カメラを片手に

柳生陣屋跡へ

今朝の3.0℃と寒中にしては温かな朝、薄曇りから陽の光が差し込みますが、
最高気温は10.7℃と平年よりも高いが、夜半からの雨の後の寒波は例年の
寒中の寒さに戻りそうで、体調管理に気を付けなければ・・・。
      13時

23日雨の中「柳生歴史講座」受講のため柳生陣屋跡近くの「柳生公民館」へ
道中の阪原から見る古くからの旧柳生街道の阪原峠(かえりばさ峠)です。

この辺りは10月中頃、白砂川をはさむ「阪原のコスモス祭」のエリアで、
コスモス畑の中の小さな林に「北出摩崖仏」があり、コスモスに囲まれる。
      2018.10.17

柳生陣屋跡は打滝川の傍の小高い丘にあり、正木坂を昇ると、その入り口の
自然石に彫られた地蔵さま、頬が脹れた様子から「歯痛地蔵」と呼ばれる。
こんな話が伝わる。
”財力と才知に富む阪原の庄屋・斎藤甚造を恐れた柳生藩主が無実の罪を着せ
て処刑したと伝わる。
その際甚蔵は「三年の間に柳生を灰にする」と言って死んだそうな。
藩主は恐れて毎夜警戒したが、三年後最後の晩に陣屋は火事となり灰に。
藩主は恐れて供養のため彫られたそうな”


旧柳生藩陣屋跡はやはり火災で全焼している。
寛永14年(1642年)に柳生宗矩が3年かけて建てられた柳生藩の陣屋は、
「柳生藩日記」によると、その坪数は1374坪(454㎡)表は竹の枝門から成る。
その後宗冬に増築整備されたが、延亨4年(1747年)の火災により全焼したと。
仮建築のまま明治の廃藩置県により姿を消した。
      
昭和55年(1980年)6月に史跡公園として整備されている。
玄関付近を



柳生公民館から陣屋跡を眺めれば・・・
柳生石舟斎、柳生十兵衛になりきるのもよいかも


ここから東を見れば、打滝川越えに立つ『正木剣禅道場』と左側に一部
芳徳寺(柳生家の菩提寺・お墓も)が見える。


元は下にあった『正木坂剣禅道場』、柳生十兵衛が延べ約一万人ともされる
弟子を鍛えた正木坂道場の名を受け継ぎ、柳生新陰流の精神『剣禅一如』を
伝えるため、昭和40年興福寺別当一乗条院にあった奈良地方裁判所の屋根
部分と柱を移築し、正面入口は京都所司代の玄関口を移設された道場です。


かつては剣道八段を取ろうとすると、一度はここで研修する必要があったと
コロナ前はオランダから合宿される方もおられたそうで、寝る場所は、
道場周りの畳敷きに布団を敷いて休まれると。

そしてさらに南東側に「鬼滅の刃」で有名になった『一刀石』がある。
コロナ禍でも一万台以上の車がやってきて、コスプレイヤーで賑わったと
だがHNK大河ドラマ「春の坂道」はもっと多かったと述べられていた。
早く新型コロナが収束してくれないと、鬼滅の刃の盛りが過ぎるのに・・・。

                          2019.5.23一刀石

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