こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

惑星シェイクスピア-第三部【13】-

2024年10月22日 | 惑星シェイクスピア。

 今回は特に何か言い訳事項もない気がすることから(たぶん)、【11】に続いて、ハンセン病のことについての文章を引用させていただこうと思いましたm(_ _)m

 

 >>聖書とハンセン病。

 イエス・キリストの時代以降、新約聖書の記録された時代である紀元一世紀後半から二世紀前半には、この病気はすでに地中海東岸一帯に存在していたと考えられます。つまり、現在の学問研究の成果から見ると、新約聖書時代は間違いなさそうですが、それ以前の旧約聖書の時代に、果たしてハンセン病が聖書の世界、つまりパレスチナの地域に存在したかどうかは疑問だということになります。なぜこんなことを問題にするかというと、聖書にしばしば「らい病」「レプラ」「ハンセン病」という言葉が現われますが、それが現在の私たちの意味する、レプラ菌によって生ずる真正のハンセン病かどうかが疑わしいという、ここでも先の「痛風」の診断と同じ問題があるからです。

【中略】

 新約聖書の原語のギリシア語では、ツァーラアトのことをレプラと言いましたので、旧約聖書をギリシア語に訳すときに、訳者たちは旧約聖書中のツァーラアトをすべてレプラと訳して統一を図りました。前に述べたように、新約聖書時代になってハンセン病はパレスチナ地方に侵入してきましたが、このとき古代のギリシア医学では、新参物の病気、ハンセン病を古代からの病気であるツァーラアト=レプラと区別して、エレファンティアシス(象皮病)と呼びました。現代でも象皮病という病気はありますが、これはハンセン病とはまったく異なる、ある種の寄生虫による病気です。ところがこのツァーラアトとエレファンティアシスという二種類の病気は、皮膚に現われる症状などがたいへんよく似通っていたために、いつの間にか混同されるようになっていきます。決定的だったのが、紀元二世紀に現われた大医学者ガレノスの分類で、彼は象皮病のある一部の種類を「レプラ」と呼びました。中世を通じてヨーロッパ医学界に君臨した大学者です。あのガレノスの言うことならというわけで、それ以後の医学者も一般市民も、真正のハンセン病ばかりか、そうでない、象皮病を含めたそのほかの皮膚病もすべてひっくるめて、レプラ=ハンセン病と呼ぶようになってしまったらしい、というところが現在の専門家の研究結果です。

 ガレノス一人の責任にするわけにはいきませんが、それからのハンセン病は、キリスト教世界では忌み嫌われる病気の代名詞となっていきます。ちょうど、古代から中世を通じて、人々を死に至らしめた強力な疫病を、すべてペストという名前で呼んだのと同じような現象が、このハンセン病にも起こったのです。

 まとめておきましょう。

①ツァーラアト=レプラ――斑紋・かさぶた・あざ・しみなどの、一般的な皮膚の症状群の総称であり、宗教的・祭儀的な意味合いの強い病気である。現在のハンセン病とはまったく違う病気である。

②エレファンティアシス――真正のハンセン病。現代の分類では、象皮病はハンセン病とはまったく違う病気である。

 

(「面白医話Ⅱ~イタリア社会医療文化誌紀行~」澤田祐介先生著/荘道社より)

 

 澤田祐介先生著のこの本の中に、ハンセン病に関しての興味深い文章が他にもあるのですが、とりあえず今回は聖書と関連した中で「なるほど。それで誤解がさらに広まった」ということなんだ……という部分について、特に引用させていただきましたm(_ _)m

 

 他にわたし、ダミアン神父のことにも少し触れたかったのですが、それはまた前文のほうにもう少し文章を使える時にでも、と思います(^^;)

 

 それではまた~!!

 

 

       惑星シェイクスピア-第三部【13】-

 

「すまなかった……赦してくれ、我が息子よ!!」

 

 リッカルド・リア=リヴェリオンは、自分の死期が近いと悟った数日前に、息子たちや家族や親戚、それに家臣らを呼び寄せると、正式に長男リッカルロをこの国の王として指名し、自分の前で彼ら全員に膝を屈ませ、「我が息子、リッカルロに忠誠を誓え」と命じていたのであった。

 

「ふふ……ふっ。ハーハッハッ!!マクヴェスと奴の一党の顔を見たか?ハハハッ!!どうにかなんでもない顔をしようと必死であったように儂には見えたぞ。フハハハッ!!まったくざまあみろだ」

 

 家臣らを下がらせると、一番信用している執事(セネシャル)のヘラルド・ブルタニクスと弁護士であるスナレイト・オールヴァイン卿、それにリッカルロの三人だけを呼び、リッカルドはそのように本音を吐露していた。言うなれば、この三人にであれば、自分のどのような本音を洩らそうとも安心だというわけだった。

 

 医師のサヴォイア・ルクタニスもその場にいたが、王の眠るベッドの脇に控えるような形によってだった。リッカルロは、この医師の口より、父親が重い肺水腫であると聞かされていた。「言うなれば、陸で溺れる魚にも近い病状と言えましょう。肺に水が溜まっているため、横になっていても苦しく、短い間しか睡眠をお取りになれません。かといって、起きれば起きたで咳つくばかりという状態であられますから……もし王が、そうした病気にお怒りになるあまり、気短かなことを口にされましても、病人の言うこととして寛大にお許しになってくだされませ」と、そうしたことであった。

 

 三歳の頃、その口の裂けた容貌の醜さから、この父親の直接の命令により命を奪われそうになったリッカルロであったが、父王リッカルドとの関係は、彼の晩年において劇的に回復していたと言って良かっただろう。特にオールバニー公爵の領地と爵位を継ぎ、その領民に慕われる政治を行うのみならず、彼が婚約しようという時、相手の女性が娼婦上がりらしいといった噂もあったというのに――リッカルドは将来王の世継ぎを生む娘と会いたいと所望し、一目見るなりレイラ・ハクスレイのことがすっかり気に入ったようだったのである。

 

 ハクスレイ侯爵家の没落とその後の生活については、リッカルドも一通り調べさせたらしいのだが、リッカルロがあれこれ画策するまでもなく、リッカルド自身が王の名において、レイラの叔父に十分すぎるほどの金を贈り、侯爵家としての名誉を回復させたわけである。このことは、リッカルロにとっても非常に有難いことだったから、素直に自分の父に礼を述べ、深々と頭を下げていたわけだった。

 

 大体、この日を境にして、リッカルドは長男リッカルロに王位を引き継ぐ準備を具体的にしだしたのだと言える。正確には、リッカルロが西王朝のバロン城塞攻略において、実に勇ましい戦いぶりをしたとの報告を受けてから――リッカルドは一度は疎んじたリッカルロのことを自分の後継者にしようと心密かに決意したわけであった。だが、このふたりの親子の間には冥府にあるというステュクス川にも等しい隔たりがあったことから、リッカルドは息子との心の距離をどう縮めたら良いものかわからずにいたわけである。万一自分に何かのことがあれば、次の王はリッカルロにせよと、正式な遺言のほうは弁護士のオールヴァイン卿に書類を作らせてあったため……自分の死後にその真意を息子が知るということでもいいと、そのように考えてもいた。

 

 だが、リッカルロの婚約と同時に、この親子は急激に心の距離を縮めていたわけである。もっとも、リッカルロにはわかっていた。自分の異母弟のエドガーやエドマンドに王位を継がせるということは、それはほぼ、自分の死後にマクヴェス卿の天下となることを意味しており、そこでずっと疎んじてきた長男のことが「口が裂けていても、まあいいか」とばかり、突然その心に思い出されてきたのだろうということは……。

 

 リッカルドの病状が一段と悪くなり、「おまえのことを正式に王として任命するつもりだ。そのつもりでいてくれ」と、苦しい息遣いの間からそう聞かされた時――リッカルロがまず真っ先にしたことは、実は継母であるメアリー・マライア・マクヴェスと会って話をするということだった。正直、自分の父親の本意がわからぬのと同じくらい、リッカルロにはこの継母が本当は何をどんなふうに考え、宮廷暮らしを送っているのか、まったくわかってはいなかったと言える。会えばいつでも善良そうに微笑み、義理の息子の健康や暮らしぶりについて心配だといったことを口にするのだが、リッカルロ自身は『本当にそんなこと、思ってるんですか?』と、冷たい一瞥により、この継母とはずっと距離を取り続けてきたわけである。

 

「俺は……本当のことを知りたいんですよ」と、その日、義理の母の前で、リッカルロは初めて彼女の本音を聞きだすべくそう迫った。「あなたが、エドガーかエドマンドのどちらかを王位に就けたいということなら、それでいいんです。いや、むしろそう思うのが当然でしょうし、さらに言えば、もし貴女にその意向がなかったとしても……マクヴェス侯爵の意向はそうではないでしょう。俺は仮に自分が親父の跡を継ぐことになったとしても、弟たちのことを自分から遠ざけようとか、そんなふうには考えていません。それは、貴女に対してもそうです。何分、宮廷暮らしというのは何かと気苦労の多いものですからね……俺は、貴女や弟たちがもっとも望む通りの暮らしをしてもらいたいと思っているという、ただそれだけなんです」

 

 メアリー・マライアは、若かった頃よりは当然顔の小皺も増え、多少老いていたものの……妖精のような可愛らしさについては変わらず存在していた。とはいえそれは、妖精の世界にいた者が人間の世界で肉体を持つようになり、愛ゆえに人間の男を愛すようになったが、その後不幸に打ち捨てられた――といった印象を持つものでもあった。

 

「ふふっ、わたくしの本音なんて聞いて、どうなりますの?」メアリー・マライア王妃は、寂し気に微笑んだ。「王宮なんてものにはおよそ、本当のことなんてありません。あるものは虚飾、ただそれだけですわ。金メッキで塗られた王冠……そんなものでも、あれこそ本物の黄金の宝冠よと貴族たちが褒めそやせば、それは本物の権威と力を帯びるようになるのです。逆に、本物の純金で出来た、ダイヤモンドの嵌まった王冠でも――あれは金メッキと偽のダイヤで出来ていると身分のある人々が言えば、それは価値なきものとして荒野にでも打ち捨てられるのです。リッカルロ王子、あなたには信じてもらえなくても、わたくしはあなたのことを継母としていつでも心に掛けてきました。でもそれは、いつかもしあなたが王位を継ぐということになったあとの、自分や息子たちの保身のためじゃありません……わたくしの望みですか?それは、どこか田舎にでも引っ込んで、可愛い息子たちとのんびり暮らすということです。随分前から、そんなことがわたくしの心からの望みでした。ですから、いいのですよ、リッカルロ王子。父のマクヴェス侯は今後とも、あなたの継いだ王宮てはマムシの侯爵以外の何ものでもありえないでしょう。もしこのマムシを宮廷から取り除きたいとあなたが思し召して、そのためにわたくしや弟のエドガーやエドマンドの存在が邪魔だということであれば、どこか遠い地にでも追放の身になさってください。ただ、あの子たちの命だけは取らないと、そう約束さえしてくださったら、わたくしにはそれで充分なのですから……」

 

「いえ、義母上、俺は決してそのような……」

 

 王妃の私室にて、この時彼らはふたりきりだった。正確には女官が控えていて、会話のほうはすべて筒抜けだろう。だが、豪華なしつらえのソファに精緻な刺繍のクッション、大理石の暖炉にその上に飾られたリッカルロを除いた家族四人の幸せそうな肖像画を前にしていてさえ……メアリー・マライアの王妃としての暮らしが、決して幸せなばかりでなかったろうことは、リッカルロは重々承知しているつもりだった。

 

「エドガーとエドマンドが、俺の顔のことについて一度として何も言ったことがないのを、俺はよく知っています」リッカルロは『毒など入っていませんよ』として出された紅茶に、初めて口をつけてから、話を続けた。「そういうことっていうのは、もし仮に親が『人を見た目で決めつけてはいけません』だのと、説教して聞かせてもまるで無駄でね……経験的に、俺はそのことをよく知っています。けれど、あの子たちはおそらく親父のではなく、あなたの優しい性格をそのまま受け継いだんでしょう。初めて会った時、競うようにして俺に話しかけてきた時のことを、俺は今もよく覚えています……エドガーのほうが、エドマンドよりも一足先に俺に追いついて、『初めてお目にかかります、兄上』と言って、キスしてきたんです。エドマンドがそのことを怒って、『自分も』としつこく言うので、やはり頬にキスさせてやりました。まあ、兄弟なんていうものは、血が繋がっていて幼い頃いかに仲が良くとも、成長してからはすっかり心が離れるなんていうことは、世間ではザラにあることですが……ふたりとも、その点で違うんですよ。俺のことを見る目が、あの頃とまるで変わりがない。だから俺としては、父上がエドガーかエドマンドのどちらかを王にすると宣言したとしたら、それはそれで良かったんです。それに、あの可愛い弟たちのことを政治的理由から亡き者にするなどということも……俺には絶対に出来ません。ですから、俺としてはそういう気持ちだということを、まずは義母上、あなたにはよく理解していただかなくては……」

 

「わかっております、わかっております、何もかも……!!」

 

 メアリー・マライアは、膝に置いていた絹のハンカチで、何度となく目尻の涙を拭いながら言った。小花柄の、贅を凝らしたタフタのドレスを身に着けていてさえ、彼女の心はこの上もなく不幸であり、さらにその一部は冥府の国に通じてでもいるように、虚ろで暗いのだった。

 

「けれど、今から十年後も二十年後もそうあり続けられるとは限らないということが……気苦労の多い母親の、限りない心配ごととして心にのしかかってくるのですよ。本音を言えば、わたくしの心は今ではもうすっかり血まみれですわ。父からはどうにかしてリア王の心を今からでも変えてみせよと、顔を合わせるたび言われますしね……でも、王の心はとっくの昔にわたくしの心を遠く離れておられ、今ではわたくしの心と手にあるものは、王妃としての虚飾の冠、ただそれだけなのでございます。一度、貴方のことを王にすると心に定めてからは――口になどされずとも、そのことが痛いほどよくわかっておりましたわ――わたくしとエドガーとエドマンドは、まるで最初から存在しなかった透明人間でもあったかのようですものね。長く夫婦生活を送ってきて、子供もいるのにそんなことがあるものかと、世間の人々はおっしゃるかもしれません。でも、断じて妻として言わせていただきましょう。リア王、あの方は人間ではあられません。わたくしはこの二十年もの間、二重人格の異星人とでも暮らしてきたのかと感じるほどですわ。ある時は、わたくしにも、ふたりの可愛い王子たちのことも、熱烈に愛しているかのように振る舞い、また次に会った時には、そんな愛情なぞなかったかの如き態度で……よく気分がコロコロお変わりになる方だということは結婚当初より存じておりましたし、他に愛人がおられても、そんなこと、この国の王とわたくしは結婚したのですから、ずっと覚悟してきたことですわ。でも、あの方はわたくしでも、他のどのような女性に対しても、おそらくはまったく同じことをするのでしょうね……針で急所をグサリグサリと刺し、そのことをお愉しみになるという、まったく耐え難い癖ですわ、あの人の……」

 

「…………………」

 

(でも、離婚するわけにも参りませんものね)という、喉の奥に飲み込んだのだろう王妃の言葉が、リッカルロにはよくわかる気がした。というのも、リッカルド・リア=リヴェリオンという男は、誰に対してもそうなのだ。家臣に対しては、右の大臣を用いたかと思えば、左の大臣を次に用いて楽しむ……といった、まったくもってよくない悪い癖を持っている。さらに、自分の顔がもし少しも裂けてもおらず、リッカルドの美の基準にも適合するような美男子であったとしよう。だが、自分の父親が決して満足することはなかったであろうことを、リッカルロは今ではよく理解している。武術に優れていても、狩猟が得意でなかったらその点を靴の踵で踏みにじるかのように攻撃し、勉強についても、文学や算術、哲学などに通じていても、音楽が駄目なら、あるいは絵が下手なら、「音楽のわからない奴は駄目だ。詩心のない奴は結局のところ芸術全般について理解など永久に出来んだろう」などと、冷たく叱咤したに違いない。そして、父親の目に適うようにと、あらゆる努力を重ねた果てに、最後の最後に気づくのだ。『なんだ、そうだったのか。親父は結局、俺が七百パーセント完璧な子供だったとしても、それはそれで「おまえは完璧すぎて、子供らしくないところが癪に障る」とでも言って怒ったに違いない』ということが……。

 

 ゆえに、妻としてのメアリー・マライアの苦悩も、エドガーとエドマンドの息子としての――あんな男の息子に生まれてしまったがゆえの苦労というのは、リッカルロにもよく理解できるものだったのである。ふたりとも、母親に似て性格が内向的で優しく、繊細な質をしていたし、ゆえに剣や槍といった武術の腕は十人並み、さらには弓術の腕のほうは良かったが、いざ狩猟ということになると、白雁を射たりすることなどは「可哀想」だとして、あえて逃がしてしまうのであった。

 

 とまあ、こうした事情であったから、最後の臨終の席において「すまなかった、赦してくれ」などと、微かな涙とともに言われても……いや、リッカルロにしても、その場においては胸を熱くし、感動することにはした。今までの生涯で、果たして心から誰かに頭を下げたということがこの男にはあったのだろうか――という男が、死ぬ間際に唯一自分の息子にだけは謝罪の言葉を口にしたのだ。リッカルロは(これが最期なのだから)と、せめてもいい息子、リッカルド王の心中をよく理解している人間として、ほんの短い時間話を合わせ、演技するということにしたわけである。

 

 無論、リッカルロがその時流した涙というのは、ある意味本物の涙でもあったし、何も自分の王としての即位式を早めるために、自分の父親に早く死んで欲しいというのでもなかった。ただ、彼にはわかっていたのである。リッカルド王の晩年の政治には老害的統治といった弊害が出てきており、新しく王となる自分がその病巣をなるべく早く取り除く必要があること、また、リッカルド王の人間としての我が儘や癇癪にこのままつきあわせられる家臣が気の毒だという部分も大きく――自分の父親が、いかにこの国の王として怪物のような存在であったかと思うと、そろそろ自然に亡くなってもらうというのが、王自身も含めたすべての人間の幸福というものだろうと、リッカルロは随分前から気づいていた。

 

 しかも、非常に気の毒なことには、リッカルドは朦朧とした意識の中で最期、最初の妻の名を「ゴ……ネ、リル……」と、苦しい息の中から呼び、リッカルロのほうに手を差し伸ばしながら絶命していたのである。その場には他に、メアリー・マライア王妃や、息子であるエドガー王子やエドマンド王子の姿もあったというのに、である。メアリー・マライアはその瞬間、わっとハンカチに顔を埋めて号泣したが、それはおそらく純粋に夫の死を悲しんでのことではなかったろう。少なくとも、リッカルロはそう思った。死ぬ間際にまで、妻の名を呼ぶことはなく、最後の最後に彼女の心にもう一針、グサリと針を刺していったことに対する深い悲しみではなかったかと、そんな気がしてならない。

 

 不思議なことではあったが、リッカルド・リア=リヴェリオンという怪物の如き王が亡くなってみると、リッカルロの心はそれまで疎遠であった義母のメアリー・マライア王妃とも結びつき、それは他の家臣らにしてもまったく同様であった。エドガーもエドマンドも、尊敬する兄にあらためて家臣として忠誠を誓っていたし、彼らに相応しい役職を宮廷内に与えたことで、母であるメアリー・マライアも安心していたようである。

 

 とはいえ、リッカルロが新時代の王としてもっとも重用したのは、誰より親友のマキューシオ・エル=エスカラスとティボルト・ハリスのふたりのことではあったろう。彼らは国の重役として、なんでも王と相談して今後の政策について策定していったし、そこに自分たちの特に気に入った者たちだけを参加させる――といった手法も取らなかった。白アリのように税金の旨味にたかっているような貴族議員には、少しずつ退陣してもらうといった予定であり、急激なやり方によって政治体制を刷新するといったような危ない橋を渡ろうともしなかったわけである。

 

 だが、リッカルロにとっては不思議なことだったが、マクヴェス侯爵はリッカルロが王になるのと同時、自分の首があやしくなったと思ったわけでもなかろうが(到底彼はそんな小さな玉ではない)、息子たちにマクヴェス家の資産と土地の拡張については任せ、自分の領地で隠遁するような生活を送りはじめていたのである。果たしてそれが、エドガー、エドマンドというふたりの孫が異母兄を心から尊敬し愛しているためだったのか、それとも堪忍袋のとうとう切れた娘のメアリー・マライアから急所を刺されるようなことを言われたためかはわからない。とにかく、リッカルド王の治世に王に次ぐ権力を持ち、権勢を振るったマクドゥーガル・マクダイン・マクヴェスの時代もまた同時に幕を下ろしたかのようであった。

 

 とはいえ、マクヴェス侯爵ほどの大きな目立つマムシでなくとも、薔薇に取りつくアブラムシ、あじさいに巣くうカイガラムシなど、リッカルロやマキューシオやティボルトの目に邪魔な貴族議員というのはいくらも存在したものである。そして、こうした段に至って、リッカルロにも生まれて初めて父の王としての気持ちがわかるところがあった。すなわち、誰も彼もが自分の利権を守ることを第一として勝手ばかりを言うため――最初いかに志の高い政治的理想があろうとも、そんな看板など自分のその手で下ろしてしまい、踏みつけにしてのち、何もかもを自分のしたい通り、思った通り、望んだとおりにして何が悪い、何故といって他でもないこの俺自身が王なのだからな!!……という誘惑に負けることなど、いかに容易いかということである。

 

 だが、リッカルロは王として賢い進言をしてくれる友にも恵まれ、彼らは自分が王として間違った道をゆけば、対等に厳しいことも言ってくれるだろうという意味で、彼はマキューシオとティボルトのことを誰よりも深く信頼していた。また、彼にとっては婚約者のレイラと彼女のお腹の中の子が、この頃大きな心の支えであり、癒しともなっていたのである。

 

 そうなのである。リッカルロが王として即位するという時、レイラはすでに妊娠中であり、国民は誰もが新王の即位を寿ぐと同時、王妃がすでに身籠っていることに対し、喜びと祝いの言葉を競うように述べたものだった。

 

 生まれてきた子は双子の男の子であり、アーサーとヘンリーと名付けられた。実をいうと名親のほうはマキューシオとティボルトだったのだが、それはさておき、レイラは自分にとっても義母になったメアリー・マライアとも非常に気が合い、本当の母であるかのように、子育てのことではなんでも相談していたようである。

 

 そして、この双子の子供たちが二歳になった頃……リッカルロが王としての仕事に日々忙殺され、自分の母から愛を受けることなく、実の父からも疎まれた心の傷も、自分が愛のある家庭を築くことにより癒されつつあったこの頃――ティーヴァス城砦から守備兵のひとりがやって来、「過日、西王朝より三人の者が国境を越えましたこと、ここにお知らせ致します」と言って、謁見の間にやって来たのである。

 

「ショイグ・オイゲンハーディンの息子の、ディオルグか……!!」

 

「ははっ」と、アストリア・アストランス守備隊長がもっとも信頼する部下のひとり、エナン・アドルフォスは、王座の前で畏まって敬礼した。「他に、連れの者がふたりおりまして、ひとりがギべルネという名の医師、いまひとりがキャシアスという名の僧でございました。三人とも、隣国のスパイとも思われず、ギべルネという名の医者は、西王朝において高名な医師であり、東王朝の医術についても学びたく国境を越え、こちらへ参ったとのことでございました。キャシアスという名の僧は、医師ギべルネの弟子でもあるということでして、ディオルグさまも従者として信用されている者のようでした」

 

「なるほどな。したが、いかに速馬による急使としてそなたが参ったとはいえ、王都へ来るつもりであったらば、そろそろ到着していておかしくあるまい。いや、間者を潜り込ませていることなどは、こちらでも事情は同じだからな……しかし、王である私の名や、国民的英雄といって過言でないショイグ・オイゲンハーディンの名前まで出すということは、おそらくただの間者ではあるまい。その者たち、他には何か申してなかったか?」

 

「はあ。それがですね……なんでも、西王朝の星の神々からの託宣があり、リノヒサル城砦のらい者たちの元を訪ねたいなどと、少々理解できぬことを申しておりました。ディオルグさまはショイグ・オイゲンハーディン将軍の息子と申されても不思議はないほど威厳のある方でしたし、他国人を褒めるわけではありませんが、ギべルネ医師も僧のキャシアス殿も……そのう、人柄としては善良そうな人物であるように見受けられました。無論、スパイというものは一見そうは見えぬと申しますし、そうした意味で用心すべきとは思いつつも、アストランス守備隊長が王に判断を仰ぐべきでないかと申されまして、このわたくしめが使者として参ったといったような次第でございます」

 

「うむ。なるほど、わかった。ご苦労であったな……アドルフォスよ、そなた、ここ王都に実家があるということであったな。暫く休んで、親に顔でも見せて安心させてやるといいだろう。他に、少しこちらで遊んでからあの寂しい砂漠の城塞のほうへは帰るといい。そのための金も支給しよう。今の報告については、王である私のほうで善処すると言っていたと――帰り道をのんびりしながら戻り、忠実なる守備隊長には伝えるとよいだろう」

 

「ありがとうございます」

 

 エナン・アドルフォスは、謁見の間の隣の部屋へ行くと、王の伝言を受けた事務官から金を受け取り、その金を受け取った旨サインすると、スキップしたいような気持ちで城から出ていった。彼の実家は代々家具職人をしており、家業のほうは長男が継ぎ、次男と三男もそれぞれ工房を構えていたが、彼はそうした手先の器用さや、兄たちほどの才覚に恵まれなかったため、とりあえず兵士として独り立ちすることに決めたのだった。

 

 四男の彼が家に帰ってみると、木屑を集めていた母親は籠を取り落として、この息子の突然の帰還を喜んだ。早速ご馳走を作る用意にかかり、エナンのために子牛を一匹潰すようにと料理人に命じていたほどである。また、彼のほうでも、王から戴いた金で買った、ちょっとした小間物を母や兄嫁、それに甥や姪たちに渡してもいたのである。

 

 こうして、エナン・アドルフォスが実家で、心も体も温かく、ぬくぬくして過ごした日の夜のこと――リッカルロは夢を見た。それはとっくの昔に忘れ去られた、記憶の奥底に封印された映像が元になっていたようである。めらめらと燃える屋敷の部屋を背景に、不吉な首吊り縄の輪が黒く浮き上がり、ひとりの赤い髪の女性が、滂沱と涙を流して立っていた。

 

「リッカルロ、お母さんを赦してちょうだい……でもお母さんはこれ以上、生き恥をさらしては生きてゆけないのよ!!ママはね、決しておまえを捨てるわけじゃないの。ただ、こんな形でしかおまえのパパに復讐できないというそれだけなのよ。どうかリッカルロ、強く生きていってちょうだいね。きっとお父さま……いいえ、おまえのお祖父さまであるオールバニ公爵が力になってくださるわ。そしていつかこの母の仇を討ってちょうだい!!ああ、愛しているわ、リッカルロ。おまえの成長したあとの姿を見届けられないことだけが、唯一の心残り……」

 

 このあと、リッカルロの母ゴネリルは、炎の向こうに姿を消し、次の瞬間には首吊り縄にその体がぶら下がっていた。リッカルロは反射的に母を助けだそうとした。いや、違う。一緒に死にたかったのだ。

 

「ママぁーっ!!ぼくを置いていかないでぇ。ひとりぼっちにしないでえっ!!」

 

 そう叫ぶ、幼い彼のことを後ろから留める力があった。彼の後ろには、鎧を身につけた騎士の男が立っており、母親のことを追おうとする自分のことをどうにかして止めようとしていたのである。

 

「いやだあっ!!ぼくもママと一緒に死ぬんだあっ!!ママ、待ってえ。どうしてぼくのことを置いていくのおっ。待ってよおォっ……」

 

 次の瞬間、リッカルロはこの騎士の男――ディオルグに容赦なく殴りつけられた。この時、彼は茫然とした。こんな大の大人が、自分のような子供を本気で殴ったことに驚いたのではない。彼が自分のことを子供としてではなく、ひとりの大人の男にでも対するように殴ったことについて、びっくりしたのだ。

 

 ――ここで、リッカルロはハッとして目を覚ました。胸が激しく上下するように鼓動を打っていたが、すぐ隣に、彼にとっての愛妻が静かに寝息を立てているのを見、心の底からほっとする。

 

「夢か……」

 

 リッカルロが目覚めたのは真夜中であり、明日も王として激務が控えていることを思うと、もう少し睡眠を取る必要があるのは間違いないところだった。だが、彼は再び枕に頭を着けると、今度は夢ではなく、それに続く本当に現実にあった記憶が思い起こされてきたのである。まるで、夢を呼び水にして、忘れ去られていた記憶が芋蔓式に記憶の底から引きずり出されてでもきたように。

 

 ディオルグと名乗った男は、自分を王都の外れにあった別荘地からオールバニ公爵領へと連れていくと言い、自分のことを背負子に乗せて歩いていった。にも関わらず、「寒い」とか「お腹すいた」とか、「魚じゃなくてお肉食べたい」とか、随分我が儘なことを言い、「お兄さん、結婚してないってほんと?もしかしてモテないの?」などと、随分失礼なことも言った気がする。さらには、追っ手の暗殺者がやって来た時……。

 

(そうだ。彼は、五人もの暗殺者の手練れを相手に、俺を庇って背中に大怪我までしたんだ……それで、もう俺のことを背負えなくなり、それからは一緒に歩いて山を越え、森を通り、谷を下って川を渡り、ようやくのことでオーバニー公爵領の主都までやって来たんだ……)

 

 実をいうと、ここからのちのことはすべて完全にではないが、リッカルロの中で記憶の糸が一本になって通じている。というのも、初めて自分の祖父であるオスカー・オルダス・オールバニーに会った時、この男が号泣して自分のことを抱きしめ、母ゴネリルの無念を必ず晴らすと、そのように神に誓いすら立てていたからだ。

 

(こんな大切なことを、どうして俺は今の今まで忘れていたんだろうか……そうか。ディオルグか……父リッカルドから密命を受け、西王朝に間者として潜入していたというのは間違いなく嘘であろう。だが、王となった俺のところまでやって来て、小さな頃そのお命をお助けした者のことをお忘れですかな、などと髭をひねるつもりもないということか。リノヒサル城砦にらい病患者を見にいくだって?まったく、正気の者が到底行いそうにない旅だな、それは……)

 

 この日、リッカルロはこの件についてマキューシオとティボルトのふたりに相談した。彼としては、誰か使いの者をだすというのでは不十分で、どうしても自分がリノヒサル城砦まで行く必要があるのだと、そう強く主張した。

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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