>>歓喜とは
陸に生まれた心が海へと向かうこと
街並みを通りすぎ 岬をこえて
永遠へ深々と入ってゆくこと――
水夫たちには理解できるだろうか
山に囲まれて育った私たちを
岸から一海里と離れぬうちに
私たちの覚えるこの神聖な恍惚を――
(「エミリ・ディキンスン詩集~続・自然と愛と孤独と~」中島完先生訳/国文社刊より)
今回、↓のお話のほうがやっとこエレゼ海なる場所へ到着したということで、エミリー・ディキンスンのこの詩を引用してみました♪
エミリーは内陸育ちだったので、少なくともこの詩を書いた時点においては「海」を見たことはなかったと思われます。他に、フィラデルフィアやボストンへ出かけた時に大西洋を見た可能性もあるとはいえ……おそらく、その時に初めて「海」を見て感銘を受けた、といったようなことは現在残っている書簡集には言及がないのではないかと思われます(たぶん)。
でも、詩の中には「一本マスト」がどうこうとか、あるいは「フリゲート艦」という名称が出てきたり、「わたしのようなブリッグ船……」といったように、海やそこに並ぶ船を見たことがなければ、想像だけではまずもって思い浮かばないような言葉が使われている気がするんですよね(^^;)あ、なんでこんなこと書いてるかというと、↓のお話の中で、ギネビアやハムレットたちは砂漠州育ちということで、今回海を初めて見ることになったからなのです
むむむ……エミリー・ディキンスンのこの件に関しては、個人的に今後時間のある時にでも研究するとして――今回は、結局のところエレイン姫が使うことなく終わった媚薬のことに関してです(笑)。
まあ、媚薬というか、ギロン男爵が娘に渡したのは睡眠薬だったようですが、以前にも紹介した「中世の食卓から」によりますと……ジャニュアリという裕福な騎士がいて、六十歳になるまで欲望のおもむくままに女性をあさり、肉体の快楽を追求する生活をしてきたのだとか。ところが、六十を過ぎて急に結婚を切望するようになり、友人たちに心の内を打ち明け、花嫁探しを依頼しました。花嫁の条件は、二十歳以下のうら若い乙女であること、ただ一つ。騎士ジャニュアリは友人たちにこう言ったそうです。「古老の魚に若い肉という取り合せを食べたいものだ。小かますより大かますのほうが、なんといっても味があることだし、年寄の牛肉より柔かい犢(こうし)の肉のほうが味があるからさ」(『カンタベリ物語』西脇順三郎先生訳)
こうして老騎士ジャニュアリは、マイという名の、五月の朝のようにきらきらと輝き、五月の若葉のようにういういしい町娘とめでたく結婚することになりました。さて、聖なる結婚の儀式も盛大な宴も終わり、新郎新婦が床入りする段となり……なんと!このジャニュアリ、常日頃からあまたの珍奇な媚薬を服用していたのだとか。そしてこの新婚初夜においても、若い花嫁を喜ばせるため『イポクラスという飲物や、蜂蜜に香料を混じたぶどう酒、香料を混じたイタリー酒を熱くして飲んだ』。その甲斐あってのことかどうか、美しいマイを相手に夜明けまで励むことが出来たのみならず、その後四日目まで美と快感にみちあふれるマイと部屋に閉じこもり、結婚の幸せに酔った……ということでした(ようするに「精力絶倫騎士ジャニュアリ、若く美しい花嫁マイと結婚す」といったところなのでしょうか。もっとも本人、すでに腰が曲がっていたということなのですが^^;)。
さて、このジャニュアリが愛飲していたという「イポクラス」というのはどのような飲物だったのでしょうか。そのレシピも書いてあったので、続けて引用させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>ジャニュアリが愛飲したイポクラスという妙薬は、ギリシアの医学者ヒッポクラテス(前460頃-375年頃)によって発明されたと信じられていた。「イポクラス」の名は、妙薬を濾過する袖に似た木綿の濾過器が「ヒッポクラスの袖」という名で呼ばれていたことに由来するという。参考のために作り方をご紹介しよう。
・よく吟味して選んだ上等のシナモン1クォーター、粉末シナモン半クォーター、上等のショウガ1オンス、ショウガ科のカルダモン1オンス、ニクズクの種6分の1オンス、それにカヤツリグサ少々を混ぜあわせて粉末状にする。これを1クォート(約1.14リットル)のワイン(赤でも白でもよい)に入れ、さらに砂糖2クォーターを加えて飲む。
カルダモンのかわりにザクロの実やヒマワリの種が用いられることもあったようだ。シナモンやナツメグなど東方産のスパイスや砂糖は、金よりも効果だった時代のこと、イポクラスを愛飲できたのは王侯貴族か金持ちの商人だけであった。それほど富裕でない人は、ショウガ、シナモン、トウガラシ、それに砂糖とは比べものにならないほど安い蜂蜜をワインに混ぜて飲んだ。
(「中世の食卓から」石井美樹子先生著/ちくま文庫より)
……ということです(^^;)
「ヒポクラスの袖(ピリッとスパイスの効いた赤ワイン)」については、「中世貴族の華麗な食卓」(マレーヌ・P・コズマン先生著/原書房)にもレシピのほうが載っています。参考までに、そちらも引用しておきましょうか
>>【材料】
・ジンジャー=(粉末または生のジンジャーの薄切り)小さじ1/2
・シナモン・スティック=(1/3に切り分けたもの)4本
・カルダモン=(粗挽きしたもの)4粒
・砂糖=1/2カップ
・こしょう=(好みで)小さじ1/8弱
・上等な辛口赤ワイン=1クォート(1リットル)
・青いヘリオトロープの花(ニオイムラサキ。ムラサキ科。バニラに似た芳香を持つ)(または、ターンソール(向日性の花))(着色用)=4個
<仕上げ用>
・レモン=(よく洗い、薄切り)1個
その~、実際に作ってみなくても、ある程度想像できますよね?「あ、これ飲めたもんじゃねえな、たぶん」みたいな感じのことは。でも、中世の人々にとってはたぶん、こうしたスパイス(香辛料)たっぷりの神秘的な味のものを飲むと……また、その前に「これは物凄く夜の効果がある」的な暗示をかけられていると、「よりそんな気になる」といったような、そうした迷信的作用のほうがより重要だったのではないかと、そのように思われます(^^;)
それではまた~!!
惑星シェイクスピア-第二部【23】-
ハムレット一行が出立するという正午近く、よく晴れ上がり、蒸し暑くさえある空気の天上には、七色の虹が輝いて見えた。
「こりゃ吉兆ですね」
アントニオが眩しい陽射しに手で目庇を作ってそう呟くと、ハムレットも笑った。「こちらのロットバルト州の人々にとっても、虹というのは良いことの起きる前兆といったように捉えられるものなのかい?」と、そう聞く。
「ええ、少なくとも俺たち船乗りにとっちゃそうでさ。おおーい!ソレー二オーっ!!灰色の蛾のような顔色のソレー二オよ。こりゃきっと、おまえの恋路がこれからうまくいくことを祝福するしるしでもあるやもしれんぞ。そら、ちっとは元気だせや」
「そうだな。きのうまではこの胸から一ポンドばかりも肉がこそぎ落とされたかというくらい具合が悪かったのだがな。ポーシャが他の男と結婚したと聞いたとすれば、そこからは死ぬまで永遠に血がしたたり続けるだろうというくらいに。だが、確かにそうかもしれん。何よりポーシャは賢い女だ。自分が意に染まぬ男と結婚せずともよいように、きっと何かしらの手段を講じているに違いないと、俺としてはそのことに一縷の望みを繋ぐばかりだ」
(やれやれ。大きな虹がイルムル川に橋のように架かっていたというくらいで、随分単純な男だな)
そう思ったのはおそらく、タイスだけではあるまい。だが、一行が驚いたことにはその後も、虹のほうが行く先々で大きな橋のように何度も架かったということだったに違いない。最初に見た虹がその下を通ろうかという遥か手前側で消えたかと思うと、急流を曲がったその先に再び現れ……といったようなことが、その後七度ばかりも繰り返されたのである。
そしてこの時、残り七つの虹は別として、最初のひとつめの大きな虹を目にしたのは、ハムレットたちだけではなかった。水門塔で勤務交替した衛兵たちも、アストラット城の住人たちもみな、庭で、城塔と城塔を繋ぐ歩廊で、あるいは放牧地などで――この大きな虹を見、嵐の過ぎ去ったあとの小さな吉兆の目撃者であったわけである。
エレイン姫は、ランスロットを見送ろうとはしなかった。それどころか、朝食の席にも顔を出さなかった。だが、彼女は水門塔とその内側に停泊する屋形船が見える方角にある城塔から、そっとこの愛する騎士のことを見送ろうとしていたのである。
「本当に、最後に会わなくて良かったのか?」
妹の隣で、リオンは虹をともに見ながら言った。結局、媚薬ならぬ強力な睡眠薬がランスロットに使われることはなかった。その前に話のほうは終わったと、エレインが両方の瞳を涙の湖のようにして語っていたそのせいである。
「ええ。きのうもわたくし、兄上には申し上げましたでしょ。この二年の間、わたくしの心を苦しめ殊更惨めにしていたのはランスロットさま御本人じゃありません……わたくしは自分の恋の亡霊のために、自分で自分の心を責め苛んでいたに過ぎないのです。そのことがわかっただけでも……あの方がここアストラットにお立ち寄りくださって本当に良かったと、今はそう思っていますの」
「そうか。だが、父上はおまえが結婚する気はないというので、いたく心配なさっていたぞ。しかも、あのギネビアという男のような立ち居振るまいの公爵の娘御がランスロットさまの元婚約者だったとはな……まったくもって俺にはさっぱりわからん。ランスロット殿が婚約解消した今も、何故おまえほどの女の愛を拒もうというのかがな」
「ですから、きのうも申し上げたじゃございませんの」と、エレインはドレスの袖で口許を覆って笑った。ほほほ、という軽やかな笑い声が、歩廊の縁にたたずむ小鳥たちのそれと一緒になる。「ランスロットさまほどの方でも、わたくし同様、恋のことではうまくいかせることが出来ないという意味で……まったく同じ身の上なのですわ。あのギネビアさまという方、もしランスロットさまの想い人というのでなかったら、わたくしもきっと好感を持つことが出来たでしょうね。でもあの方は、ランスロットさまのことは歯牙にもかけておられないのかもしれません……よく考えてみれば、公爵さまの娘ですもの。一介の騎士さまとだなんて、身分差のことを考えてみればある意味当然のことかもしれません」
このあたり、やはりエレイン姫は誤解していたが、貴族である彼女のこの解釈というのは一般的な意味では外れていない。騎士ランスロットの仕えているのがローゼンクランツ公爵家であり、その娘のひとりと婚約しているというのであれば、自分と姦通したとわかった時点で騎士団から追放の憂き目にあうということも当然あったに違いないからだ。さらには、婚約は解消したにせよ、今もランスロットが彼女のことを恋い慕っているというのも――騎士というのはとかく身分の高い女性に憧れがちだということから見ても、エレインの価値観からしてみれば理解できることだったのである。
結局のところエレイン姫は、おのれの妄想の恋の中に生き、さらには自分の失恋の理由に納得したのも、ある意味彼女自身の理解できる範囲における現実と妄想の狭間にある何ものかによってだったのかもしれない。なんにせよ、おそらく一番大切だったのは、そのことで彼女が自分の人生を一歩先に進めることが出来たということだったに違いない。
「ねえ、お兄さま。わたくしたちが小さな頃、よく木登りしていた樫の樹のこと、覚えてらして?」
五艘の屋形船が、太陽の陽光を照り返す白銀に輝く川面の向こうへ、一艘、また一艘と姿を消してゆくと、エレインは嵐の去ったあとの生温かい外気を扇で扇ぎつつ、そう聞いた。
「もちろん、覚えているとも。おまえは小さな頃はじゃじゃ馬だったからな……母上やばあやがそれは心配していたものだよ。そのうち、枝から落ちて足首を挫く程度で済めばまだしも、首の骨でも折ったら大変だとね」
「それで、わたくしがもし今もまだほんの時々でも樫の樹に上っていたとしたら、兄さま、どういたしまして?」
「そりゃあ……」
(妹はなんだってわざわざそんなことを聞くのだろう)と、リオンは不思議になった。けれど、エレインが失恋の整理のついた清々しい顔をしているせいで、真面目に考え答えねばならないというそんな気になる。
「まあ、頭がおかしくなったのかと思うだろうね。あとは、一人前の淑女(レディ)というものはそんなことはしないはずだと言って、叱りつけているかもな」
「そうでございましょうね」
リオンには何故かわからなかったが、エレインはますますおかしげに笑っている。(もしや妹は失恋のショックで頭がおかしくなったのだろうか?)と、彼は一瞬疑いかけたほどだ。
「でも、ランスロットさまはそうした女性がお好みなのですわ。ですからわたくし、これからはわたくしなりの方法で木登りに励もうと思いますの。それで、もし結婚して子供が出来たとして……その子が女の子だったら、樫の樹へ上ることを奨励しますわ。馬のほうにも淑女らしく体を横にして乗るのでなくて、男性のようにしっかりと跨るべきなのです。そうすれば男の方との競争で、負けることもなくなるでしょうからね」
小さな頃、彼らは父親に自分専用のポニーを飼ってもらったことがある。その頃はお転婆なエレインのほうが、乗馬においても兄より上手だったものである。けれどその後、ポニーを卒業し、もっと大きな馬に乗るような年頃に成長すると――エレインは乗馬に対する興味と情熱を失った。何故といって、ポニーに跨っていた頃のように馬に乗ることは、淑女らしくないとして禁じられたからである。
「ふうむ。どうも俺にはおまえの言うことがよくはわからんのだがね」と、リオンもまた、妹の愉快そうな笑いに釣られるように微笑んだ。「どうやらエレイン、おまえは何かを乗り越えて人として大きく成長したようだ。父上は美しいおまえに、出来るだけ高い身分の、理想的な貴族の男と結婚させようと考えているらしいが……まあ、自分を安売りしたりはせぬことさ。なあに、おまえひとりくらい結婚せずにこの城へおろうとも十分養っていけるくらいの資産が、神に感謝すべきことには我が家にはあるのだからな」
「ありがとうございます、お兄さま。確かにおっしゃるとおり、エレインは目が覚めたのでございます……そして、こんなにも自分を愛し気遣ってくださる父上や兄上がいらっしゃること、本当に神さまに感謝しております。失恋の悲しみに目が塞がれるあまり、そんなこともただ当たり前のことだとしか思っていなかっただなんて、本当に愚かで恥かしいことですわ」
「エレイン……」
昨晩までは、妹の気持ちに応えぬランスロットのことを、妄想の世界で悪魔に売り渡し、地獄の業火によって焼き尽くしていたリオンであったが、彼もまたこの時、ハッと目の覚める思いであった。今の妹であれば、どの殿方にとっても容貌だけでなく、なんと魅惑的な存在としてその目に映ることであろうか、と。
(だがこれは、よくよく気をつけねばならぬ……)
今日の天候と同じく、どこか晴れ晴れとした顔の妹のことを見、リオンは別の意味でも今後注意が必要であるように感じた。恋する相手に懸想するあまり、最後には結ばれぬことを苦に自殺するというのは――何も女ばかりに起きることとは限らないと、そのことにふと思い至ったせいである。
(エレインがランスロット殿に長く恋焦がれていたように……内苑州の貴族の誰それが舞踏会で妹を見染めるなり、一目惚れするなりして美しい妹に一方的に熱を上げ、その挙句『アストラットの美姫エレインにすげなくされたことで、私はこの命を散らしますが、その罪は決して彼女自身にではなく、エレイン姫の美しさにこそあるのです』……などと、そんなふうに一筆書き残して湖あたりにドボンと沈んで自殺するなどということが――今後ありえないとも言えないものな……)
リオンは兄として、そのあたりに関してはよくよく注意して今後も妹の行動には目を配らねばならぬと心した。というのも、今までこのアストラット地方にもそのような恋の重症に陥った貴族の若者が何人もいたのだし、内苑州の貴族の中には、ティリー男爵家が首を縦に振らぬわけにいかぬほど、身分の高い侯爵家の子息やその親戚筋の者たちならば、数多く存在したからである。
なんにしても、この時リオンは隣のエレインの満足そうに屋形船を見送る姿を見て――(とりあえず一件落着といったところか)と思い、ほっとしていた。父のギロンにしても、ランスロットとのわだかまりは解けたものと考え、「今後ここアストラットを通りかかるような時には遠慮なく立ち寄ってくだされ」と、そのように船旅の祝福を神に祈りつつ、最後にそう申し伝えていたようである。また実際、ランスロットもカドールも、他のみなも――のちにはこの時の愉快な河下りのことを思い出し、ロットバルト州へ立ち寄るという時は必ずそうしていたようである。エレインのほうでもそのような時、部屋に閉じこもって出て来ないということは二度となく、ランスロットやカドール、あるいは他の騎士仲間らの来訪を、父や兄とともに喜んで迎えていたようである。
* * * * * * *
屋形船がイルムル川の河口近くまで到着すると、そこからは漁のための船が数え切れぬほど係留されているのみならず、ロットバルト伯爵が自慢にしている、三本マストや二本マストの船団、他に快速小型帆船などが、その喫水線を揺れる波に幾度となく上下させているところだった。それらは今は帆を下ろしていたが、海岸線沿いにある他の州内都市との交易のため、荷役人夫や水夫が忙しく立ち働き、荷物の積み込みや船の修理点検をする姿が見受けられたものである。
「これが、海か……!!」
伯爵家専用の桟橋に屋形船が到着すると、ハムレットもタイスもギネビアも――その他、内陸育ちで一度も<海>なるものを目撃したことのない者たちは誰も、暫しその雄大さに呆然としていたものである。
もっとも、アントニオやソレー二オのように、ここロドリアーナ生まれの者たちにはその「呆然感覚」のようなものがまったく理解出来なかったし、それはギベルネスにしても同様だった。
(確かに私も……生まれた都市のすぐそばに海があったわけではない。それでも、車で飛ばして三時間半くらいの場所に海があって、初めて妹や家族全員でそこへ遊びにいったのは六歳くらいの頃だったろうか。だが、その時だって彼らほどの驚きには包まれなかった気がする。せいぜいのところを言って幼い私の記憶に残っているのは、コンクリートの堤のところにいたペリカンを見て、その奇妙奇天烈な姿に驚いたということだったしな……)
「すごいな、ランスロット!海というやつは!!海っていうのは果てしない水のようなものだと聞いてはいたが、本当に果てしもないではないか!!」
「ああ、そうだな……」
ギネビアが船に乗り込んで以降、自分のことだけ無視してきても、ランスロットは気にしなかった。だがやはり、彼にとっての愛しの姫はこんなほんのちょっとしたことをきっかけに、自分に対する怒りでさえ忘れてくれるらしい。
「カドール、おまえのたとえも悪かったぞ!!」
今度は自分にくるりと矢の方向を変えられ、カドールもまた笑った。
「ルクルス塩湖のようなものだとか、同じように海は塩分を含んでいるとかなんとか……全然違うではないか!!海は、海は、海は――この海というやつは、ルクルス塩湖の軽く百倍か千倍はあるぞっ!この大法螺吹きの、大嘘つきめっ!!」
「百聞は一見に如かずとは、まったくその通りだな」
ハムレットも呆然としたまま、独り言を呟くようにそう言った。隣でタイスが「ああ……」と、ぼんやり相槌を打つ。
「なんにしても、我々は井戸から出て、大海を知ることは出来たカエルのようなものかもしれんが、それにしても『エレゼ海を見て死ね』とはよく言ったものだ」
屋形船を降りてからも、一同の驚きは続いた。すでにその時、太陽は傾き、イルムル川の河口をオレンジやラベンダーやサフランや、そうした色に染め上げつつ、何かを焦らすようにゆっくり沈みゆこうとする頃合であった。ゆえに、港から続く目抜き通りにある市場ではすでに魚売りひとりおらず、すっかり店じまいしたあとであった。それでも海産物の加工品を売る店はその先にあり、ハムレットたちは色々と珍しい品をその後も見ることが出来たのである。また、昼間のもっと早い時刻にこのあたりへやって来たとしたらば……朝早く出発して地方からやって来た小売り業者含め、二千ばかりも即席で店が立ち、そこを立錐の余地なく人々が行きかう姿が見られたことだろう。
もともとこの通りに自分自身の店や家屋敷のある商店主は、帰り道のことを考える必要がないため、大抵今ごろの季節はのんびり陽暮れ時まで日除けをしまわずにいるものである。そうした大型商店の店先や、中にある水槽(生け簀)には、彼らが見たこともないような珍しい魚が泳いでいたし、奇妙な海草や藻の中に沈む、何やら不気味な海の生き物や、大小様々な形の貝類など……船から降りてのち、暫く千鳥足になっていたレンスブルックなど、巨大な二枚貝が口を開けたり閉じたりするのを見るうち、思わず威勢のいい店主にこう聞いていたものである。「よう、景気よく儲かってそうな若旦那!この大きな貝、生きてるだぎゃか?」と。すると、浅黒い肌のいかつい主人は野太い声で笑いだし、レンスブルックのことを震え上がらせていたものである。「ハハハッ!!あんたみたいな小さい人ならば、こうした貝は頭からバクッと食っちまうことがあるから、あんまり近づいてちょっかいださないほうがいいぜ」
この時、何がおかしいと言って、みなが笑ったのはレンスブルックが店の主人の冗談を鵜呑みにし、バクッ!と両腕で驚かされるのと同時、巨大貝から逃げるように飛びすさっていたことである。
「ひ、人食い貝なんて、聞いたこともないぎゃ。お、おそろしいぎゃ!オラ、同じ死ぬにしても、もっとマシな死に方のほうがいいぎゃ!!」
「大丈夫ですよ」と、ギベルネスは笑った。「あれはただ、人の頭くらいある大きな貝だというだけです。あのおやっさんが、ある意味客引きのために店先に置き、あなたのような人が現れるたび、同じようなことをして驚かせたり笑わせたりするためのものでしょう」
――この時、やはりカドールは見逃していなかった。ハムレットやギネビア、キャシアスやホレイショなどとは違い、ギベルネスは海というものに少しも驚いていない。のみならず、巨大貝やギネビアがうっとり眺めている様々な形状の美しい巻き貝にも、その他イカやタコといった気味の悪い軟体動物、生け簀の中の海栗やアワビなど、一見食用になるとはまるで思えぬものまで……何を見ても「驚いた素振り」のようなものが一切見受けられなかったのである。
(彼が以前も、ここロドリアーナへ来たことがある、とは聞かなかった。だが、あれは少なくとも前にも海を見たことがあり、大抵のそこに生きる生物を見たことがあるといったような人間の反応だ……ということはどうなる?ギベルネ先生がもし以前もこの港湾都市へやって来たことがあるというのであれば、一体その目的はなんだったということになるだろうな……)
そろそろ店じまいのはじまった商店街のあたりからは、夕餉のよい香りがそこここから漂いはじめている。表にいくつかテーブルを出しているレストランでは、ギベルネスの見たところ、アクアパッツァやブイヤベースに似た料理や、驚くほど大きなロブスターなどが食卓のテーブルに乗っていた。
ハムレットたちも、エレアガンスとその近衛らにしても、その食欲を刺激する香りに惹かれていたが、アントニオが込み入った港湾の停車場のほうへ彼らのことを案内したため、一時的に物珍しい海産物や土産物類のことは忘れる――ということになっていたわけである。
「ソレーニオは、例の女性の屋敷のほうへ真っ直ぐ向かったのかい?」
ハムレットがそう聞くと、「お陰さまで」と、アントニオはどこか満足気に微笑んだ。実をというと屋形船が伯爵家専用の桟橋へ到着すると同時、彼がすぐにもポーシャ嬢の元へ向かうことが出来るよう、ハムレットがそう命じていたのであった。
「あいつが惚れ込んでる女性の死んだおとっつぁんてのは、ロドリアーナの港湾ギルドの顔のような人物でしてね。それが漁師じゃなくても、海の男って奴は何かと気性のほうが荒っぽいもんで……まあ、資産を継いだはいいが、その後他の対抗勢力どもに何かと難癖つけられて財産を掠め奪われるなんてことにならなけりゃいいんだが。結婚話がうまくいったらいったで、人生はその後もそんなふうに何かと問題の波が次々やってくるというように出来てるものなんですな」
「そうだったのか」と、ハムレットは驚いた。てっきり、例の三択問題さえクリアー出来ればソレーニオは幸せになれるものとばかり、単純に考えていただけに。「だがまずは、愛しあう恋人同士が永久に結ばれるようにと、オレとしてはそう願うのみだが……」
「何かこう、色々と我々下々のことまでお気遣いいただき、ありがとうございました。お陰で、俺たちとしましても何かと楽しい船旅でございました」
「いや、こちらこそだ。またイルムル川を渡るというような時には、是非アントニオや他の操舵手たちに頼みたいと思うくらいだから」
アントニオのみならず、グラシャーノやサレアリオらも停車場へやって来ると、全員が跪き、ロットバルト伯爵家の箱馬車に彼らが乗り、マリーン・シャンテュイエ城へ向かうのを見送った。残り八十八従士のうち、他の多くの者は徒歩でシャンテュイエ城ではない、伯爵家の別邸へ向かうことになっていた。ゆえに、グラシャーノたちにはそちらへの案内といった仕事がまだ残っていたのである。
だがこの日、ポーシャ嬢がまだ誰とも婚約しておらず、ソレーニオが無事鉛の箱の中に――そこには、「かの女人のもとへ行き、愛の口接けもて、妻たるを求むべし」と書いてあったという――彼女の美しい生きているような美人画を見出したとの吉報が、夜遅くに彼らの元へはもたらされるという、そうした喜ばしいことになったようである。
>>続く。