10.三星城跡 下見登山 2022.10.19
① 美作・三星城(みつぼし-じょう)は、岡山県美作市にある山城での標高は233m、比高は150mです。
三星山全山が天然の要塞であり、三つの峰をもつ山城となっています。
最初の築城は古く、応保年間(1161年~1163年)に渡辺長寛が詰の城として築いたとされています。
1200年、美作守護の梶原景時が鎌倉幕府から追われて自刃すると、渡辺長寛の子である渡辺長信も殉死して、渡辺氏は没落したようです。
② その後、三星城主としては、南北朝時代に赤松家に臣従した美作後藤氏の後藤下野守が塩湯郷地頭職となっており、以後200年間、本拠とします。
後藤勝基(ごとう-かつもと)は、1538年?に後藤勝国の子として生まれました。
月山富田城の尼子晴久に従いましたが、尼子氏の勢力が衰え、備中・高松城の三村家親が台頭すると、1560年頃に、備前・高天神城の浦上宗景に接近したようです。
1561年、後藤勝基(後藤勝元)が21歳のとき、浦上家の重臣・宇喜多直家の娘・千代を妻に迎えました。
そして、後藤勝基は倉敷城の江見久盛を攻めたり、1562年には浦上勢を率いて津山城方面への進出も目論んでいます。
美作を狙う三村家親は、1563年に三星城を攻めていますが、浦上家の援軍もあり撃退しました。
以後は、美作の東側統一を行い、安東、江見、小坂田などを配下に加え、全盛期を築きました。
③ しかし、浦上宗景と対立し1571年には毛利毛と同盟したため、浦上宗景の攻撃を受けて三星城にて籠城しています。
翌年に毛利氏と浦上氏が和睦したことで、救われましたが、この頃から子の後藤与四郎(後藤元政)が、文書を発給するようになっているため、後藤勝基は隠居したものと推測されます。
天正3年(1575年)頃、宇喜多直家が主君である浦上宗景の備中・天神山城を攻めて滅亡させたため、美作は宇喜多勢の侵攻を受けるようになります。
そのため、後藤勝元は主君を裏切った宇喜多家に反発する旧浦上家臣を取り込み、周匝茶臼山城主・笹部勘二郎や、美作鷲山城主の星賀光重らと共同して対抗しました。
しかし、天正7年(1579年)、宇喜多勢の花房職之は延原景能(のぶはら-かげよし)らと大軍にて茶臼山城を陥落させ、その勢いにて、飯岡城(鷺山城)の星賀光重も攻略して、3月には三星城が包囲するに至ります。
宇喜多勢は、まず支城の倉掛山を目指しました。
三星城にいた後藤家の家臣である安藤相馬、難波利介、柳澤太郎兵衛らは、倉掛山に大軍が押し寄せていることを知り、軍議を開きます。
そして、倉掛山に向かっている宇喜多勢を、前と後ろから挟み撃ちする作戦を立てました。
まず、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行の4人を派遣して、荒木田村深山に潜伏させ宇喜多勢を迎え撃ちました。
この結果、延原景光の郎党17騎を討ち取り、後藤久元は延原景光に深手を負わせています。
そのため、宇喜多勢は位田村鳥貝山まで退き、後藤勢は大勝利を収めました。
しかし、宇喜多勢は諦めておらず、鳥貝山まで退いてからすぐに、手薄になっていた三星城を奇襲したため、4人は三星城へ戻って宇喜多勢を退けています。
宇喜多勢は鳥貝山まで退却すると、延原景光と和田助四郎は相談して鳥貝山を「勝間」と名を改めて籠城します。
そして、宇喜多直家のもとから西尾文五郎が加勢し、延原景光は湯郷村長光寺の住職を味方につけて、後藤家の家臣への調略を依頼しました。
こうして、住職と親しかった安藤相馬が内応に応じます。
延原景光は、5月に大軍にて再び三星城を攻めると、ついに安東相馬が城内より火を掛けたため、三星城の西の丸を130騎で守っていた難波利介と柳澤太郎部衛は、城から退却して荒木田へと退きました。
しかし、宇喜多勢に追撃されて両名は自刃しています。
柳澤太郎部衛は83歳、難波利介は47歳だったとされます。
そして、後藤勝基は、これまで着いてきてくれた家来に礼を述べ、居郷へ引き揚げるよう申渡すと、城から落ち延びました。
このとき、郎党ら27騎が従ったと言いますが、入田中山村の辺りで宇喜多勢の大軍と戦い、なお落ち延びると長内村の隠坂まで来たところで、長内村・大庵寺にて自刃しています。享年42と言われます。
現在の後藤神社の本殿の辺りが自刃の地とされます。
子の後藤元政は母・千代とともに毛利勢の岩尾山城を目指するも、後藤勝基が自害したとの報せを聞いて命を絶ったとも、燃え上がる城の中で自害したとも討ち取られたなど諸説あります。
なお、裏切った安藤相馬の首は、後藤勝基の妻・千代が、城内にて討ち取ったとも言う逸話もあります。
別説ではすでに後藤勝基は亡くなっており、子の後藤元政が自刃したとの話や、落城したのは1580年だと言う説もあり、とにかく、諸説あります。
また、日にちは不明ですが、備中・林野城の江見久盛も共に落城しています。
後年、後藤勝基の墓(五輪塔)が三星城跡の麓に建立されています。
④ さて、姫路城主・黒田官兵衛に仕えた、猛将に後藤基次(後藤又兵衛)がいます。
後藤又兵衛の父は、三木城主・別所長治の家臣である後藤基国(ごとう-もとくに)とされます。
美作後藤氏も通字として「基」の字を使用していますので、同族と言えるでしょう。
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