアノ演奏者と同じような創造的な営みだと言うの。
句郎 それほどでもなくても、解釈するということはそのような面もあるとは思う。
華女 そうかな。とても創造的だとは思えないけど。
句郎 「ことし元禄二とせにや」と「ことし、元禄…」の違い、もともと芭蕉自筆の文には一切の句読点がない。句読点のない文に読点を打つということは解釈だと思う。読点を打つということは、読むときそこで半拍の間を空けて読む。そうした方が文意を表現できるのではないかという主張だと思う。
華女 朗読するということはピアノ演奏と同じような表現になるのね。
句郎 きっと、そうだと思うよ。徳川夢声がラジオで「宮本武蔵」を朗読しているのを昔、聞いたことがあるけれど、引き込まれてしまった。
華女 もしかしたら、芸術の域に徳川夢声の朗読は達していたのかもしれない。そんな話も聞いたように覚えているわ。
句郎 「ことし」と「元禄」の間に半拍の間を空けると「ことし」という言葉を強調することにもなる。朗読の聴衆者に「ことし」という言葉を印象付ける。そのような働きが読点にはあると思う。
華女 聴衆に「ことし」を強調すると「にや」という言葉が生きてくるということになるのかしらね。
句郎 確かにそうだと思う。「にや」の「や」に詠嘆する気持ちが出てくるように感じる。とうとう、元禄二年になっているのだなぁー、わしと曾良は奥羽への長旅に出ているのだ。ふっと思い立って出てきてしまったように感じているが、長旅の途中に今がある。この今が不思議に感じられてしかたがない、とね。