カメラを片手に

天武天皇即位1350年、万葉集で額田王との三角関係は

快晴の朝、放射冷却で氷点下1.3℃迄冷え込んだ奈良、11時前には9℃を越え、
風もほとんどなくサンルームからの暖気で、午前中からこっくりとする始末。
というのも一種間ほど前から、目がかゆく鼻水も出始め、我慢できなく花粉症
薬を服薬したためで、よけいに眠くなるのでしょう。
なお最高気温は午後3時過ぎの14.2℃、暖かくなれば増える今年のスギ花粉、
飛散量が近畿では5倍以上とされ、4月のヒノキが終わるまで大変かも!!
      14時、13.0℃、37%

さてNHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はアヤメ科の「クロッカス」、
地中海沿岸に約80種類が分布する球根植物で、直径4cmほどの小さな球根は、
秋に植えると早春に紫や白、黄色の花を咲かせてくれます。
別名はハナサフランやハルサフランと呼ばれ、園芸的には、春咲きの観賞用
を「クロッカス」、秋咲きで食用のものを「サフラン」というらしい。 
花言葉は、古くから春の訪れを告げる花とされ、春が青春と結びつき、
青春の喜び」、また春の暖かくなる時期が待ち望む様に「切望」とも。
 2016.3.22バーデンバーデンにて


1350年前、673年の今日2月27日(新暦3月20日)、「大海人皇子」が飛鳥浄御原
で即位し、第40代天皇「天武天皇」に即位された日です。
      

天智10年(671年)秋に天智天皇に召され、陰謀のあることを知った大海人皇子
は兄の病気全快を祈るため出家して吉野に下ると回答
      

吉野での隠遁生活で大海人皇子は万葉集 第一巻 25番に
『み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける 
 その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 
 思ひつつぞ来し その山道を』             第1巻25番

『み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ 
 その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 
 思ひつつぞ来る その山道を』             第1巻26番

『淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見』巻1,27番

よく吉野が出て・・・当時の心境が・・・

671年末に兄・38代天智天皇が亡くなる。
       
672年に「壬申の乱」大海人皇子が天智天皇の第一王子・大友皇子
    (39代弘文天皇)を破り、弘文天皇は自害された。
673年に40代天武天皇として飛鳥浄御原で即位する。
684年に八色(やくさ)の姓(かばね)を制定。
685年に冠位四十八階を制定。
天皇権力の安定強化し、律令制支配の完成を目ざされた。

万葉集に詠まれた歌は6首(4首とも)、同母兄弟による「額田王」争い
三角関係という悲劇的な事件を万葉集から
なお弟「天武天皇・大海人皇子」は、10台で娘の十市皇女を生む。
    後に十市皇女は天智天皇の皇太子・大友皇子の妻となる。

額田王は万葉集第一巻、20番で
茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
訳)紫の野、兄の天智天皇の御領地の野で、あぁ、あなたはそんなに袖を
  振ってくださるの、野守が見るかもしれませんよ。
 
大海人皇子は、第一巻 21番
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも』 第1巻21番
訳)紫のように美しい君、君を憎く思うのなら、人妻なのにどうして
  こんなに想うものでしょうか。
 
上野正彦先生によれば、668年頃詠まれていると類推されており、
額田王は38歳、大海人皇子は36歳 天智天皇43歳
この年齢での恋愛感情は??、
20年前の三角関係の懐かしがっていたのではという意見も
     
額田王は兄・天智天皇(近江天皇)には
君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く』 第四巻 488番
 「 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹 」
 「 君待 吾戀居者 我屋戸乃 簾動 秋風吹 」          第八巻 4606番
訳)大君のお出ましを待って わたしが恋い慕っておりますと 
  わが家のとのすだれをうごかして 秋に風がふいております    

   *万葉集で七夕伝説(秋風=人を待つ思い風)を背景とするが、
    壬申の乱迄の初期万葉集でははあり得ない発想と言われており
    額田王が天智天皇に召されたという説は否定的と考えられている
                               
額田王が672年6月に、天智天皇の殯宮を退出するときの歌で、
宮廷生活の最後の歌となっている。
『やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも
 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 
 ももしきの 大宮人は 行き別れなむ』       第二巻 155番
  *あまりにも形式過ぎて額田王にしてはとの意見も・・・
  *額田王は大海人皇子と10台で関係し、その後天智天皇に召されている。
   たが后の立場ではなかったため
  *天智天皇葬送歌九首の殆どを詠んでいるという意見も 

この三角関係はどのように思われますでしょうか???

壬申の乱以降、40齢を越えた額田王、消息はほぼ消えているようです。
齢を重ねられたせいでしょうか?
それとも天武天皇のお嫁さんは鸕野皇女で、後の第41代「持統天皇」
嫁さんが怖かったのかもしれませんね。

最後に天武天皇が詠まれた歌、残り二首を
『我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後』 第一巻103番

『み吉野の御金が岳に間なくぞ雨は降るといふ.......(長歌) 』 第八巻 3293番

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