最低気温は8.4℃と平年よりも暖かく朝、放射冷却霧が重く垂れこめており、
9時半ごろにやっと霧も取れ、晴れ間も見えるも昼前から早くも雲が覆い始め
これから西から低気圧を伴う前線の通過により、明日は雨模様になるようだ。
13時、17.1℃、60%
今日11月22日、1988年に制定された 「いい夫婦の日」が有名ですが、1999年
に大工建築技能士会が「大工さんの日」に制定しており、理由はといえば、
11月が「技能尊重月間」、「十一」を組み合わせると「士」となり「建築士」
に相応しく、さらに22日は大工の神様の聖徳太子の命日(622年2月22日)から。
さらに「11二二」の組み合わせで11はニ本の柱、ニは土台と梁や桁を表して
軸組合の構造体となり、この11月22日が大工との関係が密接になるからと。
笠置寺②は修行場巡り
一周約800mの修行場があり、正月堂の脇から「千手窟」「伝虚空蔵摩崖仏」「胎内くぐり」「太鼓石」「ゆるぎ石」「平等石」「蟻の戸わたり」
「二の丸跡」「貝吹岩」「宝蔵房跡(もみじ公園)」「行在所」「大師堂」と
45分ほどで巡ることができる。
正月堂の手前から下りれば、前方にパワースポットの「千手窟」が・・・
千手窟は古くは「笠置の龍穴」と呼ばれ、社には龍神が祀られる。縁起には
東大寺の大仏建立時には良弁和尚が千手の秘法を行い、事業を完成された。
「751年東大寺実忠和尚、ここより未来仏・弥勒菩薩の住す兜率天に
至り天乗の行ずる修法を伝授され、人間界に移した」と。
実忠和尚が東大寺二月堂を建立して十一面観音の宝前においてこの行法、悔過行(お水取り)で悔過され、以後現在まで続く行法になります。
直ぐ右側の12m巨岩に9mの「伝虚空蔵摩崖仏」が描かれている。
かつて薬師石、文殊石、虚空蔵石、両界曼荼羅石などが刻まれていたが、兵火
でほとんどが失われ、当初の姿を残すのは虚空蔵摩崖仏だけです。
なお虚空蔵とは「際限なく入る蔵」のことで、作成年次は奈良時代とも平安時
代ともいわれ、さらに図像学的にも諸説あるようです。
さらに下れば、
「胎内くぐり」、ここからが修行のはじまりになる、心身を浄める代わりに
石の洞窟をくぐり生まれ変わる=再生し、身も心も清らかになると。
「太鼓石」、上から覆う意思に窪みがあり、縁をたたけば鼓のような音が
ここから急登です。
「ゆるぎ石」、右端の尖った部分下を押せば、一人でも「ゴトゴト」と動く
もとは元弘の乱で、攻め上る幕府軍に天皇方がお歳対話の残りと伝わる。
ここから木津川上流が見渡せます。関西本線を行く列車が・・・
北側の風景です。
「平等石」、上れば雲海スポットですが・・・
古くは「行道石」と呼ばれ、石のトンネルを通り岩の周りを巡っていたが、
安全のためショートカットされている
「蟻の戸わたり」
「二の丸跡」には四阿がおかれており、左側が山頂部です。
道はやや下りになり、下にもみじ公園を見ながら「貝吹岩」へ向かう。
「貝吹き岩」は元弘の乱の最中、合図や戦意高揚のためほら貝が吹かれたと
遠く生駒の山を望み、早朝の雲海、夕日も楽しめると
「宝蔵房跡(もみじ公園)」へ下る。
元弘戦600年を記念して約80本のもみじが植樹され、午後5時から9時迄
夜間ライトアップもされていると。
*すみませんが「もみじ公園」の様子は次回に
もみじ公園から上れば、「行在所跡」と下山路の別れにつく。
石段を上れば・・・
元弘の戦乱の中、後醍醐天皇がおられた場所は定かではないが、1900年に
笠置山元弘彰趾会によって整備されている。
元弘の乱は、元弘元年(1331年)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇が
御所を脱出されて笠置山に篭り挙兵された。
しかし笠置山は同年9月に落城、後醍醐天皇は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ
流罪になる。
右横には歌碑がある。
さて柵の内部に横から入る。
頂上289m、山岳会のプレートが木に掛けられている
石段を下り、下山道へ行けば、あっという間に「大師堂」に。
毘沙門堂や稲荷大明神への道が・・・右に折れて山門へと戻る。