【騎士の叙任】エドモンド・レイトン
ええと、今回は本文が長めで、ここの前文にほとんど文字数を使えませんなので、今回は「中世・兵士の服装」という本から、鎧の手入れに関して、わたしが「ほえ~。しょうなんら~♪」と思った箇所を抜き書きさせていただきたいと思いましたm(_ _)m
>>ちょっとした雨、湿気、汗のせいで、夕方には明るい鉄の鎧には赤い錆が浮く。手入れをしなければ、鎧はしっかり機能しなくなる。鎧は貴重なものであり、その外見は威信に関わった。そのため、鎧が軽石やオリーブ油で綺麗にされ、栄光に輝くように磨かれたことを示す文献は多い。他のパーツの下じきになったおかげで何世紀もの間保護されていた、板金鎧のオリジナルの表面を見たことが二度だけある。それは博物館に収蔵されている鎧の表面とは違い、まさしく現代に作られた鋼鉄製の鎧のようだった。鎧は保護のために、鍛冶屋で時々錫メッキをしたり、染物屋で青や茶色や黒色にぬられたりした。
鎖帷子はきれいにしておくことが難しかった。油が少なければ、しまってある間に錆びてしまう。油が多すぎると埃が集まり、衣服が脂ぎった埃で汚れる。鎖帷子は砂と酢の袋の中に丸めて入れたり(1296年)、単純に砂入りの樽に入れたりして保管した。
(「中世・兵士の服装」ゲーリー・エンブルトンさん著、濱崎亨さん訳/マール社より)
一応ドラクエ・FF世代なもので、「そうび→くさびかたびら」とか、「そうび→はがねのよろい」とか、小学生の頃からそんなことが楽しくてしゃーない☆みたいな世代でしたが(笑)、まあ現実的に考えれば手入れというのが当然必要なわけで……他に、あまりに当たり前といえば当たり前なことには、肌に直接鎖帷子なんて着たりも出来ないわけで、ギャンベソンという綿を縫い込んだ防御用の上着を着てから、その上に鎖帷子を纏ったりするとのことでした(^^;)
今回文字数ほんとに全然使えなくて残念なのですが、こちらの本からはまた、こうした小話その他について参考程度にどこかで引用させていただきたく思っておりますm(_ _)m
では、そろそろほんとに文字数限界なので、今回はこのへんで……
それではまた~!!
惑星シェイクスピア。-【30】-
上中庭の水晶の塔は、芸術家たちを集めたサロンを別にしたとすれば、リヴァリン伯爵にとって城内における三番目か四番目かに心安らげる憩いの場であった。一番心が安らぐのは、城内の聖堂、そして二番目が寝室であったかもしれない。だが、セネカが用心のために毒見役を雇ってからは……何やら食事の味のほうも以前ほど美味しくなくなり、リヴァリンは可愛い甥が試練を受けにいくと言って以来、自分もまた病死した妻のあとを追うように死んだほうがマシなのではないかという――非常に鬱々とした日々を送るようになっていたのである。
総ガラス張りというわけではないのだが、そこは天井や壁面の多くにふんだんにガラスが使われた建物であり、中心部には涼をとるための噴水が設置されていた。そこでリヴァリンは亡き妻の永遠に完成しそうにない肖像画を描いて過ごし……時には絵の中の美しい妻に自分の悩みごとを相談したりして過ごすのだった。
そこにいる時、リヴァリンは自分が心から信頼する側近の騎士ふたりに表を守らせていたが、にも関わらず、よく刈り込まれて手入れされた芝生の上を、誰かがやって来る気配を感じた時――背筋に一瞬冷や汗が流れたように錯覚したほどである。
「な、なんだ。トリスタン、おまえか……」
リヴァリンはほっとするのと同時、絵筆を地面に投げだし、可愛い甥の元まで駆け寄っていった。ここ二か月ほどの間、まったく生きた心地もしなかった。試練を受けにいくなら自分が死んでからにしろと言ったのに、トリスタンは書き置きひとつを残し、突然姿を消していたのである。
「おじ上」と、トリスタンはいつものように『父上』とは呼びかけなかった。彼は白いレース飾りの上衣に金刺繍の入った紺のズボンと揃いのベストという軽装であったが、その腰には短剣を帯びていた。「僕が次の領主になるために、死んでいただけますか」
トリスタンは泣いていた。そして、リヴァリンのほうでも、かつて同じくカールレオンにて試練の刻印を受けたことがあるゆえに――ハッと気づいていたのである。
「そうか。それがおまえに与えられた試練の内容なのだな……」
次の瞬間、リヴァリンは甥というよりも、実の息子のように感じているトリスタンに向かい、ゆっくり手を差し伸ばした。
「その短剣を、私に寄こしなさい。何も、おまえの清い手を親族の血で汚す必要はない。トリスタン、おまえは私などとは違い、きっといい領主としてここライオネス領を治めていくことが出来るだろう。そもそも、老害になるだけの私なぞはそろそろ退場すべき頃合だったのだ」
「父上……」
次の瞬間、トリスタンは短剣を芝生の上へ取り落とした。そして、自分の心から愛するおじが最初そうしようとしたように、リヴァリン伯のことを抱きしめようとしたのだが――リヴァリンの手は可愛い甥にではなく、地面の短剣へと向けられていたのである!
ゆえに、ハムレットやランスロットたちが水晶の塔へ辿り着き、トリスタンとリヴァリンが短剣を奪いあうように揉みあう姿を見た時、果たしてトリスタンが伯爵の命を奪おうとしているのか、それともリヴァリンが甥に死を求めているのか、そのいずれとも見当がつきかねるところがあったものである。
「おじ上っ!聞いてくださいっ。僕がカールレオンで受けた試練とは……」
「わかっておるわっ!可愛い甥よっ。常若の国の女王二ムエは、この老いぼれの死を願っておるのだろうっ!さあ、短剣を寄こせ、トリスタン!!何もおまえの手を煩わせる必要はない。私は私自身の領主としての不甲斐なさゆえに死んでゆくのだっ。ゆえにトリスタンよ、おまえは私が死んだあと、なんの良心の呵責も感じるでないぞっ。私は自業自得の罪ゆえに死んでゆくのだからなっ」
かつて幼き頃、最初に剣術や槍術、それに馬術の心得をトリスタンに教えてくれたのは、リヴァリンであった。トリスタンはおじの教えを真綿のように吸収し、いつしか剣術においてもおじの上を行くようになった。以来、ふたりは剣を交えることはなくなって久しかったが、この時のリヴァリンの決死の覚悟は、若いトリスタンの数倍もの力があるようにすら見えたものである。
この時、そんなリヴァリンのことをランスロットがどうにかこうにか取り押さえ、そしてトリスタンのことはギネビアが取り押さえ――カドールが蹴っ飛ばした短剣のほうは、ハムレットが最終的に拾い上げることになっていた。
「ハァハァ。止めるでない、ランスロットよっ!私はこのライオネス領地のため、最後の仕上げとして死なねばならん運命なのだっ。それに私にはもう、トリスタンのためにそのくらいしかしてやれることがない……そうだ。私のことは内大臣のヴォロンが殺したということにして、きゃつのことはここライオネス城砦から追いだすといい。嬉しいぞ、トリスタン。この老いぼれにもまだ最後の最後で出来ることが残っているのかと思うとな!!」
「まだそんなにお元気な上、死ぬほどの気概がおありなら」と、ハムレットが、それ自体が一つの芸術品であるかのような、宝石の嵌まった金のダガーを見つめて言う。「今からでも、あなた御自身が領主として出来ることなどいくらもあるのではないですか。リヴァリン伯爵」
「あ、あなたさまは……」
ハムレットは、目立たぬ平民の服の上に白のガウンを纏っているに過ぎなかったが、彼を一目見ただけでリヴァリンにはわかっていた。どこかの高貴な血を引く身分のお方なのだろうということが……。
「申し訳ありませぬ、リヴァリンさま」
生きた心地もしなかったセネカは、どっと地面の上に膝を着き、ほとんど芝生の中に頭を突っ込むような形で、泣きながら言った。
「ローゼンクランツ公爵から、親書が参っていたのでございます。ですが、リヴァリンさまのご心労が増すだけの内容と思い、勝手ながらこのセネカ、元のリヴァリンさまであればこのように返信したのではあるまいかという文言によって……使いの者に文を持たせたのでございます。ちょうど、トリスタンさまがカールレオンへ旅立たれた後ということもあり、このことにもおそらくは天意あるものと、そう考えたのでございます」
タイスとカドールは視線をかち合わせると、すぐにどういうことなのかを理解した。最悪、王都テセウスの手の者が返信をした可能性もあると思っていたが、それよりも事態のほうはずっと良かったのだ。
「では何故、おじと甥……いや、父と息子とでこのように短剣を奪いあうことになったのですか。タントリス、ではなくトリスタンだったな。そなたは、今ならば話せるか。カールレオンにて、領主の後を継がねばならぬ者が受ける試練がいかようなものなのかを……」
「はい。ハムレット王子」
リヴァリンはその名を聞いて心底驚いた。王子、とトリスタンが彼を呼んだこともそうだが、前王エリオディアスとガートルード王妃の間には王子がひとりだけあって、その名をハムレットということくらいは、当然彼も覚えていたからである。無論、まだ赤子のうちに死んだということにされたとはいえ、実はヴィンゲン寺院でユリウスが育てているのだということは、ローゼンクランツ公爵やギルデンスターン侯爵同様、リヴァリンもよく知っていたからである。
もともと聡明であり、領主として政治を行なう手腕もそれなりにあったリヴァリンである。この瞬間、彼は詳しく順に事態を説明などされずとも、すぐにそう察していた。
「二か月ほど前……僕は父上の反対を押し切り、キャメロン州のカールレオンへ試練を受けにいくことにしました。すると、そこには苔むす美しい緑の大地がどこまでも広がっていて――僕は出来ることならこういう素晴らしいところで、浮世の悩みなど一切忘れて暮らしたいものだと思ったものでした。また、そうした僕の心を誘惑する事柄にいくつも出会いました。それでも僕は、たくさんの領民の生活が自分の行いひとつにかかっているのだと思い、そうしたすべてをどうにかこうにか振り切ったのです。すると、緋色のライオンが霧の奥から現れて……帯刀していた剣の柄に僕が手をかけようとすると、真紅のライオンに続き、今度は非常に美しい女性がやって来ました。そして、僕にはすぐわかったのです。特になんの説明をされずとも、彼女が噂に聞く永遠に生きる女王二ムエなのだろうと」
ここで一瞬、トリスタンはハムレットが手にしている美しいダガーに目をやった。
「そのルビーやエメラルドの嵌まった短剣は、実は僕の持ち物ではないのです。女王二ムエが……リヴァリン伯爵が、僕の愛するおじがもし自分の地位に固執し、領主の地位を譲らないようなら殺せと……そう言って僕に渡したものなのです。もしおじ上を殺すことになったとしても、この短剣によって流された血であれば、僕の罪にはならないと……ですが、僕は大恩あるおじにいかなる理由があれ、そのようなことは出来ないと、もしそんなことをするくらいなら自分が死んだほうがマシだと、そのように女王に申し上げました。本当に、泣きながら後悔しました。おじ上の言うとおり、試練など受けに来なければよかったと、心底そう思ったものです。ですが、女王は言いました。『子よ、おまえのことは私が呼んだのです』と。それから、ハムレット王子のことを聞きました。いずれ、夜空の獅子が砂漠のサソリを追い散らすように、その暁の獅子は平和の礎を築き、サソリもマムシも地中に潜って悪は影に身を潜めると……我がおじリヴァリンに、もし今死ぬほどの覚悟がないのなら、ハムレット王子の星の運行に邪魔となる。そのくらいなら、大義のために甥であり息子でもある僕の手にかかって死んだほうが本望であろうと……僕は悩みました。ですが、女王二ムエはさらにこんなことを言ったのです。その事が決するまでは、自分のことはタントリスと名乗り、どのような試練を受けたのか、なんぴとたりと話すこと叶わぬと。『もしうっかり話したらどうなるのですか』と僕が申し上げますと、緋色の獅子がすぐ横で、世にも恐ろしい形相をして吼えました。今でもその咆哮が耳の裏に聞こえるような気さえするほどです……もし僕がこの試練から逃げるような腰抜けであったとすれば、夜陰に乗じてこの獅子がおまえに襲いかかり、喰らい尽くすであろうと……また、それ以上の質問は何ひとつ許さず、女王二ムエは再び霧の中へ消えていったのです」
「ははーん。なるほど!それでか」
ギネビアはぽん、と左の手のひらを右の拳で打った。
「おっかしいと思ったんだよなあ~。おまえ、ほんとに頭がおかしくなったのかってくらい、自分がタントリスだってことに拘ってたもんなあ~」
「そうだぞ!僕のこの深い苦悩が能天気なギネビアやランスロットにわかってたまるか。とにかく僕は、試練など受けに来なければ良かったという絶望の思いとともに、ライオネス城砦へ戻って来た。ところがだな、緋色の獅子の咆哮のことは脳裏にまざまざと覚えていたものの……いざ城門近くまでやって来てみると、勇気がまるで砂漠の砂に消える水のようにしなえた。そこで、城壁の外でとりあえず夜を過ごそうとしていると、数人のならず者がやって来て、僕のことを結構いい値段で売れるんじゃないかなんて言いだしたわけだ。僕はあえて逆らわなかった。もうどうとでもなれという気持ちもあって、盗賊らしき男たちの言うなりになることにしたんだ。ところがだな、砂漠の道半ばにして、ならず者たちが言い争いはじめたわけだ。僕のことを売る前にちょっと楽しもうじゃないかなんてことを……冗談じゃないぞと思った僕は、あいつらを全員のしてやった。まあ、あとのことは大体、みなも知ってのとおりといったところかな。けど、ランスロットやギネビアに会えて嬉しかった反面、さらに僕は地獄の苦しみを味わうことになった。何故といって、自分はトリスタンでかくかくしかじかの問題があって悩んでいると、一体どれだけ言いたい誘惑に駆られたことか……ああ、だがその苦しみもすでに終わった!!愛するおじ上」
トリスタンはリヴァリンの元までいって膝を屈めると、実の父にも等しいおじに向かい、手を差し伸べた。
「先ほどはあのようなことを申しましたが、このトリスタン、自分が仕える領主に対し、殺害の意志など砂一粒、髪の毛一筋ほどもございませんでした。もしそのようなことになるくらいなら、夜の闇の陰の中からでも、例の恐ろしい真紅の獅子が現れ、喰い殺されたほうがまだしもマシだと……その決意は一瞬たりとも揺らぐことはありませんでした」
「トリスタン……許しておくれ。我が可愛い息子よ。私が領主として不甲斐ないばかりに、おまえにまで苦労をかけて……」
「いいのです、父上。何より、僕とおじ上の仲ではありませんか」
――しみじみした愛しあうおじと甥、否、親子の時間が流れてのち、リヴァリンは突然ハッと正気に目覚めたように立ち上がっていた。
「こうしてはおれまいぞ、トリスタン!!さあ、これから忙しくなる。まずはハムレット王子のために祝宴を開き、それからトリスタン、おまえが領主になるための準備を早速はじめなければ……」
「いえ、おじ上。僕のことならば気にしないでください。それに、僕が今領主になるよりも……僕はまだ父上の元でたくさん勉強したいことがあります。これからは僕が補佐として父上のお仕事を手伝いますから、ふたりで協力して、ライオネス領地をさらに住みよい場所にしていきましょう。ああ、父上。僕がきのう城門塔を通ろうとした時、なんとしたことか、賄賂を要求されたのですよ。きっと、随分新参者の兵が――つまり、ヴォロン一派の手の者が守備隊にも増えているに違いない。そもそもあの男は王都の回し者であるがゆえに、こちらに少しでも不審な点があれば、クローディアス王の手の者に密告しようと身構えているという、そのような腹黒い男なのです。父上、なんとかあの男の宮殿内における勢力を削ぎ、議会における影響力を奪いましょうぞ。そして、我々はこれから一致団結して現王クローディアスを斃さねばなりません。こちらのハムレット王子を旗頭に、これから星の数ほども次から次へと綺羅星の如く強者の兵が集ってきましょう。父上、そうなれば最早王都からの呼びだしがいつあるかなどと怯えなくてもいいのです」
「…………………」
トリスタンはこの瞬間ハッとした。やはり、そのようにはっきり決断しきることは、おじにとってそれほどまでに重荷だったのだろうかと、あらためてそう感じたのである。
「ハムレット王子、見苦しいところをお見せしてしまいました。ですが、このリヴァリン=ライオネル、すっかり腹を決めましたぞ。あなたさまのことはローレンツやキルデスより、以前から聞いておりました。そして、私めにしてもいつかこのような日がやって来るに違いないと思い、準備していたことがあったのです……いや、王子。実に申し訳ありませぬ。愛する妻を亡くし、その上宮殿内で揉め事が増えるうち――どうやら私は本当に、大切なことを見失うところでございました……」
このあと、「王子、少々お待ちを」と言い残し、リヴァリンは宮殿の主塔にある自身の私室のほうへ向かおうとした。トリスタンもついて行こうとしたが、リヴァリンは甥の肩に手を置くと、力強く笑って見せた。それは、ここ暫くずっと見ることの出来なかった、トリスタンが敬愛するおじの、心からの笑顔であった。
「心配するな、トリスタン。もう私は今までの曖昧で中途半端で腑抜けた領主としての私ではない。何より、女王二ムエの言葉から察するに……今これから、この<西王朝>では大きく時代の歯車が動きはじめるのだ。むしろ、そのような時代の変革期に生きることが出来たことを――のちに私もまた、心から嬉しく思うことだろう。今はまだ王都から漂ってくる闇は色濃い。だが、黄金の暁の獅子がその闇を払う時がとうとうやって来たのだ」
リヴァリンが水晶の塔から出ていくと、側近である騎士たちは領主が何も言わずとも、ただ自分が仕える者に従っていった。そして彼が戻ってくるまでの間、ハムレットたちは大理石の噴水の縁に腰掛け、ライオネス領主が戻ってくるのを待つことにしたのだった。
「よかったな、トリスタン。おじ上殿がようやく正気に戻ってくれたみたいで……」
ランスロットがぽん、とトリスタンの肩に手を置いて言った。
「ああ。だが、それもまたハムレット王子の存在あってこそだ。もしあの時、一度は僕の説得に応じてくれたとしても……また半月もすれば元に戻っていた可能性だってあったかもしれない。ボウルズ卿の死は、僕にとってもショックだった。何分、ボウルズ家は代々<東王朝>からの侵攻を何度となく食い止めてきたという軍人として名門の家系だからな。その功労のことも一瞬で忘れ、クローディアス王は衷心から仕える家臣のことをもっとも残忍な形で殺したんだ。次に呼ばれるのは自分かもしれないと、父上が怯えた気持ちもわからなくはない」
「それにしてもおまえ……」
ギネビアがぷっと吹き出すと、そばにいたランスロットもカドールも笑った。トリスタンの狂人としての演技を思いだすにつけ、あらためておかしくて堪らなかったのだ。
「なんだよ!僕だって必死だったんだ。何もおまえたちに真実をすべてぶちまけたら、真紅の獅子が闇の中から現れて僕を喰い殺すだろう……なんていうことが怖かったわけじゃない。僕がもし下手を打ったら、何かがまずい方向へ一直線に転がっていくんじゃないかってことが一番怖かったんだ。とにかく、女王二ムエの言った言葉にはそのくらいの拘束力があるということさ。これは、試練を経験した人間でないと決してわからない」
「ごめん、ごめん。悪かったよ」
そう言ってギネビアが大笑いしてあやまると、他のみなも笑った。何故なら、ランスロットやギネビアが「タントリスってなんだよ」、「記憶喪失ってマジじゃないんだろ?」などと言うたび、トリスタンは「ぎえええ~っ!!」と叫びだし、胸のあたりをかきむしりつつ狂人の振りをはじめたからだった。「僕はタントリスなんだ~。そのトリスタンってのは一体どこの誰なんだ~っ!!」頭を石壁にぶつけ、彼が血まで流していたことを思うと、もちろん笑いごとではなかったのだが……。
ランスロットもこの時、少しばかり反省した。十番目の見張り塔のことだったか、十一番目の見張り塔のことだったか忘れてしまったが、トリスタンとふたりきりになった時……「俺には本当のことを話せよ。誰にも何も言わないから」などと言ったことがあったからだ。この時もトリスタンは途端にわなわな震えだし、「ぼ、ぼぼ、僕はタントリスだっ!トリスタンなんか知らないっ!!」と、頭を抱えて泣きださんばかりだったのだから。きっとその時の自分はトリスタンにとって、恐るべき誘惑の悪魔のようにしか見えなかっただろうことを思うと……ランスロットとしてはこれ以上笑うことは控える以外なかったと言える。
「だが、トリスタンさま」と、ある程度みなの笑いの虫が治まったところで、カドールが真面目な顔に戻って言った。「これから我々はトリスタンさまが試練を受けたのと同じ地、カールレオンへ向かわねばなりません。ですが、俺が以前そこで一晩の宿を緑の岩屋で借り受けてみて思うに……あそこには実際のところ『これ』と言えるほどのものは何もない。確かに、緑したたる麗しい地ではありますよ。ですが、キャメロット州は一年中緑あふれる素晴らしい大地だと聞いているから、『あ、ここが噂に聞くキャメロット州か』とわかるという、その程度のことにしか過ぎない。そして、苔むした緑の岩屋のあるあたりがカールレオンと呼ばれているらしいと知っているだけで……我々がこれからそこへ向かったとして、具体的に何をどうすれば良いということなのですか?」
みんなから散々笑われ、さらにはレンスブルックまでが地面に転がることさえして、「僕はタントリスぎゃ~っ!!」などと物真似して見せたため、みな暫く爆笑の渦中にあったわけだが――トリスタンは最初は怒りで顔を赤くしていたものの、レンスブルックの物真似がおかしくなってきて、最後には彼も大笑いしていた。
だが、そんなトリスタンも真顔に戻ると、真剣に答えた。そして、彼にしても少々おかしかった。カドールのように賢い騎士でも、やはりこの世界に知り得ぬことというのはあるものなのだと、そう思ったせいかもしれない。
「そうだな。第一、少々前提からしておかしいと思わないか?あれほど美しい場所に、実際には我々が家と呼ぶような建物はひとつもないんだ。確かに我々はあの場所が聖地であると知ってはいる……だが、いくら古い言い伝えのあるそのような場所だからとて、何故誰もその場所を占拠して、畑を作って耕そうだの、あの素晴らしい古城の廃墟を復興させようだの、そんなふうに考えないんだろう?何より一番考えられるのは、王都から誰かしらがそんなふうに命じられて開拓にやって来ることさ。だが、誰もそんなことをした者はない……というより出来ないんだ」
「どういうことですか?」
ハムレットがこれからそこで試練を受けねばならぬ……そう聞いていたがゆえに、タイスは強い興味を持った。何より、キャメロット州のカールレオンについて、ユリウスはディンブラを爪弾きつつ、そこに伝わる古くからの言い伝えを、何度となく歌いながら教えてくれたことがある。胸をとろかすような音色とともに、生き生きと描写されたそれらの物語を――彼は今も忘れることが出来ない。ゆえに、「何もない」などということ自体、信じ難いとしか思えないのだ。
「そうだな。どう言えばいいか……とにかく行けばわかるとしか、僕にも言えないかもしれない。キャメロットとその隣の州のアヴァロンはとても不思議なところだ。キャメロットは緑あふれる麗しの大地、そしてアヴァロンは人をその奥地までよせつけぬ霧深い湿地帯で、心悪しき者はそこで足を取られて沼に沈むという。今僕が言えることとしては、そこを今まで誰も開拓したことがなかったということこそ――永遠に生きるという女王二ムエの治める国がある証拠だということかもしれない。キャメロットとアヴァロンは、常若の国(ティルナ・ノーグ)への入口だと言われているが、話として聞く分にはかなりのところ言い伝えめいてしか聞こえないことだろう。だが、もしそうでなかったとしたら、そんな戯言なぞ信じない歴代の王の誰かが彼の地を調べて人を住まわせ、重税でも取り立てているはずさ」
タイスとカドールが次に何をどう訊ねるべきか迷っていると――トリスタンは不意にハムレット王子と視線がかち合った。(そうだった)と彼は思い、立ち上がると自分が仕えるべき君主の元まで行き、その場に跪く。
「王子、この件に関しては何も心配いりませぬ。確かに、ハムレットさまにはキャメロットやアヴァロンにおいてなさるべき仕事があるに違いない。ですがそれは、僕が縛られたような試練とは、おそらく趣きを異にしたものなはずです。女王二ムエは、ハムレット王子をいずれこの国を治めることになる王として祝福してくださるでしょう。そして、女王から祝福を受けた者は、どのような邪悪な人間も害すること叶いません。つまりはそういうことなのです」
(本当に、そうなのだろうか……)
西王朝にも東王朝にも、自分が家臣として使える君主や領主の手の甲にキスをし忠心を示す挨拶があるが、この時トリスタンがそのようにハムレットの手の甲に恭しく触れた時のことだった。水晶の塔にリヴァリンと騎士ふたりが戻ってくると――彼らもまたハムレット王子の御前に膝を屈めたため、ハムレットの先行きの不安に対する想像は一度中断された。彼としては、もし自分がその女王二ムエに出会ったとしたら、トリスタン以上の恐ろしい試練を与えられ、本当に王となるに相応しい者なのかどうか試されることになるのではないかと、そのことが心配だったのだが……。
「ハムレット王子」
リヴァリンもまた、トリスタンの隣で跪いて言った。後ろの騎士ふたりは、黄金がかった山吹色の布を通したポールを、それぞれ両手で捧げ持っている。
「これなる品は、いずれハムレットさまが王となられる日がやって来られるかもしれぬと思い、もう十年以上も昔に職工に作らせたものでございます。それを、何故今の今まで忘れていたのか、私としても恥かしい限りなのですが……ギルデンスターン侯爵やローゼンクランツ公爵とは違い、私は浮世の悩みに沈むうち、いつしか星神・星母への信仰を見失っていたのでしょう。トリスタンがカールレオンへ行き、その地からの品を持ち帰ったことで――突然、何かの目の覆いがポロリと落ちたかのように目が覚めたのでございます」
「これは……?」
リヴァリンの従者ふたりが捧げ持っていたのは大きな旗だった。そして、この騎士たちは一礼すると立ち上がり、旗に何が描かれているかをハムレット王子に見せるため、ポールを地面に立て、大きく振って見せたのである。
黄金がかった色味の旗には、内苑七州の七つの旗、外苑五州の五つの旗の計12州の旗が描かれ、さらにはその上に王冠を被り、右手に王杓、左手に楯を持ったひとりの王の姿が描かれている。そしてその王というのが――実にハムレット王子に面差しがそっくりなのだった。
「そうです、王子よ。私は今こうして直接お会いするまで、ハムレットさまがどのようなお方なのか、肖像画ひとつを通してさえ知りませんでした。ですがこれは今から十四年もの昔、私が彼の地にて試練を受けました折に……このような旗を作れと、女王二ムエに記憶の中に刻印されたその通りに作らせたものなのです。あの頃、私はまだ若かったものですから、ライオネス領地のいい領主になるのだと、そのためならばどのように苦しく厳しい試練をもくぐり抜けてみせると、そのように意気込んでカールレオンへ向かったものでございます。結果としてはですな、私の場合はトリスタンとは違い、そう難しいことは言われなかったのです。ただ、いずれ新しく立つことになる王のために、このような旗を作れと言われ、自分の治世のことについて言えば、『おまえは橋だ』と、そのように言われました。私の次に立つライオネス領主は、王のしもべとして歴史に名を残すほどの良い働きをするだろうという、女王二ムエの祝福の言葉が嬉しくて堪りませんでした。というのも、私はその頃まだ結婚して間もなかったものですから、まだ生まれてもいぬ我が息子がそのような者として歴史に名を残すのだと思い、意気揚々として城砦へ戻ってきました。それなのに何故トリスタン、おまえが試練を受けにカールレオンへ行くのを私が反対したかわかるか?」
リヴァリンの瞳には涙があった。だが、主として仰ぐハムレットの前で見苦しいところを見せてはと配慮したのか、リヴァリンはぐっと涙を堪えて続けた。
「十四年ですぞ、王子……我が不信仰を罰してくださって構いませんが、永遠に生きる女王二ムエにとっては、人間の十四年はもしかしたら十四日ほどでしかないかもしれませぬ。ですが、この浮世においての十四年は人間にとっては長く、その間、色々なことがありました。まず、私がカールレオンまで試練を受けにやって来た時、トリスタンの両親はふたりとも生きておりましたし、その試練というのがもし命の懸かるほどのものであれ、自分が死んでも弟がいる……そしてこの愛する弟が私に万一のことがあった場合はライオネス領地を賢く治めていってくれるだろうとの深い信頼もあり――私はトリスタンの父であった弟のことを、それは頼りにしておりました。ところが弟夫婦は相次いで病没してしまい、それのみならず私と愛する妻との間には子などひとりも出来ぬままで……その瞬間、私はハッと気づいたのです。確かに、私には跡取りとしてトリスタンがいる。そして、トリスタンは前途有望な若者であり、領主の跡目を継ぐのに安心な甥にして息子でありました。ですが逆に言うと、愛する妻もその後亡くなった私にとって、今はもうトリスタンしかいないのです。おかわりでしょうか、王子……確かに今、女王二ムエの言葉は成就したと、この愚かな私めにもよくわかります。ですが、今まで私が女王二ムエの言った橋として……どれほどの苦しみを耐え忍ばねばならなかったかを……」
「父上……」
トリスタンの瞳にも涙があった。ハムレットは彼らが君主として仰ぐ者として、どのような言葉をかけるのが相応しいのかがわからなかった。それで、沈黙したままでいたのだが、リヴァリンは一息ついてのち、再び続けて言った。
「ハムレット王子。今、私は自分の肩の荷が下りたことを、橋としてトリスタンに次の領主の座を譲れることを、実に嬉しく、また誇りに感じてもおります。いずれ、王子さまがバリン州のバロン城を攻め落とすという時には、我が騎兵一万の精鋭を集め、必ずや馳せ参じましょうぞ。実をいうと私めは、以前のバリン州の領主ボウルズ卿とは旧知の仲でして、親しくしていた卿が拷問の末に亡くなったと聞いた時は誠にショックでした……ですが、今はこうも思います。決してそのために卿は亡くなられたという意味ではなく――もしあのままボウルズ卿と彼の一族がバリン州を治めていたのだとしたら、私は王子さまと卿の間で非常に苦しい思いをしたかもしれませぬ。けれど今は、親友と呼んでいい仲だったサミュエル・ボウルズの仇を取るためにも、王都テセウスまで攻め上り、あの男の無念の思いを晴らしてやりたいと、そのように思うばかりなのでございます……」
「ボウルズ卿は、立派な人物だったと聞いている」
ハムレットは王子として、苦しい溜息の間から、そのようにリヴァリンに語りかけた。
「そして、王都テセウスはクローディアス王が恐怖によって支配しているとも……オレも、今こうしてヴィンゲン寺院から長く旅して来て、日々色々考えた。まず、三女神の託宣がなければ、とてもではないが王として立とうなどという大それた思い自体、考えつくことさえなかったことだろう。だが、『正しい者が悪者の前に屈服するのは、汚くされた泉、荒らされた井戸のようだ』という箴言があるように、もう二度とボウルズ卿のように優れた忠臣が拷問の末に死ぬような、そのようなことは決してあってはならぬ。オレも、日々何故オレだったのだろう、他にこの国の王になるのに相応しい器の人物がいるのではないかとは考える。けれど、やはり思いはひとつのことに戻ってゆくのだ。クローディアス王は我が父の弟、そしてその王妃は我が母。ならば、やはりその罪の根は、親族であるオレが刈らねばならぬという、そうした運命なのだろうということを……」
普段、夜の食卓の会議にて、ハムレットはそう雄弁にしゃべるほうではない。大体のところ一番闊達に議論しているのはタイスとカドールであって、ハムレットはふたりが自分の意見や承認等を求めているように感じた時だけ、言葉を差し挟めたり、よくわからないことや興味のある部分についてのみ、質問したりしている。だが、表面的に見える以上にハムレットが心の奥深くに感じ、考えるところがあることを知り――カドールは感服し、ランスロットとギネビアは彼に対する忠誠心を新たにしていた。
金、権力、名誉……あるいはここに女性に対する欲望が王位を求める気持ちに加わる場合もあるだろう。だが、ハムレットはそうしたものに興味はなかった。たとえば、ここライオネス宮殿には、クローディアス王も羨むような美術品の数々が蒐集されているに違いない。けれど、ハムレットとしては屋根があってぐっすり安心して眠れる寝室があれば、ギルデンスターン侯爵領やローゼンクランツ公爵領の城館で見たような、あれほど豪奢なベッドで眠りたいとは考えない。食べ物にしても然り。孔雀肉など毎日のよう出されても、あれほど優美な生き物が自分のために屠られたのだと思うだけで、彼の心は痛むばかりなのだった。
「おお、我が君、ハムレット王子よ。今こそ、今こそ私にもよくわかりましたぞ……私の心痛多きこの十四年は決して無駄ではなかったのだということが。いや、私が自分で自分の時間を無駄に浪費したという、ただそれだけのことだったのです。毒のサソリとマムシとは、確かに近く地中深くへもぐり、暁の光が悪の毒を一掃するように光り輝くことになりましょう。そのためならば、私も私の跡取りのトリスタンも、この命を賭けて王子さまに忠義を尽くしましょうぞ」
そう言って、リヴァリンはハムレットの白のガウンの左側の裾に口接けし、トリスタンは右側の裾に口接けして、王とその家臣との契約の儀式は終わった。こののち、リヴァリンは当然のこととばかり、ハムレット王子のために大宴会を催そうとしたが、他でもない彼自身がそのことを止めていたのである。
「いや、オレ自身、何も臆病風に吹かれるあまり、ここの内通者に自分の存在を王都に知られたくないというわけではないのだ。だが、流石にまだクローディアス王と事を構えるのは早計だろう。今のところは、次にキャメロット州のカールレオンを目指し、その永遠に生きるという女王二ムエになんらかのお伺いを立てるべきなのだろうという気がしている。オレも、ローゼンクランツ公爵やギルデンスターン侯爵の強力な後押しがありながら……ひと度戦争の火蓋が切られたとすれば、ひとりの兵士の命も落とさず、すべての者が無傷でいることは出来ないとわかっている。しかも、普通に考えた場合、もし兵の軍勢の数で上回れたところで、我々のほうが圧倒的に不利なのだ。そのこともよく理解している。それでどうすれば勝てるのか、犠牲者は少なくて済むのかどうか、女王二ムエに教えてもらいと思っているのだ」
(やはりこの方は、我々が思っている以上に英邁なお方なのだ)――その場にいた全員がそう感じるのと同時、トリスタンは永遠の女王二ムエに出会い、試練を受けた者として、王子にこう申し上げた。
「ハムレット王子、今の王子のお言葉で、愚かな僕にもよくわかりました。カールレオンにおいては、<言葉>というものが非常に重要な意味を持つのです。そしてすでにハムレットさまは女王に何を質問すべきか、よくわかっておいでなのです。今にして思えば僕も、随分くだらない……いえ、僕個人にとっては大切なことだったのですが、女王二ムエにとっては失礼に当たるに違いないだろうことを色々質問してしまったものです。まったくお恥かしい限りですが、ハムレット王子におかれましては、万事においてすべてが上手くいくことでしょう」
――このあと、リヴァリンは宮殿の議会の間へ赴き、内大臣のヴォロンらを非常に驚かせたわけだが、心がすっかり決まったこのライオネス領主は、以前と同じように自分が正しいと考える方向に政務の舵を切ることにし、彼を主と慕う貴族たちを喜ばせた。
一方、ハムレット王子一行はトリスタンの住むリエンス城へと再び戻り、今後のことを話し合うことにしたわけである。そして、一同はリヴァリンからもらい受けた、忠義の品としての王旗を円卓の真ん中に置いて眺めると、あらためて感嘆の声を洩らしていた。
「十四年前か!!十四年前というと、ちょうどハムレット王子がヴィンゲン寺院へやって来られた頃じゃないか?」と、ギネビアが喜びつつ、旗を振りながら言う。「不思議だなあ。見れば見るほど、この旗に描かれた王さまはハムレット王子にそっくりなんだもの。でもその頃、ハムレットさまはまだ物心もついておられなくて、将来どんなふうにお育ちになるかもわからなかっただろうに……女王二ムエにはすでにわかってたってことだものね」
「いや、私はもう来月、十七になる」ギネビアにあまり年の差を感じて欲しくなくて、ハムレットはすかさずそう言った。「いや……実はオレも自分の正しい誕生日について、ヴィンゲン寺院を去る頃になるまで知らなかったのだ。ハムレットという名と七月十七日という生年月日が揃っていてはまずかろうということで、オレは別の月に生まれたのだと、ずっとそう思い込まされてきた」
「そうか。ハムレット王子は七月生まれなのですね。光栄なことには俺も同じく七月生まれなんですよ」
ランスロットが嬉し気にそう言っても、ハムレットはこちらには反応が薄かった。
「だからなんなんだよ!!」と、ギネビアが厳しい口調で言う。「ハムレットさまが七月生まれなのはなんとも輝かしく喜ばしいことだが、おまえと生まれ月が一緒だからって、なんでランスロットが威張んなきゃなんないんだ」
「まあ、そう怒らなくてもいいじゃないか」カドールがいつも通り、ギネビアとランスロットの間に割って入る。「とはいえ、ランスロットのことは確かにどうでもいいとして、七月といえば、ちょうど獅子座が見られる季節ですね。そして蠍座と海蛇座を追うようにして西の空へ沈んでいく……この季節、砂漠を渡る民らはみな、獅子の心臓に赤く燃える星を目印とすべく、夜空を見上げるものです。そして、ハムレット王子はいずれそのような形で王座へ就かれることでしょう」
タントリス=トリスタン問題もすっかり解決したこの日、リエンス城では実に楽しい宴のひと時が続いた。そして、ギベルネスはといえば、さして食卓の席にて話題の中心人物となるでもなく、いつも通りただ静かに食事をしながら――左隣のディオルグと話したり、あるいは右隣のレンスブルックと談笑したりと、大体そんなところであった。ところが、ふとした何かの瞬間に、ギネビアにこう言われたのである。
「ギベルネ先生、先生はさ、わたしやランスロットなんかと違って、トリスタンのことなんか知らなかったわけだけど、でも先生にはわかってたんだろ?トリスタンが嘘ついてるってさ。だけど、きっとなんか事情があるんだろうと思って、優しく気を遣ってくださったんだよ」
「そうなんですか?」
カドールが時折見せる、多少意地悪な棘の矢をこの時も向けて来たため――ギベルネスとしては不本意ではあったが、またしても多少なり<神の人>としてそれらしき発言をせねばならぬようだと悟った。というより、『<神の人>というからには、女王二ムエともお知りあいなのでは?』などと言及されたのでは堪らない。
「そうですね……記憶喪失の人、というのを私は今までに三人ほど見たことがあります。ひとりは己の記憶のみならず、厠の使い方や体の洗い方など、そうしたすべてを忘れてしまっている人物で、これは非常に珍しいケースです。ふたり目は、自分の母親が実の父親を殺す場面を見てしまったショックで、その部分の記憶のみ抜け落ちてしまった人物、三人目の人は船乗りで、遠く海を旅していたところ、ある時船が難破したんです。彼はどうにか他の船に助けられたのですが、記憶の多くが欠落していました。どうやら自分が船に乗っていたらしいことや、漁をしていたことなどはぼんやり覚えているらしいのですが、自分の奥さんや子供、家族の名前や顔などは、一切思いだせませんでした」
「それで、どうなったんですか?」
カドールの<神の人>に対するある種の毒に、タイスはすでに鋭く気づいており、気を遣う物言いで先を促した。もうずっと前に彼には、『<神の人>である彼を失えば、ハムレット王子は王位に就くこと叶わぬ』と、三女神の託宣について教えてあるのだが。
「私の知る限り、そのままです。その後、船乗り仲間から知らせを受けた奥さんが、自分の夫でないかと思い訪ねてきたのですが、彼女は最初、自分の夫がふざけているのではないかと感じて笑っていました。夫が「どちらさまですか?」などと空中に目を泳がせながら言うのを、何かの演技をしているとしか思えなかったのでしょう。ところがその後、何時間もとっくり話しあってみて、本当に夫が何も覚えていないのだとわかると……彼女はわっと泣きだしました。私が思うに、記憶というのものはおそらくその人が生きてきたしるしと証しのようなものなのだと思います。夫婦として喜びも苦しみも分かちあってきたのに、その部分の絆が失われたどころか、子供や自分の父母の顔すら覚えていない――これは、そう簡単には受け容れることの出来ない厳しい現実です。目の前にいるのは、夫であることは間違いないが、夫ではない別の人物でもあるわけですから……ああ、すみません。話が脱線してしまいましたね」
この三つの記憶喪失のケースは、ギベルネスが医学生だった頃、実際に遭遇したことのある患者の話だった。だが、食卓を囲む一同がしーんとするのを見て、ギベルネスはタントリスのことに話を戻すことにしたわけである。
「ですから、タントリスさんが実はトリスタンさんとよく似たまったくの別人でなかった場合……つまり、タントリスさんが本当はトリスタンさんであるにも関わらず、何かの事情からそのように嘘をつかねばならない以外では、タントリスさんが自分の名前以外思いだせない記憶喪失である可能性は、最初からとても低いと思っていました」
「それはどうしてですか?」
トリスタンは、口許に優しい微笑を浮かべつつそう聞いた。何故といって、旅の途中、彼はしょっちゅうギベルネスに庇ってもらっていたからだ。ギネビアやランスロットが「おまえ、トリスタンなんだろう?ええっ!?」といったように、まるで下郎を小突くような態度を見せるたび――ギベルネスは間に入ってよく他のことに話を逸らしてくれたものだった。
「簡単ですよ。記憶喪失の人というのは……記憶というのは、ある意味その人そのものというくらい大切なものですからね。記憶のない状態というのは不安なものなんです。いいですか、たとえばランスロットが記憶喪失になったとして、『自分はランスロットという名前以外思いだせない』ということは、馬上から落ちた先に運悪く岩があって頭をぶつけたといった場合、絶対起きないことだとは言えない。ですが、『自分はロットランスだが、自分の名前以外思いだせない』とか、『自分はドルーカだが、自分の名前以外思いだせない』とか、そんな高度なことまでは出来ないんです。とりあえず、私の知る限りにおいてはそうです。ですから、トリスタンが自分をタントリスと名乗る以上……何かよほど深い事情でもあるのだろうと、そう思って様子を見ていました」
「なるほど。流石は<神の人>ですね」
自分の名前まで出されたことがおかしかったせいもあり、カドールは笑って拍手した。すると、他の者もそれに続いたが、ギベルネスとしては何やら気恥ずかしいばかりだったと言える。もっとも、カドールはそれでもやはり、心に毒を隠し持ってはいた。というのも、たとえば女王二ムエの持つようなある種の超人的な力によって、そもそもそのような形によってトリスタンは縛られているのだと――<神の人>が見抜いているというわけではなかったからである。
(それに、彼はいつでも我々が話しあうのをただ黙って聞いているだけで……今のように求められない限り、積極的に話すということがまずない。さっきだって、我々はこれからキャメロン州のカールレオンへ向かうという話をしていたのに、何か助言ひとつするというわけでもない。むしろそうした時、自分の周りに見えない分厚い壁を張り巡らし、「余計なことは何も聞かないでくれ」とでもいうような態度だ。そこで、誰も彼には何も質問しない……さて、どうしたものか。俺としてもどの程度までなら深く聞いても失礼に当たらないのかと考えてしまうくらいだからな)
そこでカドールは結局、それ以上は何も言わなかった。本当は、ギベルネスが本当に<神の人>であるというのなら、自分たちは一体何月何日にここライオネス城砦から旅立ち、カールレオンを目指すべきかなど、彼としては聞いてみたいことはいくらもある。流石にそこで、ハムレット王子がどのような試練を女王ニムエから受けるのかといったことまでは聞きすぎだろうということは、カドールにしても常識から推してわかる。だが、もう少し何か……<神の人>として啓示のようなものを見せてくれてもいいのではないかと、彼としては物足りないものをつい感じてしまうのだった。
>>続く。