加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



七尾城址 2023年

上杉謙信が長期にわたって苦戦した七尾城を訪れる機会を得ました。七尾城は石動山脈の北端に位置し、海抜300メートルの山頂にあります。JR七尾駅から古城までは南東に約4キロメートルです。

本丸跡には「七尾城祉」という石碑が建てられています。本丸跡から眺める景色は素晴らしく、『万葉集』に詠まれた夢の島として知られる能登島が目の前に広がります。遠くを見渡すと、奥能登の半島まで見ることができる絶景の地です。北陸の古戦場の標より抜粋


本丸跡から見る眺望と七尾城址碑


城下、七尾湾、能登島、能登島大橋、能登半島までが一望できる。


現在、入善町横山の沖合で進められている洋上風力発電事業のための大型の「SEP船」(全幅50メートル、全長142メートル)

 

山麓から山頂には七曲りの急坂が待ち構えており、山頂の本丸までの城域は広く、要害の地となっています。杉の木立ちの石段を登ると、遊佐氏屋敷跡や三の丸、本丸などの道標があり、当時の情景がよみがえってくるかのようです。


本丸石垣


各所に七尾城のCG画像が表示されている


九尺石を据えた温井屋敷の内枡形


温井()屋敷跡から二の丸方向を見る


二の丸跡からの眺望、能越道七尾インターが一望できるインター右側は能登国分寺跡地


「畠山義忠公歌碑」 「野も山もみなうつもるゝ雪の中しるしはかりの杉の村立 畠山修理大夫(賢良)」

 


本丸跡に置かれた案内板と眺望、下案内板一部拡大

上杉謙信の能登征討において、特に有名なのは「九月十三夜陣中作』と題する漢詩である。この詩は九月十三夜の名月を賞したものであり、七尾城陥落は九月十五日であるので、陥落前に本陣を敷いていた石動山か、一説には荒山峠で吟じたとも言われている。三州志には、“謙信七尾にして九月十三宵賞月詩あり。

霜満軍営秋気清。数行過雁月三一更。
越山併得能州景。任他家郷念遠征。

詩調優暢英雄の気象自ら超然たり。此の詩本朝詩選に載す。按ずるに此の七尾攻城の比軍営中の作なるべし。”とある。(北陸の古戦場の標より)


調度丸跡から見る桜馬場石垣、下;調度丸跡に建てられた案内板


寺屋敷跡から調度丸跡に上る階段より桜馬場方向を見る。斜面の険しさが窺える。

七尾城は広大な丘陵地に設けられた山城、畠山氏の栄華、169年の歴史をとても一日では回り切れない城です。

上記写真;2023.05.27撮影

以下;これまでの七尾城投稿記事

七尾城址 2007年

七尾城本丸石垣から城山展望台を望む
写真:七尾城本丸石垣から城山展望台を望む 2007.04.16撮影

 


霜は軍営に満ちて秋気(しゅうき)清し
数行の過雁(かがん)月三更(さんこう)
越山(えつざん)併(あわ)せ得たり能州(のうしゅう)の景
遮莫(さもあらば)あれ家郷(かきょう)遠征(えんせい)をおも憶う



七尾市街と富山湾側を隔てるように連なる石動宝達丘陵。その北端に位置する七尾山に築城された典型的な山岳城だ。

七尾城址案内板七尾城址七尾城址本丸跡


七尾の歴史と文化より
七尾城の城砦
 七尾城は、戦国大名であった畠山氏が築いた山城で、戦国時代、能登の政治・文化の拠点として機能した。その特徴は、天然の要害地形を巧みに利用した設計(縄張)と、山上に築かれた大規模な石垣である。
 本丸は標高約三〇〇㍍の山上にあり城主や重臣の屋敷や兵糧倉や武器庫など、城の重要施設が置かれた場所である。この本丸からは、山麓の城下町をはじめ七尾湾の浦々が一望され、周囲には、野面積みの石垣で築かれた桜馬場や調度丸、深い空堀で区切られた二の丸、三の丸などの郭群が並び、樋ノ水などの水場も位置する。
 さらに城下町へと広がる尾根は「七つ尾」と総称され、七尾の地名の由来となり、家臣の侍や兵が守りに就いた砦が、幾重にも配置されている砦の構えは、大小の平坦地に防塁や堀切を設けたものである。
 天正五年(一五七七)、七尾城を攻略した上杉謙信は、本丸に立ち、「聞きしに及び候より名地、賀・越・能の金目(かなめ)の地形といい、要害山海に相応し海頬島々の休までも、絵像に写し難き景勝までに候」 (「上杉謙信書状写」歴代古案)と書き伝えている。
 天正九年一〇月、織田信長から能登一国を与えられた前田利家は、翌年一月から府中の港に隣接した小丸山に築城を始め、山城である七尾城を廃城とした。それは能登に戦国時代の終わりを告げる出来事であった。(垣内光次郎)

漢詩 九月十三夜
 霜は軍営に満ちて秋気清し・・・・・・は上杉謙信が能登七尾城に攻め入ったとき、陥落間近の天正5年9月13日、諸将と供に石動山大宮坊で名月を眺め詠じた詩とされる。


 このとき、謙信が本陣としていたとされる石動山大宮坊、最近再建され拝観できるようになっている。
石動山大宮坊

 現在七尾城に残る遺構は苔むした石垣のみで、静まり返った杉木立ちの中を歩くと寂しさを感じる。
 本丸跡地櫓台跡地には畠山末裔が建立した神社がある。ここ本丸跡からは七尾市街、七尾湾・能登島そしてはるか能登半島を望むことができる。
七尾城本丸跡に建つ神社七尾城本丸跡より七尾方面を望む
写真:2007.4.16撮影 天候小雨

 

 シーサイドラインの黒崎町の民家を抜けて約10kmの林道をを走ると城山展望台に着くことが出来る。七尾市街地側から登るのがポピュラーだがこのルートはあまり知られていない。
 全線舗装はされているが所々段差が出来ていたりして要注意だ。紅葉も終わり落ち葉が道路を覆い落ち葉の絨毯のようになっている。
 360度を見渡す展望台から少し下ると七尾城跡につくこんな季節に登ってくる人はさすがにいない。一昨年前の地震で崩壊した石垣の修繕もきれいに終わっている。
 今年は、能登畠山家創立六〇〇年ということで8月から10月にかけて様々なイベントが開催された。

七尾市の制作した七尾城跡の案内には謙信も絶賛 戦国の巨大山城とサブタイトルが附けられている。(以下引用)


謙信も絶賛 戦国の巨大山城


史跡 七尾城


 七尾城は、室町幕府の将軍を補佐する管領職を勤めた畠山氏の有力庶流として応永一五年(一四○ハ)に独立した能登護畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(一六世紀初頃)に能登府中にかわる新たな拠点として築いた山城です。
 七尾城は、標高約三〇〇メートルの山頂部に所在する本丸を中心として、北側の山麓まで延びる尾根一帯を不規模に造成し、多数の曲輪(屋敷地)を築いていることが特徴で、その規模と構造は国内でも屈指とみられています。七尾の地名は、こうした七尾城が築かれている尾根が7つあることに由来すると言われております。
 また、七尾城の麓には京都の禅僧が天文一三年(一五四四)に記した『独楽亭記』にみる千門万戸の活況呈する城下「七尾」が連続して形成されていたことが明らかにされ、山上の山城と山下の城下が一体となる北陸を代表する戦国都市であったことも確認されています。国宝「松林歯屏風」を描き、画聖とうたわれた長谷川等伯は、天文ハ年(一五三九)に京風の畠山文化が開花する七尾に生まれ、その才能を育んでいます。
 平成一八年四月には、県内では金沢城とともに「日本100名城」に選ばれています。

  • 国指定史跡:昭和9年(1934)12月28日指定(大2398号)
  • 所在地:石川県七尾古府町、古屋敷町、竹町入会地字大塚14番1・2・4、15番の2




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