さて、なんか作品に対する感想らしい感想書いてませんが(汗)、今回こそは、少しはマトモ(?)なことを……!と思います。
そのですね、前回【2】のところで書いた舞ちゃんシリーズの『シャンプー』の中に、村上春樹先生の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説のことがちらと出てきます
舞ちわん:「村上春樹は…5ページ目でザセツして…」
生方せんせい:「うーん。この『ハードボイルド・ワンダーランド』もイントロたるいけど、30枚目ごろからおもしろくなるよ。けっこう浦島さん、気に入ると思うけど?」
あ、登場人物に言わせてること=作者の意見とは限りませんから、萩尾先生が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んで、イントロかったるいと思ったかどうかはわかりません(笑)。ただ、わたしも萩尾先生のお話読んでてほんのたま~に村上先生の『日常の中の非日常感』というのでしょうか。そうしたところで作品世界に共通する何かを感じたことがありました
んで、生方先生が主人公のお話は、1話目が『山へ行く』で、生方先生は「山へ行きたい」と思い、山へ出かけようとするわけですが、色々な日常の雑事(?)が邪魔をして、結局のところ山へ行けず仕舞いで終わってしまい――>>「忙しくて……とうとう山にたどりつけなかった。またいつか、山に行こう。山の空気を吸って、山にとけて、すっかり人間を忘れるひとときを――次はきっと手に入れよう」というところでお話のほうは終わります
このあたりも、さり気ない日常とはいえ、「あ~、わっかるわかる、わっかるなあ~!!」みたいに思う方は多いですよね、たぶん(笑)。
そんで、2話目が『宇宙船運転免許証』。
こちらは、極フツーの日常に、ちょっとした非日常が入り込んできたといったところが、なんとも萩尾先生「らしい」作品と思うわけです♪(^^)
そして、3話目の『駅まで∞』も、日常と非日常が交差した、萩尾先生「らしい」面白いお話ですよね
『あなたは誰ですか』は、失認症だという弘明さんという名前のお父さんが生方氏となんとなく似てるため、自分的に一瞬コンランしたのですが、お話の中に出てくるラマチャンドラン先生の『脳のなかの幽霊』、わたしも随分前に読んだんですけど……萩尾先生と思ったことが同じ!!だったので、妙に嬉しかったのです(でもたぶん、同じこと思う方は他にもいっぱいいると思う^^;)。
つまり、「カプグラ症候群」という、自分のお父さんやお母さんを一度「ああ、この人がわたしのお父さんだ。お母さんだ」と認めたとしても、少し時間が経つと「あの人は自分の父親じゃない。母親じゃない。ふたりは偽者だ。じゃ、僕のほんとのお父さんとお母さんはどこにいるんだろう?」ということに対するラマチャンドラン先生のお医者さんとしての推論が書いてある章があって。
それで、わたしもお話の中にあるとおり、ここ読んだ時、手塚先生の『火の鳥―復活編―』の、ロボットが人間に、生きた人間のほうが何かよくわからない岩みたいなグチャグチャしたものに見えるという、あのお話のことを思いだしたというか(^^;)。
かなりのとこ、どーでもいいことですけど、わたしがラマチャンドラン先生の『脳のなかの幽霊』の中で一番面白いと思ったのは、第9章の「神と大脳辺縁系」だったりします
『ゆれる世界』は、バタフライ・エフェクトに関する、こちらもなんとも萩尾先生「らしい」お話と思いました
そして、「くろいひつじ」。
いえ、これと同じこと思う人、多いだろうなあ~って思う(笑)。
葬式や何かで親戚が集まって、「あの人はいい人だった」、「こんなことやあんなことがあっても、耐えてどうこう」……なんて話を聞きつつ、「何言ってんだ。人の悪口ばっか言ってる、ゴシップ好きのとんでもないババアだったじゃねえか」なんて思ったことがわたしもありましたし、(空想の中で)ナタを振るって一族郎党みな殺し……という、伊太郎さんの気持ちはめっちゃわかります。
そうなのです。ピアノと一緒に憎らしい過去も一緒に燃やしたからこそ、実際にはナタを振るわずにすむ、一族の中でノケモノの黒い羊は自分だけじゃないからこそ、ナタを振るわずに済む……そしてわたしたち読者は何より、こんな素晴らしい作品によって、自分の気持ちを「わかってくれる」萩尾先生がいるからこそ、人殺しにならなくて済むのです(真顔☆)。
『ビブラート』も、萩尾先生「らしい」日常の中の非日常を扱った作品で――すごく面白かったです♪(^^)簡単にいえば、ドッペルゲンガーのお話で、「向こうのドッペルが死んだ」から、次は自分も死ぬんじゃないかという……何か、一般的に自分のドッペルゲンガーを見たら、その人は近いうちに死ぬ――みたいに言われてますけども、その常識(?)を破って、そうとは限らない……ということが、お話の中では示唆されています。
で、面白いのが、このことを契機に、主人公のタクミくんの行動範囲が広がってるということだと思います。小さい頃、幽霊っぽいようなものや、その他色々なものが見えたり、聴こえたりしたことで―― 予定調和的に狭い世界で生きるのが一番安心できたタクミくんですが、自分のドッペルが見えてしまったことで、今度は予定不調和的になれば自分は死なないというか、死ぬかもしれないことを思えば、自分が住んでる埼玉を出ることも、台湾に住む親戚のおじさんのことを訪ねるのも……どうということもないことだという、そういうことですよね、たぶん(^^;)
ある意味、もしかしたらもうひとつのパラレルワールドからのメッセージだったのかも……?という、そんな感じがしなくもありません♪
『柳の木』は世界観的に『春の小川』にも通じるような、美しい短編映画のような作品。ただ、こうした作品を読んでも泣いたりできないわたしは、人なのだろうなあ……そう思います
ちょっと飛びますが、『青いドア』。
たとえば、このお話の中の奥さんみたいに、部屋の改造をはじめてお金がすごくかかり……それをどこまで許容するかっていうのは、すごくわかりますよねそして、そのことを相談した生方先生の名言。「人の縁というのは業なんだよ」。
縁が結ばれることは素晴らしい。けれど、結ばれたということは、今度はそこから離れられないという業を背負うということでもある。その一度結ばれた縁を断ち切るということは……業を断つというのは、物凄く力のいる、人間世界において大変なことでもあるという。。。
確か、河合隼雄先生の本だったでしょうか。「絆というと聞こえがいいけれど、絆という言葉の元の意味を辿っていくと『嫌々ながらも一緒にいること』といった意味であり、それが結局絆を生むということだ」みたいなことが書いてあったのをなんとなく思い出しました(記憶が曖昧&出典箇所も確かめてなくてすみません)。
その他、家族が鬱病になったり、不登校になったり、引きこもりになったりした時にも――結構「どこまで許容して、どこから怒るべきか」といったことにも通じる問題だなあ……みたいにも読んでて思ったり。
で、この奥さんは赤ちゃんが出来たことで、今度はそちらに関心が向かいはじめるわけですけど、自分的にゾッとしたのは>>「ゲームなんかやらせないわ。児童文学全集をそろえて……」といったところですかね(^^;)
うん。確かにこの奥さん……というか、お母さんは大変な人だ(笑)。
『世界の終りにたった1人で』。
とても素敵なお話なんですけど、実はそんなに感想的なことがなかったり(すみませんww)。
ただ、作中の大津ちづ先生が大好きでした
ちづ先生の描いた『海』の絵を見て、>>「ねえねえ、先生。もしも世界の終わりがきて、たったひとりでこんな海辺にいるとして、そこで誰に会いたいですか?」みたいに言われて――「わたし、誰にも会いたくないわ」、「会いたいとか、帰ってほしいとか、もういいの。わたし、そういう気持ちをみんなこの海に沈めたの。わたしも死んだらこの海に沈むから、それでいいのよ」
いえ、大津ちづ、マジで半端なくただ者ではありません(笑)。
そして、このお話の中ではちづ先生のこの言葉が一番好きでした。また、目のほうがちょっと『君は美しい瞳』のメールデールと同じく、「この世ならざるもの」を見通すことが出来るような、そんな瞳をちづ先生もなさっていて。
きっと、萩尾先生にもちづ先生と同じくそんなふうに普通の人とは違う視点、目線、瞳の世界があるからこそ、こうしたお話を描けるんだろうなと、そう思ったというか
まあ、お話すべての感想をカバーできたわけではありませんが、【1】と【2】で駄文に文字数費やしすぎたもので……最後に少しくらいはマトモ(?)な感想を、と思ったといった次第ですm(_ _)m
それではまた~!!