【善悪の知識の実】ルーカス・クラナッハ
さて、ここから数回に渡って、かなり長く一繋がりの章が続いてしまうため――自分でもどこで切って>>続く。としたらいいのかわからない……みたいな感じが続きます(@_@;)なので、暫く変なところで途切れて>>続く。となると思うのですが、そういうことでよろしくお願いしますm(_ _)m
今回の前文は前回の、萩尾望都先生のご著書『一度きりの大泉の話』の続きなのですが……このあと、竹宮先生の言い分としてはどんな感じなのだろうと気になり、『扉はひらくよ いくたびも』を買って読んでみることにしました
それで、全体のお話として萩尾望都先生のことが出てくる箇所は少ないとは思うのですが、萩尾先生と竹宮先生の言い分の違いと言いますか、何かそのあたりのことは大体(なんとなくですけれども)わかるような気がしました。
わたしが萩尾先生のこの本を購入しようと思ったきっかけは、偶然萩尾先生の他の本を買おうとしたら、『一度きりの大泉の話』がトップに来ていたからなんですよね。それで、カバーがあんまり素敵でクリックしてみると……レビューのあたりに胸にグサッ☆と来るようなことが書いてあり、もう気になって購入ボタンを押さずにいられませんでした(^^;)
それで、ですね。そのレビューを読んだ時にわたし……竹宮先生と萩尾先生、それとふたりの共通のご友人である増山法恵さんという方が、簡単にいえば友人関係として2:1に別れてしまい、萩尾先生はそこから外れることになった――といったように感じられたのですが、実際はそんなことでもなくて、読んでいて少しほっとしたというか。。。
確かに、竹宮先生と増山法恵さんは「少年愛」ということで方向性が一致しており、一方萩尾先生は(その時には)今でいうBLということが……というか、増山さんのおっしゃってることが「?」という感じだったのかもしれません。でも当時、大泉サロンにはたくさんの漫画家先生が出入りされていて、萩尾先生はそうした漫画家さんたちと仲良くしておられ、竹宮先生と増山さんがベッタリな関係であったにしても、そのことに対してどうこう思うところがあったわけではなく――前回【22】の前文のところで書いたように、萩尾先生がショックを受けたのは、このおふたりに盗作疑惑をかけられたということなわけですよね。
わたしはまだ、「ポーの一族」も「11月のギムナジウム」も読んでいませんが、おそらくは竹宮先生と増山さんの、「風と木の詩」で少女漫画に革命を起こす!との意気込みが物凄く、それで神経過敏になっていたのがそうした形で現れてしまったのかな……と想像します。わたしは「風と木の詩」もまだ読んでいませんが、今はBLとして市場を獲得し、読めるのがあまりに当たり前になってしまった感のあるBLというジャンルですが、この分野における草分け的役割を果たした少女漫画が、「風と木の詩」ということでした。
本の中で萩尾先生は、盗作疑惑をかけられて以降、竹宮先生の本を一切読んでいない……といったように書いておられるのですが、中にはもしかしたらそのことを疑う方もいらっしゃるかもしれません。でも、ただの一読者であるわたしでさえ、「風の木の詩」に対する人から伝え聞く評判の高さなどから、ある程度のところが想像できるように――萩尾先生が「読んでなくてもわかる」とおっしゃってることは本当にその通りなんだろうなと思います。
また、おふたりの言い分の違いとして、竹宮先生はなんのためらいもなく当時のことを振り返って<大泉サロン>とお呼びになっているわけですが、このあたり、萩尾先生としては違うわけですよね。その頃、大泉のその場所を<サロン>だなんて呼んでいる人は誰もいなかったわけですし、将来名をなす漫画家先生たちが確かに集ってはいたにしても――「わたしたち、少女漫画革命を目指しましょう!!」的にみんなで言い合っていたわけでもない。でも、竹宮先生としてはそのような志しでもって漫画を描いておられたのでしょうし、当時大泉に来ておられた漫画家の先生たちも、「まあ、そう口に出してお互い言っていたわけでなくても、そういうことにしてもいいかもしれないね」くらいな感じで、もしかしたら後付け的に了承してくださるかもしれません。
でも、トキワ荘の少女漫画版だ――というのは、萩尾先生的には「絶対言いすぎでしょ」という、そうした感じなのだと思います。ですから、50年も昔のこととはいえ、思い出を美化されている感のある竹宮先生と、つらく悲しい記憶を背負わされ、さらにはそのことでずっと沈黙を守ってきた萩尾先生とでは、そのあたりの<感覚>が違うわけですよね。
ですから、「もう50年も前のことなんでしょ?だったらもういいじゃない」とおふたりの本を読んで思う方がいらっしゃったとしても……「竹宮先生は本当に素晴らしい方ですよ。そろそろ仲直りして対談でもなさっては?」というのは、わたし自身は萩尾先生に対してあまりに失礼というか、酷な話だなって思いました(^^;)
わたしも、もし何も知らなかったら、HKのSWITCHあたりで、萩尾望都×竹宮惠子なんていう対談があったら、胸をワクワクさせつつ絶対見ていたことでしょう。でも、50年相手のことを配慮して気を遣い、誰にも「盗作疑惑をかけられたの!うえ~ん」と洩らすでもなく、萩尾先生はただ沈黙を守り続けたわけです。これ以上のことを求めるのは、流石にちょっとひどいことだなっていう気がします。。。
ただ、萩尾先生のマネージャーである城章子さんが当時のことを知っておられるというのは、自分的に物凄い救いであるように思いました。また、城章子さんと同じように、当時大泉サロンに出入りしておられた佐藤史生先生もまた、>>「ケーコタン(竹宮先生)がモーサマ(萩尾先生)に嫉妬して大泉を解散させたんだ。ケーコタンに同調してモーサマを苦しめるんじゃない」……といったようにおっしゃっておられ、ちゃんと「わかってくれてる人が他にもいた」というのは、一読者として読んでいて本当にほっとするところです。
う゛~ん。やっぱり今回も書ききれませんでしたね(^^;)他にちょっとBLのことについても書いたりしたかったのですが、また前文にスペースがある時にでもまわしたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【23】-
君貴は、あえて自分がいつそちらへ行くのかを、マキにもレオンにも知らせなかった。彼らふたりが熱々のラブラブでいるところに偶然行きあってしまったとすれば――それでこそ、自分はレオンのこともマキのことも諦められるかもしれない……そう思ってのことである。
ところが、その日は土曜であったにも関わらず、マキが家にいた。鍵を開けて中に入っていっても、おそらくレオンだと思ったのだろう。マキはリビングのドアを開けたのが君貴でも、なんら動じたところがなかった。
「いつも、来るなら来るで前もって知らせてって言ってあるのに……」
マキがどこか不満げに見えたのは、レオンとのことがあるからだろうと、君貴としてはそうした判断だった。ところが……。
「来るって聞いてないから、お酒も買ってないし、こういう時に限って大人三人分の食材がなかったりするのよねえ」
そう言って、マキは冷蔵庫の中を覗いていた。何故だろう。家中が妙にしーんとして感じられる。それで、君貴は自分でもらしくないと思う言葉を口にした。
「……貴史は?それに今日は土曜なのに……」
(なんでマキが家にいるんだ)と聞くのも変な気がして、君貴は一旦黙り込んだ。
「そうよね。君貴さんもう二か月くらい、ここに寄りついてないんだっけ。あれからわたし、会社の専務の日出美さんと交渉したの。子供を抱えて週六日勤務はキツいから、もう少し休日を融通してもらえませんかって。そしたら、これからは土曜と祝日も休んでいいってことになったの!わたし、それだったらお給料が下がっても構いませんって最初に言ったんだけど、そもそも大して給料の伸びもないから、そのくらいでとんとんだって日出美さんに言われて……ええと、わたしの小さなつまんない会社のことなんて、君貴さんはいちいち覚えてないと思うけど……」
「いや、覚えてるさ。離婚歴のある金玉野郎はイラチだが仕事が速くて完璧、社長は融通の利かないヤクザ、だんまりの奴は今はどうだか知らんがマキに惚れてる。あとは、俺のことをホストだと勘違いしてるパートのババアのことや……ほら、結構覚えてるだろ?」
マキは、君貴が自分の隣に座ると、彼のためにまずはお茶を淹れた。それから、ハワイにいった友達のお土産であるチョコレート菓子を出すことにする。
「だんまりってもしかして、花岡くんのこと?彼、すごくいい子なのよ。君貴さんともレオンとも出会ってなくて――もし花岡くんがたどたどしくわたしに何か言ってきたとしたら、つきあってたんじゃないかなっていうくらいね」
「ふうん。おまえもまんざらでもないってことか」
君貴は明らかに面白くないような顔をした。だが、マキは彼が不機嫌なのはフライト疲れのせいだろうとしか思っていなかった。
「そんなんじゃないわよ。ようするに花岡くんはね、心が純粋でとても綺麗なのよ。わたしやパートのおしゃべりおばさんの前ではあんまり話したりしないけど、倉庫で男三人の時にはね、結構普通に話すみたい。お花が大好きで、仕事の速い金田くんとは違って、花をそんな簡単に捨てたり出来ないのよね。前のわたしのアパートの部屋と一緒よ。部屋中花だらけだっていう話」
「いいな、おまえは。俺にレオンにだんまり男にケン・イリエと……俺、あいつに仕事先で会って、シャンパンぶっかけちまったよ。遠まわしに気に障ることを言われたもんでな」
「ええっ!?なんでそんなことしたのよ。入江さんのところ、うちの会社のお得意さまなのに……」
君貴はこの時、ただ疲れたような溜息を着いた。なんにせよ、説明するのが面倒くさい。
「それで?貴史とレオンは?」
「うん……レオンはね、ロンドンであるチャリティ・コンサートに向けて、ピアノの練習してるみたい。えっと、君貴さん聞いてない?確か、お母さまの善意で、自宅のピアノを使わせてもらって練習してるって……」
「お母さまって……まさか、俺のおふくろのことか!?」
レオンにもマキにも母親はすでにいない以上――消去法で考えても、自然そうなるというものだった。
「本当は、そういう専用のスタジオを借りても良かったんだけど、美夏さんの息子さんだったかな。それか崇さんの娘さんだったかは忘れちゃったけど、ピアノを少し教えるかわりに、耀子さんがピアノ室を貸してくれることになったとかって……」
「あいつ……そんなこと、俺に一言も言ってなかったぞっ!おまえと寝たことは意気揚々と教えてきたのに、なんでそういうことは言わないんだろうな。それで?レオンとの暮らしはどうだ?」
以前までのマキならこういう時、気まずそうに俯いたり、瞳を伏せたりしていただろう。けれど、君貴をして驚いたことには――彼女はまったく動じていなかった。(それがどうしたの?)とでも言いたげに、ケロリとしたままでいる。
「レオンから話を聞いたんだとしたら……たぶん、彼の言うとおりなんじゃないかしら。今日もね、貴史のことはレオンが連れていっちゃった。阿藤家では今、貴史の存在が一番のアイドルみたいになってるらしいわ」
「なんだってっ!?」
君貴は驚きのあまり、椅子から腰を浮かせた。寝耳に水とは、まさにこのことだと思った。
「あ、あいつ……一体何やらかしてんだよ。俺はマキのことも両親に紹介してないし、まさかあいつ、自分の隠し子だなんて言って貴史のことを連れていったんじゃないだろうなっ!?」
実際には、もし仮にそうであったにせよ、君貴には何も言えないはずである。だが、マキはこんなに狼狽している彼を見たことがなかったため――やはり、自分の口から先に説明しておくべきだったろうかと、少しばかり後悔した。
「ええとね。実をいうとわたしも、君貴さんのお母さんにもお父さんにも、誰ともお会いしてないんだけど……でもレオンは貴史のこと、君貴さんの子だとは耀子さんに言ったって言ってたわ。結婚してないし、籍も入れてない関係性だけど――ええと、君貴さんは嫌だろうけど、心から愛しあってる女性との間に出来た子だって、レオンはそう説明したみたい。ただ、君貴さんのほうの仕事が忙しすぎて、ちゃんと結婚式挙げたりする時間がないだけだって……」
「なんで、俺が嫌がるんだ?第一、一応話の筋として合ってることには合ってるだろう。だが、あいつはもしかして本物の馬鹿なのか?マキとこれから自分こそが結婚したいと思ってるのに――そんな話をおふくろにしたりしたら、話がこんぐらがってややこしくなるだけだろうがっ!」
イライラしている君貴に、マキはチョコ菓子を勧めた。アロハな空気に触れて、彼の苛立ちが静まればいいと思った。
「大丈夫よ。レオンとわたしが結婚することなんてないわけだし……なんでもお母さん、愛しい息子の嫁の顔なんて、べつに見たくもないみたいよ?レオンから聞いた話だとね、耀子さんは三人いる子供の中で、君貴さんのことが一番可愛かったんですって。でも母親としてそれじゃいけないと思って、三人とも「平等に」育てることに拘りすぎたあまり……君貴さんのことをむしろ遠ざけることになってしまったって。音楽に関して一番才能あるのが君貴さんだってこともわかってたから、一番厳しく教え込むことにもなったし、それが結局絶縁する状態を作りだしてしまっただなんて皮肉なことだわって、そうおっしゃってらしたみたいよ」
母親の本心にも驚くことには驚いたが、それよりも君貴には今、マキの発した言葉で、聞き捨てならないことがあった。
「レオンと結婚する気はないだなんて……どうしてだ?あいつ以上の男なんて、この地上には早々いないだろう」
「普通に考えて、そりゃそうよ」
マキは微笑みつつ言った。心から愛されている女の、幸福そうな笑みだった。
「でも、レオンと一緒にいると、どこへ行くにも目立つしね。わたしみたいな子持ちの未婚女とだなんて、そもそも世間が納得しないでしょ?彼もチャリティ・コンサートでまた喝采を浴びたりして、わたしと赤ん坊のいる所帯じみた生活になんて、もう戻ってこないかもしれないし……ううん。今そうじゃなくても、いずれそうなるわよ。どんなに遅くても、何年か後くらいにはね」
「それが、おまえの考えか」
意図せずして、自分が聞きだそうと思い、一番知りたかった答えを得て、君貴は再び溜息を着いた。マキは、彼の目に二か月ほど前に会った時より、美しく輝いて見えた。以前はそれが貴史に対する母性の輝きのように感じられ……また、赤ん坊がそばにいると、彼はマキを女として見ることが出来なかった。けれど、今は違う。
「おまえは……結局のところ、俺とレオンのどっちがいいんだ?もしレオンを選ぶのなら、俺はそれが最善の選択だと思い、そのことに対しても祝福するよ。だが、あんなにおまえに対してめろめろのレオンと結婚する気はないだなんて――そんな話、あいつが聞いたら傷つくぞ」
「レオンが傷つくとかじゃなくて……普通に考えて無理だって話をしてるだけよ。それに、マスコミに追い回されたりなんだりで、ここにも住めないようなことになるのは、彼だってわかってるはずよ。わたしね、君貴さんにレオンみたいな完璧な恋人がいるって知る前までは、もしかしたらあなたがわたしにプロポーズしてくれるかもしれないみたいに、ほんの少しだけ思ってたの。だけどそのあと貴史のことが出来て、わたしの中ではね、もう結婚とかなんとか、そんなことどうでもよくなっちゃったのよ。そもそも結婚願望もなくて、自分はこのまましがない花屋の事務員で、コツコツお金を貯めて老後に誰にも迷惑かけないようにしよう……とか、そんなふうにしか思ってなかったしね。君貴さんは気が向いた時しかここへ来ないし、レオンはいずれ時が経てば離れていってしまうでしょうし、貴史だって大きくなったら、いつかはわたしの手を離れてゆくわ。でも、わたしにとって今、人生は最高に満ち足りていて幸福だもの。これを知っているのと知っていないのとでは、まるで全然違うってことなの」
「それが、俺が生活費くらい出してやるって言ってるのに、マキがいつまで経ってもあの花屋を辞めない理由か」
君貴は、憂鬱そうにチョコ菓子を口に放り込み、それから玉露をすすった。(そうだ)と、Hawaiiと書かれているパッケージの文字を読み、(確かにいつまでもこのままということはない)と、彼も思った。べつに、場所はハワイでなくてもいい。とにかく、貴史がもう少し大きくなったら――夏休みのバカンス時期には自分も休暇を取って家族で出かけよう……くらいの考えは、君貴にもあったのだから。
「そうね。とにかくどんな形でも、仕事さえ持ってたら……ある日突然レオンがここからいなくなって、君貴さんがわたしに興味を示さなくなっても、貴史と二人なんとかやってかれるかなって、そう思ってるの」
「レオンはともかくとして、俺に対しては信用がなくても仕方がない。だが、結婚といったって……籍を入れるとか、結婚式を挙げるだけでいいんなら、俺だってしてやれないことはない。ただ、その後の実質的な結婚生活みたいなものは今と変わりないのに、それでマキがいいのかどうかとは、俺は前にも聞いたはずだぞ」
「そうよ。だからわたし、君貴さんがそんなに無理することないって言ったはずよ。その気持ちは今だって変わらないわ。この部屋だって、今もわたし、贅沢すぎると思ってるくらいだもの。そうした部分でも君貴さんには感謝してるし、この先、貴史が成長する過程で父親が必要な時には学校のイベント事に参加したりとか……出来ることはしてくれるっていうし、わたしのほうではそれ以上特にこれといって言うことなしよ。ただね、今わたしが思ってるのは――君貴さん、君貴さんはレオンと結婚する気はないの?」
ここで、君貴は緑茶を吹きそうになった。チョコ菓子を咀嚼中だったため、げほごほっと何度か咳き込む。
「ま、マキ。おまえ何言って……第一、さっきマキも言ったばかりだろうがっ。レオンの奴、俺とおまえの間に出来た赤ん坊のことを実家に連れてってるんだぞ。この事態を一体おふくろに対して、俺にどう説明しろというんだっ!!」
「えっと、だからほら……レオンと結婚しても、結婚したっていう報告を世間様にしたりとか、君貴さんの御家族にする必要は必ずしもないわけじゃない?アメリカの同性婚が許されてる州で結婚式を挙げるとしたら、わたしも呼んで欲しいわ。でも、それは貴史が物心つく前のほうがいいかなと思ったりもするんだけど……君貴さんはどう思う?」
「どう思うもこう思うもあるかっ!いいか、マキ。レオンは今、俺じゃなくておまえにめろめろなんだっ。本当はな、ピアノの練習中もマキや貴史にそばにいて欲しいし、コンサート先にだってついて来て欲しいってレオンは言ってたぞ。俺と結婚したって、マキには金の保障を得られるといった程度にしかメリットはない。だがその点、レオンはメリット満載な男だ。自分と血の繋がりのないガキをこの上もなく可愛がってるし、おまえのためを思って家事全般、なんでもこなしてくれる。その上あいつは容貌もよければ頭もいい。一体レオンの何が不満だっていうんだ!?」
「不満だなんて誰も言ってないでしょ」
マキは君貴とは違い、あくまで落ち着いた様子で茶をすすっている。
「ただ、現実的に考えて無理だって言ってるだけの話よ。わたしとレオンが結婚したりするより、君貴さんとレオンが結婚するってことのほうが、よっぽど実現可能なくらいよ。レオンね、近ごろよく変なこと言うのよ。君貴さんとわたしがまず結婚して、そのあとレオンが君貴さんと結婚して、それからレオンとわたしが結婚すれば、すべて問題解決じゃないかって……わたし、そんなこと出来るわけないって思うんだけど、レオンがあんまり嬉しそうにそのことを繰り返し言うものだから、『そうね。そう出来たらいいわね』って言うことにしてるの。でも、せめて君貴さんがレオンと結婚するっていうくらいのことは、確かに現実的で実現可能なことなんじゃないかなと思うのよね」
君貴は、(頭が痛い)というように、片手で髪の毛をかきむしった。「重婚ってやつはな、アメリカでさえ法律で許されてないんだぞ」などと、常識を説く気にすらなれない。
「マキ、おまえ……何か変わったな。マキはさっき、レオンは遅くとも何年か後にはいずれ離れていくなんて言ったが、俺はあまりそうは思わんな。あいつは言ってみれば俺と一緒さ。女はおまえ一人いれば、他にはいらないと思ってる。それで……あいつとはいいのか?」
聞かずもがなのことを、君貴はあえて聞いた。いや、正確には言ってしまってから後悔した。自分とレオンとどっちがいいかだの、そんなことを知りたいわけではなかった。単に、マキにとって男はもうレオンさえいればそれでいいのかどうか――彼は自分でも、言うべきでない言葉を口にしたと思い、失言を後悔した。
だが、君貴が俯きがちに瞳を伏せているのを見て……以前の自分を彼の中に見出したような気がしたマキは、立ち上がると君貴の首に手を回し、彼にキスした。お互い、チョコレートを食べたばかりなので、甘いキスの味がする。
そのあと、君貴は立ち上がると、壁にマキのことを押しつけて、キスの続きをした。今のキスの仕方だけで――彼にはわかっていた。レオンが『少し調教しておいた』と言った、その言葉の意味が……。
「なるほどな。これは、レオンが重婚しようとマキにピロートークするわけだよな」
三度も体を重ねたあと、君貴は強引に抱き寄せたマキの額にキスした。彼女は今までのように受け身でなく、セックスに対して極めて積極的だった。そして、君貴には容易に想像できるのだった。レオンがどんなふうに彼女のことを<指導>したのかという、そのことが……。
「あのね、わたしびっくりしたの。レオンったら、こういうことに対して……あんまり解放的で大胆で、罪悪感を抱いてるようなところがまるでないんですもの。それでね、『愛さえあったらセックスは全然恥かしいことじゃない』とか、『マキも楽しまなきゃ駄目だよ。人生は短いんだから』って何度も言うの。わたし、レオンはあんまり天使すぎて……彼の前ではどんなことも罪にならないんじゃないかしらって思っちゃったくらい」
「マキもお人好しだな。あいつはどう考えても天使じゃなくて、堕天使だろうが」
君貴は三度目が終わったあとも、マキのことを離さなかった。レオンが彼女にさせたことを……先に自分が教えたかったとすら、今はそう思う。
「ううん。レオンは天使よ」
君貴の腕の中で、マキはくすくす笑って言った。
「もしレオンが堕天使なら、毎日トイレをピカピカに磨いたりなんて絶対するわけないもの。それもね、わたしが仕事でいない間にそうしておくのよ。じゃないとわたしのほうで気を遣うでしょ?それに今日だって休みなんだから、貴史のことはわたしが見てるって言ったのに……たまには子育てのことを忘れて、ただぼーっとしてる休日がマキには必要だよって言って、貴史のこと、連れていっちゃったの。なんでもね、連れていかなかったから耀子さんががっかりするっていう、そういうこともあるみたいなんだけどね」
「そうだな。確かにあいつは理想的なハウスハズバンドってやつだ。俺はそういう意味じゃゼロ点だが、レオンは百点満点だろう?マキの中では」
そう言いながらも、君貴は今の自分の立場に満足していた。何より、マキの心の中にも体の中にも――まだ自分の居場所というのが結構な広さを有しているらしいとわかり、彼はほっとするのと同時、彼女に対して前以上に愛情が募っていた。
「君貴さん、甘いわ。それでいったらレオンは、1200点とか5000点とか……あるいは100万点とか、もう数字の概念を越えちゃってるもの。でも、君貴さんはもしかしたらもっと得なのかもね。もともと、点数なんてつけようのない創造主みたいな立ち位置ですものね」
「創造主?墜天使に創造主ときたらマキ、おまえは一体なんなんだ?」
レオンが彼女を『性の女神』と呼んでいたことを思いだし、君貴は微かに笑った。確かにマキは彼らにとって、それと同時に『聖母マリア』でもあるのだ。
「さあ……ただ、君貴さんが面白いこと言ってたって、レオンから聞いたわ。わたしたち、ピロートークでよくあなたのこと話すのよ。大体、あなたが前にこんなことを言ってたとか、そんなことが多いんだけど……ほら、アダムとイヴに性のことを教えたのは人間の顔をした蛇だったっていう話」
「ああ、あれか。まあ、人類の不幸は聖書の最初の巻である創世記からはじまってるっていう話だよ。何も、あいつらが蛇の誘惑に負けなければ、今ごろ俺たちも楽園にいて、額に汗して働くこともなかっただろう……なんて話じゃない。蛇の誘惑に負けたのは男のアダムじゃなくて女のイヴだったことから――いや、そもそもアダムの肋骨から女が造られたってのも、大抵の女には承知しかねることだろう。何分新しい人類ってやつは、女の子宮からしか生まれないんだからな。まあ、とにかく創世神話によれば、イヴが蛇に誘惑されて善悪の知識の実……大抵は林檎として描かれるアレをかっ食らっちまったわけだ。イヴはこの時、体が痺れたようになって恍惚とした。そこで、野に倒れたイヴに蛇が襲いかかった。二股に分かれた舌で彼女の体を舐めまわし、最後はイヴの足の間に顔をうずめるような形でな。アダムはそれを見てショックを受けたらしい。だが、その異様な光景を見て、目を逸らしたいと思う反面、彼もまた男だから、蛇がしてるのと同じことをしたいと思った。そこで蛇はアダムにも林檎を食べるよう促し、自分の固くなったモノで女を犯すよう教えた……が、まあその後ふたりは自分たちがしたことを「恥かしい」と感じ、自分たちの裸の体をいちじくの葉なんかで覆ったって話だ」
「わたしね、あのお話を読んだ時、少しだけ不思議だったの。アダムもイヴも原初の、生まれたての汚れない人間のはずなのに、どうやって子供を作ることを覚えたのかしら、なんて……だってそんなこと、まさか聖なる存在である神さまが『ああしてこうしてそうすれば赤ちゃんが出来る』なんて、教えるはずないと思って。それでね、君貴さんのその話でレオンもようやく納得できたって言って、ふたりで笑ってたのよ」
君貴もこの時、笑っていた。どうやらマキとレオンはふたりとも、彼が特に深い意味もなく、なんとなくしゃべったようなことをよく覚えているらしい。
「いや、俺が言いたかったのはな、実はその点じゃないんだ。女が男という性に抑圧される図式というのが、キリスト教の聖書のアダムとイヴの話にあるっていうことを、俺はレオンにしたはずなんだがな。ボーヴォワールの娘か子孫みたいなフェミニズムの連中は、決まってそのことを指摘するくらいだ。つまり、この神話以降、男のほうでは『女が先に蛇に誘惑されたから悪いんだ』と言って、何かにつけてなんでも女のせいにするようになったわけだ。その上、女が家事のすべてをやるのは当たり前、男が女のことを性的に支配するのも当たり前という図式が成り立つ大いなる根拠ともなってきた。新約聖書に出てくるパウロはこのことを引用して、女は男に仕えるべきだと主張したし、哲学者のアリストテレスも『女は男のなり損ない』であると言っていたから、この女は男よりも劣っているという女性観を教会が受け継いだことで……女は家庭という檻に閉じ込められ、男が仕事を通して自己実現する手伝いをするだけの存在に貶められ続けたわけだ。いいか、マキ。家事を一切しない俺が言うのはなんとも矛盾してるが――ここが肝要な点なんだよ。あの創世記のアダムとイヴの話は、誰がどう考えたっておかしい」
「たとえば、どういうところが?」
マキは君貴の背中に自分の手を回した。お互いの間でそのように了解しあっているとはいえ……自分もまた、蛇に誘惑されたイヴ以上に悪い女ではないかと、ふとそんな気がしてしまう。
「実際の事実のほうはだな、人間がもしサルから進化したとするならばだ。発情して勃起した男に追いかけ回されて、イヴは一生懸命楽園の中を逃げたはずだ。『神さま、恐ろしい男が追いかけて来ます!助けてください』とすら、彼女はきっと祈ったことだろう。だが、神は昼寝でもしてたんだろうな。結局イヴはアダムにレイプされてしまい、アダムのほうは勃起したペニスをいちじくの葉で隠しつつ、『あなたがこの女をわたしのそばに置いたのがいけないんです』とでも一生懸命言い訳したんだろう。そんなこんなでふたりは楽園の外へ出されることになり、アダムは額に汗して働き、イヴは嫌々ながらも神の命で男という種族を助けなきゃならないだけじゃなく、こんな奴の子供まで生まなきゃならない羽目に陥った……俺にはどう考えてもこっちの神話のほうが正しいとしか思えん」
「じゃあ、君貴さんの中では、失楽園には蛇や悪魔は実は関わってないってことなのね?」
マキはくすくす笑ってそう聞いた。そろそろレオンと貴史が帰ってきてしまうので――せめてもシャワーを浴びて着替えなくてはと思うのだが、彼のそばから離れたくなかった。今を逃したら君貴はまた暫くの間はやって来ない。そのことを思えば尚更だった。
「いや、そうじゃないさ。そんなような連中を神が楽園に置くのを許容してたっていうのは事実なんじゃないかという気がする。『園の実は善悪の知識の実以外なら、どれでも食べていい』だって?神には当然わかってたのさ。蛇がアダムかイヴを誘惑して、林檎をかっ食らわせるだろうってことくらいな。キリスト教の神は全能だっていうんだから当然だろ?だがな、実際に起きたことと、聖書という書物に記録として書き記される段階で――まあ、おかしなことが起きたんじゃないか?創世記を誰が書いたのかは不明だが、編集者のほうは伝統的にモーセだとされているらしいな。なんにせよ、著者が男であることは間違いない。人類の最初の男、アダムはペニスを勃起させながら清らかな処女のイヴを気が狂ったように追いかけ回した……いや、これは事実としてカッコ悪すぎて男には耐えられないだろう。だから、先に誘惑されたのは女のイヴだってことにしたんだろうな。その上、こうしておけば、これから先女に家事も子育ても押しつけられるし、男が一番偉くて女は二番だ、これから先ずっとそうなんだ――みたいに男の側ではなんでも楽が出来る。つまりはそういうことさ」
「でも、君貴さんも変よね。普段から女は嫌いだとか、仕事の現場で女が視界に入って来ないと清々しいなんて言ってる割に……なんでそういうことを考えつくの?」
マキはもちろんわかっている。君貴は自分が家事を一切しないかわり、マキもしたくなければ一切しなくていいという考えなのだ。ここへ引っ越してきた最初の頃、家政婦を雇いたかったら雇えばいいとも言われていた。けれど、単にマキのほうでそこまでのことはしたくなかった――というより、君貴にそれ以上住居以外のことで借りを作りたくなかったというのがある。
「単に俺には、矛盾した事実が気になるという性癖と、すべての人間は平等であるべきだという、実現不能な理想があるってだけの話だよ。それに事は、単に男と女の問題だけってわけじゃない。つまり、人間っていうのは……悲しいことに、人種の違いや民族の違いによっても、これとまったく同じことをするってことを俺は言いたいんだ。白人と黒人の問題にしてもそうだろ?あるいは民族であるなら、どちらか一方の民族が、もう片方の民族を自分たちよりも劣っていると見なし、奴隷として使役するのは当然だ――といったように話を持っていこうとする。こうして長く支配されるか、都合よく利用され搾取され続けた民族のほうは、ある時当然の権利である平等権ってやつを主張し、革命が起きるわけだ。それと同じで、全世界的に見た場合、男と女が平等であるとはまだまだ言い難いように、すべての人間が平等になれるような日っていうのは、かなりのところ遥かに遠いな」
君貴がこんなふうに話す間も、時々自分にキスしてきたため――マキのほうでも彼にキスし返した。君貴は大抵、機嫌がいい時ほど饒舌になる……つまりそれは、彼のほうでも十分満足したということであり、マキはそのことを喜んでいた。
「そろそろ、わたしも起きなきゃ。君貴さんは寝てていいわよ。レオンが帰ってきたら、長時間のフライトで疲れて寝てるって、そう言っておくから」
「いや、おまえが起きるなら、俺だって起きるさ。何より、貴史のことを俺に何も言わずおふくろに会いにいかせたり、あの堕天使のことを少し追求してやらなきゃならないからな」
この段になると、君貴にもあるひとつのことが了解されてきた。レオンが電話で言っていたとおり――『僕たち三人の間では何も心配することないんだよ』といったことの意味が、マキから聞いた話と彼女を抱いたことで、はっきり確信できていたと言っていい。
「べつに、冷蔵庫に大人三人分の食材がないとかだったら、ウーバーイーツでもどこでも、何か頼めばいいだろ?」
マキがシャワーを浴び、髪も乾かぬうちに食事を作りはじめるのを見て――君貴はそう言った。この点、実は君貴は自分の母親にある意味感謝しているところがある。最後に言い合った時、『ピアノのために自分で料理もしないような女が……』と言った彼ではあったが、そのかわり君貴には女性が必ず家事をしなければならないであるとか、そう出来る女ほどいい女だ――といった偏見がないのである。
「う~ん。そうねえ……レオンも、帰りに何か夕食的なものを買って帰るからごはんなんて作ろうとしなくていいからね、とは言ってたの。だけどわたしとしてはね、毎日美味しいものを作ってくれるレオンに対して、こういう時こそ何か作って待ってたいっていうのがあって……」
「なるほどな。ようするにアレか。俺がもしやって来なけりゃ、マキはスーパーにでも行って、何か食材を買ってレオンと貴史の帰って来るのを待つつもりでいたってことなんだろ?」
「そうなの。でも、そんなことより君貴さんが来てくれたことのほうが百倍も嬉しいわ。それはレオンだって絶対同じなはずだもの」
そんなことを話しながら、ふたりは冷凍ピザをチンして食べていたのだが――この時、がちゃりとドアの錠の解除される音が響いた。その後、ドタドタと廊下を歩く音が続き、今度はバターンとリビングのドアが開かれる。
「君貴っ!やっと来たね。ああ、良かった!!」
レオンも、君貴愛用の革靴が玄関にあるのを見て――恋人の来訪にすぐ気づいたようだった。彼は抱っこ紐によって前側で貴史のことを抱きつつ、左右の手には買い物袋を持っていた。
「そっかあ。君貴が来てるってわかってたら、うな重三人分買ってきたのになあ。まあ、いいや。しょうがないから僕の分をあげるよ」
マキはレオンの抱っこ紐をほどくと、貴史のことを受けとってあやしはじめる。「おばあちゃまに会ってきたんでちゅか?良かったでちゅね~」と、まん丸い息子の顔を覗き込む。
「……なんか、太ったな」
マキの傍らに立ち、君貴は貴史のことを見るなりそう言った。ちっとも利発そうに見えないし、将来は凡庸な俗物になりそうだ――これがもし自分の息子でなく赤の他人の子であったなら、君貴は迷わずそう口にしたことだろう。
「君貴~、久しぶりに自分の息子に会ったんだからさあ、せめてもうちょっと気の利いたこと言いなよ。貴史がつかまり立ち出来るようになったビデオも送ったのに、感動のコメントもなしだもんね。マキ、この冷血男に、実物を見せてやれば?」
「でも、君貴さんのお母さまが相手してくれて、向こうでもいいだけ遊んできたんでしょ?疲れてないかしら」
「それもそうか。なんにしてもほんと、ピアノの練習してる間、耀子さんが貴史のこと見てくれるから、すごく助かるよ」
もちろん、レオンはこの時気づいていた。マキも君貴も、ふたりともまだ髪が乾ききってなく、なんとなくバスルームに漂う石鹸と同じような香りが漂っている……けれど、この時彼の感じていたのは嫉妬の感情ではない。産後、君貴が抱いてくれないとマキが洩らしていたことがあったため――ふたりともその部分は越えたのだと、そう思い、むしろほっとしているくらいだった。
「そういやおまえ、なんでおふくろに貴史のことを会わせたんだ?もちろん、俺に何を言う権利もないのはわかってるさ。だが、マキと寝たってことは意気揚々と教えてきたんだから、そのくらいの報告、俺にしてくれたって良かっただろ?」
「うん。それは事後報告になっちゃって、ほんとごめん。ただ、貴史を連れて銀座で買い物してたら耀子さんとバッタリ会っちゃってさあ。僕も咄嗟に嘘をつこうとは思ったんだよ、一応。だけど、知り合いの赤ん坊の面倒を見てるとかいうのは、僕の格好見たら絶対誰も思わないのはわかりきってた。かと言って、いくら耀子さんが相手でも、僕の隠し子です、とは言えなかったんだ……残りの選択肢はといえば、事実を話すってことだけでさ」
「なるほどな。確かにそこらへんについては、ちゃんとしてない俺が悪い。だけど、どうおふくろに説明したんだ?俺の子の面倒をレオンが甲斐甲斐しく見てるだなんて……どう考えても不自然極まりないだろ?」
レオンはお気に入りのスーパーで買ってきたヨーグルトやらチーズやら食パンやらを、順に所定の場所に片付けつつ答えた。
「んー……だからさ。事実は事実でも、僕とおまえが実はゲイの恋人同士だなんて、口が裂けても言えないだろ?だから、そのへんについては嘘をついたよ。実は僕と君貴は随分昔から親友同士なんだけど、耀子さんとの不仲については彼から聞いてたから、あえて親友だとは名乗らなかった、みたいにね。で、君貴の奥さんにめちゃんこ惚れてて、息子さんの後釜になりたいと思い、一生懸命育児奮闘中……なんていうのもおかしな話だろ?結果、君貴とまだ結婚してない奥さんであるマキと僕の三人は、ずっと昔から気の置けない関係で――今、僕は結構手が空いてるから、忙しい奥さんを手伝って子供の面倒を見たりしてる……といった説明をした」
「そりゃまあ、概ね上出来な嘘ってやつだな」
冷蔵庫に買ってきたものを片付けると、レオンは君貴のすぐ隣に座り、冷凍ピザの残りをぺろりと食べた。
「だっろー?君貴、僕に感謝しなよ。耀子さん、言ってたよ。実をいうと美夏さんの息子さんふたりと、崇くんの息子と娘さんふたりについて言えば……時々憎ったらしいか、孫としてまあ普通に可愛いって感じなんだって。でも、貴史のことは目に入れても痛くないくらい可愛いって感じるって言ってたよ。『じゃあそのうち、君貴の奥さんにも会ってみますか?』って聞いたんだけど、可愛い息子の憎らしい嫁の顔なんか、特段見たくもないとかって。おまえさあ、たぶん耀子さんの貴史へのめろめろっぷりを見たら、びっくりするよ。にも関わらず肝心な父親のほうは、息子の顔を見るなり『太ったな』だって!?普通はそういう時、せめても『大きくなったな』って言うものなんじゃないの?」
「…………………」
――この時、君貴はふとあることを思い出していた。姉の美香の息子ふたりは今、それぞれ七つとか九つとか、そのくらいだろう。君貴は一応、姉の嫁ぎ先の安藤家とは多少交流があるのだが、甥の悠貴(ゆうき)や貴翔(たかと)はエネルギーのあり余ったわんぱく小僧であり、耀子が「時々憎らしい」と口にしたのは、おそらくそのことを指してではないかと思われた。一方、弟・崇の子供は三人とも、品行方正で礼儀正しい傾向にあり、大人しかった。孫として「普通に可愛い」というのは、そうした意味なのではないかと君貴には推測されるばかりである。
「耀子さん、貴史が君貴の赤ん坊だった頃にそっくりの顔してるって言ってたよ。なんか、三人の子供の中で、耀子さんは君貴のことが一番可愛かったんだって。赤ん坊の頃からもう可愛くて可愛くて仕方なくて、でもお姉さんの美夏さんや崇くんと差をつけないよう平等に育てるようにしたってことだったよ。でも、結局君貴とは絶縁状態になっちゃっただけでなく、美夏さんはずっと母親に反抗的だったし、崇くんともなんとなく心理的に距離のある感じで……こんなことなら君貴のことを贔屓して育てても、結果として大して変わりなかったんじゃないかって、なんだかちょっと寂しそうな顔してたっけ」
「まあ、美夏の奴は昔から母親に対してコンプレックスがあるのさ。で、崇の奴のほうは、俺や美夏に対するおふくろの恐ろしいスパルタを見て、早々にヴァイオリンに逃げることにしたわけだ。だから、おふくろの期待に応えられなかったみたいに思ってるところがあるのかもしれんな。あと、あいつたまーに俺に電話してきて、結局兄さんが阿藤家の長男なんだから、そこらへんきちっとしてよ、みたいに必ず言ってくるんだ。ほら、あいつはカミさんにぞっこん惚れてて、カミさんの実家の家族とベッタリな関係なわけだ。で、このカミさんってのが二人姉妹で、姉妹仲はいいんだが、姉さんのほうは今カリフォルニア州のサンノゼに住んでるってことだったな。シリコンバレーに勤務してる旦那さんの都合だかなんだか。ゆえに、カミさんの両親が何か病気になったりしたら、崇が嫁さんとふたりで見ることになる……だから、親父とおふくろの面倒を見るのは、阿藤家の長男である俺の責任だと、何やらそう言いたいらしい」
「ふうん。君貴、なんだかんだで家族に愛されてるんじゃないの?耀子さんとはもう何年も口聞いてないってことだったけど、明日にでも貴史連れてマキと挨拶しにいっても――耀子さんももう、『阿藤家の敷居を二度と跨ぐなと言ったろーがっ!』とは言わないんじゃない?」
「どうだかな。とりあえず、俺は今日明日、そんなことをする気はないぞ。あ、マキのことをおふくろに紹介するのが嫌だって言うんじゃない。俺は昔からな、そういう家族がどーの、親戚への挨拶がこーのという、日本の土着的文化ってやつが大嫌いだというそれだけだ」
ここで、ぐいっとズボンを引っ張られ、君貴は思わず自分の足許を見た。貴史はその前まで、居間の一角の、ジョイントマットの敷かれたあたりで、マキとおもちゃで遊んでいたはずなのに――ふと見ると、君貴の座る椅子に捕まって立ち、得意気な顔をして父親のことを見上げていた。
「おっ、貴史!あんよが上手、あんよが上手!!実のパパに自慢をしにきたんだね、えらいぞー。ほら、君貴も少しくらい褒めなよ。もし将来、貴史が自己肯定感の低い子に育ったとしたら、全部君貴のせいだからねっ」
「あっ、ああ……」
正直、君貴はなんの愛情も抱いてない自分の息子が、あんまり屈託のない笑顔で自分を見上げてきたため、驚いていた。だが、君貴が抱っこすらしようとしないのを見て、レオンは(仕方ない)と思い、代わりに貴史のことを抱き上げることにした。
「ほら、ばあばの買ってくれた手押し車で遊ぼっか。ワンワンがついてるやつ。貴史、大好きだもんなー」
「ばあばって、まさかレオン、おふくろの前でもそう呼んでるわけじゃないだろ?」
「まさか。耀子さんが自分で自分のことをばあばって呼んでるだけだよ。まあ、耀子さんは今も全然七十過ぎてるようには見えないよね。五十代くらいでも全然通るように見えるくらいだし……君貴もさ、親がいつまでも生きてると思わないほうがいいかもよ?病気か何かで倒れてから後悔したって遅いんだからさ」
マキが君貴の母親がプレゼントしてくれた手押し車を持ってくると、貴史はママに見守られつつ、それをニコニコしながら押していった。押すと、手押し車の前面の犬が「ワンワン!ワンワン!」と吠えるという仕組みのようだ(他に、切替ボタンが二つ付いていて、ヒヨコがピヨピヨいうバージョンと、猫がニャアニャア鳴くバージョンがあるらしい)。
>>続く。