こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ピアノと薔薇の日々。-【5】-

2021年04月05日 | ピアノと薔薇の日々。

 

 ええと、今回も引き続き特に書くことないやうな……ということで、↓の中に『トリスタンとイゾルデ』のことが出てくるので、そのことでも、なんて思います(^^;)

 

 ただわたし、天野喜孝先生の美麗な表紙のこの本、読んだのが相当昔なことのため――本の内容について覚えてるのは、「大体こんなよーなお話だったはず☆」くらいな感じなのですが、この、元はケルトのお話である『トリスタンとイゾルデ』と、ワーグナー作曲の楽劇『トリスタンとイゾルデ』は、話の内容ちょっと違ってたりするんですよね。

 

 もちろん、昔からある有名なお話だけに、「諸説アリ☆」という感じではあるものの……多くの方が読んでてたぶん思いだすのが、『アーサー王と円卓の騎士(アーサー王伝説)』の、ランスロットとギネヴィア王妃のことではないかという気がします(少なくとも、わたしはそうでした^^;)。

 

 まあ、簡単にいえば不倫のお話で、ランスロットはアーサー王に忠誠を誓っていながら、アーサー王の美しい王妃ギネヴィアと通じている……という関係性で、こちらのお話のほうは多くの方がご存知なのではないでしょうか。

 

 んで、肝心のお話のほうなのですが、トリスタンの場合は、叔父のマルケ王に孤児であったところを拾われ、この大恩ある王さまに忠義を尽くしているといった関係性で――まあ、前振り長いので簡単に端折りますが(すみません☆笑)、イゾルデというのは、アイルランドの王女さまで、マルケ王に嫁ぐことになったのは、ようするに政略結婚なわけです。

 

 そして、トリスタンはこの時、イゾルデのことをアイルランドから船で連れてくる案内係のような役割を騎士として果たしていたんですよね

 

【トリスタンとイゾルデ】ジョン・ウォーターハウス

 

 ところがこの時、船内で大変なことが起こります!!

 

 なんと、イゾルデの侍女ブランゲーネが媚薬を混ぜた杯をふたりは誤って飲んでしまい――媚薬の効果によって愛しあい、結ばれることになったふたりは、イゾルデがマルケ王と結婚してからも、お互いに熱烈に愛しあうという関係性であり続けたわけです。

 

 トリスタンは恩義あるマルケ王と愛する女性との間で、おそらく相当苦しんだものと思われますが……最終的に事が露見すると、ふたりは罰されることになります。ただ、ワーグナーの楽劇と元の『トリスタンとイゾルデ』とでは、終わり方が異なってると思うんですよね(^^;)

 

 ワーグナーのほうでは、トリスタンとイゾルデの関係をあやしいと感じていたマルケ王の家臣、メーロトとトリスタンが斬り結び――トリスタンはわざとメーロトの前に身を投げだし、このあとトリスタンは愛するイゾルデの腕の中で命を落とします。そして、有名なイゾルデの『愛の死』となり、彼女もまたトリスタンの後を追うように気力によって死んでゆくのでした……。

 

「え?人って気力によって死ねるの?」という気もしますが、ふたりは愛の絶頂で死を迎えた……というのは、オペラではよくあることというか、何かそんな感じのことですよね(^^;)

 

 ただ、元のお話のほうでは、イゾルデはその後もマルケ王の王妃であり続け、トリスタンはブルターニュ(フランス)へ行き、そこでイゾルデと同じ名を持つ女性――ブルターニュ王の娘である、白き手のイゾルデと結婚するのでした。

 

 ところがですね、トリスタンと永遠の愛で結ばれていると信じるイゾルデは、彼のことを追いかけていくのです。おそらく、彼女としては決死の覚悟というか、もうどうなっても構わない、彼と一緒に死のう……くらいの気持ちがあったものと思われますが、ブルターニュまで行ったらトリスタン、自分と同じ名前の女と結婚してるやんけ☆という(笑)。

 

 いえ、笑いごとではありません。ただ、自分的にワーグナーの楽劇も素晴らしいと思うのですが、元の(諸説ある)お話のほうもすごく面白いなって思いました。特に最後のオチ、イゾルデ的にはもう「自分には彼しかいない」と思いつめ、彼女はトリスタンを追っていったのに――「え?自分と同じ名前の女と結婚してるってどゆこと??」的なところとか、現代という時代に照らし合わせてみても、何かこう妙にリアルな感じがしませんか?(^^;)

 

 これはあくまで一般論ですけれども、恋愛において引きずるのはどちらかというと女性のほうで、男性のほうでは「絶対あの女じゃなきゃ自分はダメなんだーっ!」、「オレが本当に結婚したいのは白き手のイゾルデじゃなく、どんな毒もとりのけることの出来るほうのイゾルデなんだーっ!!」というよりも、まあ、イゾルデのことは今も愛してるけれども、ある種の妥協というのでしょうか。

 

 この設定の場合、忠節を誓ったマルケ王と愛するイゾルデとの間で板挟みとなり、トリスタンもつらかったでしょうし、逃れた先の国で出会った女性の名もまたイゾルデ……そこに運命を感じて結婚した彼の気持ちというのは、物凄くよくわかります。

 

 でも、「あんなに幾度となく愛の絶頂を味わったわたしたちなのに……」的に、トリスタンを諦めきれなかったイゾルデの気持ちも、すごくよくわかる気がする、というか。。。

 

 今は時代的には、不倫なんてしよーもんなら、即フルボッコ☆にされてしまいますが、マルケ王にしても、ワーグナー版のほうであれば、媚薬を飲んでしまって云々的事情について最終的には理解していたり、元の諸説アリ☆の物語のほうでは、激しく怒ったヴァージョンと、ふたりの関係を知っても寛容に許していたヴァージョンがあるのかなと思ったりします(でも、王としての威厳を保つため、罰さないわけにもいなかった……などなど)。

 

 さて、マルケ王とイゾルデとトリスタンのみならず、基本的に人間の三角関係というのはうまくいかないのが定説ですが、マキと君貴と彼の恋人、レオン・ウォンの三角関係は、まだまだ始まったばかり……といったところです(^^;)。

 

 それではまた~!!

 

 

     ピアノと薔薇の日々。-【5】-

 

 マキは君貴に抱かれて処女を失った翌週の月曜には、いつもどおり<ベルサイユのばら>へ出勤し、自分に任されている事務員兼雑務係としての仕事を淡々とこなしていった。

 

 表面的には、なんの変化もない、元の通りの毎日に戻ったというそれだけだった。例の三十一万円については、阿藤君貴に送り返してやろうかと思わぬでもなかったけれど、結局そんなことをしたところで無意味な気がした。それより、もう二度と会うことさえなかったにしても――マキは仕事の合間合間にいつでも彼のことを考えていた。

 

 インターネットで彼自身のことや、音楽一家である阿藤君貴の家族のことを調べたりするうち、嘘か本当かもわからぬひどい書き込みを見たりもした。週刊誌の記事と同じで、それがどこまで本当かというのは、かなりのところ信憑性は欠けるにせよ、阿藤家の人々の輪郭がぼんやりながらわかってもいたのである。

 

 総合して鑑みるに、阿藤家では母親の阿藤耀子だけが世界に通用する一流のピアニストで、夫の阿藤貴生も長女の美夏も次男の崇も、どうにか「プロ」を名乗っている程度の、クラシック音楽界では二流、あるいは三流の才能しかない――というのが、いわゆるネット民というのだろうか。そうした人々がよく書き込んでいる意見のようだった。三人の子供たちの中で、もっとも才能に恵まれているように思われたのが長男の君貴だが、ウィーンの音楽院を辞めてのち、母親とは断絶関係にあるということだった。もともとこの親子の間には確執があり、あれほどピアノの才に恵まれていた息子がプロピアニストを志すのを辞め、建築家になったのは、母親に対する復讐もあってのことらしい……などなど。

 

 マキは、そうした嘘か誠かもわからぬ、フェイクニュースにも近いネットの噂を読みながら、阿藤君貴の人物像を間接的に知っていった。ピアニストの阿藤美夏のインスタグラムを見たり、阿藤崇のブログを見て、(この人たちがあの人の家族なのねえ)と、奇妙な話、こんなことを知ってしまえる現代という時代に、不思議な感覚さえ覚えていたかもしれない。

 

<建築家・阿藤君貴>と入力して検索をかけただけでも、彼の顔写真の入った小さなニュース記事や、彼に家をデザインしてもらったハリウッドスターといった有名人との写真など、いくらでも出てくる。そんなことをしている自分を(これも一種のストーカーかしら)と怖くなりつつ、やはり夜遅くまでマキは彼の姿をネットで追うことがやめられずにいた。

 

 そんな時……マキが請求書をプリンターで印刷し、社名の入った封筒に入れ、糊で封をしていた時のことである。表の店から事務所のほうへ、パート店員の柴田晴香が飛び込んできて、こう言った。

 

「ちょっと、マキちゃんっ!なんか物凄いいい男がやって来て、『尾崎さんはいらっしゃいますか?』なんて言うのよおっ。とりあえず、下の温室のほうで待ってもらうことにしたけど、どうする!?」

 

「えっ!?えっと……」

 

 柴田晴香は、勤務歴十二年のベテランで、パート勤務とはいえ、<ベルサイユのはなや>の戦力として、なくてはならない人だった。ただ、ずっと昔から在籍しているだけに――店で起きたすべてのことを把握しておかないと気が済まないといった嫌いがあり、(なんで他の人が店番してる時に来てくれなかったのかな)と、マキはあとからそう思ったものである。

 

 マキは阿藤君貴に、名前は言ったが、苗字まで名乗った記憶はなかった。けれど、直感的に(彼ではないか)と思いはした。自分の知っている男性の中で、柴田晴香が『物凄いいい男』と表現するような人物といえば、他に誰も思い浮かばない。

 

「だ、誰だろ……」

 

 それでもマキは、(一体どこの誰かしら)といった風を装いつつ、店の表から入ってきて左側にある、半地下になった温室のほうへ下りていった。温室、などと言っても便宜上そう呼んでいるだけで、実際は生花が並ぶ入口のところから階段を下り、一繋がりになっている、鉢植えがいくつも置かれた空間のことである。

 

 果たしてそこには――阿藤君貴がいた。彼はいかにも興味深そうに花のひとつひとつを眺め、鉢植えの土に刺さった花の名前などを見ているところだった。

 

「なんだ、ここは。ジャングルか」

 

 君貴がそう言うのを聞いて、マキも笑った。温室の中央には、熱帯地方の観葉植物が並び、彼が「こんなもの、一体誰が買うんだ」と指摘した、大きなガジュマルの樹まであった。さらにはその周辺をケツァールといった鳥が舞い飛び(というより、宙に吊ってある状態)、模造の小さな滝から水が流れてもいた。そして、その周辺に、その時が旬の花の鉢植えがズラリと置いてあるというわけだった。

 

「それはべつに、売り物ってわけじゃないのよ。まあ、どうしても買いたいっていう人がいたら、専務も売るかもしれないけど……」

 

「ふうん。面白いな。表の門のあたりは<ベルサイユ宮殿>を意識したような造りなのに――ちょっと中に入るとジャングルがあるとはな」

 

 君貴は階段のところに並んだカンナの花を見た。彼の事務所にも、こんな花があってもいいかもしれないと思うが、何分ここからニューヨークやロンドンへ運ぶわけにもいかないだろう。

 

「それより、どうしたの?わたし、自分の名前以外、あなたに教えなかった気がするけど……」

 

「探偵を使った」

 

 本来であれば、ここは怒るべきところなのかもしれない。だが、マキはやはり笑わずにはいられなかった。自分よりも、彼のほうがストーカーとして上手だったのだ。

 

「その……ずっと気になってたんだ。あんな大切なことを金の力で済ませようとした卑怯な男……何かそんなふうに思われてるんじゃないかと思って」

 

「そうだったの?わたしも、あの時もらったお金をどうしようかと思ってたの。あなたの建築事務所のほうに送り返してもよかったけど、わたしにとっては大金でも、あなたにとっては大したことなさそうですものね」

 

 建築事務所、と聞いて君貴もおかしくなった。彼もまた、酔っていて口を滑らせたのでない限り、彼女に自分の身分を明かしたような記憶はない。ということは……。

 

「どうやって調べた?べつに、調べられて困るようなことはないが、やはり電話番号でも教えておくべきだったんだろうな。それで、どこまでわかった?」

 

「あなたの名前とか、ウィキぺディアその他のネット情報っていったところかな。阿藤さんは少し無用心じゃない?グーグルで名前を検索したらすぐヒットするだなんて――あんなことばかりしてたら、きっとそのうち、何か問題になるわ。ご家族だって、あんなに有名な人ばかりなんだし」

 

「ま、俺は両親や姉や弟とは違うさ。そうだなあ。弟あたりがそうした悪さをしたとしたら、週刊誌や何かで叩かれたりするのかもしれんがな。なんにしても、マキに俺を訴える気がなさそうで、ほっとしたよ」

 

 ここで君貴はマキの細い腰を抱き寄せると、彼女のこめかみのあたりにチュッとキスした。マキは慌てて、彼の体を押し戻す。

 

「ちょっ……今、一応わたし、勤務中なのよ!あなたみたいな偉い建築デザイナーさんと違って、さっきも小さな金額の請求書をせっせと刷ってたところ。今日はあれが終わらないと帰れないの。だから……」

 

「わかった。いつごろなら終わる?迎えに来る」

 

「えっと、六時ごろ……」

 

 マキが人の視線を感じて振り返ると、階段のずっと上のほうで、生花の手入れをする振りをしつつ、柴田がこちらの様子を伺っているのがわかる。

 

「そ、そういうことだから、早く帰って!」

 

「わかったよ。六時ごろ、またここに来る」

 

 君貴はあっさり引き下がると、階段を先に上がっていった。そして、柴田に花の注文をし――<ベルサイユのはなや>に三万円ほどお金を落として帰っていったのである。

 

「あれさあ、ようするにあとからマキちゃんに渡すってことなんでしょお?」

 

 君貴が大きな花束を持って店をあとにすると、柴田は早速とばかり事務所のほうへやって来て、興味津々といった様子でそう聞いた。客が来たらベルが鳴るので、一応問題はない。

 

「さあ……でも、わたしが勤めてる花屋の花をわたしに渡すっていうのも、なんか変な気がするけど」

 

 マキは君貴に再会したことで、すっかり頭のほうがぶっ飛んでいた。それで、請求書の金額や宛先などを間違えないよう、いつも以上にしつこく注意していたくらいだ。

 

「ふふふ。マキちゃん、変なこと言ってごめんね。ほら、うちの店って基本的に出会いがないじゃない。いるといったら、バツイチでイラチの金ちゃんと、ろくすっぽ口聞かない無口な花岡くんのふたりきりだもんねえ。比較的まともな伊東くんはもう結婚しちゃってるしさあ。お節介おばさんはこれから、なるべく口を閉じておくことにするからね」

 

「べ、べつにっ。あの人はそういうんじゃないんです。あの人のあれは、いわゆるアメリカナイズっていうか、外国にいることが多いみたいだから、誰にでもああなんですよ、たぶん」

 

「へええ。なんか素敵ねえ。結婚したらマキちゃん、外国にいっちゃうことになるのかなあ。そしたらうちは優秀な事務員がいなくなっててんてこまいってことになっちゃいそうだけど」

 

「…………………」

 

 ――店の入口のベルが鳴った。ネットで花束の注文をしていた客が、それを受け取りに来たのだ。

 

「はいはーい、いらっしゃいませー」と、柴田がいそいそと店のほうへ戻っていく。その後ろ姿を見送ると、マキは複雑な気持ちになった。

 

(結婚ね。そんなこと、絶対にありえないわ……)

 

 そう思うと、マキは君貴に会えて嬉しい反面、切ない溜息が洩れた。マキとしては、次のように思っていた。『探偵を使った』ということは――そこまでのことをしたということは、おそらく、尾崎麻貴という女が今後、ストーカーみたいになって何かの復讐をしてくるかもしれない。その前に花でも渡してご機嫌をとっておき、少しばかり話して事なきを得ておこう……何かそんなところなのではないだろうか。

 

(べつに、わたしのほうではそんなこと、する気もないのにね……)

 

 とはいえ、君貴の顔を見た瞬間、この上もなく胸が高鳴ったのも事実だった。それからマキは、仕事中だというのに――リュミエール・ホテルのスイートルームであった出来事を思いだし、顔を真っ赤にした。事務所に誰もいなくて良かったと思った。マキはその時、恥かしさのあまり、ミスプリントした紙をまるで気でも狂ったようにビリビリ破くと、それで顔を覆っていたのだから……。

 

   *   *   *   *   *   *   *

 

 柴田が予測していたとおり、<ベルサイユのはなや>で君貴が購入した花束は結局、マキのものになった。彼のものなのか、それとも借りたものなのかはわからなかったが、君貴はメルセデス・ベンツに乗ってマキのことを迎えに来――「おまえの家に行きたい。というか、もう住所はわかってるんだ」などと言った。

 

「べつにいいけど……あなたが来てもなんの面白いところもない、ただのボロアパートよ。そんなところに来たって、つまらないだけだと思うけど」

 

 カーナビに自分の住所を君貴が入力するのを見て――マキは驚いた。一応、個人情報として『モン・シェール・アムール』のほうでは、自分の名前も住所も何もかも、履歴書に書いてあるようなことは教えないはずだ。だが、確かに従業員の誰かに金を渡し、しつこく頼めば……口を割る人間がいてもおかしくはない。

 

「どこかのホテルで食事をして……とかいうのでも、俺は全然構わないんだ。ただ、朝の八時半とかそのくらいから働きにでて、終わるのが六時――となるとな。マキも疲れてるんじゃないかと思って」

 

 確かに、そのとおりではあった。しかも、自分の服装ときたら、タンガリーシャツに安物のジーンズといったところだ。それに引き換え、君貴は今日もブランド物のスーツを着ている。こんな女を連れていて、入れる店などないだろう。彼のセレブ的な価値観としては。

 

(でも、ちょっと意外ね。わたしが働いていて疲れてるだろうなんて……あんまり一般的な労働基準についてなんて、わかってなさそうな感じのする人なのに)

 

 車の中で、マキは言葉少なだった。君貴も、普段アメリカやイギリス、ヨーロッパでしか運転しないだけに――東京の道路事情などがまるでわからず、ナビの案内を時々無視してしまい、マキのアパートに到着するまで、随分時間がかかってしまった。

 

「あ、そこから左よ」

 

 結局、マキがそんなふうに道順を教えることになったのだが、一度など縁石に乗り上げてしまい、君貴はバックしながら――「いつもは全然こんなんじゃないんだ……」などとブツブツ言い訳していたものだった。もっともマキは、そんな彼のほうをこそむしろ可愛いといったように感じ、好感を持っていたのだが。

 

 結局、マキの三階建てのアパートに到着したのは、七時半近くのことだった。冷凍食品、あるいは冷蔵庫の残り物を適当に調理しても良かったのだが、君貴は「ピザでもとろう。金は俺が払うから」と言った。それで、クアトロフォルマッジを二枚頼むということになる。

 

 マキが電話でピザの注文をする間も――君貴は興味深そうに彼女の部屋をひとつひとつ見て回っていた。「あっ、ちょっと!」と止めても、彼は遠慮なく寝室になっている部屋のドアを開けていたものである。

 

「心配しなくても大丈夫だ。変なことはしない」

 

 そう言って君貴は、そこにあった本棚を見て、何冊か本を抜きだしていた。バイロンやオーデン、ハイネやリルケ、シェリーやキーツやテニソン、ブラウニング、イェイツ……といった詩人の詩集を発見し、彼は驚いたようだった。

 

「どうなんだろうな。こういう詩っていうのは、原文を読まなくても大体のところ意味は通じるものなんだろうか」

 

 そんなことを呟きつつ、君貴は床のラグの上にあぐらをかき、キーツの詩集を読みはじめる。(そんなところで背中を丸めてたら、せっかくの高いズボンが皺になっちゃうわよ)と、マキはよほど言おうかと思ったが、彼の本を読む姿勢があまりに真面目なものなので、とりあえず黙っておいた。

 

 やがて、注文したピザが届き、マキが「ねえ!ピザ来たけど」と言っても、君貴はまだ詩集に目を落としたままだった。

 

「ほんと、冷めないうちに食べたほうがいいんじゃないかと思うけど……」

 

「ああ、そうか。読みなれた詩も、日本語訳で読むと、これはこれで乙なもんだな」

 

 君貴はそんなことを言い、オーデンの詩集を開いたまま、ピザを食べはじめた。しかも、椅子にどっかり座って、リモコンでテレビまでつけている。なんだかまるで、ずっと前からここに住んでるような態度だった。

 

「あなた、頭少しおかしいんじゃない?」

 

「なんでだ?初めてやってきた女の部屋で、死んだ詩人の詩集なんか読んでるからか?」

 

「それもあるけど……」

 

 マキは酒を飲まないので、この部屋にアルコール飲料はない。ピザ屋に注文するか、あるいはここに来る途中、どこかで買ってくれば良かったと後悔する。

 

「あなたみたいな家柄の人は、こういう時、ワインとか飲んだりするんでしょうね。でも、わたし飲まないから、そういうものが何もないのよ」

 

「気にするな。俺はピザを食う時はいつでもコーラだ。この組み合わせがサイコーだ」

 

 そう言って君貴は、ピザにパクついていた。カルバン・クラインのワイシャツに油が飛ぶが、あまり気にしてない様子だった。

 

「それよか、マキも相当変わってるよ。本棚の本の品揃えといい、こんな日本じゃ読む人間少なそうな詩人の本を何冊も持ってるってあたり……人と話が合わないんじゃないか?」

 

「失礼ね!わたしだって友達くらいいるわよ」

 

「そういう意味じゃなくさ、ほんとの意味では話が合わないって意味さ。とりあえず、きのう見たドラマだの、最近流行ってるなんちゃらだの……そんなことでも言ってりゃ、この世では世間話として認定されるだろ?でも、純文学だの、こういう詩集だのいうのはな……ま、どんどん読む人間の人口が先細りになっていくばかりのジャンルだからな」

 

 マキはこの時、多少驚いた。彼のような人間はおそらく――うまく言えないが、そうしたことを「わかってない」と思っていた。彼が卒業したような一流大学では、ユゴーやスタンダール、オースティンなど、そうした純文学に分類される作家たちというのは、一般教養として読んでいるのが<当たり前>なのではないかという気がしたからだ。

 

 ゆえに、自分と身分の釣りあう相手に囲まれてさえいれば、そうしたことを疑問にさえ感じず、わからない人間のことをただ<無教養>と分類するのではないかと。

 

「ふふん。さてはおまえ、あれだな?ネットで俺のことを相当調べたんだろう?俺はエゴサーチなんてものを一切やらないもんでな、自分について何が書いてあるかなんてわからん。だが、ある程度想像はつく……俺のような家柄の人間は、ピザ食べながら高級ワインでもすすってるんだろうだって?まあ、そんなこともなくはないか。マキ、おまえはたぶん大切なことを忘れてるよ。俺の経歴を調べたっていうんなら、大学卒業後にボストンにある建築デザイン会社に勤務してる――みたいに書いてあるはずだぞ。ようするに俺は、社会人として普通に働いてたことだってあるんだ。人生勉強って意味ではな、その三年が一番人間として勉強になったし、今もその時のことを忘れていない」

 

「なんだか、ごめんなさい。わたしも、ネットで色々調べながら思ってはいたのよ。ここに書いてあることの大半は眉つばものなんだろうな、みたいには……でも、そういうのをあんまり読みすぎて、少しずつほんとのことみたいに思いはじめてた部分があったみたい」

 

「はははっ。そりゃあな。俺のおふくろも親父も姉も弟も、べつに芸能人ってわけでもないのに――なんか時々芸能一家みたいに扱われてることがあるものな。俺のところにもたまーに、テレビで少しコメントしてくれ、みたいな依頼が来たりもするんだぜ。子供時代、お姉さんはどんなお子さんでしたかとか、弟さんは兄のあなたの目から見て、どのような存在でしたかだのなんだの……あんまりくだらないんで、一切引き受けないことにしてる。俺はこういう性格だから、嘘をつくことが出来ないし、ありのまんまをしゃべられて困るのは向こうのほうだろうなっていうのもあるが」

 

「…………………」

 

 ネットには大体、家族仲が実はあまりよくないとか、テレビに出てる時だけ仲良そうに見せかけている仮面家族だのと書かれていた。だが、『本当にそうなの?』などと、自分が不躾に聞くのもどうかという気がして――マキは黙り込んだ。

 

「なんだよ。なんでも聞けよ。ネットの記事でこういうのを読んで気になったとか、そういうことがあるんなら、なんでもな」

 

「ううん。べつにいいのよ。それよりわたし、あなたの昔のCD買っちゃった。<この年齢にしてすでに、技術と思想性のバランスが取れており、末恐ろしいカリスマ的ピア二ズムの持ち主である>って、解説のところに書いてあったわ。密林で購入したんだけど、結構したのよ。でも、他のサイトに出品されてるのはもっと高いの。阿藤さん、これからもCD出したら?あなたは家柄とルックスがいいから、話題性もあってきっと十分売れるわよ」

 

「はははっ。阿藤さんか。君貴でいいよ。それよか、そんなことを俺に率直に言ったのは、マキが初めてかもしれないな。俺が音楽大学を中退したっていうのは、俺の周囲じゃ触れちゃいけない過去みたいになってるもんでな」

 

「…………………」

 

 マキはピザを食べるのに忙しい振りをして、それ以上は聞かなかった。もちろん、『なんでウィーンまで行って留学したのに、中退なんてしたの?』と、聞けないこともない。けれど、そこには彼なりに深い事情があってのことで――でなければ、あれほど才能のある人が、途中で音楽の道を諦めるはずがない――ただ一度酔った弾みで寝ただけなのに、そこまで土足で踏み込もうとは思わなかった。

 

「じゃあ、君貴さんっていうことでいい?あなた、若そうに見えるけど、実際はわたしより結構年上だから」

 

「確かにな。マキは今、二十三って言ったっけ?」

 

「うん、そう」

 

 ――このあとも尽きることなく会話は続いた。テレビに映った芸能人の話やら、ハリウッド・スターの話、お互いの仕事のこと、休日の時間の過ごし方、などなど……。

 

 そして、ある瞬間になんとなく会話が途切れると、君貴は再びオーデンの詩の続きを読みはじめた。マキは冷蔵庫の中を、何か彼の口に合いそうなものはないかと探していたが、不意に君貴が「あったあった、この詩だよ」と言って、マキに読ませた。

 

「この最後から二番目の連がいいんだ。『わたしたちはお互いに愛しあわなければならない。さもなくば死』……どう思う?というか、おまえはどう読んだ、と聞いたほうがいいか」

 

「そうねえ」

 

 マキは冷蔵庫からシャインマスカットのゼリーを取りだすと、それを君貴に手渡した。もちろんスプーン付きで。

 

「それ、詩のタイトルが『1931年9月1日』でしょ?確かドイツのポーランド侵攻についての詩だった気がするけど……」

 

「そうなんだ。9.11のあと、あらためて注目された詩としても有名でな。『我々はお互い愛さなければならない。さもなくば死』――本当にその通りだよ。何も、事は戦争とか民族間とか人種、宗教の問題だけじゃない。自分に身近なもっとも嫌な奴とも、そうしなけりゃ死が待つのみとなったら……俺たちは一体どうする?そいつを殺して自分も死ぬというくらい憎しみあうより、愛しあうほうがよほど健全じゃないか?」

 

 マキが感心したようにただ黙っていると、君貴は「『Saw』って映画、見たことあるか?」と重ねて聞いてきた。

 

「ううん、ないわ。どういう内容かっていうのは、なんとなく聞いたことあるけど……」

 

 実はミナがホラー映画好きで、「アレは凄いわよ!」と言って、マキに激推ししてきた映画だった。けれど、マキはホラー映画や、極度に残酷な描写のあるものは苦手なのだ。

 

「そうとも、そうとも。マキみたいに心根の優しい女が見ていいような映画じゃない」

 

 君貴は妙に納得しつつ、何度もひとりで頷いている。

 

「まあ、ここでひとつ思考実験してみよう。ある部屋に、真っ裸で踊ってる女がいたとする。そんな姿を見たとすれば、誰だって驚くよな。いや、あるいは男だったら喜ぶか……それはさておき、そのうち、マキはその女の様子がおかしいことに気づく。見ると、彼女は火傷するくらい熱い鉄板の上で踊らされてるんだよ。マキだったら一体どうする?」

 

「それは……やっぱりなんとか、その女性を助けようとするんじゃない?」

 

「そうだろ、そうだろ。ところがだな、マキは前もってこう教えられてるんだ。彼女を助けたら、自分がそんな目に遭わされたのは、マキのせいだと信じ込んでる彼女に、おまえは殺されることになるだろうってな。けど、相手が足の裏を焼け焦がせてだんだん死んでいくのをただ見てるだけってのもつらいもんだ。俺ならたぶん……最初のうちはもしかしたら、『アレは俺のせいじゃない』、『俺には関係ない』とか思って、部屋の隅のほうで耳を塞いで見て見ぬ振りをするかもしれない。だが、ある瞬間もしかしたらこう決断する可能性もある。彼女は何より素っ裸で、武器なんて持っていそうにない。しかも足にあんなひどい火傷まで負ってる……そんな女に、どうやって自分を殺す力があるんだ?そう思い、助けようとするかもしれない」

 

「それで、一体どうなるの?」

 

 最初は随分突飛な話だと思ったが、マキはだんだん面白くなってきてそう聞いた。

 

「俺の視界には巧妙に隠されてたんだが、俺がその部屋のドアを開けた途端――天井のあたりからギロチンみたいなものが降ってきて、俺の頭蓋を割ってジ・エンドってところだな。だが、その女性は助かった。なんにせよ、救いようのない話だ。何より俺が可哀想だ」

 

「それが、最初のオーデンの詩とどう繋がるの?」

 

 マキはおかしくなってきて、くすくす笑った。シャインマスカットのゼリーを食べながら。

 

「つまりさ、俺が仮にその女からどんなひどい仕打ちを受けて憎んでいたにせよ、相手のそこまでひどい惨状を見たら、そんなことも忘れて助けようとするだろうってことだ。『我々は愛しあわなければならない。さもなくば死』っていうのは、俺にとってはそういう意味だってことだよ」

 

「なるほどねえ。でも、少しだけおかしくない?君貴さんにはその女性を許し、愛そうという意思があるのに……最後はバッド・エンドなのね?」

 

「まあな。世の中そううまくいくように出来てないってことも、俺は言いたいわけだ。男と女の権利を平等にしよう……すると、必ず割を食った人間の間で文句がでる。黒人と白人の権利を平等にしよう……これもなんかあまりうまくいってないな。一応、表面的にはそんなふうに言われてるのに、大して格差のほうは埋まってない的な話だ。同様に、国や民族同士の戦争や喧嘩なんかも、やみそうにない。だから、死よりも愛が何より一番大切で、必要なんだよ」

 

 マキは君貴の突然の話の結末に驚いた。雰囲気として、彼はべつに何か「いい話」をマキに聞かせようとしたわけではないらしい。ただ、常々自分はそう思っているし感じている――ということを、何気なく語ったに過ぎないようだった。

 

「『トリスタンとイゾルデ』でも、死よりも愛が上に来るわ」

 

 もちろん、この場合は男女間の愛のことであって――人類愛といったことではない。けれど、彼には意味が通じるだろうと思って、マキはそう言った。

 

「ワーグナーか。まあ、元はケルトの説話だが、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』は、作曲者の人格の薄汚さを忘れ去ってしまうほど素晴らしいからな。親父も、いつか『トリスタンとイゾルデ』を振るために、指揮者を目指したようなものだと言ってたことがある」

 

「……お父さまとは、仲がいいの?」

 

 母親とは断絶状態にある――というのも、ネットの噂話に過ぎないわけだが、マキは心配になってそう聞いた。

 

「まあ、普通じゃないか?ただうちの家庭は特殊だったからな……おふくろに何か効果のあることを言えるのは親父だけだった。世間じゃ、親父が阿藤家に婿養子として入ったこともあって、おふくろの尻に敷かれてるとか、世界的ピアニスト阿藤耀子の威光のお陰で指揮の仕事をもらえてるとか、色々言われてるけどな、実際はそうでもない。ようするに、阿藤家じゃ、親父がバランサーの役割を果たしてるんだ。おふくろと三人いる子供たちのうち、誰かと関係が悪くなる。そしたら、親父が間に割って入って仲裁する的な、いつでもそんな感じだったからな」

 

「そうなの。じゃあ、なんだかんだいって仲がいいってことなのね。あ、この場合のなんだかんだっていうのは、世間の人がなんだかんだ言っててもっていう意味だけど……うちは両親が離婚してるし、お母さんももう亡くなっちゃってるから、家族がいるっていうだけで羨ましいわ。もし仮に、喧嘩ばかりしてるっていう家族だったとしてもね」

 

 実をいうと、君貴と母親の阿藤耀子が絶縁状態にあるというのは、本当のことである。だがこの時、『お互い愛し合わなければならない』などと言った手前――君貴としては、次の言葉を失っていた。それで、都合が悪くなった彼は、少し話の矛先を変えることにしたのである。

 

「マキは媚薬なんてもの、本当にあると思うか?」

 

「『トリスタンとイゾルデ』のこと?そもそもあの話では、イゾルデとトリスタンが、お互い愛しあってはならないとわかった上で、媚薬を飲んでしまい、そうした関係になるわけでしょう?しかも、ふたりの関係はイゾルデがトリスタンの仕えるマルケ王と政略結婚してからも続いた……媚薬の効果が続いてたから仕方ないっていうよりも、媚薬を飲んだあとの行為が甘美すぎて、やめられなかったみたいな印象だったわ。わたしが見にいった時のオペラの演出ではね」

 

「なるほどな。まあ、ふたりの間にはそもそも精神的に惹かれあってるところもあっただろうし、侍女のブランゲーネが酒に混ぜた媚薬の力というのは、ただの言い訳にしか過ぎないのかもしれない。俺も確かにあの時酔ってはいた。だけど……」

 

 突然、肝心な話の振りがきて、マキは顔を赤らめた。彼が最初から予定していたのだろう話なら、べつにもう聞きたくもなかった。それと、マキ自身君貴のことをネットで調べていて、<結婚>とか<配偶者>とか<子供>といった文字を一切見かけなかったとはいえ――すでに結婚を前提にした恋人がいるとか、実はすでに結婚していて妻は現在妊娠中だとか、ありえない話ではないと思っていたのである。

 

 ゆえに、この時最悪の言葉が囁かれることをマキは覚悟していたのだが、君貴は意外にも、それ以上のことは何も言わず、椅子をマキのほうへ寄せてくると、彼女にキスした。それは、最初の夜と同じ強引なもので、マキは抵抗しなかったとはいえ、彼の求めてくるキスの仕方がわからないのは変わりなかった。

 

「マキ、この間のこと、許してくれるか?」

 

「許すも何も、べつに……」

 

 マキの瞳や顔の表情に、自分に対する許しを勝手に読み取った君貴は、彼女のことをベッドに連れていき――まるで、最初の夜の非礼を詫びるように、マキのことを丁寧に優しく抱いた。『トリスタンとイゾルデ』の楽曲の中でのように、延々とオルガスムを先延ばしにされることはなかったとはいえ、彼はこの日の夜、彼女の体を何度も求め、セックスの良さを恋人に教え込んだというわけだった。

 

 この翌日、そのせいでマキは遅刻しそうになったが、君貴が例の、縁石に乗り上げて傷のついたメルセデスで送っていってくれた。マキはこの時、幸せだった。彼は、自分の電話番号を彼女に渡し、「いつでも頼ってくればいい」と言いさえした。その「頼る」というのがどういう意味かはともかく、マキは君貴のその言葉だけで満足だった。そう――実はゲイの恋人がいる……などという事実を思いつきもしないマキは、ただ天性の素直さから、阿藤君貴という男の誠実さを信じ切っていたのである。

 

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ピアノと薔薇の日々。-【4】- | トップ | ピアノと薔薇の日々。-【6】- »
最新の画像もっと見る

ピアノと薔薇の日々。」カテゴリの最新記事