醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  447号  白井一道 

2017-07-04 18:26:00 | 日記

   芭蕉の酒句

 月花もなくて洒のむひとり哉   芭蕉
 芭蕉は絵を見ている。床の間の掛け軸の絵なのか、それとも長押(なげし)の上に掲げてある絵なのか、分からない。とにかく芭蕉は絵を見ている。長い時間、絵を見ていた芭蕉の心に俳諧が浮かぶ。絵には月もなければ、花も描かれてにいない。男がI人洒を飲んでいる。この絵を見ていて芭蕉はあばら家で独り酒を飲む自分自分を思い描いた。
 明日はかたきにくび送りせん   重五
 小三太に盃とらせひとつうたひ  芭蕉
 月は遅かれ牡丹ぬす人   社國
 41歳の秋、芭蕉は「のざらし紀行」に結実する旅をしている。その帰り、名古屋に立ち寄り、この地の俳人たちと連句の会を催している。この会につらなることが風流人であった。貴族文化を代表した連歌が芭蕉の出現によって町人の文化としての連句になっていく。17世紀末から18世紀初めにかけてのことであった。
負け戦だ。明日には討ち死にだろう。その時には私の首を敵に与えよう。武士の無念なる思いを重五は詠った。この句に対して芭蕉は主従が相睦み合い、小姓である小三太にも盃をとらせ、名残を惜しむ酒宴で一曲謳うさまを詠った。
 酒宴で一曲謳うとは、なかなか風流じゃないか。出る月は遅い方がいい。今、牡丹が満開だ。この牡丹の美しさを何としてもわがものにしたい。私は牡丹を愛でる風狂人だ。今日はこの美しい牡丹を盗んでやろう。
 厳しい身分差別があった江戸時代に主従が相睦み合ことがあったのだろうか。芭蕉は武士に近い出自であった。
芭蕉の俳諧を支えたのは武士ではなく、経済的に豊かになった町人たちだった。芭蕉は町人の仲間に入っていった。差別意識の強い人だったら自分より身分の低い人たちと一緒に机を並べ、同じ座敷に入って酒宴を共にすることはないだろう。きっと芭蕉にも強い差別意識があったことだろう。しかし、俳諧を良くする町人に対しては、差別意識を芭蕉は持たなかったのではないかと思う。優れた能力を持った人に対する心からの尊敬の念が芭蕉から差別する気持ちを奪ったように思う。まだまだ武士である。農民である。町人であることがその人の人生を決定的に決めてにいた時代におって、文芸の世界にあっては能力が意味を持つ世界だった。だから、その世界にあっては一般社会に比ぺて差別はゆるやかであった。差別がゆるやかであったがゆえに、武士に比べてより卑しい農民や町人の日常生活中に美を芭蕉は発見することができたのではないかと思う。
 武家社会では主君と臣下が同じ座敷で睦み合い、酒宴をともにすることはない。小姓の小三太と主人が酒宴で睦み合う。この世界は町人の世界である。町人の新しい人間関係の素晴らしさを芭蕉は詠っている。ここに芭蕉の新しさがある。差別されている人間関係が酒宴の場では、対等、平等な関係になって、共に酒を楽しむ。この素晴らしさを芭蕉は詠った。