こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

永遠の少年。-【3】-

2021年12月09日 | 日記

(この文章、先週書いたものなんですよねなので、「変奏曲③」は届いていてすでに読みました♪面白かったです

 

 ええと、タイトル「増山法恵さん追悼」とするのもなんなので(汗)、「永遠の少年。-【3】-」としてみましたm(_ _)m

 

「変奏曲」の最後の巻に当たる部分(たぶん)の本はまだ届いてないのですが、もしそんなに面白いと思わなかった場合……にも関わらず「面白い」とは書けない気がするので、『一度きりの大泉の話』や『少年の名はジルベール』の中の増山さんについて、一読者的に思ったことを一度まとめてみたいと思ったというか(^^;)

 

 まず、増山法恵さんは、とても頭のいい、当時二十歳くらいで他を圧するほどの知識の埋蔵量を持っているのみならず、そのことをかなり明確に自分の言葉によっても表現できた――そのくらい弁の立つ方だったという意味で、すごい方だったと思うんですよね

 

 それで、竹宮先生と増山さんって、本を読んでて思うにリアリスト星系のテキパキちゃんと思いました。一方、萩尾先生は天然星系の不思議ちゃんだったのではないかと。

 

 ただわたし、確か2回くらいですが、萩尾先生のことをテレビで見て、それぞれ違う印象を持ったのです。2回目はHKの『100分de名著』で、こちらの印象は和田慎二先生が『モザイク・ラセン』の巻末エッセイで書いておられたような、天然星系の不思議ちゃんなんですけど……最初に見た映像でしゃべってる萩尾先生というのが、短い映像だったせいもあってか、かなりのところ理路整然と話される、頭のキレる方なのだろうなあ……という印象で。。。

 

 その、一ファン的に、「どっちの萩尾先生も萩尾先生なのだろうなあ」と思ったりするわけです。何故かというと、萩尾先生が頭のキレる聡明な方だというのは、作品を読めば馬鹿でも(?)わかることですし、一方、天然キャラっぽく見える萩尾先生というのも……確かに萩尾先生なのだろう、と。

 

 それで、『少年の名はジルベール』には、次のようなくだりがあります。

 

 >>「モーさま、自分の絵って、好き?」

 

 自分の問題だとは思いつつ、ある日、こんな問いを萩尾さんに投げかけたことがある。

 

「どういう意味?気に入っているというか……、考えたこと、なかった。でも嫌いになったことはない……かな」

 

 それは、自分の絵が好きなのは当たり前なんじゃないの、というニュアンスのようにも感じられた。

 

「そうなのか。私はあんまり好きじゃないんだよ、自分の絵」

 

 そうか、自分とは違うのか。なんだか寂しいような、こちらが言っていることの意味がきちんと通じているのかいないのか、もどかしい気持ちになりながら、私は言った。

 

 マンガを描いている人で、自分の絵を「大好き!」と感じている人は、そうはいないんじゃないかと私は思っていたのだ。どんなに絵のうまい人でも、「こういう技術が足りないな」とか「ここがうまく描けないな」ということを思っているものだと。いつも「何か足りないな」と思うことが、私自身は多かったし、他の何人かの感想も似たようなものだったから。

 

(『少年の名はジルベール』竹宮惠子先生著/小学館より)

 

 あれだけ当時から絵の上手かった竹宮先生が、自分の絵にコンプレックスを持っていたというのも驚きですが、この場合のポイントはそこではなく……大泉で暮らした二年のうち残り一年はほとんど口を聞くこともなかった――というのは、こういうことだったのかなあ……と、本を読む限り思わないでもありません

 

 普通、あんなに狭い空間に上と下でいたとしても、ほとんど口も聞かないようになっていた、でも萩尾先生的にはそんなに違和感を感じてなかったとすれば(何分、一緒に旅行に行ってるくらいですし^^;)、やっぱりそれだけ人の出入りが多かった&竹宮先生は増山さんの家のほうへ行っていることが多かった……そういうことなんだろうなあ、と(あとは、漫画の〆切に追われてお互い忙しかったというのも大きかったのだろうなあ、なんて。本を読む一読者に想像できるのは、これが限界といったところです^^;)。

 

 そのですね、今でいうBLということに関して、竹宮先生と増山さんはなんでも話せる関係だったと思うのですが、竹宮先生と萩尾先生にはそのBLラインがなかったわけですよね。今みたいに、石を投げればBL漫画に当たる……というくらい、ポピュラーなジャンルだったとすれば話は別だったにしても――むしろ「う~ん。理解できない。ごめんね」という萩尾先生の感覚のほうが普通と思うわけです。萩尾先生も今では、BLに関しては少女漫画の第一人者のひとり……というお立場と思うのですが、『トーマの心臓』といった傑作を描いていながらも、その後も「BLがわからない~!!」という状態に変わりはなく、「BLが好き」という方に会うと、「BLのどこがいいか」といったことを必ず聞いたと、インタビューにはありました。

 

 これはあくまでわたしが思うに、ということなんですけど、そのくらい萩尾先生にとってBL理解ということは、その後も重要なことだったのだと思います。たとえば、お父さんのことを理解したい……とおっしゃっておられたように(これはお父さまとの御関係が悪かった頃の言葉)、もう関わりがなくなったあとでも、萩尾先生的にはBLを理解したい、竹宮先生と増山さんのことを理解したい、もし自分がその頃から同じように男同士のあれやこれを理解できていたとしたら、あんなふうになることはなかったのではないか……など、萩尾先生の中では考えることがその後もずっとあったのではないでしょうか。

 

 一方、竹宮先生にとって一番大切な作品がそのBLをテーマにした『風と木の詩』で……ええとですね、わたし的に思うに、増山法恵さんは萩尾先生にとって友達としては大切でも、自分にとって描きたい漫画世界に増山さんの意見が必要だったかといえば、そこは完璧「NON!」と思うわけです。でも、竹宮先生にとっては増山さんって絶対必要な方だったと思うんですよね。もし竹宮先生がスランプになったりしなかったとしても、竹宮先生には絶対増山さんって必要な方だったと思います。

 

『風と木の詩』の10巻の巻末エッセイには、増山さんが竹宮先生に対して>>「一体私は、あなたの何だったのだろう」と聞いて、>>「私のブレーン、というとこかなぁ。まあ、運命と青春の共同体だよね」と竹宮先生は答えた……と書いてあります。

 

 このあたり、わたしも説明が難しいのですが(汗)、わたしが言いたいのは、竹宮先生がスランプ知らずで、仕事が順調であったにしても、『風と木の詩』を連載する時には、絶対的にBLということを心から理解してくれ、同じ方向を向いている同志である増山さんという方の存在が絶対必要だったということです。

 

 今はもうBL漫画って、あまりにも当たり前の、ありふれたものになってしまいましたけども、わたしが中学生くらいの頃ってまだ、同人誌などで一部の人が読むもの、でも大好きな人は大好物……といった、まだタブーの香りが十分残っているものでした。わたし自身は特段恥かしいともなんとも思ってなかったので、本棚の目立つ前面に『聖闘士星矢』の同人誌とかズラッと並べてましたけど(笑)、その後BL関係で知り合ったり仲良くなった方のお宅へ行くと、本棚の裏のわかりにくいところに隠してあったり、ひとりの方などはもっと凄くて、BL専用の本棚には鎖がかかってるのみならず、そこに鍵までかかってたのを覚えています(笑)。

 

 その、こうした方……というとなんか冷たい言い方ですけど、とにかくみなさん面白くていい方ばかりでした。ただ、BL好きの方にはなんとなく、同じBL好き同士で固まりたがるような傾向があって――これは似たような経験をされた方ならわかると思うんですけど、当時としては「男同士のこんなのやあんなのを好きでも、わたしたちおかしいわけじゃないわよね?」、「わたしたち、仲間よね」というか、そんなことを口に出して言うわけじゃないし、どっちかっていうとサバサバして男らしい性格の方でも、BLに関してのみは徒党を組みたがるというか、そうした傾向がすごく強いんだなって思ったというか(もちろん、それが悪いとかいうことではなく^^;)。

 

 だから、うまく言えないんですけど、竹宮先生にとっては増山さんのそうした「支え」が絶対的に必要だったと思うのです。もし『風と木の詩』の漫画のベタ塗りひとつするでなくても、増山さんがご自身の知識を惜しみなく与えてくださったことで、『風と木の詩』という作品はより格調高い漫画として完成したということもそうですし、それ以上に増山さんが「隣にいて理解してくれる」ということが、絶対的に不可欠だったろうと、そう思うわけです。

 

 ただ、萩尾先生的には、そうしたふたりの結びつきについて嫉妬したとか、そういうことではなく……「わたしはBLって理解できないけど、『風と木の詩』すごく面白かったわ!あれがケーコたんがずっと描きたかった話だったのね」とか、そんなふうにOSマンションへ遊びにいった時にでもしゃべれたら、それで良かったという、そのくらいのことだったと思うんですよね

 

 でも、そうした関係性さえも保てなかったのは何故か……ということで萩尾先生は理由がわからず悩まれたし、心が傷つきもした。その~、結構、萩尾先生と竹宮先生の心の行き違いって、一読者的に読みますのに、深刻なものだったんだなと、その後、竹宮先生と萩尾先生の漫画をそれぞれ読んで思ったりしました。。。

 

『トーマの心臓』については、『11月のギムナジウム』ですでに許されないのだとしたら、竹宮先生にとってはある意味相当ひどいことだったでしょうし、萩尾先生は『ポーの一族』と『11人いる!』で小学館漫画賞をかなり早い段階で獲得している。そしてこの『11人いる!』の11人っていうのが、『ガラスの迷路』に出てくる11人っていうところと、数だけ一致していたり……盗作ということではまったくなかったにしても、嫉妬してる相手に対してはそのくらいのことでも微妙な気持ちになる――なったとしても、不思議じゃないんじゃないかなと、自分的には想像されました(^^;)

 

 ああ、そうでした。『オルフェの遺言』のところで書こうと思ってたんですけど、『ジルベスターの星から』はもう120%というくらい、完璧な作品と思ったんですよね。絵もストーリーも素晴らしいし、これだけ描けるのに萩尾先生に嫉妬とか、よくわかんないな……と感じる作品ですらある。それで、『決闘2108年』ですけど、光瀬龍先生の原作のほう読んでませんが、東(イースト)キャナル専修学校宇宙船工学科操船科という、専門学校生たちが主人公で、『11人いる!』もまた、未来の宇宙大学の入学試験のお話で――なんとなく、雰囲気的に通じるところがあると自分的に思ったというか(^^;)

 

「ああ、光瀬先生ね。わたしもファンだからわかるわ」、「あ、それアーシュラ・K・ル=グウィンでしょ?」……といったように、竹宮先生側から発信されてるように感じられるこのメッセージは――ジェラシーのように取れたり、あるいは単に萩尾望都というひとりの漫画家と肩を並べていたいという、そうしたリスペクト……いえ、違いますね。少女漫画では時々(少年漫画ではよくある・笑)、敵対してる主人公とそのライバル少女とが、お互い決して分かりあえない立場でも、そのゆえにこそ相手の力量に対し「あなたもなかなかやるわね」という形で張り合っていることがある。まあ、なんというか、竹宮先生の書かれていた>>「わたしの一人相撲だったのでしょう」というのは、そうした意味でもあったのかなあ……なんて、自分的には思ったり。。。

 

 あ、ちなみにわたし、『アンドロメダ・ストーリーズ』には、萩尾先生に対する嫉妬の気持ちといったことはあまり感じませんでした。たぶん、他の方にしてみれば「何言ってんだ、コイツ☆」という感じでしょうけれど、でも『決闘2108年』にはジェラシーをすごく感じるというか(^^;)

 

 あと、『ここではない★どこか。-【1】-』のところで、『一度きりの大泉の話』を読んで、増山さんも泣いたに違いない……的なことを書いたんですけど、よく考えてみたら――わたしが増山さんだったとしたら、「なんかヤな感じ☆」と思ったかもしれませんし、「モーさまったらわかってなぁ~い!!」と文句言いたくなったかもしれませんし、何より>>「豊かな感性は持っているのに、表現の手段を持たない。そういう方はたくさんいるのかもしれません」とか書いてあって、わたしが増山さんの立場だったら「ちょっとムッとするかもな」と思ったり……かといって国交が断絶(?)してるので、何か言うことも出来ないし、涙がでるとかないかもしれん……と、その後ちょっと考えが変わったりしました(^^;)

 

 あ、これ一応追悼記事なんだっけ……と思ったりもしますが、とにかくわたしにとっては、増山法恵さんは今後とも「この時こー思われたのではないか」、「あーだったのではないか」と、心の中で考え続けるという意味で、全然知らない方なのに今後とも「生きている人」であり続けると思いますm(_ _)m

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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