こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

不倫小説。-【3】-

2019年02月01日 | 不倫小説。


 さて、今回は早速医療関係の描写について言い訳事項がww

 緊急気管切開の描写の内容については、アトゥール・ガワンデ先生著の「コード・ブルー~外科研修医、救急コール~」から、描写をほぼそのままお借りしておりますm(_ _)m

 なので、以下、その部分の大体の文章を引用させていただきますね


 >>スタッフたちがあわててあちこちへ走り出した。私はパニック状態に陥らないように、意識的にゆっくりと処置を進めた。外科インターンに手術着と手袋を着けるように言った。棚から消毒液を出して、患者の頸部に黄茶色の液体を瓶ごとかけた。看護師は、無菌布や器具類が入った気管切開キットを開封した。私は手術切着と新しい手袋を身に着けながら、この後の手順を思い出そうとしていた。実際、たいしてむずかしくはないはずだ。甲状軟骨(のどぼとけ)の下に小さな隙間があり、そこに輪状甲状靱帯と呼ばれる繊維質の膜がある。それを切開すれば、気管が見える。次に、肘関節のような形状をした十センチのプラスチック製の管を穴に差し込み、それを酸素と人工呼吸器に接続すれば完了である。とにかく、理論上はそうだ。

 私は患者の体に無菌布を広げ、首の部分だけ露出した。彼女の首は木の幹のように太く見えた。私は甲状軟骨の突起を指で探った。ところが、脂肪の層が厚くて何も感じられない。どうしよう、どこを切ればいいんだ?切開の方向は横か縦か?自分が嫌になってきた。外科医はおろおろしてはいけないのに、私はうろたえていた。

(『コード・ブルー~外科研修医、救急コール~』アトゥール・ガワンデ先生著、小田嶋由美子さん訳/医学評論社)


 え~と、本当はもっとこの前後の部分も引用して、どういった展開でこうなったのかとか、最後どうなったかということも書きたいんですけど、あまりに長くなるということで(汗)、とりあえず、↓に関係のあるところだけ引用させていただきましたm(_ _)m

 そんで今回、本文のほうが長すぎてここの前文に文字数あんまし使えないっていうことで、アトゥール・ガワンデ先生のこの本のことについては、また次回以降何か書きたいと思ってます♪(^^)

 それではまた~!!



       不倫小説。-【3】-

 奏汰のほうでは、生まれて初めて出来た愛人に……すぐに夢中になった。明日香は、「お互い時間も合わなくて、たまにしか会えないだろうけど」といったようなことを言ったが、彼にとっては全然だった。彼は月曜と木曜が外来の担当で、火曜と金曜が手術の予定が入っているのだが、長丁場の手術が終わったあとでも、平気でこの愛人に会いにいった。むしろ彼女と会う(あるいは寝る)という新しいそれまでなかった予定が入ったことで、奏汰は家庭のほうでは今まで以上にいい夫、優しいパパでいることが出来、さらには仕事のほうにもハリと勢いのようなものまで出てきた。

 果ては脳外の看護師長にまで、「桐生先生。最近、何か変わりましたね。前までは、ちゃんとした用件でもない限り話しかけにくいような雰囲気だった気がするんですけど……」と言われるほどだった。

 唯一、奏汰が苦慮したことといえば、妻への言い訳だったかもしれない。『手術が長くかかって疲れたし、患者の予後も気になるから、今日はこのまま病院に泊り込むよ』……などというのは、かなり危険な文言だったろう。というのも、娘にでも何かあって小百合が病院へ電話をしてきたような場合、彼のこの浅はかな嘘は一発でバレる公算が高いし、外科部長になってからは月に一度当直があるといった程度なので、あまりこの種の嘘を多用できない。苦肉の策として奏汰は、大学時代の友人に講師を頼まれて云々……といった嘘を考えだしていた。つまり、自分も仕事で疲れていて嫌なのだが、こうも頭を下げられたのでは、二時間ばかり脳外科手術について後輩たちに講演してやらなくてはならない等々……もちろん、その場所は地方で、泊り込んでから翌日帰ってくるといったようなことである。

「先生のその嘘、絶対奥さんにバレてると思うけどなー」というのは、明日香の言である。「わたしが最初考えたのは、月に一度か二度くらい先生と自分の部屋でデートするっていうことだったの。だって先生はどう考えても忙しいし、わたしも月に三~四回は夜勤があるっていう身の上だし……そのくらいがせいぜいかなって」

「まあ、男なんていうのはそんなものだよ」と、奏汰のほうではすでに居直ってはや数か月といったところだった。「君みたいな若くて綺麗な子がこんな四十過ぎのおっさんの相手をしてくれるとなったら……血相を変えて、最低でも週に一度はやって来るってことになる」

 奏汰がこの十八も年の離れた若い愛人に夢中になったのは、いくつか理由があったろう。まず、理由ひとつ目。彼女が彼の医師としての立場や妻子ある身であることを尊重した上、「こんなにしょっちゅううちに来てたら、流石にばれちゃうからそろそろまずいよ」などということをよく口にする娘であったということ(=この種の事実を逆手に取って、彼を破滅させる気がない)、そして、理由ふたつ目――おそらく、こちらのほうが奏汰の中では大きかったに違いないが、のちに判明したところ、明日香にとっては奏汰が初めての相手だったという。しかも、今の今まで、キスひとつ、他の男としたことがないというのだ。

「だからわたし、びっくりしちゃって。男の人ってああいうこと、本当にするんだな~とか思って。わたしの中ではそれまでセックスって、ドラマや漫画の中の登場人物だけがするものだと思ってたから」

 つまり、これは明日香に男性との交際経験がないことを意味しており、実際奏汰はその事実に驚いていた。

「でも、ほら、明日香かわいいしさ……誰か、最低でもひとりくらいはそういう奴、いたんじゃないか?」

「うんにゃ、それが全っ然っ。男友達はそれなりにいるんだけど、みんななんか家族の延長線上みたいな感じで……わたしのほうでも相手に男感じたりしないし、向こうでもそうなんじゃないかなって思う。で、一度こういう病院とかで働きはじめると、出会い自体ほとんどないよねーって、みんな異口同音にそう言ってるみたいな?」

「だけど、ほら、職場恋愛とか……」

 この時、奏汰が遠まわしにそう聞いたのには理由があった。明日香のほうでは<男友達>と認識している、男の看護師や介護員などと、彼女が相当親しげに廊下でしゃべっているのに行き会ってしまったことがあるからだ。

「どーなんだろうね。もちろん、そういうのもたまーにあるみたいだけど……こんなこと、先生に言っていいかどうかわかんないけど、たとえばうちの脳外の看護師の川島さんと、検査技師の後藤さんがつきあってるっていうのは有名な話だし、理学療法士の金谷さんと橋元さんは今年中に結婚する予定だっていう話。そういうのはたまーにちらほら聞くし、患者さんとつきあって結婚しちゃった人なんかも極まれにいるっちゃいるみたいな……でも、わたしはとりあえず職場ってないなって思ってて。なんでかっていうと、働いてる間は脳が仕事モードになってて、恋愛とかなんとか、そういうことはチラとも思い浮かばないからなのね」

「だけど、俺とは……一応これだって職場恋愛じゃないか」

 奏汰は、勇気を持ってそう言ってみた。それに、今ではもうこの種のやりとりには、互いに慣れっこになってしまっている。

「だって、先生とは不倫じゃーん!ま、わたし的にはそれでもいいんだけど……なんでって、いい男は大抵みんな結婚してるってよく言うとおり、先生くらい格好いいと、不倫でもなかったらわたしみたいのとはつきあおうって発想自体ないでしょう?」

 そして、奏汰にとっての理由三つ目――肉欲的なことに次いで大きいのが、明日香のこうしたあっけらかんとした性格、だったかもしれない。もし彼女がただ単に若いというだけで、話していてもユーモアセンスもあまりなく、面白いと思えるような子でなかったとしたら――それこそ、二三度体の関係だけ持って火遊びで終わるといった関係だったろう。けれど、奏汰は体の関係を抜きにしてさえ、明日香とふたりきりでいたいと思うことが多かった。自分でも身勝手とわかってはいるのだが、家庭では得られない安らぎに近い何かを、彼女といるといつも感じることが出来た。

「そんなことないよ。もし俺が真面目な仕事人間ってやつで、あんまり患者のことばっかり考えて、結婚相手を探してる暇さえないっていうので今のこの年までやって来てたら……間違いなく明日香とすぐにも結婚してたと思う。それは間違いなく絶対にそうだよ」

「まーたっ、先生、そんな調子のいいこと言っちゃって」

 ベッドの中で、明日香はもぞもぞと服を着はじめる。今日、奏太は非番だったのでまだ良かったが、明日香のほうはこれから夜勤が待っていたからである。

 ふたりが初めて関係を持ったのが去年の暮れのことであり、今はもう五月――新緑の季節だった。明日香はベッドから窓台のほうに肩膝をかけると、レースのカーテンを開いて、窓を少しだけ開けた。そこからはちょうど市電の走っているのが見え、窓を開けるとカタタン、カタタン……という、緑色の電車が走っていくのが見える。さらには、その背後には五百メートル級の山が青く見え、夏に向けて次第に色づきつつあるところだったのである。

「先生。ここで寝ていってもいいけど、なるべくなら早く帰ったほうがいいですよ。っていうか、もっと注意しないと、絶対奥さんにあやしまれますって」

「わかってるよ……」

 そう言いながらも、奏汰は実際、家に帰るのが億劫だった。それに、帰ったところで妻や娘の前ではまるでゾンビのようになっているだけだろう。そして言うのだ。「パパは仕事でちょっと疲れてるんだ」だの、「色々、難しい患者が重なっててね……」などと。そのくらいなら、病院にいるということにしておいて、ここでぐっすり眠ってから帰りたい。

 実際その後、奏汰は明日香が身支度して出かける気配を感じながら、心地よくぐっすり眠ってしまった。そして夢をみた。何故なのだろう。ずっと、夢などとんと見た記憶はないのに、明日香とつきあいはじめてから、この部屋にいる時だけ、彼はよく夢をみる。それも、自分がちょうど今の明日香くらいの年ごろだった頃の夢だ。

 夢のほうは、いつも断片的なもので、一番多いのが、研修医時代に大学の救命センターのほうで仕事をしていた時のものだった。その救命救急科には、ピヨピヨと可愛く囀るひよっ子医師を容赦なくしごく鬼のようなベテラン医師がいて(いや、ベテランといっても、彼もまた当時二十代だったのだが)、研修医になると各科を順に巡り歩くことになるわけだが、そこでの激務に比べたら、他の科における研修はまだしも天国というものだったといえる。

 今から約十六年前の当時でさえ、すでに携帯が普及し、黒電話などというものは超がつくほどレトロで珍しい代物だった。そして、救命センターに急患がやって来るとなると、その黒電話がまずけたたましく鳴るのだ。その後、電話を取った担当の医師が、受け入れ可能かどうかの返事をし、周囲の職員たちに檄を飛ばすということになる。たとえば、「四十代、男性。交通事故により意識不明の重態。意識はなく、呼吸音微弱。左足を骨折しており、腹部を損傷している模様」といったように。

 看護師たちは、患者受け入れのための準備を救命救急室(ER)でしはじめ、奏汰はといえば、Y医師について他の研修医らと患者が搬送されてくるのを待つということになる。

 患者はもう間もなく到着するが、そのほんの五分の合間もY医師は研修医たちをいつでも質問攻めにする。「この場合、まず真っ先に行なうことは?」と、救急車がやってくるであろう方角を真っ直ぐ見つめたまま、Y医師。誰が答えるべきかと三人の研修医が顔を合わせていると、「チリ半島!おまえが答えろ」と、鋭い声が飛んだ。ちなみに、チリ半島というのは、名倉健二という研修医につけた、Y医師のあだ名だった。もみあげがチリ半島みたいだというのだ。

「ええと、まずは自発呼吸の有無を確認します。それからサーチレーションで酸素飽和度の確認を……」

「で?」と、腕組みしたままY医師。「もし、酸素濃度が九十五パーセント以下だったとしたらどうする?」

「ええと……」

 チリ半島こと、名倉健一がしどろもどろしていると、今度は傍迷惑なことに、奏汰の番が回ってきた。奏汰のあだ名は今のところ一兵卒だ。また、この一兵卒というのは、他にも何人かおり、それほど他意のないあだ名だったと言える。

「もし、酸素マスクをつけているにも関わらず、九十五パーセント以下だったとしたら……呼吸になんらかの問題があるものと思われます。次に取るべき処置としては、挿管して人工呼吸器に繋ぐことになるかと……」

「まあ、とりあえずよしとしておくか」

 救急車がけたたましくサイレンを鳴らしながらやって来、救急外来の受入口でストップすると、すぐに救命救急士たちが後部ドアを開けて下りてきた。ストレッチャーに乗った患者が下ろされ、救命室へ運ばれていく間、救命士が申し送りをする。

「高速で、スピードを出しすぎて事故に遭ったようです。痛みに対する反応なし、血圧百の六十、脈拍百、呼吸三十……」

 救命室へ到着後、一、二の三で病院側の初療ベッドへ移したわけだが、ここからが大変だった。Y医師が予想していた通りだったというべきか、通常であれば九十五パーセント以上ある酸素飽和度が九十しかない。この時、ベテラン看護師のSが事態を察してすぐに患者の口許にバッグマスクを装着し、Y医師に手渡していた。そうして手動で酸素を送りこむと、酸素飽和度が安全圏の九十八パーセントにまで戻ってくる。

「一兵卒!おまえの言ったとおり、挿管の必要があるようだぞ。やってみるか?」

「は、はい……!」

 挿管であれば、今までに何度か成功させている。きっと今度もうまくやれるはずだと奏汰は思った。だが、実際にはなかなかうまくいかなかった。横から名倉が吸引器で血を吸いだしてくれたが、喉頭鏡を手にし、気管チューブを声帯の間に通そうとするも、どうしても入ってゆかない。

 この間も、Y医師は他の研修医たちに手伝わせて他の腹部や左足の外傷の治療にあたり、看護師が点滴をし、また別の看護師が採血してそれを検査室に送っていた。やがて、酸素飽和度が九十より下に下がりはじめると、Y医師は「どけ」と言って、またバッグマスクで患者に酸素を送りはじめた。ここで今度は彼自身が挿管しようとしたが、声帯の膨張、また出血のために挿管が難しいことがわかった。

「緊急気管切開の必要があるな。この中で、誰か出来る者は?」

 経験がない、ということではなく、その場にいた研修医の中で手を上げようとする者は誰もいなかった。Y医師が自分でやってくれれば、一番安全かつもっとも迅速に済む。そのことは誰もが当然わかっていた。

「お、俺がやります……!」

 今にしてみてもまったく、何故そんなことを口走ってしまったのだろうと奏汰は思う。研修医のうちの誰が行なうか決まる前から、看護師のほうでは気管切開キットの準備をしはじめる。

(甲状軟骨の下に小さな隙間があって、そこに輪状甲状靱帯と呼ばれる繊維質の膜がある……そこを切開すれば、気管が見えるはずだ。あとはそこにプラスチック製の管を差し込み、酸素と人工呼吸器に接続すれば完了。とにかく、医学の教科書にはそう書いてあったはずだ……)

 だが、局所麻酔後、奏汰はどのあたりが患者の甲状軟骨なのかがわからなくてうろたえた。何分、この患者は太っていた。いや、太りすぎていたといっても過言でない(挿管がうまくいかなかったのはそのせいもあると彼は思っていた)。どうしよう。脂肪が厚すぎる。本当に自分はうまく切開できるのか?

 それでも、(おそらくこのあたりだ)という見当をつけ、奏太が手に持つメスにぐっと力を入れかけた時のことだった。Y医師が最後にこう聞く。

「一兵卒。切る方向は横か?縦か?どっちだ?」

 途端、奏汰は冷や汗がどっと出た。彼は今、横に切開しようとしていた。だが、あらためてそう問われると、どちらなのかがわからなくなったのだ。

「よっ、横ですっ。い、いや、縦かな。そうじゃないっ。やっぱり横ですっ!!」

 最後には、手に持っていたメスが震えはじめ、Y医師が溜息を着くのが聞こえた。

「悪いが、もう時間がない。一兵卒。脇によけてよく見ていろ」

 いつものように、「この大馬鹿野郎っ!患者を殺す気か!?」と怒鳴るでもなく、この時のY医師は物凄く静かだった。通常、気管切開では輪状甲状靱帯を横に切る。だが、驚いたことにはこの時、Y医師は頸部を縦に切ってチューブを入れていた。

 こうして、いとも簡単に時間もかけずに気管切開を終えると、患者は今度は腹部の手術をするということになった。ちなみに、足の骨折のほうの治療はすでに済んでいる。

 Y医師が腹部の手術を終えるか終えないかのところで、この日はすぐにまた救急患者がやって来ていたように奏汰は記憶している。が、奏汰がこの日夢に見たのはここまでだった。まるで自動人形のように滅菌手袋をはめ、患者の喉の部分がよく見えるよう滅菌布を広げ、喉を褐色の液体で消毒したまではよかった。だが、問題はそのあとだ。一分が五分にも十分のようにも感じられ、生きた心地もしなかった。当然こののち、奏汰は落ち込み、やがて夜が明け、日勤の医師たちが出勤してきて申し送りも済んだ頃……ようやく一時的に手が空くと、奏汰は救命科の医師らが休憩する場所まで、Y医師にあやまりにいった。

「緊急気管切開の件、申し訳ありませんでした。何か、出すぎた真似をしたようで……」

 Y医師はこの時、とんこつ味のカップラーメンをすすっているところで、休憩室にはその匂いが充満していた。また、彼の背後には救急兵士たちが休むための二段ベッドが四つあり、そこには藤原聖也やチリ半島他、昨晩から夜勤担当だった医師たちが疲れきった様子で横になっている。

「いや、気にするな」この時、Y医師が実に上機嫌だったのを奏汰は今もよく覚えている。しかも、さらにこれから日勤をこなしてもなんでもないかのように溌剌として見えたものだ。「それより、ひとつ面白いことをおまえに教えておいてやろう。あの高速を百キロ級のスピードで走っていたらしいデブめはな、なんでも、つきあっていた元彼女をストーキングしているところだったんだと!で、そのモトカノの現彼氏と彼女の家の前で揉み合いになり……『こんなデブと話したところで埒があかない』といった話し運びになったかどうかは知らんがな、とにかく現在のラブラブカップルは車に乗ってその場を走り去ろうとした。ところがなおもしつこく追ってくるストーカー・デブ。ラブラブカップルは高速に乗ってデブをまこうと思った。ところがデブは高速にまで追いかけてきた。さて、このあとどうなったと思う?」

「……つまり、あの四十代の男性が事故に遭ったのは、自業自得だったということですか?」

(気の毒に。今回の救急外来にかかった費用だけでも、結構かかるはずだ。あと、事故の規模にもよるけど、車の修理費その他、お金が相当飛ぶはずだぞ)

「そういうことさ。おまえ、もし自分があやうく気管切開を失敗するところだったと思ってるんなら、あのデブ男に優しくしてやれよ。目当てのラブラブカップルの車に追いついたと思ったら、ハンドル操作をあやまって脇の壁に激突したんだと。可哀想すぎるじゃねえか。ま、百キロスピードが出ていてあの程度で済んだのはほとんど奇跡にも近いぞ。あの分厚い脂肪がクッションの役割を果たしたのかどうか知らねえが、あの脂肪が気管切開時に邪魔だったのは俺にもよくわかる。あと、挿管しようとしてなかなかうまくいかないのも、あの種のデブが多いな」

 苦しんでいる患者を笑い者にするようで、奏汰としても心苦しかったが、それでもやはり彼も笑いを堪えきれなかった。また、二段ベッドで横になっているだけで、まだ眠ってはいない研修医らも、爆笑したいのを堪えるようにして笑っていたものだ。

 ――奏汰が明日香の部屋で目覚めた時、彼は自分の見た夢の断片に関連して、これらの記憶を思いだしていた。

(なんだっけ。あの中年男の元カノのつきあっていた彼氏が救急車を呼んだってことだったんだよな。元カノのほうでは知らんふりしてそのまま行こうとしたらしいが、彼氏のほうでは「流石にそれはまずい」という思慮分別がまだあったというわけだ……)

 当時、確か自分は二十五、六だったはずだ。そして、その頃の彼にとって四十代くらいの男というのは、いわゆる「いい年をしたおっさん」のように見えていたものだ。けれど、実際に自分が四十一にもなってみるとわかることがある。その頃想像していたのとは違って、自分が実際四十歳になってみると、(なんだ。四十なんてまだ全然若いじゃないか)と感じられるものだ。(これならまだ全然、一花も二花も咲かせられるぞ)といったように。

 もちろん奏汰の場合、(だから愛人を持とうと思った)というわけではない。彼にとって明日香とのことは、偶発的な事故のようなものだった。そしてこの場合の事故とは、恋愛的事故であって、彼にとっては「ラッキーな」と形容されるべき事柄だったと言える。

(そっか。明日香といるとつい、自分も彼女と同じくらい若いんじゃないかと錯覚しちゃうことがあるんだよな。一応俺も口では「こんないい年したおっさんが」なんて言ったりはするにしても……それで、時々こうも思うんだよな。果たして自分は明日香と同じくらいの年の頃、一体何をしていたっけ?なんていうことを。研修医時代の夢を見たりするのがこのごろ多いのも、きっとそのせいだ)

 明日香の部屋の壁時計を見ると、時刻は五時半を指していた。ということは、明日香が出かけてほんの一時間ほどの間に、自分は昔の夢を見ていたのか、と奏汰はぼんやり思う。今晩明日香は夜勤でこの部屋には帰らない……そう思うと、彼もようやく重い腰を上げて自分の家へ帰る気になった。涼しくなった夕方の風をしめだすために窓を閉め、愛人からもらった合鍵で鍵をかけると、彼女の部屋をあとにする。

 ちなみに奏汰は、きのう緊急手術が入って呼びだされ、そのまま病院に泊まりこんだということになっている。実際は、容態の急変した患者に対する指示の電話を受けただけだったが、それをいいことに彼は自宅から病院まで直行すると、その帰りに明日香の部屋へ寄ったのである。

 冷静な頭で考えるなら、(こんなことは長く続かないし、続けられもしない。今まで妻についてきた嘘の手法だって、いずれはあやしまれて通じないようになってくる……)と思うのが普通かもしれない。だが、何かの罪を犯した犯罪者が「自分のこの罪だけはバレない」と考えるように、奏汰も同じように自分の将来の見通しについて楽観的な想像しかしていなかった。

 というより、奏汰は自分自身でも、(俺はこれまで、周囲に望まれる人生っていうやつを生きてきた。いわば、親の敷いたレールの上を走ってきて、横に逸れたことなぞ一度もない人生だ。そのあとは、理想の夫、理想のパパであろうとし続け、患者にとっては理想の医者であるよう最大限心がけてきたつもりだ。だから、きっとこれはサンタクロースがくれたクリスマス・プレゼントみたいなものなんだ。「君は今までよくがんばってきたよ、奏汰くん。だからこのくらいの脱線は、許されていいはずなんだ。君がこれまでしてきたたゆまぬ努力にみあう、このくらいのご褒美は、むしろ当然のことなんだ」)……と、何かそんなふうにこの不貞という罪を、良心の呵責なしに誤魔化し通せてしまう心理状態にあったといっていい。

 もちろん、世間はそれを「いい年をした男の、大人の甘え」と断罪するだろう。だが、奏汰は以前はよくわからなかったことが、このごろはよくわかるようになっていたかもしれない。つまり、彼はこれまで、創医会の系列病院に四度ほども転勤を経験してきたわけだが、「~~医師は△□(大体その街の、有名な飲み屋街の名前が入る)のママに相当入れ込んでいるらしい」だの、「~~医師は、本妻以外に愛人がいるらしい」といったまことしやかな噂話というのは、一度ならず聞いたことがある。けれど、そのたびに奏汰はこう思ってきた。自分が結婚する前には、「自分がもし結婚していたら、そんなことはとても考えられないな。妻や子供を第一に大切にするだろう」と思ったし、また、結婚後は「自分はいい妻を持ったし、難産の末にようやく生まれた可愛い娘もいる。この幸福をこの手で自ら壊すなど、よほどの馬鹿のすることだ」と、本当にそう思ってきたのだ。

 けれど、十八も年下の若い娘とつきあってみてわかるのは、次のようなことだったかもしれない。つまり、奏汰だけでなく一般に大体の医師と呼ばれる人間というのは、医師となるべく一本のレールを脇目もふらずに走ってきたようなところがあり、ふと気づくと、自分がひどく狭量な人間になっているのではないかと感じる時があるのだ。

 奏汰も、病院の医師会で開催されたゴルフコンペに参加したことがあるが、話す内容というのは、大体どの医師も似たりよったりである。子供の成長のことや、最近乗り換えた外車の話、自分が今している高級時計がいくらしたか等々、奏汰にしても、愛想笑いを浮かべながら(こうした人たちは俺の親父と一緒で、こんな話を特段なんとも思わないんだよな……)と、つくづく不思議に感じたものである。ちみなに奏汰は、自分の妻が何故あんなにブランド物というのに拘るのかもよくわかっていない。だがとにかく、そうしたものをプレゼントすると小百合は喜ぶらしいという法則性について学び続けているというそれだけだ。

(たぶん、だからなんだろうな。飲み屋なんかへ行って、「あ、いい女だな」と思ったら、男が考えるのは大体どうすればこの女と寝れるかということだろうけど……体の関係以外でその女性にはまるところがあるとすれば、大体が話術ということなんじゃないか?これは弁護士なんかもそうかもしれないけど、扱うケースや患者には個別性があるにせよ、その専門職について十年――いや、五六年もすれば、大体は毎日が同じことの繰り返しになる。で、自分のまわりを見渡してみても、大体が自分と似たり寄ったりの人間や行動パターンの読める見知った人間ばかりになる。その点、愛人っていうのは……たぶん、医者が行くような一流のクラブなんかには(彼自身はつきあいで数度しか行ったことはない)、普段自分が聞かないような新鮮で面白い話をしてくれる女性がいるってことなんだろう。しかもその上、その女性が美人だったりモデルのように綺麗だったりしたら、そりゃ金だって貢ぐよな。だって、家庭ですら手に入らない別の癒しを彼女たちは与えてくれるっていうことなんだろうから……)

 奏汰自身は、そうしたクラブや飲み屋のような場所へは、つきあいで行く以外では、自ら進んで行こうとしたことはない。そして、その種の遊びに夢中になっている友人の話などを聞くと、今までは呆れていたことさえあったものだった。

(だけど、俺ももう人のことは何も言えないな。前までは、「そんなことより家庭を大事にしろよ」なんて、説教してやったこともあったけど……)

 その上奏汰は明日香のことを、他の多くの男が考える<愛人>というのとは、かなりのところ違う目で見ていたかもしれない。何故といって、会って話をするたびごとに『この子は他の同年代の若い娘とは絶対的に違う』と感じるからなのだった。

「ねえ、先生。山崎豊子先生の<白い巨塔>なんて読んだことあります?」

「ああ、あるよ。まだ医学生だった頃に一度ね。だから、読んだのは相当昔になるから、内容のほうは大体のところ覚えてるって程度だけど」

 この時、明日香はベッドから立っていって本棚の一番上あたりにある本を何冊か抜くと、その裏から「白い巨塔」の文庫本を引き抜いていた。

「わたしね、この本読んでて、なんてエロいんだろうって思ったところがあるの。外科医の財前五郎が翌週行なう胃と食道の吻合術のことを考えてるうちに性的に興奮してきて愛人と寝ちゃうってところ。べつにね、手に余る大きなおっぱいを五郎は握りしめた……だの、そういう安っぽい描写は一切ないの。にも関わらず、読んだ瞬間思っちゃった。「めっちゃエロい!何これ」って」

「そんなシーンあったかな。俺にはそんな記憶ないけど……っていうか逆に、まだ若い医師と彼と結婚したいらしい女性がセックスしたらしいのに、そういう描写が一切なくて不自然だなって思った記憶しかない」

 ここで奏汰は、明日香が「ここよ、ここ!すごくエロいの。もう、びっくりしちゃうから」と言って、その問題の場所を奏汰にも読ませたが、彼としては首をひねるばかりだったと言える。

「そうかな。少なくとも俺は、明日やる難しい脳腫瘍の手術のことを考えるうちに、ムラムラしてきて明日香と寝たいと思ったことなんかいっぺんもない」

「違うんだったら!そーいうことを言いたいんじゃないの。でも、この小説にでてくる財前五郎先生も皮肉よねえ。最新のがん研究っていうのに本人がすごく拘ってがんばってるのに、最後は自分がそのがんっていうのになってしまうんだもの。可哀想だわ」

「そうかな。俺は結構自業自得なんじゃないかなと思ったけどね。自分のミスを部下に押しつけて揉み消そうとしたりなんだり……でも意外だな。明日香は絶対財前五郎派じゃなく、潔癖な里見先生派なんじゃないかっていう気がしたけど」

「そーお?里見先生はご立派だけど、ここまで夫として立派すぎたら、わたし、他の男の人と駆け落ちしちゃうかもしれないわ。『あんな立派すぎる夫、もう嫌です。疲れます』なんて言って」

 奏汰はここでおかしくなってきて笑った。なんにせよ、万事につけて明日香は変わった子だった。話すこともそうだし、なんというのだろう……本人は天然で気づいていないようなのだが、物の見方が他の人とはかなり違うようなのだった。

 また、奏汰は明日香とつきあっていて驚いたことが他にもある。明日香と奏汰の務めている総合病院は十階建てであり、医師、看護師、検査技師、理学療法士、薬剤師……といった職員をすべて合わせたとしたら、軽く三百人を越している。さらにその中で、内科病棟の内部事情を外科病棟の人間が知るよしもなく、その逆もまたまったく同様である――といったように一般には認識されているものだ。だが、奏汰が明日香と話していて驚いたことには、彼女はこの種のことに関するかなりの情報通なのだった。たかだか脳外科の一介護職員にすぎないはずなのに、病院のトップであるはずの医師である奏汰より、病院内の人間関係についてなど、明日香はよく知っていたのである。

「手術室のオペ看に、白石さんっていう人がいるの、先生、知りません?」

「ああ、よく知っているよ」と、答えながら、奏汰自身も驚いていた。それがどこの科であるにせよ、手術室のオペ看のことについてなど、病棟勤務の看護師が知っていることすら少ないのではないかと思っていたからだ。接点があるとすれば、手術前後の申し送り時程度なものだろう、と。「どうしてだい?大体、脳外の手術につくのは、彼女か高峰看護師か里塚さんである場合が多いからね。まあ、知ってるなんて言っても、もちろんプライヴェートなことは何も知らないよ。白石さんが大体、オペ看としては中堅どころといった腕前かなっていうことくらいしか、俺の知ってることはない」

 実際には、中堅どころよりちょっと下かな、と奏汰は思っていたが、彼は昔からこうした種類のことを口に出して言うタイプの人間ではなかった。

「あのですね、変なこと言うなって先生、思うかもしれないけど……白石さんには先生、一応ちょっと注意してください。彼女、そう見えないかもしれませんけど、実際かなりのとこ、おそろしー人なんです。ABCのCを使って、おそろCって言ってもいいくらいな感じ。あ、先生、笑ってますね?でもこれ、全然笑いごとじゃないんですからっ」

 ――このことを明日香が言ったのは、奏汰と明日香が彼女の部屋で頻繁に会うようになった、極初期の頃のことだった。なんでも、手術室専属の看護師、白石早苗は、病院中にある噂話に大体のところ精通しており、弱味を握られている医師もひとりやふたりでないのだという。

「えっとさ、その前にひとつ聞きたいんだけど……明日香はなんでそんなこと知ってんの?だってそうだろ?君は脳外の一介護職員で、手術室とは接点なんてひとつもないはずだ。まあ、看護師と一緒に患者のベッドを手術室まで搬送することくらいはあるかもしれない。でも、それなのになんで明日香が白石さんのことをそんなによく知ってるわけ?」

「先生こそ、むしろ手術室にしょっちゅう出入りされてるのに、ブラックストーン白石のことを知らないだなんて、むしろ初心ですよ、初心っ」

 自分の話の信憑性を疑われていると思ったのだろうか、明日香は少しムキになっていたかもしれない。

「わたし、高校の卒業資格と介護士の資格を同時に取れる学校っていうのを卒業して、それからここの病院に来たんですよね。で、今年で五年目になります。そんで、最初に脳外に配属されてから、今もここにいるわけですよ。そんでもって白石さんはわたしがぺーぺーの初々しい介護職員だった時、脳外の病棟のほうで看護師さんをなさってたんです。ほいでもって、その頃脳外病棟の看護師さん同士っていうのは勢力が二分してまして、ひとつが遠藤派、もうひとつが近藤派と、ようするにこのふたりは仲が悪かったんですね。で、その真ん中あたりに挟まって、遠藤派に近藤派のことを悪く言い、近藤派には遠藤派のことを悪く言い……みたいなことをやっていたのが誰あろう、のちにブラックストーン白石と呼ばれることになる白石さんだったんですよっ。先生、わたしの言ってる意味、わかります?」

「まあ、なんとなくはね」ベッドの中で愛人がする寝物語としてはどうなのだろうと思いつつ、奏汰は明日香の話を面白がって聞いていた。「医者のほうではまあ、そうした看護師同士の人間関係なんていうのは、知らない場合が多いだろうね」

「で、白石さんがそんなことをやってるうちに、遠藤派、近藤派である時ふと気づいたわけなんですよ。もしや自分たちの仲が悪いのは、ブラックストーン白石が間に挟まっているからではなかろーか……なんていうことに。それでこの時、ちょっとした医療ミス未遂事件みたいなことがあって、みんな反省したんです。この時脳外の看護師長だったのが誰あろう、現在の総師長の小山内さんなんですよっ。小山内師長は看護師同士の人間関係がどうなっているのかを見抜いて、白石さんを手術室送りにしちゃったんです。『嫌なら、ここの病院はもう辞めるのね』とまで言ったそうですよ。でも白石さんは手術室へ行ってからも、それまでの手法を全然変えなかったらしいんです。つまり、何かちょっとしたきっかけのあった時に、内科や外科や精神科、果ては薬局内部の人間関係についてまで、誰かしらから情報を仕入れてよく知ってるって人なんです。だから……」

「それで俺にも注意しろってこと?そういうことなら大丈夫だよ。俺だってそう馬鹿じゃない。自分から『俺には可愛い愛人がいてね~、十八も年下だけど、もちろんこの病院で介護員なんてしてるわけないさ~』なんて、間違っても調子に乗ってぺらぺらしゃべったりしない。明日香が心配するようなことは何もないよ」

「だから、そうじゃなくって……」

 自分ばかり説明していて疲れた、とばかり、明日香ははー、と溜息をついていたものだ。

「実際のとこ、わたしは先生との関係がバレたって、大したことありませんよ。でも先生は出世とか色々、そういうことがあるでしょって話。第一白石さんって、べつにそんなに悪い人ってわけでもないんです。たとえば、看護師さんの中にはわたしたち介護士や看護助手の子なんかに当たってくる人って一部に必ずいるんですけど……少なくとも、そういうところはない人なんです。むしろ、看護師さんに当たられて、その子が汚物庫あたりでこっそり泣いていたりしたら、『大丈夫?あの人のあんな言い方、あんまりよね』なんて言って慰めてくれるくらい。でも、それが白石さんの手法なんですよ。そんなふうにして相手がすっかり安心しきってるところに、『ここの介護員さんたちの人間関係ってどんな感じなのかしら?』とか、それとなく聞いてくるっていう感じ。先生、よーっく覚えておいてくださいね。ついうっかりこういう白石さんの口車に乗せられちゃうと、ハッと気づいた時には余計なことまでしゃべってたっていう人、院内にはたーっくさんいるんですからっ」

「へえ。でもまあ、明日香は安心していいよ。脳外科の手術っていうのは繊細なもんだからね。余計なことくっちゃべってたら、腫瘍以外の正常な神経を傷つけてしまって、腫瘍は取れたが患者は植物状態になったとか、悔やんでも悔やみきれいないことになる。そういうの、白石さんのほうでもわかってるから、器械出しのことに関して以外では、向こうも余計なことを言ってきたりしないよ。とりあえず、今のところはそんな感じだな。術後に、麻酔医あたりと彼女が軽口を叩いたりしてるところは、たまに見ることがあるけどね」

「でしょうね」と、再び溜息を着いて明日香。「先生、手術室の麻酔医にしゃべったことは全部白石さんに筒抜けだと思ったほうがいいですよ。そして、白石さんにしゃべったことは、ほぼ麻酔医全員にバラされるって思ってしゃべったほうがいいと思います」

「へええ。ねえ明日香、気づいてる?君さ、白石さんのことを物凄い情報通だって言うけど、そういう意味では君も相当なもんだよ。何分、脳外病棟は七階、オペ室があるのは三階じゃないか。それなのに、一介護員の君がなんでそんなに色々知っているかのほうが、俺は興味あるな」

「その種明かしは簡単ですよ」

 この時、明日香は自分の恋人が自分のおしゃべりにうんざりするのではなく、むしろ面白がっているらしいと気づいて、ほっとしていた。桐生医師のようなタイプの先生は、女の噂話であるとか、そうした低俗なことを嫌うタイプの人間であるように見えたからだ。

「わたし、ほんの時たまですけど、手術室の滅菌のお手伝いをすることがあるんです。前に一度だけ、人手が足りないから、看護助手でもひとり寄越してくれないかっていう応援要請があったんですね。それでわたし、前から手術室に興味があったもんで、「あっ、わたし行きます。行かせてくださーいっ!」って立候補したら、これがもう面白いのなんの。結局、中央材料室の責任者の御堂さんに気に入られちゃって、「これからもたまに来てくれ」って言われたもんで、たまに遊びに行くんです。そしたらもう……手術室の中の情報についてはだだ洩れ状態でした。もちろんわたし、こんなこと、脳外に帰ってきてから、仲のいい看護師さんにも話したりはしないんですよ。ただ、『えーっ。そうなんだあ』とか、『へえええっ。なるほどお』なんていう話のオンパレードなのを聞いて、自分の心の内にしまっておくっていうそれだけ」

「なんだか、それもまた怖いな」

 そう言って、奏汰は少しだけ笑った。ここまで明日香の話を聞いているうちに、彼にも確かにわかったことがある。おそらくこれでは、こうした話の延長線上として――この間T医師が手術中にヒステリーを起こしただの、看護師を不当に叱責しただのいう話は、その場限りのことではなく、案外他のところでまでちょっとした噂話として語られているかもしれなかった。

 ちなみに、中央材料室という部署は、手術室に隣接しており、手術室内で使われる手術器具類のみならず、院内中の医療器具類についてもここで滅菌されたものが使用されることになっている。つまり、こうした医療器具類の洗浄や滅菌の作業をする専門の職員がこちらの総合病院では常時十名ほど詰めているということなのだった。

「ね、先生。怖いでしょ?たまに先生、わたしに気を遣って、『どこか外に食事でもしに行かないか?』って言ってくださるけど、わたしにはその先生のお気持ちだけでじゅーぶんお腹いっぱいですから。たとえば、一度でもどこかでわたしと先生が歩いてるとこ、人に見られただけでもアウトですよ。先生は『一度か二度、そんなところを見られたところで浮気の証拠になんかならない』って思ってるかもしれないけど……そういう人の噂が広まるのってあっという間ですから。たとえば薬剤科の薬局長が一年くらい前に離婚して再婚したって話、先生はご存じだったりします?」

 一年くらい前といえば、おそらく自分はまだこちらの病院へ来ていないと思い、奏汰は「いや……」と言った。だが、病棟回診の時に何度か顔を合わせたことがあるので、顔と名前くらいは知っていた。背のスラリと高い、少し頭の禿げた、けれども外人並みに鼻筋の通った男だった。おそらく今、四十代後半か五十代くらいだろうか。若い頃はきっとハンサムだったに違いないと、何かそんなふうに想起させるところのある男だと、奏汰は記憶していた。

「薬局長、大きな子供がふたりもいらっしゃるのに、長く連れ沿った奥さんと別れて、ふたまわりくらい年の離れた薬剤科の看護助手の女の子と再婚したんですよ。でね、なんでわたしがそんなこと知ってるかっていうと、これもやっぱしブラックストーン白石さん経由なんです。その看護助手の子、病棟の各科に薬剤の補充をする仕事をしてるんですけど、かなりお腹が大きくなるまで仕事を辞めなかったんですよね。それというのも、薬局長が奥さんと離婚で揉めてて、『もし向こうの離婚が成立しなかったら、わたしひとりてこの子を育てなくちゃいけないから』って、つい白石さんにぽろっとしゃべっちゃったらしいんです。薬剤科のほうでは薬局長とその若い女の子が不倫してるっていうのは有名な話で、みんな知ってたらしいんですけど……でもみんな、外にまでそんな話をぺらぺら洩らしたりする人なんてまずいないわけですよ。仕事も忙しいし。でも、白石さん、そのことを知るなりあっちこっちに言いふらしまくっちゃったんです。『病棟に薬剤の補充に来る子いるでしょ?そうそう、あのお腹の大きな子!それでね……』なんていう具合にね。わたし、先生みたいに高潔な人が、あんなしみったれた介護員風情と不倫してるとかなんとか、噂になるだけでも耐えられないんです」

「そんなこと、ないだろ。少なくとも明日香はしみったれてなんかいないよ。むしろ、俺みたいな親父とつきあってくれるだけでもありがたいっていうか、なんていうか……」

 この時の奏汰には、そんなふうに言うのが精一杯だった。確かに、妻と離婚するとかなんとか、そこまでのことは彼も考えてはいなかったかもしれない。けれど、そうしたことは別として、奏汰にとって明日香は間違いなくかけがえのない、大切な存在だった。今ではもう、彼女がいなくて病院と自宅を往復するだけの生活など、とても考えられなくなっているほどに。

「いいんですよ、先生。ただ、わたしが言いたかったのはね、わたしが先生の今後の出世の妨げとか、そういうふうにはなりたくないっていうことだけなの。だから注意しましょうねっていう、これはただそれだけのお話」

 ――とはいえこの後、明日香と奏汰が肩を並べて街を歩かなかったかといえば、それは嘘だった。お互いにそれぞれ入るタイミングをずらしてホテルへ行ったり、ラブホテルへも何度行ったか知れなかった。奏汰はまさか、四十も過ぎてから、自分にこんな経験が出来るとは思ってもみなかった。彼はすっかりこの年の離れた愛人にはまりこみ、今では客のプライヴェートを守ってくれる料亭などでも明日香と逢瀬を重ねていたといえる。

 そしてそのたびに明日香が院内における自分の知っている話を奏汰に色々と提供してくれるもので……彼のほうでも今では結構な情報通になっていたかもしれない。たとえば、病棟回診の時、部屋ごとの受け持ち看護師と話すことがあるわけだが、以前まで、奏汰にとって彼女たちというのは仕事上での何がしかのやりとりがあるだけだった。だが今では、表面上はまったく同じように見えても奏汰のほうでは少々事情が違うわけである。「みっこちゃんとはたまーにカラオケに行ったりすることがあるんですけど、いつも話すことはおんなしなんですよ。看護師なんか早くやめたいー、結婚したいーって、軽く酔ってくるとその話ばっかししかしないんです」とか、「十和田さんは夜勤の時、深夜帯になると必ずイライラモードになるんですよね。だからみんな、十和田さんと夜勤の時には裏でこっそり「そろそろ注意が必要よね……」なんて話してたり。なんでって、夜勤開始時には「さあ、今夜もがんばりまっしょい!」なんて明るく言ってても、だんだん夜も更ける頃になるとヒステリーっぽくなるもんですから」などなど、相手の顔を見た瞬間に、心の中でくすりと笑うことが増えていたからだ。

 なんでも、明日香の話によると――その日(及び翌日)の夜勤が天国になるも地獄になるのも、この看護師の面子次第なのだという。

「わたし、前に先生に少し話したことがあったでしょ?今は手術室専属になってる白石さんが、まだ脳外病棟にいた頃……病棟の看護師さんは二つの派閥に割れてたっていう話。で、他の内科とか外科の病棟の看護師さんは二人体制らしいんですけど、脳外にはICUが付属してるから、看護師さん三人に介護士か看護助手がひとり付くっていう夜勤の体制なんですよ。あと、救命救急科も夜勤の人員が多いと思うんですけど、この看護師さんの三人体制っていうのが微妙に問題で。なんでかっていうと、内科とか他の外科系病棟だと、看護師さんが二人体制の場合、普段あんまり仲よくない同士でもそれなり助けあったりとか、あるいは記録とってる時に全然関係ない話をしたりして、それなりにコミュニケーションが生まれるって聞いたりするんですけど……女の人っていうのは難しいもんで、三人いると大抵2対1に分かれちゃうものなんですよね」

「でも、介護員の明日香を入れたら四人ってことになるじゃないか。そこに、君は含まれないのかい?」

 はー、と溜息をついて話す明日香に対し、奏汰は素朴な質問をした。たまたま明日香が夜勤明けの時に、彼が夕方遅く訪ねていったもので、そんな話になったわけだった。

「いえいえ、先生。わたしたち介護員っていうのは、看護師さんたちと同じ休憩室で休んでいても、向こうが話しかけてきたら話すっていうくらいなもので、その会話の度合いもその日揃った看護師さんの面子によってっていう感じなんです。だから、今は違いますけど、その昔だったら、脳外は近藤さん派と遠藤さん派に分かれていたもので、近藤さん派の看護師さんがふたりいたら、遠藤さん派はひとりぽつんとして全然しゃべらなかったりとか、よくあったんですよ。そんな中で介護士が話の間に入っていったりとかっていうのもおかしな感じなので、体交(体位交換)の時に遠藤さん派の看護師さんと逆にちょっとしゃべったりする感じだったんです。女の世界っていうのはおっそろしーんですよ、先生。だって、仕事で困ったことがあってリーダーの看護師さんに何か聞いても、「そんなことくらい、自分の頭で考えたら?」なんて言って、何も教えなかったりとかってありますからね。こういうのは今もたまーに見かけます。馬の合わない看護師さん同士が夜勤で顔を合わせたりすると、こっちもちょっと気を遣わなきゃいけないってゆーか」

「そっか。それは大変だね。そういえば、昔……今はそういうのは解消されたっていうことだけど、病棟の看護師が二派に分かれてた頃、ちょっとした医療ミス未遂事件みたいなことがあったとかって。あれ、具体的にはどういうことだったわけ?」

 奏汰のほうではその日、勤務終了後に<医療ミス防止委員会>なるものに強制的に出席させられたせいで、ふとそのことを思いだしたのだった。各科の医師や看護師などが出席し、最近院内、あるいは他病院であったヒヤリーハット事例について検証するといった主旨の会議で、奏汰は一時間ほどの間、生あくびを噛み殺しながらその場に参加していたものだ。

「点滴の投薬ミスだったんですよ。で、Aさんに与えるべき点滴をBさんにやってしまったっていうことで、結局大事には至らなかったものの、何故そんなことが起きたのかっていうのを、当時の看護師長だった小山内師長が徹底的に調べさせたわけです。で、突き詰めていえば、病棟内で変な派閥みたいなのがあるっていうのが医療ミスの温床になってるんじゃないかっていうことで……というのも、点滴って看護師さんがダブルチェックするじゃないですか。そういう時にも、近藤派と遠藤派の看護師さん同士が一緒に点滴つめたりすると、そうしたミスが発生しやすいんじゃないかっていうことで、小山内師長は「こんなくだらないことのために、あなたたちは患者さんの命を危険にさらしたいんですか」って言って、看護師さんたちにちょっと長い説教をぶったわけです。で、その頃ちょっとしたことから、もともと仲の悪かった近藤看護師と遠藤看護師がそれほどでもなくなって、じゃあもうみんな仲よくしたらいいじゃないかっていうことに落ち着いたんですよ」

「なるほどな。俺が今日、<医療ミス防止委員会>とかいうところで聞き齧った話によると、医療ミスっていうのは一般的にいって、「手順のプロトコルが確立されていない、あるいは人によって変わるなどして一定でない」、「作業環境の悪さ」、「人員同士のコミュニケーション不足」、「作業の慣れなどによる勤務怠慢の態度」とか、何かそうしたことが背景にあるんだって。でも、犬猿の仲だったとかいう近藤さんと遠藤さんは、どうして急に仲の悪さがそれほどでもなくなったんだい?」

 この時、奏汰と明日香は病院を少しいった角にある弁当屋の極上ステーキ弁当なるものを食べていた。奏汰が会議終了後に帰り仕度をしながら明日香に電話すると、「うんにゃ。今日はまだ夕食の仕度はまだですだに」ということだったので、「じゃあ、とびきり美味しいステーキ弁当を買って帰るから」と提案し、それをふたりで向かい会って食べていたわけだった。

 ちなみに弁当の内容のほうは、ローストビーフや特上のヒレ肉、牛たんなどがぎゅっと詰まった上、ごはんとサラダもたっぷりついてくる……といったような、千五百円近くする豪華な代物だった。

「ええとですねえ。近藤さんの腹心の友というか、腹心の看護師さんにクロちゃんこと黒川さんっていう看護師さんがいたんですよ。ところがですね、この黒川さん、親しい何人かの同僚の看護師さんにちょっとずつ借金があったらしくて。で、実はこの借金のあったのが近藤派の看護師さんだけじゃなく、遠藤派の看護師さんの何人かにもお金を借りてて、そのままドロンしちゃったんですよ」

「ドロンしたっていうのは?」

 もぐもぐと美味しいお肉を食べながらの会話なので、流石に明日香のおしゃべりも、時々肝心なところで途切れるということになる。そこで、奏汰は先を促した。

「つまり、ある日突然病院へ来なくなっちゃったんです。やっぱり看護師さんって普通のアパレルの仕事とかと違って、突然休まれるとか、突然やめて明日から来ないみたいになると、シフトがぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないですか。で、その空いた部分っていうのは、近藤派の看護師さんだけじゃなく、遠藤派の看護師さんにも埋めてもらうってことに当然なって……そうなると、近藤さんとしては立つ瀬ないですよね。っていうか、それだけじゃなく、近藤さんは黒川さんのことを本当に信頼してたんですよ。だから、「自分はお金のことなんかはどうでもいいけど、なんの相談もなく突然クロちゃんのいなくなったことが本当に悲しい」って言って、人目も憚らず、ナースステーションでぼろっぼろ泣きだしちゃって。それで、あれだけ気の強い人が泣いてるっていうことに、遠藤派の看護師たちも心を動かされるところがあっただけじゃなく、遠藤さん当人がですね、彼女もまたものすっごく気の強い人なんですけど、この頃ちょうど不倫してた相手にお金だけ騙し取られて逃げられちゃったらしいんです。だから、「近藤さん、あなたの気持ちわかるわ」みたいなこと言って、慰めたんですね。近藤さんは近藤さんで、「あなたもそんなことがあったの」みたいになって、話はこれでめでたし、めでたしってわけですよ」

 明日香が最後、弁当についていた漬物をこりこり言わせて話を終えると、奏汰は思わず吹きだしていた。そんなことには構わず、明日香は食後の茶のために、急須へお湯を入れている。

「なんですか、先生。ちょっと笑いすぎじゃありません?っていうか、今のわたしの話、笑うとこなんてありましたっけ?反目しあってた超気の強い看護師さん同士が最後には互いの弱味を見せあって和解したっていう、なかなかいい話だった気がするんですけど」

「だって、俺にしてみたら絶対おかしいよ。いや、どう言ったらいいのかな……近藤さんって言ったら、今も脳外病棟にいるあの人だろ?仕事のほうはバリバリ出来るけど、ちょっとつーんとしてて、顔に気の強さが前面に押しだされてる感じの。へえ。その昔そんなことがあったとはねえ。俺、こっちの病院に来たばかりの頃、副院長に言われたことがあるんだよ。まだ俺も、こっちでの仕事は不慣れで、一緒に病棟回診して患者を紹介してもらったりしてたわけだけど……近藤さんが担当してた病室を通りすぎたあと、「彼女の言うことには逆らわんほうが身のためですぞ、桐生先生」なんて言うんだ。「どうしてですか」って聞いたら、「ま、今にわかる。医師に対してあんなに堂々きっぱり意見するのは、この病棟内でも彼女くらいなものですからな。ま、昔はもうひとり気の強いのがいたんだが」ってことだったんだ。でもそのもうひとりっていうのはようするに、遠藤さんだってことだろ?」

 奏汰の笑っている理由がわかって、明日香も笑った。

「そうですよ!近藤さんと遠藤さんが和解したあと、今度は白石さんの存在が問題になってきて……で、白石さんは師長命令で手術室送りになったわけでしょう?でも、師長はまたこうも考えたそうなんですよ。一時的に和解したように見えるふたりだけど、もともと馬が合わないだけに、この平和な状態がいつまで続くかわからない。この際だから、近藤さんと遠藤さんのうち、どっちかを別の病棟へ異動させようって。もちろん、先生はこう思うかもしれません。だったらもっと早くにそうしておけばよかったのにって。ところがですね、ふたりとも脳外じゃベテラン中のべテのランなわけですから、お互いまったく同じことを言ったらしいんですよ。「師長の思惑はわかっている。わたしと近藤(遠藤)さんを離れさせたいんだろう。だったら、向こうをどこか別の病棟に異動させたらいい。何故わたしがあんな女のために割を食わなきゃならないんだ」みたいに、異口同音に同じことを言ってたってことなんです、それまではね。でも、一度和解してから遠藤さんのほうでちょっと考えが変わって、なんでも自分から師長に言ったらしいんですよ。「だったら、わたしが別のところへ異動になってもいい。ただ、わたしは白石の今後の動向がとても気になる。あの女はろくでもない蝙蝠だから、手術室でも何かしら水面下で問題を起こすだろう。そのあたりを注意してよく観察したいから、白石が勝手を出来ないように、わたしも手術室送りにしてください」って。なんでも遠藤さん、ここの脳下に来る前までは二年くらい、他の大きな病院でオペ室専属だったらしいんです。まあ、白石さんと遠藤さんのその後のあれやこれやについても、中材で滅菌作業してる職員さんたちに聞いたりしてて……なんていうか、不謹慎かもしれませんけど、他人事として聞く分には面白いんですよね」

 いまやすっかり院内の噂話の毒気にあてられた奏汰も、明日香の気持ちがよくわかっていた。決められた通常業務をこなす傍ら、こうした人間関係の摩擦というのはどこかしらで必ず生まれるものらしい。以前明日香は「お医者さん同士っていうのはそういうの、ないんですか?」と奏汰に聞いてきたことがある。対する奏汰の返答は「ご期待に沿えなくて申し訳ないけど、医者同士っていうのはそうしたことではあまり揉めないね。大学病院なんかじゃもう少し複雑なことが色々あるにしても」というもので、明日香は「つまんなーい」などと言って笑っていたものだ。

「そっか。それで、明日香のほうでは白石さんと遠藤さんがその後どうなったかの追跡調査なんていうのをやってるってことなわけだ」

「やだもー、先生。人のこと、噂話が大好物のおしゃべりスズメみたいに言って!わたしを白石さんと一緒にしないでくださいってば。わたし、自分からなんて噂話に首突っ込んだりしたことなんて、これでもほとんどないんですから。ただ、黙ってても向こうがしゃべってくれるんです。ほら、中材で医療器材を洗浄したり滅菌したりする職員さんたちって、手術後のオペ室の掃除なんかもするんですよ。だから、A看護師はすごく優しくていい人だとか、B看護師はテンパってくるとヒステリックになるとか、大体のところ知ってるんですよ。もっとも、白石さんのことでは、彼女が来る前から脳外の看護師さんたちに脅されてたらしいですけどね。『いい顔をして寄ってきても、決して心を許しちゃ駄目よ』みたいに。なんでそんな話をする機会があるかっていえば、わたしもそうですけど、脳外で出る医療器材なんかも数とか確認して毎日中材に持っていくからなんです。で、その時窓口で係の人なんかとしゃべる機会があって、そういう時にちょっと仲よくなったりするからなんですよね。ほら、急患でルンバールセットが足りなくなって、中材のほうで予備のを急いで出してもらったら、それを帰しにいく時には「この間はほんとにありがとう」なんてことを軽く話したりするじゃないですか」

「……驚いたな」

 奏汰は今まで、創医会系の総合病院にて四回ほど転勤を経験しているわけだが、今明日香が話してくれたようなことを考えたことは一度もない。確かに、手術室に出入りしていて、自分が脳外科医として執刀する前に、麻酔科医や看護師がどういった形で準備を進めるかということくらいは知っていたし、手術後には看護師が使った手術器具などの数を数えて滅菌洗浄室の職員に託すらしいことや、次の手術が開始になる前までに掃除などを済ませておくことも知っている。だが、その過程で生じるこれらの人々の人間関係的なことまでには、そう深く思いを至したことまではなかった。手術室の主人公は誰かといえば、もちろんそれは患者ではあろう。だが、その次くらいに重要な人物といえば、それは医師である自分たちであるはずなのに、どうも明日香の話を色々聞くうちに、医師の存在意義といったものが、少しばかり変質せざるを得ないように感じられてきた。

「俺は今まで、内科なら内科、外科なら外科……また、同じ外科系でも、循環器外科なら循環器外科、消化器外科なら消化器外科といったように、それらの職員には接点なんてほとんどないと思ってた。けど、何分看護師というのは、医師よりも数において遥かに多いから――その分人間関係的な摩擦も多くて、そうした噂話が生じやすいんだろうな。俺も、明日香の話を聞いているうちに、なんだか物の考え方が変わってきたような気がする」

「どんなうふうにですか?いいほうにですか?それとも悪いほう?」

 明日香が悪戯っぽく笑うのを見ながら、奏汰は彼女の淹れてくれた玉露を飲んだ。「この間、医療ドラマ見てたらこんなシーンがあったんですよ。一流の外科医は食べる物、飲む物、それに身につけるものも一流であるべきだ」とかなんとかって。だからうちもお茶くらい玉露にしようと思って」と、以前彼女が言っていたのを思いだしながら。

「たぶん、いいほう、なんじゃないかな。俺は今まであんまり……患者さんや患者家族の人生のことなんかはそりゃよく考えてきたけど、看護師さんたちのプライヴェートなことまでは、そんなに詳しく知ってたってこと自体そんなにないし。接点があるとすれば、それは仕事に関することだけっていうかね。でも、そういう人間関係の循環があるっていうことは……俺のほうでもやっぱりちょっと、考え方が変わるよ。ほら、明日香前に言ってたことがあるだろ?心臓外科の源先生が、器械出しのうまいヘタ以前に「わしはあの女が大嫌いなんだ。とにかくあの看護師を自分の手術室へ入れるな」って、手術室の看護師長に怒鳴ったのは有名な話らしいです、みたいなこと。それを聞いた時にも思ったんだ。まあ、もちろんそんなことは源先生クラスの大御所だから言えることだっていう部分もあるんだろうけど……もし今後そんなことがあったような場合には、手術室にある看護師長室へこっそり訪ねていって、やんわり頼むっていうことも出来るわけだよな。自分の手術の時には、○△さんを外して、□□さんか△□さんを入れて欲しい、みたいに頼むっていうことは」

「え?じゃあ、実は先生も、心密かにそんな看護師さんがいらっしゃるっていうことなんですか?」

 意外だ、というふうに、明日香は少し驚いた顔をする。もちろん奏汰は気づいていた。彼女がどうやら、自分のことを実際以上のスーパー脳外科医として高く評価しているらしいといったようなことは。

「今のところ、そんなことはないけどね。ただ、いざとなったらそうも出来るって思うと、なんとなくちょっと気が楽さ。俺も前に医療ドラマで「もう少しマシな麻酔科医を呼んでこいっ!!」なんていう場面を見たことがあるけど……そういうふうになったことはとりあえずないな。看護師も麻酔科医もみんな一生懸命真面目にやってて、多少のことであれば互いにカバーし合えばいいとしか思ってないし」

「ようするに、それがチーム医療ってことなんですよね?」

 明日香が何故か嬉しそうに微笑んだので、奏汰もなくとなく笑った。心がほっこりし、お茶を飲んでいても、家で飲んでいる時より美味しい感じがする。

「そうなのかな。まあ、ちょっと建前くさい感じもするけど、たぶんそういうことなんだろうな」

「あ、手術室って聞いて思いだしたんですけど」

 明日香は食後のフルーツにと、八朔(ハッサク)を冷蔵庫から出しながら言った。彼女の家ではどうやら、夕食後は必ずフルーツを食べるという慣わしになっているらしい。

「来週の月曜日からっていったかなあ。脳外病棟の紺野さんがオペ室入りするんですよ。で、御堂さんから聞いた噂によると、たぶん脳外の手術に入ることになるんじゃないかって……先生、紺野さんには出来ればなるたけ優しくしてあげてくださいね」

「ふうん。紺野っていうと、あの男の看護師だろ?君と、それに明日香が仲良くしてる男の介護士ふたりとよく一緒にいる……」

 前までの彼であれば、おそらくそんな光景を見ても何かの風景写真のように脳内で画像処理がされていたに違いない。脳外病棟にはナースマンがひとりだけいるというのは、奏汰のほうでも記憶している。アイドルグループの一員のような顔をしている割に、どこか暗くて真面目な印象の残る看護師だった。とにかく、奏汰の中にはそんな印象しかない。

「そうです。紺野さん、面白いんですよー。って言っても、本人はあんまり真面目すぎて、こっちが面白いなんて言ってもたぶん、「僕の一体何が面白いというんだ」みたいな、そんな感じなんですけどね。女嫌いなのになんで看護師なんて職業を選んだのかって思うと、それ聞いただけでわたしなんておかしくて仕方ないんですけど」

「へえ……そりゃまた確かに大変な道を選んだもんだな」

 奏汰は、明日香が皮を剥いて果物ナイフで切れ目を入れた八朔を手で取って食べた。八朔というのは不思議なもので、自分では皮を剥いてまで食べたいとは思わないのに、人がそうしてくれるといくらでも食べられる。

「そうなんですよ。女嫌いって言っても、実は同性愛者だとか、そういう話じゃないんです。ただ看護師さんっていうのは圧倒的に女の人の数が多いから、職場の雰囲気も独特じゃないですか。でね、紺野さんはあんまり心が純粋で綺麗すぎる人なんですよ。患者さんには優しいし、ナースの休憩室でみんなが言ってるみたいには、人の悪口なんてひとつも言わないみたいな感じの人なの。だけど紺野さん自身はあんまり心が綺麗すぎるもんだから、女の人がなんであんなに人の悪口いったり噂話をするのが好きなのかとか、そういう部分で環境に馴染めないっていうのね。だから、今から三か月くらい前って言ったかな。師長さんに言ったらしいんです。『僕、もう限界です。仕事自体は好きだけど、職場環境に馴染めないので……辞めさせてください』って。そしたら、看護師長は……」

「そしたら看護師長は?」

 チュッという音をさせて八朔を食べてから、明日香はまた笑った。

「『あなたみたいな素晴らしい看護向きの人が仕事を辞めるなんてとんでもないっ!』て言って引き止めたんですよ。もちろん、聞いた話だと師長さんはいつでも、その看護師さんに合った言葉を色々かけて、あの手この手で引き止めようとするっていうことなんですけどね。で、紺野さんの時も、普段から彼の仕事ぶりを自分がどんなに高く評価してるかってことにはじまって、何か月か休んで心療内科にかかってみるのはどうかしらとか、色々親身に相談に乗ってくださったんですって。紺野さんも素直で真面目な性格な人なもんですから、大体ほんとのことしゃべって、『看護の仕事は好きだけど、女性の多いこの環境に自分は性格的に馴染めない』って話したってことでした。そのあたりは花田師長もうまいもので、『そんなこと言ってたら、この先どこへ行っても同じことの繰り返しになるわ。精神的に疲れてるってことなら何か月か休んでもいい。だけど、脳外は業務がハードだから、他の少し楽な科で看護師の仕事を続けるとか、方法はいくらでもあるじゃないの』って諭したっていうことで……」

「へえ。だけど、なんでそれが急に手術室なんていう、激務部署への異動っていうことにまで、話が飛躍するんだい?」

 まるで、面白い話にオチでも期待するように、奏汰もまた笑って明日香のほうを見返した。彼はてっきり、あの紺野晶という看護師が、明日香に気でもあるのではないかと、少し疑っているところがあったのだ。だが、この話の展開でいくと、そうしたことは本当にまったくないらしい。



 >>続く。





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