たぶん、次の【72】で第一部の最終回……みたいな感じと思うのですが、この【71】と【72】は元は一繋がりの章なんですけど、例によって全部入りきらなかったため、ふたつに分けるということに。そんなわけで、中途半端なところでちょん切って、>>続く。ということになってますm(_ _)m
なので、ここの前文に使えるの、ほんの4千文字程度と思うので、何書こうかなと思ったんですけど――最近、あんまり中世関係の衣食住についてどーたらこーたら☆書いてなかったなあと思い、でも本から長文を引用できるほどスペース残ってないってことで、今回はとりあえず<食>についてトップ画含め3冊くらい本を紹介してみようかと
実はこちらの本、中世以降の食卓事情について少しくらい何か調べよう……みたいに思った時に、一番最初に購入した本です♪そして、予想に違わず、歴史の勉強になるのみならず、自分的に<食>に関して欲しい情報がたくさん詰まっている本でした
なんにしても、歴代皇帝が好んだ食事や、マリア・テレジアを支えたスタミナ・スープのレシピ、ハプスブルク家における食事のマナー、宮廷料理を支えた職人たちやその役割分担についてなど、興味深いことがたくさん書いてあって、とても参考になりました
ファンタジーを書く上でも、自分的に超お薦めです♪
さて、二冊目はトップ画の「音楽家の食卓」。
バッハ、ハイドン、モーツァルトにベートーヴェン、メンデルスゾーンにショパンにリスト、ワーグナーにブルックナー……といった音楽家たちは何を食べていたのか。そのことが彼らの人生と一緒に語られている――と書くと、タイトルそのまんまですね(^^;)
でも、ひとりの音楽家につき、3~4品、肉料理や魚料理やスープ、パイやケーキといったお菓子類のレシピが紹介されていて、自分的にすごく参考になりましたあと、食べ物という切り口からその音楽家の人生を見ると、ある程度知っていたとしても、また新鮮なところがあるなあと思ったり……これは、前に「死因から見た~~」(タイトル忘れちゃった)という本を読んだ時にも思った気がします。死因から逆算してみると、何かこうその偉人の人生がちょっと違うように感じられると言いますか(普通、伝記って生まれた時からはじまるから)。
さて、三冊目、「美食の歴史」。
こちらの本、最初買おうかどうしようか迷ったのですが、古本の状態のいいのがあったので、結局購入しました♪そして、自分的に買って本当に良かったです。まだ読み終わってないものの、買った決め手はレビューに「図版が多い」とあったことだったり(笑)。もし読み終わるか、途中まで読んで「ここ紹介してみよう☆」みたいに感じる箇所があったら、再び取り上げてみたいと思っています。
ちょっと今回、文字数の関係で参考になりそうな文章を引用したり出来なくて申し訳ないのですが(汗)、「ファンタジー衣装事典」にも書いてあったんですけど、イマドキ☆ファンタジーの世界観って、「剣と魔法と中世的雰囲気」という設定であったとしても、大体食卓や服・装備のイメージは、マリー・アントワネット時代のベルサイユ宮殿的イメージなんじゃないか、ということだったんですよね。
まあ、わたしの書いてるものもそーなんですけど、一応↓は、「惑星シェイクスピアという、ものっそ貧しい星が舞台☆」ということになってるものの――実際書いてみるとですね、食事とかがあまりに質素だと「なんかイマイチ盛り上がりに欠けるなあ」といった事情がありまして、結局ルバーブパイとかポテトパイとか、わたしの中の許容範囲における食事の品が並ぶことになってしまった気がします(^^;)
なんにしても、再び機会があれば、上記三冊より、<食>に関して参考になりそうな箇所を引用させていただこうかなと思っていたりm(_ _)m
それではまた~!!
惑星シェイクスピア。-【71】-
円形闘技場の外は、色とりどりの極彩色のテントに囲まれていた。いつもはこのようなものはないのだが、パンやちょっとした菓子類を提供する露店があるかと思えば、反物や撚糸、それで作った見本の衣類が並んでいる店あり、かと思えばヘビ使いが笛で箱の中からヘビを呼び出していたりと、闘鶏やクマいじめその他色々な見世物がある。
レイモンドは一度闘技場の外へ出ると、その中で一番大きく、そしてテントの色も地味な騎士たちの使用している幕営のほうへ駆けていった。そこには騎士たちのよく手入れされた馬がおり、入口の開いた場所から中へ入ってみると、アラン・アッシャーと二コル・オーランジェという騎士の他、数名の従騎士たちがいた。彼らもまた本当は騎士の桟敷にて試合のほうを見たくはあったのだが、先ほどディロン・ボードゥリアンが真槍を取りに来たように、そうした何かの事態に備え、騎士は幕営にて最低でもふたり待機しておらねばならず、従騎士たちについて言えば、馬や武具の手入れ、またその準備のために幕営にいるわけであった。
「フランツとフランソワの試合のほうは、一体どうなった!?」
ニコルが腰を浮かせ、息せき切ったようにすかさずそう聞く。
「俺にもわからない」と、レイモンドは首を振った。「ただ、とにかく嫌な予感がするんだ。おまえたちはきっと、俺が親友と弟のことをそれぞれ慮っていると思うかもしれないが……」
「わかっている、気にするな。それで?」
アランが、鋭い目つきでそう聞いた。ニコルもアランも、小さな頃からラウール・フォン・モントーヴァン騎士団長時代、レイモンドとは槍や剣術、武術に馬術と、血の滲むような努力をしてきた者同士である。ふたりともサイラス派というよりはフランソワ派であり、今もレイモンドとは互いに交流があるという関係性だった。
ゆえに、多くを語る必要もなく、目と目が合っただけでも――レイモンドが『ここへ何かをしにきた』ことがすぐにそれと察せられたわけである。
「もちろん、騎士団長と副騎士団長の神聖な試合を止めることは誰にも出来ないとわかっている。だが、このままではおそらく、確実にどちらか一方が死ぬか、大怪我を負うかのいずれかだ。とにかく、俺は闘技場の、ふたりのそば近くまで行きたい。いや、違うな……俺たちみんなで、馬で中に入っていくのはどうだろう。理由は……ええと、そうだな。何か、うまいこと考えられればいいんだが……メレアガンス伯爵に咎められた場合、申し開きが出来るように」
「わかったぞ!!何かその理由をうまいことでっちあげることさえ出来れば、伯爵さまも俺たち騎士団の仲間を思いやる意を汲んで、お許しになってくださるに違いない」
「ニコル!おまえ珍しく冴えてるじゃないか」と、アランが笑って言った。「いつもは戦争時の陣形その他、一から百まで説明しないと理解しないっていうのにな」
「うるさいっ!!」
従騎士たちが不安そうに見守る中、三人がない知恵をどうにか絞ろうとした時のことだった。幕営の入口に、突然すらりと背の高い赤毛の美人が現れたのだ。
「おい、おまえっ!!ボドリネールとか言ったな!この町で悪さをしている地上げ屋の小物だと聞いたぞっ。『怒れる牝牛亭』のほうへはあれから顔を出してないようだが、この町の中のどこででも、もしあんなことをしていると次にわかったら……ブタ箱にぶちこんでやるから、覚悟しておけよっ!!」
レイモンドのほうでは、ギネビアのことをすぐに思い出すことは出来なかった。無論、この中に彼女=白銀の騎士アビギネだとわかる者がひとりとしているはずもない。
「悪いが、今取り込み中なんだ。俺の商売に関することで文句があるなら、聖ウルスラ祭が終わってからにしてくれ」
この時、ギネビアは自分の試合が終わったあと、変装を解いて再び闘技場の観客席のほうへ戻る途中であった。一般席ではあるが、貴族たちの高級桟敷の近くで、ハムレット王子たちが試合を観戦しているはずだった。そちらへ合流しようと思っていたが、その時ふとボドリネールという地上げ屋のチンピラを見かけたというわけなのである。
「ふう~ん。これはなんとも素晴らしい大楯だな」
ギネビアは目敏く、鈍色に光り、中央に竜の彫り込み細工のある楯が飾られているのを見て、幕営の中へ入るとそちらのほうへ近づいていった。
「おい!女!!」と、従騎士のひとりが鋭く叫ぶ。「それは、我が聖ウルスラ騎士団に伝わる、聖女ウルスラが星母神さまより賜ったと伝えられる由緒ある大楯なのだぞっ!!毎年この時期しか飾られることは決してない……」
「べつにいいだろ。触らないし、ただ見るだけだから」
(そうか。なるほどな……甲冑のほうは聖ウルスラ大神殿に安置されているということだった。剣の持ち主であるハムレット王子のものになるとは限らないが……やはりこうしてちゃんと実在しているものなのだな)
従騎士たちはギネビアのことをつまみだそうとはしなかったが、アランとニコルとレイモンドの三人は、そのまま彼らの話を続けた。
「伯爵さまや巫女姫さまに……いや、なんだったら大神官のグザヴィエールに対してだっていい。あるいは元老院に叛意のある謀反人が、この聖ウルスラ祭を穢そうとして動いているという情報をキャッチしたというのはどうだ?」
「それなら、試合の終わったあとから警護に入れば良かったと言われないか?聖ウルスラ祭の期間中に関していえば、ここ円形闘技場の警護は軍に任されているからな……騎士団に恥をかかされたなどと、あとからゴチャゴチャ言いがかりをつけられないといいが」
「いや、オースティン・ヴァリ将軍なら大丈夫さ。あとからでも話せば、きっとわかってくださる。それに、それだけの器量の大きさを持ってもおられるお方だからな」
三人はそこまで話しあうと、互いに頷きあい、幕営の外へ出ようとした。最後に一度だけアランが六名ほどいた従騎士たちにこう命令を下す。
「ひとりは、騎士の桟敷のほうへ連絡に行け。ひとりはここで、聖エドワールの楯の見張りをしろ。騎士の持ち物を盗む不埒な者がいるとは思わんが、それでも一応な。残りの四名は騎乗して俺たちについてこい」
「ははっ!!」
ギネビアはよくわからなかったが、外にいる騎士たちの馬の一頭に乗ると、彼らのあとについていった。現在、聖ウルスラ騎士団の騎士団長と副騎士団長の試合の真っ最中なはずである。ギネビアはこの時、フランツの勝利を信じて疑いもしなかったが、フランソワ・ボードゥリアンという騎士団長は、己が勝つためにはどんな汚い手でも使うと聞いたため、彼らが何か手を貸そうというつもりかもしれないと……そう疑ったわけである。
「なんでおまえまでついてくるんだっ!!」
従騎士のひとりが、ギネビアが三人のあとを我先にとばかりついていこうとするのを見て、そう怒鳴った。従騎士とは、騎士になる前の修行段階にある者たちのことで、それぞれ自分の仕える正騎士の主人を持っている。また、それが自分の主人でなかったとしても、他の正騎士の命令には絶対服従というのが主従関係の基本である。ゆえに、彼らは尊敬する先輩方が何をしようとしているかまではわからないながら……それがフランソワ・ボードゥリアン騎士団長とフランツ・ボドリネール副騎士団長の御ためになることだと信じ、ただ黙ってあとに従っていたわけである。
「気にするなよ。それに、あのボドリネールって男は、ただの地上げ屋のチンピラなんだろ?そんないかがわしい男が何故、由緒正しきあんたたち騎士さま方と一緒にいたりするんだ?」
「何を言うっ!!」別の従騎士が先に進みでて言った。「あの方は、名門騎士ボドリネール家の……ええと、とにかく元は騎士となるべく我々と共に武術の汗を流した、本来であればあの方こそが騎士団長になっていたかもしれぬほどのお方なのだっ!!失礼な口は慎みたまえ」
「あ、そっか!忘れてた。そういえばあいつ、フランツの半分血の繋がった兄ちゃんなんだっけか……」
闘技場まで続く、暗闇の通路は思った以上に人声が響く。先のほうを進んでいたレイモンドの耳にも、ギネビアの声は届いていたが、(あの娘、フランツの知りあいか……)といったように思ったくらいなもので、アランもニコルもレイモンドも、とにかく今は聖ウルスラ騎士団の騎士団長と副騎士団長のことしか頭になかったわけである。
円形闘技場の出入口の左右に、馬に乗った騎士がふたり現れても、特段気にする者は誰もなかった。観客席にいる者は誰も、そのくらいフランソワ・ボードゥリアンとフランツ・ボドリネールの試合に熱中していたからである。というのも、ふたりは一騎打ちの決まりとして――左右それぞれに離れて位置につくと、紋章官の吹き鳴らす角笛を合図として、騎乗したままダッと一直線に駆けてゆく。一騎打ちの一本目、フランツとフランソワは中央付近でガキッと一号槍を打ち合い、交差し、馬をそのまま駆けさせていった。ルールとしては三本勝負であり、基本的に三回打ち合い、二本相手から取るなり、それか三本のうち二回が引き分けで、残り一本を勝ち取るか……場合によっては、最初の一本目、あるいは二本目で相手が大怪我を負うか死亡するなりして試合終了という可能性もある。
レイモンドたちが闘技場の出入口に到着したのは、この次、二本目の勝負がはじまろうかとする頃であった。レイモンドは自分が表に出るわけにはいかぬと考え、入口の陰に待機し、親友と異母弟の戦いを見守ることにした。ところが、本来であれば無関係なはずのギネビアが図々しく、そのまま先に馬を進めてゆく。それから、アラン・アッシャーの隣にてじっと試合を観戦しようとしたわけである。
「おいっ!おまえ、一体どういうつもりだ!?」
アランは隣のギネビアに小声で怒鳴った。まさかこんな目立つ場所にまで彼女がついてくるとは思ってもみなかったのである。
「ふふん。おまえ、わたしに三回戦あたりで負けた、アラン・アッシャーだな?だったら、ここにいるのは貴様なぞよりわたしのほうがよほど相応しいというわけだ」
「なっ……ばっ、馬鹿なっ!!そんなはず、あるはずなかろうっ!!」
「しっ!!いいから黙ってろ。今、試合が物凄くいいところだ」
二回目の角笛が吹き鳴らされた。フランツとフランソワはそれぞれ、再び所定の位置から飛び出していくと、互いに鋼の真槍によって打ち合おうとした。だが、フランソワはここで戦術を変えた。先ほどと同じく打ち合うかに見せかけておいて――フェイントの動きを一度入れると、フランツの肩目がけ、強烈な一撃をお見舞いしたのである。
フランツは肩に激しい痛みを感じると同時、ほとんど吹っ飛ぶかのような勢いで、危うく落馬しそうになった。観客席からは女性の「きゃああっ!!」という悲痛な叫びと、「あ~あ……」という、副騎士団長の肩の痛みを嘆く者たちのどよめきが同時に起きている。
(よく堪えた、フランツ……もう十分だ。それだけでも、もうおまえは立派な騎士だ……)
そう思っていたのは何も、レイモンドだけではない。騎士専用の桟敷席に座る他の騎士たちもみなそう思っていた。だが、この中のうち誰ひとりとして、この試合を止めることの出来る者はなかったのである。
この時、レイモンドは闇の中から光の中へ進み出ようとした。そうすることで、どのような罪がのちに己の身に下ることになるかはわからない。けれど、何がどうあってもフランツとフランソワのこの一騎打ちを止めなければならないと考えていた。どちらか一方が命を落とすことになる、その前に……。
「なんだ、貴様。これは騎士同士の神聖な戦いだぞ。たかが町のチンピラ如きがちょっかいだしていいような試合じゃない」
ギネビアが、闘技場の中へ進みでようとするレイモンドのことを、そう言って止めた。彼はカッとするでもなく、馬の手綱を思わず引いた。
「いいから、黙ってみていろ。わたしはフランツのことを信じている。きっとあいつが必ず勝つ……!!」
(なんの根拠があってそんなことを……)
そう思ったのは、レイモンドだけではない。アランにしてもニコルにしても、まったく同じ思いだった。何故なら、彼らは実戦経験があるだけにわかる。肩にあれほどの深手を受けたのでは、右手に槍を握るのも精一杯なはずなのだ。あとはもう神に祈るか、フランソワが最後の最後、もうこれで十分であるとして手心を加えてくれるのを願うかの、いずれかしかない。
「がんばれ、フランツっ!!この一月弱の間、我々に稽古をつけられていた時のほうが、今の痛みなぞよりおまえにとってはよほど苦しかったはずだぞっ!!」
フランツの肩の傷は、鎧の繋ぎ目を貫通して届いたほど威力のあるものだった。彼は最早半ば、己の敗北を確信さえしていたが、ギネビアの今の言葉で目が覚める。
(そうだ。まだ勝負はついちゃいないぞ……)
ぎゅっと右手で真槍を握り直すと、フランツは冑の中でダラダラと流れてくる脂汗と苦痛に顔を歪めつつ、馬首を翻すと、所定の位置についた。遠く、悠然と同じように真槍を握り、騎乗しているフランソワ・ボードゥリアンの姿が見える。
(彼は、次の一撃で僕に止めを刺そうとしてくるだろう。だが、僕にはやはり出来ない……出来なかったんだっ!!副騎士団長の地位に着けさせられて、嫌な思いをたくさんしたのも事実だけど、フランソワが小さい頃から僕に色々良くしてくれたっていうのも、本当だったから……!!)
フランツはこの段に至っても心を決めかねていた。次こそ死にもの狂いの本気の一打を繰り出さなければ、自分は彼の槍の一撃によって死ぬ可能性さえある。だが……。
「おいっ、どうした紋章官っ!!」ギネビアは、おどおどしているように見える、マルタン・ド・オーヴァリーに向かって怒鳴った。「騎士団長も副騎士団長も、所定の位置についた。あとは貴様が角笛の合図を出すだけだぞっ!!」
――もちろんこの時、ハムレットやタイス、ディオルグらと座席に座っていたランスロットやカドールが、「あいつ、一体何やってんだ」とか、「あの馬鹿が……」と言いながら、呆れつつ、頭を抱えていたのは言うまでもないことである。
一方、この事態に突然にして騎士の桟敷席のほうが騒がしくなりはじめた。「おい、アランもニコルも一体どうしたんだっ!!何故そんな女に勝手なことを言わせている!?」と、マイヤンスが怒鳴ったのを皮切りに、他の騎士たちも観客席と闘技場を隔てる二メートルばかりもある石造の基部と木製の羽目板のあるところまでやって来る。
そして、彼らが何か言いあううち、試合のほうは中断されたままとなり――メレアガンス伯爵夫妻の目には、騎士たちが自分たちの騎士団長と副騎士団長の戦いをどうにか止めたいがゆえに、何か騒ぎを起こしているのではないかと思われ……円形闘技場にいる者たちは誰も、この先どうすべきなのが正しいか、見失ってしまったわけである。
けれどそんな中、巫女姫が動いた。彼女は近くにいた大神官のゴーマドゥラを呼び寄せると「早く試合を再開させるよう、伯爵に言ってちょうだい」と頼んでいた。こうして、ゴーマドゥラは自分の言葉として神官のひとりにその旨、メレアガンス伯爵に伝えさせたわけである。
「ううむ……」
それが巫女姫の仰せとあっては、メドゥック=メレアガンスにしても、どうにも止めようがなかった。そこで伯爵は、侍従のひとりに紋章官にこう伝えさせることにしたのである。「速やかに試合を再開するようにとの、伯爵さまの仰せでございます」と……。
巫女姫マリアローザは、自分の恋人であるフランソワ・ボードゥリアンの勝利をすでに確信していた。ゆえに、彼がなるべく速く、なんの邪魔もされずに勝ち鬨を上げるところを見たかったのである。
それでこの時、紋章官のマルタン・ド・オーヴァリーが、高々と角笛を吹き鳴らすと――あたりは再び一気にシーンと静まり返った。じっと待機させられ、フランソワの馬は気が逸るあまり前脚で地面を蹴っているほどであったから、飛び出していくのは有利に試合を進めている彼のほうが一瞬速かった。肩の痛みもあり、フランツのほうでは出足が遅れる。この時、フランソワのほうでもやはり迷いがあったのだろう。一気に勝負をつけにいくのではなく、フランツの槍を受け止めると、彼は冑の桟の奥からこう言った。
「適当なところで落馬するか何かして負けろ、フランツ……!!どのみちその傷ではもう戦えまい!!」
「うるさいっ!!これは命を賭けた真剣勝負だぞっ!!それとも、愛しい巫女姫さまの前で格好つけて勝ちたいという、そうした意味かっ!!」
ガキッ、ガキッと槍を打ち交わすごと、フランツは左肩の傷に痛みが走ったが、そのうち何も感じないようになった。兵士らが重傷を負っているのに戦場では何も感じないという、アドレナリンによる例の症状が出ていたに相違ない。
(こいつ……サイラスのことと言い、一体どこまでのことを知っている!?)
先ほど、入口付近にいる若い女が、「我々に厳しく稽古された時のほうがよほど苦しかったはずだぞっ!!」と怒鳴ったのは覚えている。短期間でフランツが腕を上げたのは、そのような陰の鍛錬があってのことなのだろうとも……ということは、<我々>というのは一体誰のことなのか。なんにせよ、フランツがそれらの者たちから色々と吹き込まれたのだろうことは間違いない。
(すまん。許せ、レイモンド……!!フランツをこのまま生かしておけば、俺と巫女姫のことまで告発しかねん。俺自身のことはともかくとして、マリアローザのことは必ず守らねばならん!!)
フランツはほとんど勝手に体が動くに任せるかのように、フランソワの激しい攻撃を防いだ。だが、防戦一方に追い込まれ、反撃の一打を繰り出す間合いすら取れぬまま、フランソワが最後、(これで止めだッ!!)という激しい一戟をフランツの喉に決めようとした瞬間のことだった――彼は突然、重力に弄ばれてでもいるかのように落馬したのである。フランツが、ではない。フランソワのほうがである。
この日、一体何度目かわからぬ、しーんという沈黙が、円形闘技場を包んだ。試合を観戦していた者は誰も、すでに脇の下にびっしょり汗をかいていたものである。より興奮し、感情を大きく揺さぶられた者ほど、外気温のせいによってではなく、手のひらにまで汗をかいているほどだった。だがこの時、一体何が起きたのかわからなかったのは、誰あろう、フランソワ・ボードゥリアン本人だったに違いない。彼は馬の鞍を支える腹帯が突然切れたことにより――それが原因でバランスを崩し、落馬していたのだ。
しかもこのあと、さらなる不幸がフランソワを襲った。これもまたありえぬことであったが(騎士の馬は戦場でも戦えるほどよく訓練されているがゆえに)、興奮した彼の愛馬が主人のことを鎧の上から踏みつけにしたのである!!
フランソワは肋骨の折れる音をその耳にはっきり聞くと同時、失神した。この事態に一番顔を青くしたのはおそらく、フランソワの従騎士であるディロン・ボードゥリアンだったに違いない。従騎士は主人の槍や盾や剣、鎧などの手入れをするのみならず、馬の世話もする。他に、馬の鞍や鐙や手綱など、馬具の手入れをするのも従騎士の大切な仕事のひとつである。ディロンは、今朝方、馬の準備をする時に――何ひとつとして欠けたものはないとして、満足してフランソワのことをこの円形闘技場のほうへ送りだしていたのである。それなのにあれほどしっかりした腹帯が切れるなどとは、彼にしてみれば断じて絶対にありえぬことであった。
「お、おまえ……」
あまりのことによろめきながら、騎士の桟敷からディロンは前のほうへやって来た。そして、ギネビアのほうをはっきり指差しながら、こう叫んだのである。
「フランツを勝たせるために、何か汚い小細工をしたな!?そうだ、そうに決まっているっ!!この試合は無効だっ!!そもそもフランツとフランソワでは力量に違いがありすぎるっ。フランソワはその優しさと温情から、副騎士団長であるフランツ・ボドリネールを憐れみ、なかなか決着をつけようとはされなかったという、それだけなのだぞっ!!」
「チッ。一体なんだこの、頭の悪い青びょうたんは……」
ギネビアは見事な栗毛の馬に軽く拍車をかけると、興奮して闘技場を走りまわっているフランソワの愛馬を追っていった。そのあとの彼女の手並みはまったく見事なもので、観客席からは「ほお~っ!!」という感嘆の声まで洩れていたほどである。
ギネビアは鞍を失ったフランソワの愛馬のほうへひらりとうまく乗り移ると、「よう~し、よしよし」と、たてがみのあたりを撫で、馬の興奮を鎮めた。それから、自分が乗っていた鹿毛のほうの手綱を掴み、そのまま一緒に入口のほうまで戻ってきたのである。
「ようく聞け、おまえらっ!!」
ギネビアは面白くなさそうな渋面を浮かべる聖ウルスラ騎士団の騎士が桟敷の最前列に雁首を並べるのを眺め渡し、彼らに向かってこう怒鳴った。
「この勝負は、フランツ・ボドリネールの勝ちだっ!!もし、そのことに不満と異議があるなら、ふたりの怪我が治った頃にでも再度勝負すればいいということだろう。ルールではそういうことだったな、紋章官っ!?」
すぐ目の前にマルセルがいるとも知らず、ギネビアは自分の後方にいるマルタンのほうを振り返って言った。彼はあまりのことにどうして良いかもわからず、青い顔のまま呆然としている。だが、ようやく蚊の泣くような声で「は、はいィ~……」と答えていた。フランソワの元にはふたりの衛生官が駆けつけており、マルタンもまた彼の様子を見るのにそちらへ向かった。
「聖ウルスラ騎士団の騎士たちよ、よく聞けっ!!」
(もうよせ!)とか(頼むからやめてくれ……)と、ランスロットやカドールがやきもきしているとも知らず、ギネビアはさらに続けた。
「おまえらの騎士としての根性は腐り切っているっ!!なんでも、夜には娼館通いをし、夜警団からは賄賂をもらっていると聞いたぞ。証拠のほうならば揃っている!!ゆえに言い逃れは出来ぬぞ。貴公らの騎士団長と副騎士団長は、ほとんど相打ちにも近い状態で共倒れだ。それが何故だかわかるかっ!?貴様らの性根が騎士として腐り切っているがゆえに、このような分裂という天罰が下ったのだっ。我が名はアビギネっ!!明日、準決勝戦を戦ってのち、優勝する者の名だっ。よおーく覚えておけっ!!」
この言葉を聞いたのは何も、その場にいた聖ウルスラ騎士団の者たちのみならず、伯爵夫妻や巫女姫、その他元老院にその名を連ねる貴族、それにメレアガンス州の州民のみならず、他州から遠路はるばるやって来た観客たちもであった。そして、彼らはこの瞬間、ハッとしたわけである。本来であればこのあとまだ試合があり、明日の準決勝戦を戦う選手が選出される予定だというのに――聖ウルスラ騎士団の騎士たちの中には最早フランツ・ボドリネールを除き、ひとりも残っていないということに!!
「今一度同じことを言うから、耳の穴かっぽじってようーく聞けよっ!!貴様らがよそからやって来た騎士らに負けたのは、そもそも普段から騎士としての心がけがなってなかったからだ!!そして、フランソワ・ボードゥリアンには騎士団長として、そのように貴様らが堕落するよう助長したことに対する責任があるっ!!フランツはそのような聖ウルスラ騎士団の腐敗を嘆き憂え、明らかに実力差のある騎士団長と戦うことにより、綱紀の粛清をはかろうとしたのだっ!!そのようなフランツ・ボドリネールが不正をするなど、絶対にありえんっ!!」
聖ウルスラ騎士団内には、夜警団から賄賂を受け取ることもなければ、娼館通いをしてもいない者もいくらかはいた。だが、その彼らにしても仲間の不正を知っていながらあえて正そうとしなかったという意味で同罪だったと言えよう。とにかく、騎士の世界ではそうなのである。
「だが、女よっ!!おまえがあの白銀の騎士アビギネだという証拠は一体どこにあるというのだ!?」
心当たりのある者や、やましいところのある者たちが項垂れる中、反論する望みの細い糸を掴む騎士がいた。彼もまたアビギネに負けた騎士のひとり、キザイア・マイユである。
「ははははっ!!もしわたしが白銀の騎士アビギネでないなら、一体誰がアビギネだというのだ!?そもそも、わたしがそのような嘘をついて何かメリットがあるとでも?よしんば、わたしがかの白銀の騎士でなかったとすれば、おそらく今のこの試合の模様をアビギネがこの闘技場のどこかで見ていて、文句でも言いにここまで下りてくることだろう。これでわかったかっ!?貴様らはこのわたし、本来であれば騎士が守らねばならぬはずの婦女子、女に負けたのだぞっ!!そのこと、恥かしいと思うのであれば、おのおの方はこれから口を慎むが良かろう。まだ貴公らにしても幾分かは恥を感じる心が残っているというのであればな!!」
ギネビアのこの一喝に、周囲は水を打ったように静かになった。その上で、彼女はこの沈黙にすっかり満足したように続ける。
「わたしもまた、騎士のはしくれである者として、今一度貴公らに問いたい。そもそも騎士とは何か?騎士とは一体なんのために存在しているのだ!?騎士聖典によれば、騎士とは卓絶した正義と道徳心を持ち、さらには高貴さを身に着けている者のことだという。そして、主君に忠誠と誠を尽くし、法の守護者として悪を退け、弱き者たちを庇護し、救うのだという話だ……わたしは今、あえてまるで他人事であるかのような言い方をした。何故なら、貴公らが法を曲げ、賄賂を受け取り、騎士らしくなくふるまっているという噂を聞いたからだ。騎士とは、ただ煌びやかな鎧を身に着け、馬に乗り槍や剣を振るっていれば騎士だというのか!?断じて違う!!ただそれだけで騎士になれるのであれば、野山の山賊だとても騎士であろう。何故なら、騎士には聖職者と同じ高貴さと潔癖さとが求められ、それを持って庶民らの模範とならねばならぬ責任が伴うからだ!!」
聖ウルスラ騎士団の騎士たちの内、この目の前の見事な赤毛の美女が白銀の騎士アビギネであると完全に信じられた者は皆無に等しかった。だが、それでいてこのギネビアの一喝には心を打たれていた。本当にその通りであるのと同時、ギネビアのとても女性とは思えぬ、騎士そのものでもあるかのような凛々しさに、彼らはみなすっかり打たれていたのである。
「騎士たる者のこうした責務を忘れる者は、すでに己の主君と正義に仇をなしたも同然であると心得よ!!肉体のみを鍛錬し、己の武勇を誇るだけの者は騎士ではない。今貴公らに必要なのは魂の鍛錬だ!!騎士聖典には、忠誠・真実・忍耐・寛容・良識・謙虚・慈悲……これらが騎士の身に着けるべき美徳であると書いてある。その逆の悪徳とは、貪欲・色欲・高慢・怠惰・嫉妬・怒りであるとも。ただ腕力のみを誇るだけの者は己の武芸に溺れ、その上高慢になり鍛錬を怠る。そして、騎士道の腐敗とはまさにそこからはじまるのだ。その上ついには、神にある信仰心と弱き者に対する博愛心すら忘れ、悪に染まり、腕力によってこれを虐げる。わかったか、おのおの方!!これからは初心に返り、神への祈りと美徳と善行とにまずは励むが良い。我が名はローゼンクランツ騎士団のアビギネ!!まさか、謙虚な心で武芸の教えを乞いに聖ウルスラ騎士団を訪ねて来たにも関わらず、騎士の根幹に関わるこんな基礎的なことで説教する羽目になるとは、思ってもみなかったぞ!!」
このギネビアの言葉には、まだ反論すべき抜け道が存在することに、弁護士といった雄弁術を駆使する職業の者であれば気づいたことだろう。つまりは、魂の鍛錬により、神への信仰と美徳と善行にのみ富んでおり、槍や剣や体術といった腕力の才が低くして騎士となった者は、決して聖ウルスラ騎士団をまとめる騎士団長にまではなれまいという――だが最早、彼らの中にギネビアに屁理屈をこねて反論しようという者はひとりもいなかった。それほどの説得力がこのギネビアの演説にはあったのである。
ギネビアは自分の言いたいことだけ並べ立てると、この時もさっさと退場していったが、そんな彼女のことを引き留めようとする者はひとりもいなかった。レイモンドはこの時、初めてハッとしていたものだ。単に腕力があって喧嘩の強い者と、正規に騎士の訓練を受けた者とでは、剣の扱いにしても体術における身のこなしについても明らかにはっきりとした差が出る。それゆえにこそ、『怒れる牝牛亭』で部下たちがギネビアとやりあいになった時、彼は彼女を見逃そうと思ったのだ。
(だが、むしろそのことで見逃され、助けられたのは俺のほうだったのかもしれぬ……)
ギネビアとすれ違いざまそう思い、レイモンドは馬を下りた。それから、アランやニコルとともにフランソワの元へ彼の具合を見るのに駆け寄ろうとした時のことだった。メレアガンス夫妻や巫女姫、それに貴族方の桟敷のある側には、闘技場へ通じる普段はあまり使われることのない隠し扉があるのだ。本来であれば、マリアローザは明日こそこの祝祭の締め括りにそこから他の巫女や神官らと一緒に出てくる予定であったが、この時彼女は白いヴェールすらも自ら取り去り、恋人の元へ真っ直ぐ駆けていったのである。側近巫女であるミラベルやディアンヌが止める間もなかった。
「フランソワっ、しっかりしてっ!!フランソワっ!!」
衛生官はふたりとも、この美しい女性が巫女服を着ていたことから巫女のひとりとは認識したものの――まさか、彼女が巫女姫その人とまでは思ってもみなかった。というのも、巫女姫というのは公の場に出る時、必ずつばの大きな帽子を被り、そこから白いヴェールが下がっているがゆえに……風でそれがはためきでもしない限り、畏れ多いその御尊顔を拝することの出来る者はないのである。また、マリアローザの胸には例の作られた竜の痣があったが、神殿にいる時とは違い、やはり公式の場において巫女姫が人前でそのように肌をさらすということはないからだ。
「大丈夫です。鎧はすでに取り外しましたし、肋骨が折れていましょうが、普段の鍛錬がものを言い、騎士団長であれば治りも早いはずです」
騎士でありつつ、医術の心得もあるフロモントは、持ってきた担架へフランソワのことを移すべく、もうひとりの衛生官に合図した。ところが、マリアローザは取り乱して泣き叫ぶのをやめず、さらに彼に取り縋ろうとする。
「大丈夫って、口の端から血が出てるわっ!!今動かして、死んだりしたらどうするのっ!?」
「肺か、どこか別の臓器が押し潰されたのやもしれませぬ。どちらにせよ重傷ではありますが、ここで治療は出来ぬ以上、治療室のほうへ一刻も早く運びませんと……」
この時、フランソワはうっすらと目を覚まし、マリアローザの声をどこか遠くで聞いた気がしたが、担架へ移される際に体を持ち上げられると、その時に生じた痛みにより再び気を失った。だが、フランソワが一度意識の戻った徴候を見せたため、マリアローザは安心した。「わたしよっ!フランソワ、わたしのことがわかる!?」などと叫びつつ、彼の手を握りしめ、衛生官らについていこうとする。
衛生官にマリアローザが巫女姫とすぐわからなかったように、観客席に座っている者たちの中で、彼女こそが巫女姫その人なのだとわかっている人物というのは、数として少なかった。メレアガンス夫妻にはわかっていたが、ふたりはあまりの事態が起きたがゆえに巫女姫マリアローザは取り乱したのだと考え、まさか彼女がボードゥリアン騎士団長と情を交わした仲なのだとまでは想像してもみなかったのである。また、観客席に座る市民らも、巫女服を着用していることから、突然飛び出して来た彼女が巫女であろうと想像したとはいえ、まさか巫女姫その人であるとまでは考えなかった。また、(もしや、フランソワ騎士団長は巫女のひとりと恋仲にあるのでは……)と邪推する者がある反面、そのことを裁こうとまで考えた者は極少数だったようである。何故なら、今飛び出せば、自分の命に関わるというのに――彼女は恋人のことが心配なあまり、我が身のことをも顧みなかったのだから。
だが、マリアローザの側近巫女のミラベルとサヴィーヌとディアンヌは違った。自分たちはのちのち責任を問われるであろう、ということを彼女たちは保身から心配はしなかった。ただ、彼女たちの可愛い娘にも等しいマリアローザがこれから一体どのようなことになるのかと……その時自分たちに一体何がしてやれるかと、そのことばかりを考え、彼女たちは顔を青くしていたのである。
そして、さらにこの時――その場にいる誰もが考えてもみない第三の事態が重ねて起きた。悪魔教ネクロスティアの教祖クエンティスは、自分の信徒ら数名に手伝ってもらい、二メートルばかりもある闘技場と観客席を隔てる壁をどうにかして下りてくると、担架に乗ったフランソワに追い縋るようについて行く巫女姫のほうへほぼ一直線に駆けていった。クエンティスは二メートルばかりもある壁から苦労して下り、さらには着地の時にドテッと転び、そのあと転げまろびつしながら、大切な例の深緑色の瓶を胸から取り出し……最後には、「既存神の不在証明のため」との彼にとっての大義名分のため、恐るべき速さにより、巫女姫の御身へとその穢れた肉体を近づけていった。
繰り返しになるが、クエンティスは巫女姫が聖ウルスラ騎士団の騎士団長と恋仲であるらしい、などという俗な理由によって突然怒りを燃やしたのではない。むしろ、そのようなことは彼の頭には今この瞬間も思い浮かびもしないことであった。彼はただ、警護している兵士ですらも騎士団長と副騎士団長の一騎打ちに気を取られるあまり、警備が手薄になっていると気づき、その隙をどうにか突いて巫女姫マリアローザに近づけはしまいかと、馬上試合そっちのけで、ずっと美しい巫女方の座る座席のほうを睨むようにじっと見つめ続けていたわけである。
そして彼はとうとう――何かの羽虫が空気中に脅威を感じ、一目散に逃げる時のような速度で、一瞬にしてマリアローザの元まで追いついた。クエンティスにとっては、彼女の若さや美しさ、その身に纏う馨しい香りのことなどは一切どうでもよいことだった。彼はただ、自分の崇める悪魔の名を口にし、「悪魔ネクロスティアさまに栄えあれ!!そして聖女ウルスラに呪いあれ!!」と大きな声で叫ぶと、きつく閉められた薬品瓶の封を解き、その中身をすべてぶちまけたのである。
マリアローザはガクガク震えたまま、その場に腰を抜かして座り込んだ。だが、彼女の体には、硫酸は一滴たりとも降りかかってはいない。何故なら、クエンティスの深緑色の瓶の中身を受けたのは……咄嗟に巫女姫の目の前に飛び出した、レイモンド・ボドリネールだったのだから!!
「兄さんっ!!」
フランツもまた左肩に重傷を負っていたが、不審者としか思えぬクエンティスがえっちらおっちら壁を下りてくるのを見て――馬を下り、どうにかこちらへやって来ようとしていたのである。レイモンドは咄嗟に黒いローブを広げていたことから、顔に硫酸を受けることは避けることが出来た。だが、その衣服すらも溶かし、硫酸は彼の肩や背中、それに腕や胸にまでも達していたのである。
(ぎィやああっ!!)と叫びたくなるのを、レイモンドはどうにか堪えたが、それでも痛みのあまり、その場に右へ左へと何度となく転がって身悶えた。剣を抜く力が残っていたとすれば、間違いなく目の前のクエンティスのことを彼は殺人罪云々考えることなく斬り伏せていたことだろう。
衛生官ふたりもまた、青ざめた顔をしたまま戸惑っていた。重傷者があらたに増えたことで、どうしていいかわからなかったのだ。だが、レイモンドは息も絶え絶えながら、「早く、行け……っ!!」と、噛みしめた奥歯から苦悶とともに命じたのだった。「そこの、お姫さんも……早くっ!!」
この段になると、何人もの警護兵らが隠し扉のある場所から飛び出して駆けつけた。フランツは剣を抜くと、「動くなっ!!」と叫び、クエンティスのことを脅した。そうこうする間に、クエンティスは右からも左からも屈強な警護の兵たちに殴りつけられ、地面に屈服させられる形となり、最終的に縄でしっかり縛られていた。
「おい、みんなっ!!手を貸してくれっ。兄さんが重傷だ!!」
次から次へと起きる恐るべき事態に、聖ウルスラ騎士団の騎士たちは呆然としていた。だが、このフランツの一喝で目でも覚ましたように、彼らもまた羽目板を飛び越え、何人も闘技場へ下りてきた。
さらにこの時――クエンティスがなおも星母神の名を汚し、聖女ウルスラを罵り、自身に顕現したという悪魔の名を褒め称えていると、真夏の払暁を思わせるような赤毛の巫女が、苦しみにのたちうちまわるレイモンドの元へスッと跪いたのである。
「よくぞ、巫女姫マリアローザを守ってくださいましたね」
肩に蜘蛛、その名をランぺルシュツキィンという大仰な名の黄縞の黒蜘蛛を乗せたディミートリアは、レイモンドの硫酸を浴びた傷口に触れた。途端、レイモンドの肉体から嘘のように痛みが引いてゆく。彼はまるで、キツネにつままれたような思いで、自身の焼け爛れたはずの傷跡を呆然と見た。悪魔崇拝の気の狂った妖術使いの妖術にかかったのではなく――硫酸をかけられたのは紛れもなく現実であることが、むしろそれでわかったほどだ。
(だが、何故突然痛みが引いたんだ!?)
レイモンドは不思議だった。そしてそれは、彼の弟のフランツにしても同様だった。というのも、真実の巫女姫ディミートリアは、フランツの左肩の傷に触れると、「あなたも、聖ウルスラ騎士団を立て直すため、よく戦いました。これからはあなたが騎士団長を名乗るように」と一言いい、彼の左肩に触れるなり――フランツはそこから一瞬にして痛みが去るのを感じたからだ。
「我が愛するメレアガンス州のみなさん、聞いてください!!」
ディミートリアは円形闘技場の中心まで行くと、そこからそう呼びかけた。彼女は小柄であったし、普段の彼女を知る他の巫女たちであれば……そんな勇気があの小さなディミートリアのどこにあったのだろうと、間違いなく訝ったに違いない。
だが、彼女のうっとりするような美しい声は、不思議と闘技場の隅々にまでよく響き渡っていたのである。ディミートリアの声の調子には少しも恐れているようなところはなく、彼女はあくまでも冷静に落ち着いた態度で、その場にいる人すべての心に直接訴えるかのように語りはじめた。
>>続く。