今回の前文には、何を書こうかな~♪と思ってたんですけど……実はローゼンクランツ城砦あたりのところで洗濯のことに少し触れたものの、する前から「一口に洗濯に使ってる洗剤の種類についても、そんなに簡単じゃないよなあ」とは一応思ってました。
なので、もしまた機会があれば、どこかの前文にでも言い訳事項を書いてみたいと思うものの――前回、カドールが<ユニコーン亭>とかいう場所でエールを頼んでたので、「中世の食卓から」に書いてあったエールとビールの違いについてでも……と思いつつ、まあまたこれも機会があったらということで、とりあえず今回は「中世貴族の華麗な食卓~69のおいしいレセピー~」のことを書きたいと思いました
いえ、わたし最近の中世を舞台にした漫画やアニメをあんまりというか、たぶんほとんど見てないと思うので(汗)、最近人気のものの中では料理のことについてどんなふうに描写してあるのかとか、正直よくわかりません
でもたぶん、ネット小説でファンタジー書いてる方がたくさんおられることから、他の方もきっとわたしと同じように「中世・料理」みたいに検索をかけてるに違いないと思い……大体参考に出来そうな目につく本とか、同じなんじゃないかなと思うわけです(^^;)
わたしにとって、マドレーヌ・P・コズマンさんのこの本は、最初は買おうかどうしようか迷った本でした。でも、石井美樹子先生の「中世の食卓から」という素晴らしい本にも言及があったため、それで「とりあえず買ってみよう♪」となったんですよね。なんにしても、69もレシピが掲載されているなら、その中のいくつかは小説の中でそのまま名称を使えるかもしれない……なんていう、そんな気持ちから
ただ、わたしが買おうかどうしようか迷った理由のひとつとして、密林さんでの評価が2.6だったということがありました(あ、ちなみにレビュー書かれてる方が悪いわけではまったくありません。読んで参考になる意見と思っておりますm(_ _)m)。でも結果としてわたし自身は買って良かったと思ったというか
いえ、「中世の食卓」からもわたし、名著と思ってるのですが、聖書やシェイクスピアからの引用が多いこともあり、キリスト教文化について「よくわからん☆」と思ったり、シェイクスピアの作品にまったく興味ない方が読んだ場合……面白くないと感じられる可能性も一応あると思っていて(^^;)。
その、マドレーヌ・P・コズマンさんは、著者近影的なところの下に、>>「中世の衣装や料理、音楽や住居などを現代の生活の中に再創造していこうという実践者でもある」と書いてあったり、あるいはコロンビア大の医学部を卒業しておられたり、こちらの本がピューリッツァ賞とナショナル・ブック賞の候補作品になった――ともあるとおり、本当に素晴らしい方なのだと思います
でも、こちらの本を参考にして中世世界の食卓を再現し、そのようにコスプレした方々を招いて食事するのは、とても素晴らしいことと思う一方……実際には書かれたことをすべて実践するのは難しかろうなというのが、わたし個人の素人意見です(^^;)。
ただ、石井美樹子先生の「中世の食卓から」と合わせて、わたし自身は「当時はそんな感じだったんだなあ」と、とても参考になりましたし、前回<ユニコーン亭>にてギネビアが食べていた「レンズ豆とラム肉の煮込み」は、こちらの本から取ったメニューだったりするんですよね(←これはただのカレー・笑)。
とはいえ、この69あるレシピを実際に作るのはなかなか難しいのではないかとわたし的には思われ……わたしがぱらぱら☆読んでいて思ったのは、初めて西洋料理的なものを作ってみた時――「月桂樹(ローリエ)の葉を入れる」とか、「ローズマリーで肉の臭味を消す」とか書いてあったため、そのとおりにしたものの……「いや、むしろローリエ入れないほうが美味しかったんじゃないか」とか、「ローズマリーの味がむしろ邪魔だよ」とかいう、それに似たことが起きるのではないかいう香りを強く感じることから、「ある程度自分なりにアレンジする」ことが必須でないかという気がします(^^;)。
とはいえ、こうしたレシピの記載が並ぶ最初のほうに、当時の饗宴の習慣について触れている点はとても参考になりました。もっとも、ファンタジーに出てくる貴族の食卓の再現として必ずしも同じようにしなくてはいけないわけでもないですし、特に異世界設定の場合「無視してまったく問題なし☆」とは思うものの……わたし個人の中世胸きゅんポイントについて、今回は少し触れてみようかな~と思った次第であります
>>食前と食後の手洗いの儀式には、水受け用のボウルの中に大きな水差しを重ねて入れ、そのそばに、手ふき用の長いタオルを用意します。手洗いのお湯には、よい香りがただようローズマリーや、ヘンルーダやタイムのようなハーブをもみ砕いて入れてください。饗宴が始まる前に、席につかれたお客様ひとりひとりの手の上に、ゆっくりと水を注ぎますが、その水はボウルの中へ受け、手をふくタオルをすすめます。
(「中世貴族の華麗な食卓~69のおいしいレセピー~」マドレーヌ・P・コズマンさん著、加藤恭子/和田敦子さん訳、原書房より)
ローズマリーやヘンルーダやタイム……と書いてあるのを読んだだけで、自分的にうっとりしますし、「王子と乞食」の中に、エドワード王子と入れ替わった乞食のトムが、食卓のしきたりがまるでわからず、この手洗いするための薔薇水を間違って飲んでしまうというシーンがあるのを思い出し、なんだかおかしくなったものでした(笑)。
>>食事がすむと、ひとりの侍従が、幅の広い金製の浅い皿の中へ、かおりのよいばら水を入れてささげてきた。これは口をそそいだり、指を洗ったりするためで、トムのうしろにはナプキン係りの貴族が、ちゃんとナプキンを手にして、トムが洗い終るのを待っていた。ところがトムは、一、二分の間、皿を眺めて思案していたが、いきなりそれを唇に持っていって、グッと一口飲んだかと思うと、そばに待っている貴族に皿を渡し、
「わたしはあんまりこの水は好きでない。においはいいけれど、味がないもの」
またしても、王子の狂った精神を見せつけられ、おそばの者たちはいまさらのように心を痛めた。むろん、笑った者などひとりもなかった。
(「王子と乞食」マーク・トウェイン著、村岡花子先生訳/岩波文庫より)
また、石井美樹子先生の「中世の食卓から」には、次のように書いてあったり
>>中世の貴族たちにとって、食前食後の手洗いは、重要な儀式であった。フォークがなく、盛り皿も酒杯も共有で、スープ類をのぞいて、何もかも手づかみで食べた時代、手の清潔さはことさら重んじられた。手の汚れは、粗野で教養のないことのしるし。手が汚れている者は貴族社会のはみだし者だ。それだけに、手洗いの儀式は、食前の祈りと同じくらい厳粛に行われた。
【中略】
貴族出身の手洗い係が、手洗い用の水と、二枚の長タオルを持ってしずしずと広間に入ってくる。一枚のタオルは右の肩にかけられ、もう一枚は左の腕にかけられている。手洗いは身分の高い順から行い、最初に手を洗うのは、迎える側の主人か、主賓格の客。方法は、水差しから注がれる水の前に手を差しだす場合と、水盤のなかに手を入れる場合があった。どんなにお腹がすいていても念入りに手を洗い、あわてるあまり水をはね散らかしてはならなかった。しかし、水を注いでもらって手を洗えば、どうしても水がはね散る。そのような場合にそなえて、ふたりの給仕が両脇に控えていることもあった。同じ儀式が、食後の後にも繰り返された。
水盤に手を突っ込む場合は、水とタオルはさぞかし汚れたにちがいない。食事の最中の手洗いもしかり。『作法の書』を出版したウィリアム・キャックストンは、手は水のなかで念入りに洗い、タオルにしみなどつけてはならないと忠告している。
食前の手洗いのときは、なんとかタオルにしみをつけないですむとしても、食事の最中や食後は、脂のしたたる肉料理を手で食べるのだから、水はたちまち、ぎとぎと脂ぎってくるであろうし、タオルを汚さずにはすまない。とはいえ、紳士淑女は、タオルを汚してはならないというのが原則だった。というわけで、レディーのなかには、手練手管を用いる者もいた。食前にちゃっかり腹ごしらえして食卓につくのだ。上品にほんの少し食べ物をつまむだけだから、フィンガーボールのなかに指を入れたとしても、水は汚れず、タオルにしみも残さない。腹を満たして、かつレディーとしての名があがれば、一石二鳥。婚礼の席の花嫁さんに教えてあげたいような方法だ。
タオル用のリネン地は高価なものだったから、賢明な女主人は、食前の手洗いには上等のタオルを、食間の手洗いには、使い古いのタオルを用意した。客は食事に気を取られているから、タオルが新しいかどうかなど、気にすることはまずなかっただろう。
こんな苦労が個人用のタオル、つまりナプキンの慣習を発達させた。だが、それはずっと後の話。十四世紀の頃でもナプキンはまだ一般化されていなかった。
裏で宴会を取りしきる女主人の苦労もさることながら、手洗いの儀式がかくも厳粛なものとあらば、手洗い係もさぞかし気を遣ったことだろう。客に恥をかかせないために、水もタオルも汚れないように気を配らなければならないし、汚れたら、さりげなく取り替えなければならない。湯の温度にも細心の注意をはらわなければならない。夏は冷たい水を、冬は温かい湯を用意しなければならない。香りのよい水はことのほか好まれたようで、レシピがいくつか残っている。
『手を洗う水を用意する。セージを入れて温め、ちょうどよい温度まで冷ます。セージのかわりに、カミツレ、シソ科のマヨラナ、あるいはローズマリーを使ってもよい。それにオレンジの皮を入れて温めよ。月桂樹の葉もいいが、もったいないかもしれない』
(「中世の食卓から」石井美樹子先生著/ちくま文庫より)
他に、「中世の食卓」からには、スプーンやナイフを使うことは定着しても、フォークを使う文化がなかなか根付かなかった理由なども書いてあり、読んでいてとても興味深く、面白かったです♪また、>>さすがにシェイクスピアの作品には、食器のひとつとして「フォーク」は出てこない。と書かれてあることも、自分的に驚きでした
ちょっとこのフォークに関しては、いくつか関連個所を抜き書きしておきたいと思いますm(_ _)m
>>イタリアでは十五世紀頃から、食卓用のフォークが流行しだした。1518年に、フランスの絹織物商のジャック・ル・セージがヴェネツィアでさる公爵家の晩餐に招かれ、「並みいる貴族たちは、食卓で、銀のフォークを使って食事をしている」ことを目撃している。
フィレンツェの名家メディチ家のカトリーヌがフランスの王家へ嫁いだのは1533年だったが、フォークの流行はいまだフランスにおよんでおらず、フォークが宮廷で市民権を得るのは、カトリーヌとアンリ二世とのあいだに生まれたアンリ三世の時代になってからである。それもアンリがヴェネツィアに旅をしたのちのことだった。
>>1608年、シェイクスピアが世を去る八年ほど前のこと、トマス・コリヤットなるイギリスの文人がヴェネツィアに旅をし、一篇の旅行記『見たまま、聞いたまま』を残した。神奈川大学図書館所蔵の初版本(1611年)には、コリヤットが、そのころイギリスではまだ使われていなかったフォークをイタリアでおぼえ、その習慣を持ちかえったことが書き記されてある。
【中略】
コリヤットの「奨励」にもかかわらず、イギリスでは、フォークはなかなか食卓に姿を見せず、アン王女(在位1702-1714年)の時代になっても、手で食べるのが正式のマナーだった。
(「中世の食卓から」石井美樹子先生著/ちくま文庫より)
「中世の食卓から」には、スプーンやナイフの次に、フォークという文化がなかなが根付かなかったのは何故かという理由なども書いてあり、読んでいてとても興味深かったです♪
あ、他にも色々本の中から引用したい箇所がいくつもあったものの(汗)――そのあたりについては、こちらも機会があったらまた書いてみたいと思っています♪
それではまた~!!
惑星シェイクスピア。-【29】-
――こうして、カドールとギネビア、レンスブルックにギベルネス、それにタントリスの五人はリエンス城目指して次第次第に傾斜が険しくなってゆく坂道を上り……すぐそばに白亜の宮殿のような領主の城を眺めつつ、その近くにあるというリエンス城を目指すことにした。
「宮殿では、一晩中灯りが点されているものなのですか?」
ギルデンスターン城砦とローゼンクランツ城砦においては、夜はそのほとんどがどこも大いなる闇に包まれる。角灯といったランプを点けているのは、あくまで夕食時までで、大抵の場合そのあとはなるべく早く就寝するというのが市民の生活というものだった。だが、坂道の上のほうから下の市街地の通りを眺めてみると――あちこちの家屋敷から洩れてくる光などによって、思った以上に明るいのだった。
「ライオネス城砦ではそのようですよ」と、カドールがギベルネスの質問に答える。「まあ、悪天候の時は別として、庭先などに角灯を引っ掛けておくみたいですね。市中もそうですが、宮殿のほうはなおのこと警備のほうが厳しいですからね。とはいえ、俺などはあまり関心しませんが……」
「何故ですか?」
坂道から美しい家並みを包む、心あたたまるようなオレンジ色の光というのは、どこかギベルネスの心を癒す効果があった。あの小さな光のあるあちらにもこちらにも、それぞれの人々の幸福があるようにと……ふと、そう祈りたいような気持ちにさせられるほど。
「世の中には色々な人間がいるからですよ。第一、騎馬警官や守備兵らが一番心配しているのは万一の火災と盗難、それに人殺しといった事件でしょうが……つまり、簡単に言えば盗難や殺人といった犯罪事件のほうが火災が起きる危険より上回ることから、一晩中街角に火を絶やさないということらしいですからね。ギルデンスターン城砦やローゼンクランツ城砦に比べ、ここライオネス城砦では犯罪率が高いんです。昼間、守備隊の連中が我々に賄賂を贈るようそれとなく示したのを見たでしょう?あれもまた、よくない傾向ですね。何か事件があって裁判になっても――金さえ渡せばいくらでも偽証する輩だっているということなんでしょうから」
(なるほど)と、ギベルネスは心の中で思った。カドールが『<神の人>とやらは、どの程度のものか』と値踏みしているらしいとは感じていたが、彼は確かにハムレット王子にとって、タイス同様参謀として必要な人間に違いないと、あらためてそう感じる。
「あ!あれがトリスタンのリエンス城だよ」と、石畳みの道の先にある、藍色の屋根に新雪のように白い壁の城を指差して、ギネビアが言う。「リヴァリン伯の住む宮殿よりも、なんだかロマンチックな感じがするだろ?なんでも、昔の領主さまが愛する奥さまのために建てたってことなんだけどさあ。庭も手入れが行き届いてて、すごく素敵なんだ。きっとギベルネ先生も一目で気に入るよ」
「ええ、すでに気に入りました」
だがこの時、石塀に囲まれた城門が近づくにつれ、タントリスがガタガタ震えはじめているらしいと感じ、ギベルネスはそのことが気になった。リエンス城の城主であるトリスタンがいて、タントリスが間違いなく彼でないとわかればそれで良い――ギベルネスはそう思っていたのだが。
(だがもし、トリスタンが在城していなかった場合……どういうことになるだろうか?やはり、彼タントリスこそがトリスタンだという、そうしたことになるのだろうか?)
「ややっ、これはトリスタンさまっ!!」
堅牢な城門を守っていた衛兵ふたりは、薄暗闇の中でも、自分たちの主の顔をはっきりそれと見分けていた。一方、トリスタンと呼ばれたタントリスのほうでは――一瞬ビクッとしていたものの、カドールとギネビアの間を抜けるようにして前へ進み、こう命じたのだった。
「この者たちは、僕の友人だ。通してもらっていいだろうか?」
「ははっ!!もちろんでございますとも」
衛兵はふたりとも、すっかり恐縮しきった様子だった。
「御無事で何よりでございます。わたくしどもも、家族をあげて全員で祈っておりました。トリスタンさまが何事もなく無事に戻られますようにと……」
(ということは、トリスタンは留守なのだ)
四人はそのように一致した共通認識を持った。そして、タントリス=暫く留守にしていた、トリスタン=留守にしていたが、ようやく戻ったらしい……ということから推察されるのは、やはり彼こそがライオネス伯爵の跡継ぎ、トリスタン・ライオネルと同一人物だということだったに違いない。
「あいつ、嘘ついてるぎゃ」
レンスブルックが隣のギベルネスにそう小声で囁くと、タントリスはギクッとした様子だった。
「あなた方にとっては、このほうが都合がいいのだろうと思ったのだ」と、タントリスは焦ったように言った。「よくわからないが、トリスタンという男と僕はよく似ているのだろう?そこで、守衛もそのように間違えてくれた……僕はうまく機会を捉えてそのように演技してみたという、ただそれだけだ」
四人の間で、タントリス=トリスタンという疑惑はこの上もなく高まっていたが、誰も何も言う者はなかった。というより、ここまで来たからには、トリスタン=タントリスだったとて、おそらくそれならばそれで何か深い事情があるのだろうと、そう察せられるばかりだったのである。
ギネビアの言っていたとおり、リエンス城は手入れされた庭がとても美しかった。噴水を中心にして、左右対称に花と緑が配されており、妖精の描かれた金柵の突端にランプがぶら下がり、夜の闇を照らし出している。
城の手前には翼を広げた女神像があって、彼女を眺めるようにして階段を上っていくと、多角形の城塔をいくつも備えた、五~七階建てのリエンス城の玄関口だった。そこにも衛兵がふたりおり、トリスタンが階段を上っていくと、彼らもまたそれが自分たちの主であると認め、膝を屈めることまでして挨拶したものである。
「こっ、これはトリスタンさま。よくぞご無事で……」
「無事、試練のほうをくぐり抜けられたのでございますね。リヴァリンさまがどれほどお喜びになられることか……」
この時もトリスタンは「うむ。任務ご苦労」と言ったきりで、自分で樫の扉を開き、さっさと中へ入っていった。城門のところにいた守衛もそうだが、彼らもまた感極まった様子であることが、ギベルネスたちには気にかかっていたと言える。
「なあ、トリスタン。そろそろ猿芝居のほうはやめにしようぜ」
先へ進もうとするタントリスの肩に手をかけると、ギネビアはそう言って彼のことを振り返らせた。
「こうして無事自分の家にも戻ってきたんだし、もういいだろ?どういう事情だったのか話せよ」
この時、キッと後ろのほうを振り返り、タントリスが何か言おうとすると――玄関ホールより吹き抜けになっている二階のほうから、誰かが下りて来る気配がした。
「こ、これは……トリスタン坊ちゃまっ!!」
それは、このリエンス城の執事のリュアルだった。彼はもともとはトリスタンの両親に仕えていたのだが、領主の弟夫妻である彼らが早逝すると、今度は息子のトリスタンに仕えるということになったのである。リュアルの妻はすでに亡くなっているが、彼ら夫婦の間には子供がなかったため、トリスタンのことを実の息子以上に可愛がって育てたものである。
カドールにしてもギネビアにしてもリュアルのことはよく知っていたため、この時実にほっとしていた。何故なら、流石にリュアルの前でさえもトリスタンが本当にトリスタンであるならば、タントリスであるだなどと名乗るはずがなかったからである。
「ぼ、ぼくはトリスタンなんかじゃないぞっ。タントリスだっ!!」
表の守衛たちと同じく、リュアルもまた感極まった様子であり、今にもその老いて皺の寄った顔に涙を流しそうなほどであったというのに――彼は自分がタントリスであってトリスタンでないと言い張ったのである。
「は、はあ。いやしかし、そんな馬鹿な……」
「リュアル、こいつ頭がおかしいんだ」と、ギネビアはもはや我慢ならないというように、怒って言った。「砂漠の連絡塔で出会った時から、『トリスタンだろ、おまえトリスタンじゃないか、ええっ!?』と何度も言っているのに……自分はタントリスで、その名前以外何も思い出せないなんて抜かしやがる。しまいにはな、ここにやって来る途中の娼館で、そこのイゾルデという女にきっとぞっこん入れあげてたんだろう。その女のことだけ思い出したなんてぶさけたことまで言ってんだ。しかも、仔牛のソテーをそっちの小人から奪ってムシャムシャ食ってみたり……リュアル、おまえからも言ってやってくれ。いいかげんにしろって」
「まあ、でもオラが金だしたわけじゃないぎゃ」
「す、すみません。お金のほうはお支払いします。小人さんが懐からお金を出したのでないとすれば、ギネビアさまが立て替えてくださったので?」
リュアルはおろおろしている様子だった。彼はこの時も目の前にいる男が自分の主でないなどとは信じられず、トリスタンが何かふざけているのだろうと思っていたのである。あるいは、もしかしたら酔ってでもいるのかもしれないと……。
「食事の金を払ったのは俺だが、まあ、そのことはいい。なんにしても、我々は疲れている。ランスロットたちが先に到着していると思うが、彼らはどこに?」
「はあ。すでにお休みになってございますよ。よっぽどお疲れになっておられたのでしょう。食事が終わったあと、それはもうすぐに……こちらでもちゃんとした用意をしてなかったものですから、大したものもお出し出来なくて、申し訳なく思っていたところでした」
「というか、わたしははっきりした理由が聞きたい」
ギネビアは、壁にかかる肖像画を眺めながら言った。そこには、タントリスの今は亡き両親と、幼き頃のトリスタンが三人で描かれている。ルーファスという名の、有名な宮廷画家の描いた絵だった。
「さっき、表の守衛のひとりが、試練がどうこう言っていたからな。トリスタンは暫くここを留守にしていたんだろう?その理由は一体なんだ?」
「はあ。そのですな……まあ、なんというか色々ございまして、トリスタンさまはリヴァリンさまの後目を継ぐために、星の導きによってキャメロット州へ向かわれたのでございます」
「なるほどな。それならば理解できる」
カドールがそう言い、ギネビアと顔と顔を見合わせた。だが、ギベルネスとレンスブルックには訳がわからないままだった。
「ええとだな」と、ギネビアが説明を試みる。「父上も、領主になる前にキャメロン州にあるカールレオンで試練を受けてるんだ。そこにはニムエという名の永遠に死なない女王がいて、領主の跡目を継ぐ者は、大抵この試練を受けにいく。何故大抵かというとだな、今は内苑州の領主たちは試練など受けに行かないらしいし、唯一我々くらいなものらしいからなんだ。何分、カールレオンで無事試練を通過できた者は祝福のうちに領主生活を送れると、そんなふうに約束されているものでな」
「第一、確認しようのないことでもある」と、カドール。「キャメロンとアヴァロンを除いた外苑五州の領主たちは、跡目を継ぐ頃には必ず試練を受けにいくというしきたりだが、いちいちその結果を聞いたりはしない。ただ、誰かが領主になったと聞けば、祝宴に出席するか、あるいは贈り物を贈ったりすることになるわけだ。その時の手紙に「このたび、無事試練を通過致しまして……」なんて言葉があったとすれば、実に喜ばしいことだというそうした話だ。また、試練の内容は口外しないか、そもそも出来ないようになっているものらしい。もちろん、そのあたりのことは我々にもわからない。唯一、試練を受けたことのある者だけが共通してわかることらしい」
「ということは、ハムレット王子もいずれ……」
(永遠に死なないだって?そんな馬鹿な)といったことは、ギベルネスは彼らの流儀に反することだろうと思い、黙っておいた。そのニムエという名の女王にしても、代々そのように名のみ襲名しているということなのかもしれないし、そのあたりのことについて興味はない。
「そうだ」と、カドールは力強く頷いた。「キャメロットは緑したたる実に美しいところだ。だが、そこには古城以外今は何もないんだ。そこを通る者はただ、一晩の宿をその緑の中に借りるという、ただそれだけだからな」
「どういうことだ?」今度はギネビアが聞いた。彼女の行動範囲は生まれてから今の今まで、北はギルデンスターン領、そして南はライオネス城砦までと、それ以外のところへは行ったことがなかったからである。「そんな緑あふれる美しいところなら、誰か人でも住んで、とっくに村やら町やら出来てるはずじゃないか」
「まあ、いずれ行けばわかるさ。もしかしたら、俺の目には古城と美しい緑以外何も見えなかったというだけで……他の者が行けば、まったく違うものが見えるのかもしれぬ」
「わけわかんなーいっ!!」ギネビアが再び怒りだす。「おまえといいタントリスといい、もう最低だなっ。とにかく、トリスタンがタントリスでも、タントリスがトリスタンでも、もうなんでもいい。とにかく、ハムレット王子が試練を受ける前にトリスタンがキャメロットに行ったのであれば……その試練について口外できなかったにせよ、少しは参考になることくらい教えてくれるかもしれないもんな」
この時、リュアルが胸元から鈴を取り出して鳴らすと、ひとりの侍女が奥の扉から出てくる。
「ギネビアさまをお部屋へ案内して差し上げなさい。他に、入用のものはなんでもお出しして差し上げるように」
流石に疲れ切っていたギネビアは、大きく伸びをして欠伸まですると、「じゃあみんな、また明日なっ!!」と言って、侍女のあとについていった。知りあいだったらしく、「久しぶりだな、アマラ」などと、気安く挨拶する声が聞こえる。
また、ギベルネスもカドールもレンスブルックも、それぞれ案内された部屋のほうで休むことにした。無論、タントリスともトリスタンとも知れぬ彼のことは気にかかった。だが、この時カドールにしてもギベルネスにしても、ピンと来るあるひとつのことがあったのは確かである。
(彼はやはりトリスタンであって、試練を受けにいった……が、今もその試練の最中にあるか、あるいはその途中で何かがあって、本当に記憶喪失になってしまったのかもしれない)――この場合、試練を通過したものの、その帰り道で賊にでも捕えられることになったのか、それとも試練自体を通過できなかったのか……そのあたりのことが気になると、カドールにしてもギベルネスにしても思っていたわけである。
そしてこの翌日――みんなが起きてきて、広い食堂で会した時、ただひとりタントリスだけがいなかった。リュアルは優れた執事であり、おそらくあれから人数分の食事の用意をし、厨房のコックらにもそのように命じて就寝したのであろう。パンは籠にたっぷりあったし、その他ローストビーフといったメインの肉料理、アーモンド・オムレツのような卵料理、香草入りクリームスープ、デーツやイチジク入りのフルーツパイなど、一同は久しぶりに朝から満腹することが出来ていた。
カドールとギネビアとレンスブルックは、あれから娼館の<ユニコーン亭>にて何があったかを説明し、ギネビアなどは、「なーにがイゾルデだっ!あいつ、間違いなくタントリスじゃなくてトリスタンなんだよ。なんか理由があってすっとぼけてるっていうそれだけでさ」と、怒りながら食事をしていたものである。
だが、みながすっかり満腹し、心身とも満足した心地でいた頃――リュアルがひょいと食堂に顔を見せたもので、彼らは朝食の場にタントリスが結局姿を見せなかったと気づき、この時あらためてハッとしていた。
「ああ、タントリスさまでございますか?なんでも、リヴァリンさまにお話があるということで、つい先ほどそちらへ向かわれましたよ」
「タントリスって……あいつ、間違いなくトリスタンだろ?どういう事情があるのか知らないけどさ、リュアルまでそんな嘘につきあうことないよ」
ギネビアが美味しいさくらんぼの砂糖漬けを、あーんと最後に食べながら言う。
「みなさま方、そのような疑いの目でわたくしをじっと見つめないでくださいませ。あの方はきのう、御自身の寝室でお休みになられましたし、にも関わらず、『僕はトリスタンじゃなくてタントリスだ。それじゃおやすみっ!!』なんていうことを申されて……また、先ほどすっかり身支度を整えて出かけられましたが、とにかくまずはリヴァリンさまにすべての御報告を済ませる必要があったのでございましょう。わたくしも察して、そのあたりのことは詳しくお聞きしなかったのです」
「なるほど。それじゃわたしもそろそろライオネス宮殿のほうへ向かうとするか」
通りを歩く間にでも食べるつもりなのか、ギネビアは最後に果物籠からりんごをひとつ取り出すと、それをポケットにしまっている。
「待て、ギネビア。俺も行く」
「俺もだ……というかランスロット、我々は当然ハムレット王子のことをリヴァリンさまに紹介せねばならない。どうされますか、王子。のちほどまたあらためてということでも、まったく失礼には当たらないと思いますが」
「オレも一緒に行こう」
ハムレットとしては最初からそのつもりだった。タイスとディオルグも頷き、席から立ち上がる。ギベルネスは迷ったが、やはりついていくことにした。一番の理由はタントリスのことが心配だったからだが、なんとなく、自分も当然そうすべきだという雰囲気を周囲から感たせいでもある。
「ギベルネ先生が行くなら、オラも行くぎゃ。ハムレットさまが愉快な役立つ道化を連れてると思われるにはどうすりゃええか、オラにもだんだんコツがわかってきたぎゃ」
キリオンとウルフィンもまた、彼らに続いた。ハムレット王子が挨拶に向かうのについて行かないとすれば、それは家臣としてありえないことである。
ライオネス宮殿は青灰色のスレート葺きの円塔を備えた、壮麗な白亜の宮殿だった。ランスロットやギネビアやカドールたちは以前に来たことがあるので反応のほうも薄かったが、ギベルネスなどは玄関ホールから大広間へ通されただけでも――ライオネス城砦の領主たちが代々集めたに違いない、美術品のコレクションに圧倒されたものである。
額装も素晴らしい絵画や、あるいは色とりどりの糸によって織られた、何らかの物語が刺繍されたタペストリー、廊下に並ぶ大理石の彫刻品、陶磁器の皿や壺などなど……天井画に至るまで、ほとんど来客者が目を休ませる暇もないほど、数々の美術品によって埋め尽くされている。
(ようするに、リヴァリン伯爵の現実逃避というのは、そういうことか……)
ギベルネスは妙に納得しつつ、みなのあとについていった。守衛がライオネス宮殿の執事に取り次いでくれたところ、執事のセネカの話によれば、今リヴァリン伯は上中庭にある水晶の塔と呼ばれるサロンにいるという。
「トリスタンがタントリスと名乗ってやって来ませんでしたか?」
ランスロットが旧知の仲のセネカにそう訊ねると、彼は首を振っていた。セネカはリュアル同様、代々ライオネス領主に仕える者で、ふたりともいざとなれぱリヴァリン伯とトリスタンのために命を投げ出す覚悟があるほどの忠義者だった。
「いえ……トリスタンさまは今、キャメロン州のカールレオンへ向かっておられて、あれからもう二か月ほどにもなりますかな。お義父上であるリヴァリンさまが政務を投げ出すようになられて、そのことを危惧されたのでございましょう。カールレオンへ行くと突然言いだされ、リヴァリンさまは大反対されたのですが、トリスタンさまは書き置きひとつを残されて、試練を受けにキャメロン州へ旅立たれたのでございます……」
初老の、髪の七割方が白くなっているセネカは、心労のためにこの二か月でさらに老いた……とでも言いたげな溜息を着いている。
「以来、リヴァリンさまは毎日聖堂に籠もってトリスタンさまのために城を上げて星神・星母さまに祈りを捧げるようになり……とはいえ、御政務のほうは相変わらず内大臣ヴォロンらに任せきりという状態でして。トリスタンさまはリヴァリンさまのように……こう申してはなんですが、そううまく彼らにしても操ることは出来ないでしょうからな。きゃつらめは、まったく表面上はトリスタンさまのために我らも祈りましょうなどと言いながら、実際には腹黒くトリスタンさまのお命を狙うこと数度……リュアルもわたくし同様、おそらくここ二か月ほどですっかり白髪が増えておりましょう」
「リヴァリンおじのお心は、トリスタンの決死の覚悟の前にも変わらなかったということか」
(やはりあいつはわたしの好きなトリスタンだった)そう思い、半ば嬉しくなりながらギネビアはそう聞いた。十番目の見張り塔か、それとも十一番目の見張り塔かは忘れたが、タントリスが狂人の振りをしながら灰色の床に取りつき、前に進めぬタランチュラのように手足を上下させていた時には……彼はやはりトリスタンではないのだろうかと、気の毒に感じたのがまるで嘘のようだ。
「ええ。リヴァリンさまもおそらく、薄々は気づいておられましょう。ライオネス宮殿には、王都テセウスの手の者が巧妙な形で混ざりこんでおります。ですが、ボウルズ伯のように反逆罪などという濡れ衣を着せられることを恐れるあまり……リヴァリンさまはだんだんに政務へ関わらないようになっていかれたのでございます」
「こんなことは言いたくないが」と、ギネビアはいつも通りの、歯に衣着せぬ物言いで言った。「城門を通る時、賄賂を要求されたぞ。そんな連中が守備隊にいるってことは、見回りの時にも手抜き仕事しかしないのだろう。そろそろ厳しく締め上げてやらないことには治安の乱れについてはいずれ、市民からも不満の声が大きくなってくるぞ」
「そのこと、わたしくのほうからも、伯爵さまには申し上げておきましょう……」
セネカが今までどの程度、自分の仕える主にそうした忠言を忠義の心から申し上げたものかはわからない。だが彼は、トリスタンがもし無事に試練をくぐり抜け、ここライオネス城砦へ戻って来たとすれば……大きな変革の時代へと変わるかもしれないと信じていた。そしてそのためには、自分の老いた命を差し出すことになろうとも構わないとすら覚悟を決めていたのである。
ライオネス宮殿は広く、また複雑な構造をしてもおり、下中庭と中庭、それに上中庭とは繋がっているわけでもなかったため、ハムレット王子一行は、かなり長い距離歩くことになった。途中、広い<議会の間>の脇を通ることになったが、そこでは内大臣ヴォロンを中心にして、貴族らが五十名ばかりも集まり、喧々諤々の議論をしているところだった。王都テセウスのクローディアス王に色良い報告をしたいヴォロン一派と、長年伯爵家に仕えている貴族との間では絶えず意見がぶつかりあっていたが、リヴァリン伯はその間に挟まれるのが嫌なあまり、だんだんに芸術を愛好する世界へと逃げ込むようになっていったのである。
(もしトリスタンさまが領主となったその暁には、まず真っ先になさるのはヴォロンらを宮殿から追い出すということ。だがそれは、とりもなおさずクローディアス王に楯突くということを意味している。しかし、徐々に足許を支える木造の板が腐っていくのをただ黙って見ているということは、誰しも出来ないものだ……)
実をいうと、タイスとカドールはローゼンクランツ公爵の私信を、誰か身近な者が見て返信したのだと推理していたが、その私信をリヴァリン伯には見せず、勝手にライオネス伯爵印を押して返答したのはセネカだったのである。そして、あとからこのことがわかった時、恐縮しきっている彼とは違い、一同は実にほっと安堵することになるのであった。
ゆえにこの時、広く煌びやかな<議会の間>にいるヴォロン内大臣と彼の一派は気づかなかった。何やら見かけぬ一行が廊下を進んでいくのを、開け放したドアからちらと見はしたが――自分たちの権力が失墜する元凶が、そうとわかっていれば呼び止めて殺すことさえしていただろう者たちがすぐそばにいたということに、結局のところヴォロンは気づかぬまま、のちに彼は砂漠の真ん中で斬首刑に処されるということになるのである。
>>続く。