今回もまた、文字制限に引っかかってしまい、これ以上文字入れられませんでした。そういうことでほぼ本文のみとなりますm(_ _)m
ピアノと薔薇の日々。-【24】-
「ガキのおもちゃってのは、案外面白いもんだな」
君貴は自分の息子ではなく、全然別のことに注目してそう言った。だが、彼はこの時、レオンの言ったこと……自分の母親がもう七十を過ぎているという事実に愕然としていたのである。実をいうと彼の中で母の耀子は今も、六十五くらいで年齢が止まっていたという、そのせいである。
「ほら、君貴さん、見てて」
マキが切替ボタンを押すと、犬が引っ込み、今度はヒヨコが立ち上がってくる。ところが、ヒヨコがピヨピヨ言いだすと、貴史はその場に座り込み、手押し車を押そうとしなかった。そして、次に猫が出てきてニャアニャアいうと、その頭を殴りだした。ところが、犬が「ワンワン」吠えた時だけ――手押し車に捕まり、それを押して歩こうとするのである。
「ふうん。面白いもんだな。俺は思うんだが、貴史は将来、金髪の美女にだけ強く反応し、犬を飼おうとするんじゃないか?」
君貴のこの意見に、レオンもマキもほぼ同時に笑いだした。レオンなどは、「まったく救いようがないな、おまえは」と呆れきった顔をしている。
「まあね、君貴がそのくらい父親として失格してるから、マキも超然としてむしろ諦められるんだろうな。僕なんか、初めて貴史がつかまり立ちする姿を見た時には……物凄く感動したよ。あと、ヒヨコやネコが嫌いってわけでもないんだよな。ほら、お風呂に浮かべるヒヨコは貴史も好きだし、ネコのぬいぐるみは好きすぎて貴史のよだれでべッタべタなのが乾いて、今じゃガビガビになってるくらいだから」
「なるほどなあ。だが、確かに笑いごとじゃないんだぞ。赤ん坊ってやつは、もう三歳くらいには脳の扁桃体のあたりで好き・嫌いがはっきり確定するって話を昔聞いたことがある。だから、子守りに太った女性を雇ってたりすると、将来太った人に強い親しみを覚え、友達も太ってれば、自分が選んだ女房も太ってる……そんなことがほんとにあるらしいな。人間の本能の刷り込みってのは、まったく恐ろしいもんだ」
「もちろん僕にはわかってるよ、君貴」
そう言ってレオンは、君貴の隣にもう一度戻ってきて笑った。
「だからおまえは自分の息子に関わりたくないんだろ?そういう無意識のうちにも起きる刷り込みの要因としてでも、自分が関わって責任がのしかかってくるっていうのが嫌なんだろうな。それに、いちいちそんなことばかり考えてたら、仕事にも支障が出てくるだろ?ようするに、おまえは子育てに関しても完璧主義者なんだよ。それかまったく関わらずにほっぽっておくほうが――あれこれ頭を悩ませずに済むだけ、よほどすっきりするとでも思ってるんだろうな」
「俺だって、何も考えてないってわけじゃない。貴史がある程度大きくなってきたら……世界のあちこちを連れて歩きたいとは思ってたからな」
とりあえず君貴はそう言うことで逃げを打っておいた。確かに、レオンの言うことはいちいち正しい。
「責めてるわけじゃないよ。ただ僕はそういう君貴のことを面白いなと思ってるだけ。まあ、僕のことはどうでもいいけど、マキには感謝するんだね。いつかきっと……俺なんかの子供を生んでくれてありがとうって、心からそう思える日が君貴にもやって来るに違いないから」
(ドラッグに嵌まって親に金を無心してきたり、人を殺して刑務所に入るって可能性もなくはないがな)
流石に君貴も、口に出してそう言う気にまではなれなかった。マキが眠そうにしている貴史のことを抱っこし、レオンが貴史の額のあたりにキスしている姿を見ると――自分ではなく、レオンのほうが父親として適格者であるのは間違いないところである。だが、君貴自身、ふたりのそんな姿を見ても嫉妬心のようなものは不思議と湧いて来ないのだった(もしそうなら、君貴にしても、少しくらいはマキのためを思い、我が子を可愛がる振りくらいは出来たに違いない)。
「君貴さんはね、ようするにわたし以上に心配性なのよ」
マキはこの時、貴史が自分の意志で実の父のほうへ近づいていき――「構ってほしい」と自己アピールしたことに対し、内心でまだ感動しているくらいだった。
「だって、将来もし貴史がわたしのことをババア呼ばわりして、暴力を振るうようになったとしたら……そんなのは全部俺のせいだから、わたしが責任を感じる必要はないとか、そんなずっと先のことを心配してばかりいるんですものね」
この時、マキはおかしくて堪らないとでもいうように笑っていた。その笑いが伝染したように、貴史も笑い、最後にはレオンも大笑いしていたくらいだった。
「まあ、僕とマキの間でおまえについて結論は出てるんだよ、これでも一応ね」
マキが子供部屋に貴史のことを連れていってしまうと、レオンは戻ってきて、うな重を温めた。ひとつは君貴に与え、残りのひとつを自分とマキで半分こにすればいいと思っていた。
「おまえは最終的には、子供にとっていい父親になるよ。むしろ、忙しくてたまにしか会えない分、貴史の中じゃおまえは神格化されちゃうくらいかもなって思ったりもする。たとえば、学校で嫌なことなんかがあって、夏休み中、父親であるおまえに会いにいく。君貴は自由主義だから、ニューヨークでもロスでもロンドンでも……まあ、好きなだけいろって感じだよね。で、貴史のほうでもこういうことで悩んでるだの、そんな話はしない。いや、もしかしたらするかもしれないけど、君貴のほうではなんか余計な世話を焼いたりはしないだろ?で、なんかぽつぽつ人生で参考になるようなことをしゃべってくれたりなんかして、貴史は日本へ帰ってくる――まあ、何かそんなようなことだよ。おまえがやたら悲観論によって語りたがる遠い未来の話をしたとすればね」
「つまり、それがマキやおまえが、現時点で俺が父親失格で、まるで話にならない感じでも、俺のことを容認しておく理由ってことか?」
「だからさ、そういうことも僕はどうでもいいけど、寛容なひろーい心で受けとめることの出来る、マキには感謝しなよってことを僕は言いたいわけ」
「…………………」
マキがいい女であり、善い人間だということは、レオンと君貴の間で一致している意見である。また、彼女は古風な考え方から、初めての男である君貴以外のことは、知りたいとも思ってはいなかった。だが、子供の面倒を見てくれるだけでなく、家事全般よくこなしてくれるレオン・ウォンの魅力の前には、とうとう陥落したわけである。
そして、君貴としてはこのことを(奇妙だな)と感じるばかりだった。どう考えてもこの三人の中で弾き飛ばされて然るべきなのは自分であるはずなのに――レオンとは前と変わらぬ強い結びつきを感じ、マキを抱いていてレオンに嫉妬したのは事実であるとはいえ、それは決して不快な感情ではなかった。また、レオンにしても、この部屋に入ってきた途端、勘の鋭い彼が気づかぬはずはないのに、彼はマキと寝た自分に嫉妬する風でもないのだ。
このあと、三人で食事をする間も、この<感じ>は続いた。レオンはとにかく、阿藤家のほうで聞いた君貴の幼少時の話を引き合いに出しては終始よく笑い、それはマキのほうでもまったく同様だったといえる。おそらくはすべて、レオンからすでに一度は聞いた話であるにも関わらず、彼女は初めてその話を聞いたといったように、実に新鮮な反応を示していたものである。
「耀子さんさ、言ってたよ。マキのこと、まともそうなお嬢さんで良かったって。花屋で事務員として働いてるって言ったら、『君貴には女房と子供を養う甲斐性もないのかしら?』なんてぷりぷり怒りだしたから――マキは独立心が強くて、金銭的に男に頼りたいと思わない女性なんだって言ったら、妙に感心してたっけ。何よりね、耀子さんの中での問題はそういうことじゃないんだ。耀子さんの中の君貴の嫁の最低ラインは、おまえが自分に対する嫌がらせとしてAV女優でも連れてきて、阿藤家の敷居を跨ぐってことだったらしいよ」
「じゃあ、わたしはその最低ラインよりはほんのちょっと上だったわけね」
マキがおかしそうに笑うと、レオンも買ってきた日本酒を口にして、愉快そうに笑っていた。唯一、君貴だけが無表情な顔をして笑っていない……いや、彼は不機嫌そうにムスっとしているくらいだった。
「AV女優か。まあ、それも悪くはないな」
「なんだっけ。とにかくそういったタイプの女性を連れてきて、『これからは俺の前で職業の貴賎の話はするな』とか、親戚全員が集まってる前で、いかにもあの子、そういう言い方しそうでしょ?だって。いやあ、耀子さんは自分の息子のことをよくわかってるね」
今度は流石に、君貴も笑った。レオンが最近嵌まっているという日本酒を自分のグラスに入れて飲む。他に、意外なことには――というより、なんとも似合わないことには、彼は近ごろ珍味に嵌まっているとのことで、イカのみりん焼きやらトバやらコマイやらが今、テーブルの上には所狭しと並んでいる。
「しっかしマキも、サキイカなんか食って安酒飲んでるレオンを見て、よく嫌にならないな。俺が言っていいことじゃないが、こんなんでも貴史が泣きだしたりしたら、ぱっと立ち上がってガキの面倒を見はじめたりするんだろ?」
「べつに、全然気にならないわよ。珍味はわたしも好きだし……ごはんの上に塩辛のっけて食べたりとか、まさかレオンがこんなに日本食好きだとは思ってなかったけどね」
「ふん!どうせね。僕はファンの子たちのイメージ的には、ワインでも飲んで、キャリフォルニアロールでも食ってりゃいいんだろ?あとはベルーガキャビアにシャンパンとか……でもいいんだ。マキはありのままの僕を受け容れてくれるもんねー」
ここで、マキがフランス版のヴォーグを持ってきた。彼らが東京のスタジオを押さえて撮影してもいいと言っていた号で、表紙と見開き数ページにかけて、レオンが花をバックに芸術的な被写体として刻印されている。
「ガキのよだれつきセーターを着た、目の前の男と同一人物とはとても思えんな」
「ふふん。花をバックに撮りたいって言ったのは、実は僕のアイディアなんだよ。マキと一緒にテラスで花をプランターに植えたりしてる時に思いついたんだ。彼らも最高の出来映えだって興奮してたけど――まさか自分でもこんなうまく嵌まるとは思ってなかったくらい」
「確かにこれは、レオンのファンの女子たちには堪らないだろうな。それで、ロンドンのチャリティ・コンサートでは、何を弾くんだ?」
「んーとね。ショパンのエチュードと、リストのラ・カンパネラと、ラヴェルのラ・ヴァルスなんかかな。あとはもちろん、アンコール用の曲も2~3曲練習してる」
――マキはただ、君貴とレオンが話している会話を聞いているだけで十分楽しかった。彼らはロンドンで会った時、以前と変わらず激しく抱きあったわけだが、マキはレオンと君貴の間で何があったかを知らないことがほとんどだったし、『竜の舞踏』について、それほど詳しく知りたいとも思っていなかったのである。
レオンはまた、君貴と寝たあとで、マキがどんなに可愛いかという話をよくしたが、もちろん君貴のほうでもそのことに同意こそすれ、彼に嫉妬するようなことはなく……とにかく、三人の間では万事が何かそうした形だった。ただ、レオンは「僕たちのこの関係は、3Pっていうのとは違うよね」とは言っており、そのことは君貴のほうでも同意見だったといえる。「なんていうか、僕は君貴とセックスしてるところをマキに見られたいとまでは思わないし、マキだって、ゲイの男の間で性のオモチャにされてるみたいに感じたら嫌だしさ。そういう意味では微妙なギリギリのところで僕たちの関係は成り立ってて……正直、君貴と寝たあとのマキとセックスする時が一番燃える。でもそれは嫉妬っていうのとは少し違うし、なんでそうなのかっていうのも、僕にはうまく説明できないんだけど」
この、お互いの間に介在しているうまく説明できない『力』については、君貴にしても大いに認めるところだった。レオンに抱かれているマキのことを想像すると、彼にしてもマキとセックスする時に最高に燃える。そして、その同質といっていい力が、君貴とレオンが同衾する時にも、まったく同じ作用を及ぼすのだった。だが、何故なのかはわからないが、もし彼ら三人がベッドを共にするとしたら――その魔法のようにすら感じられる力は失われてしまうだろう……というのが、ふたりの一致した意見だったのである。
こうして、二年半の間はマキとレオンと君貴の間で、平穏な日々が続いた。君貴は変わらず仕事で忙しかったとはいえ、3~4週間に一度は東京の、自分が買ったマンションの一室へやって来たし、レオンは断れる仕事については片っ端から断り、相変わらず子育て第一の生活を送っていたといえる。また、マキはといえば、彼女言うところの『平凡な花屋の事務員』の仕事に従事し、残りの時間は息子と恋人への愛によって埋められていたといっていい。
君貴のほうでは、自分の息子がつかまり立ち出来るらしいと知って以来――実の息子の「可愛さ」なるものが、除々にではあるが、だんだん理解されて来つつあったかもしれない。この翌日の夕方には、シンガポールへと発った君貴ではあるが、貴史が何かと自分のまわりに纏わりついて来るもので、愛情のない親父にまでも懸命に愛想を振りまく息子のことを見るにつけ……彼の北極の氷のような心も、ようやく少しばかり溶けるものがあったらしい。
どういうことかというと、貴史はまだ赤ん坊であるにも関わらず、空気を読んでいるところがあったのである。マキとレオンが貴史のことを間に挟んで遊んでいるような時――当然、君貴はその茅の外にいるような格好になるわけだが、孤独な父親のことを哀れむように、貴史はそういう時、決まって君貴のほうまでハイハイしてきたり、彼がトイレへいこうとするその後ろをついて行ったりしたものである。
そこで君貴のほうでも、「おまえは凄いな。その年でもう空気が読めるのか」と驚き、少しばかり相手をするようになった。しかも、相手をしたなどと言っても、二、三話しかけてやったり、暫く抱っこしてやったくらいなものなのだが……貴史は君貴が帰ろうかという時、実にぎゃん泣きしていたものである。以前であれば、『おまえなんかキライだ。あっちへ行け!』としか、君貴にも感じられなかったにも関わらず――この時には流石に彼も後ろ髪を引かれるものを感じたようだった。その泣き方がなんとも『行かないで!おじさんがいなくなったら、ボクさびしいよ』とでも言うのだろうか。何かそうした顔を貴史がしていたせいである。
基本的に君貴が東京へやって来るのは、マキとレオンに会うためではあったが、貴史のことも、一応その存在が目に入ってくるようにはなった。というのも、彼は自分の実の父のことをきちんと認識しているらしく、君貴がやって来ると必ずそば近くへ寄ってきては、嬉しそうにしていたからである。
とはいえ、レオンから「貴史がとうとう自分で立っちして歩いたよ!」と聞かされても――彼らほどには、君貴の中で感動のようなものはまったく生まれなくはあったのだが……。
そんな平穏な毎日が続いていた二年半後のこと、マキは再び妊娠した。君貴とは月に一度か二度寝る関係性であったことを思えば――どう考えても子供の父親はレオンである可能性が高かったといえる。君貴はこのことについて、「俺の出来の悪いガキがふたりいても仕方ないだろ?責任の半分くらいは受け持って欲しいって意味でも、俺はその子がレオンの子であって欲しいよ」などと言っていたものだった。
『でもさあ、僕の子なら僕の子で、マキは少しフクザツらしいよ』
君貴は、レオンの声色に若干ふてくされたような響きを感じ取っていた。
『もちろんね、健康に生まれてきてくれることが第一で、マキ的にはどっちの子でも嬉しいみたいなんだけど……僕はやっぱり、僕とマキの間に子供がどうしても欲しい。だけど、僕にそっくりのハーフ顔の美人が生まれた場合、貴史と父親が違うのは明らかだし、そういうことが少し心配なんだって。でね、もし女の子が生まれた場合――僕だけじゃなく、君貴も過保護に後ろをついて回るんじゃないかと思うと、なんか母親としてはフクザツだって話』
「なるほどな。そりゃ確かにマキの言ってることは当たってるよ」
そう言って、君貴は笑った。彼はこの時、ロサンゼルスの自分のオフィスにいた。
「俺は自分と血の繋がった娘よりも、レオン、おまえにそっくりの娘が生まれたりしたら……まあ、馬になって自分を乗せろと言われれば馬になり、ブタのように鳴けと言われればブヒブヒ言って、奴隷のようになんでも言うなりになるかもな。あとは、男どもの視線を出来る限り遮るためにカトリックの女子校にでも入れようとするかもしれん。さらには、誰か男とつきあうとなったら――デートのたびに後ろをつけ回して、万一のことがあったらブッ殺すということをそれとなく相手の男に示し続けるだろう」
『はははっ!もちろん、その君貴の気持ちは、僕も痛いくらいよくわかるよ。僕だって、自分とマキの子じゃなくて、マキとおまえの間に出来た女の子でも……まったく同じことをするだろうからね。今妊娠三か月だってことなんだけど、大体来月かさ来月くらいには性別がわかるとかって。マキ的にはね、なんか女の子のような気がするってことだったんだ。ほら、よくさ、そういう時の女の人の勘って当たるっていうだろ?』
「当たるったってな。どっちにしろ、二分の一の確率だろ?」
そう言って君貴は笑った。けれど、彼もまた女の子かと思うと……何故かわからないが、貴史が生まれる時には感じなかった、不思議な高揚感があったといえる。
『まあね。言われてみればそりゃそうなんだけど……とにかくさ、マキの妊娠中は彼女のことを心の底から大切にする感じで何も出来ないからね。そういう僕の性欲処理については、君貴、おまえがどうにかしてよ』
「どうにかったって……ああ。まあ、わかったよ」
(一体どういう会話だ)と思いつつ、君貴は笑った。何分、マキはこれが二度目の妊娠である。君貴にしても、ようやくだんだんに息子・貴史のことが可愛く感じられてもいるし、以前の失敗を踏まえ、妊娠中のマキのことを気遣い、大切にしよう……といった気持ちは彼にもあるのだった。
『そのあたり、これまで通りマキには隠さないとね。マキだって、僕らにも時々そんなことがあるってわかってはいるにしても――自分が妊娠中だから、僕とおまえとで盛り上がってるみたいに思われるのは心外だから』
「心外ねえ。まあ、なんにしてもマキが妊娠して出来ないから、俺もおまえも禁欲生活を送ってる……くらいに見せておいたほうがいいってことか、この場合」
『そういうこと!とにかく、僕は嬉しいんだ。日数を計算するとね、おまえが来た日と被ってたりはするんだけど……それでも確率的には僕との子である可能性のほうが濃厚なわけだろ?ほんとに心の底から嬉しいんだ。まさか僕、自分がいつか父親になれるとは思わないで今の今まで生きてきたもんだからさ』
「いや、おまえはすでにもう立派な父親さ。俺を見てみろ。もし二番目の子も俺の子だったりしたら……お腹の子にとっては最悪だって。そういう意味でも、俺もマキの腹の子はレオンとの子であることを心から願うよ」
『う……うん。それでさ、僕、君貴に相談があるんだけど』
珍しくレオンがあらたまった調子になるのを感じ、君貴はなんとなく警戒した。(もしかして、お腹の子が間違いなく自分の子であったとしたら、マキと正式に結婚したいとか、そういうことだろうか?)と、そう直感する。
だが、レオンが次に口にしたのは、君貴が予想したのとは少し別のことだった。
『僕……正式にピアニストを引退しようかと思ってるんだ』
「…………………」
君貴は、レオンの言葉に自分が思った以上にショックを受けているのに驚いた。まるで、自分の分身が自分の意志を離れ、ピアノをやめると言っているかのように錯覚してしまう。
『もちろんね、わざわざそんなこと、世間様に向けて言う必要はないのかもしれない。この二年、僕は数えるくらいしか公の場でピアノを弾いてはいないけど……それだって結構キツかった。練習とかなんとか、そんなことはいいんだ。僕はこれでもプロだからね、そのあたりについてはもう苦には感じてない。ただ、精神的に……今まで一度もコンサートで失敗したことないのがほんと、奇跡としか思えないんだよ。毎回、次こそ失敗するんじゃないかと思って、汗びっしょりで朝目が覚めることだってある。もし今あえて世間に向けて、引退すると言っても――まあ、二度と人前でピアノを弾かないってことじゃない。またチャリティや何かで弾いたりとか、そういうことはあると思う。だけどそれは、もう『プロ』って看板を下ろした人間の演奏ってことになるだろ?もちろん僕は負けず嫌いだからね、そんな時にも完璧に練習し直して、完璧な演奏をしようとはするに違いない。それに、マキのことだってある……いや、実際のところ彼女のことが一番なんだ。僕は公人って言うほど大した人間じゃないけど、ピアニストを引退したらもう、完全な私人ってやつになるわけだろ?そんな相手をマスコミもしつこいくらい追いかけまわすってことはなくなるだろうし……』
「もしかして、何かあったのか?」
君貴はなんだか胸騒ぎがした。むしろ、今の今まで自分とレオンの関係がバレていない、またレオンとマキの同棲生活も表沙汰になっていない――そのことのほうが、今更ながら不思議な気がしなくもないのだ。
『いや、今のところは君貴が心配してるようなことはないよ。だけど、僕的にはね、何か起きてからじゃ遅いと思ってるし……ここのマンションは管理人さんも常駐してて、住んでる人間の個人情報が外に洩れるなんてことはないらしいしね。そのことは、ここを買った君貴が一番わかってることだとは思うけど……いや、違うな。そういうことじゃない。君貴さ、クォーターランドっていうアメリカのロックバンド知ってる?』
「ああ。というか、俺だってクラシックやオペラ以外にも、普通にロックでもラップでも、それなりに聞くからな。ビルボードで一位を取ったことはないとはいえ、十位以内には何度か入ったことのあるバンドだし……一般的にいって、アメリカに住んでて知らない奴はいないだろ」
いや、君貴もそんなことが言いたいわけではなかった。人気ロックバンドのクォーターランドといえば、確か一月くらい前にヴォーカルのマーク・クォーターランドが拳銃で頭を吹っ飛ばして自殺したのだ。けれど、何故なのかはわからないが、不吉な予感が胸をよぎるあまり、君貴はそのことを口にしたくなかったのである。
『その……さ。君貴はたぶん意外に思うだろうけど――僕とマークは、友達だったんだ。それも、お互いに友達だと知られるわけにはいかない間柄の、ね』
「…………………」
君貴は、再び黙り込んだ。マーク・クォーターランドが自殺した時、暫くの間メディアはそのことで持ちきりだった。自殺の原因についての詮索や、関係者に対する聞き込みやインタビュー、泣き叫ぶ奥さんや家族の姿や……君貴はニュースで見たそんな断片を一瞬にしてすべてかき集めた。マーク・クォーターランドは愛妻家として有名であり、確か五人子供がいたはずである。若い頃に結婚しているため、最初に生まれた子はすでに十四歳くらいではなかっただろうか。
『うん、わかってる……君貴が予想しそうなことは一応ね。知られちゃいけない間柄だなんて言われたら、僕が君貴と会う前に、彼と恋人関係にでもあったのかなんて、疑っちゃうよね。ごめん……僕、マークのことではちょっとナーバスになっちゃうんだ。彼とはほんと、そういうことは関係なくて、純粋な意味での友達同士ってことなんだ。マークは僕と違って過去をカミングアウトしてるし、一度だけ会って、僕のことは口が裂けても絶対言うものかとは、彼も言ってたんだ』
「レオン、おまえ……大丈夫か?」
受話口の向こうの、レオンの声は震えていた。泣いているのかもしれないと思い、君貴は心配になった。彼には案外性格に脆いところがあるということは――誰より、君貴自身が知っていることだった。
『最初にニュースでマークのことを知った時、僕はショックのあまり、ちょっと鬱っぽくなった。だけど、マキに話すわけにもいかないと思って、少し無理していつも通りを装ったんだ。そしたら彼女、様子がおかしいくらいのことには、当然気づいたんだろうね。そしたら、「いつかこんな日が来ると思ってた」なんて言うんだ。「レオンはこんなところに留まってないで、もっと自由に羽ばたける人だもの」とか、なんかそういう話。僕は、マキがあんまり見当違いのことを話しだしたもんで、ついカッとして怒っちゃった。君貴は知ってると思うけど、そういう時の僕はほんと、子供っぽいからね……言ってみればこれが、僕とマキの間であった、初めての喧嘩みたいなことだよ。それで、マークのことを話したんだ。友達だったから、自殺したなんて聞いてショックで、それで塞ぎ込んでただけなんだって……でも、このことは僕たちの間でちょっとだけ尾を引いた。まさか僕が怒ったら手がつけられないくらいヒステリックになるとはマキも思ってなかったんだろ。僕も自分で自分に対して物凄くガッカリした。だけど、そんな時にマキの妊娠がわかって……僕たちの関係はまた元の通りに戻った。僕は自分が父親になれるかもしれないってことを手放しで喜んで、マキも僕との子なら嬉しいって言ってくれて……』
君貴が彼らの愛の巣を訪れたのは、三週間ほど前のことである。ということは、その直後、ということだろうか、と君貴はマーク・クォーターランドの自殺のことと合わせて考えた。何分、彼が先月の何日頃亡くなったのか、はっきりした日付を覚えていないせいだった。
「近いうち、とにかく直接会おう。俺も、なるべく早く時間を作って、そっちに行くから……」
『うん……本当は僕もそう思ってたんだ。あんまり電話で話すようなことじゃない気がするし……でも今、聞いてくれないか?君貴の仕事の邪魔にならないならだけど……』
今、ロスは夕方の六時を過ぎたところである。君貴は日本との時差を計算し、今東京は午前10時くらいかと推測した。
「ああ、全然大丈夫さ。もうこっちは就業時間も過ぎてるからな……そんなことより、今はおまえの話のほうがよほど重要だよ」
この時点で君貴には、レオンがこれから何を話そうとするのか、ある程度の見当がついてはいた。マーク・クォーターランドのカミングアウトというのは――ようするに、彼がサバイバーだということだった。彼は元はロンドンにある児童養護施設出身で、そこは公式に認可されている施設だったにも関わらず、組織的に児童虐待が行われていたという。マークはそこで、身体的・性的な虐待を受け、その後問題が露見し、別の専門施設に移されてからも……トラウマに悩まされ続けた。やがて彼はアメリカの里親の元で暮らすようになったが、学習意欲もなく、人づきあいも下手な彼は、地獄のような学校生活を過ごしたということだった。その後、その家を飛び出しホームレスのような暮らしをしていたが、当時の仲間たちとバンドを組み結成したのがのちのロックバンド、クォーターランドの前身である――という、まさにアメリカン・ドリームを絵に描いたような話である。
マークは、自分の熱狂的なファンだった女性と結婚し、彼女が自分を立ち直らせてくれたと、インタビューなどで繰り返し語っていた。また、奥さんのほうでも、「ひとり自分が子供を生むごとに、彼の心の……魂の傷が癒されていくのを感じた」という。ところが、今度の自殺によって、残された彼女と、また五人もの子供たちの傷がどれほど深いものか――君貴には想像してみることさえ出来ない。
『勘のいい君貴のことだからさ……ある程度のことはもう見当がついてるとは思う。日本では、僕の知る限りマーク・クォーターランドの死っていうのは、報道の枠としてそんなに時間をかけて流すといった感じのものじゃなかった。だけど、アメリカじゃもっと取り上げ方が大きかったみたいだからね、君貴がまったく興味なかったとしても、それなりに報道のほうは目にしたんじゃないかと思う。でね、僕はマークと同じ児童養護施設の出身だったんだ。もっとも、そこらへんの僕の過去に関しては、ウォン氏が周到に消してしまったようではあるんだけど……でもまあ、誰かが徹底的に調べようと思い定めたとすれば、僕がマークと同じ養護施設の出身者であることはわかると思うんだ。もっとも僕はね――小心な自己保身の気持ちから、自分が虐待を受けた孤児だってことが世間にバレるとか、そんなことを怖れてるわけじゃない。ただ、とにかくもうマークの自殺がショックだったんだ。彼でさえ乗り越えられなかったのかっていう、そのことがね……』
ここで、レオンは本当に重い溜息を着いた。電話越しとはいえ、そんな種類の溜息を彼が着くのを、君貴は一度も耳にしたことがない。
『僕は一度だけマークのライブを見にいったことがあって、そのことに気づいたマークが、今度は僕のコンサートに来てくれたんだ。それで、そのあと少し話をした……もちろん、僕はクォーターランドがデビューした時から知ってたし、マークのほうでも中国人の家庭に僕が引き取られてのち、プロのピアニストになったことは当然知ってた。だけど、連絡なんて取り合わないほうがお互いのためだということは、マークにも僕にもわかってて……それで、結局会って何を話したかといえば、『俺たちはもう二度と会わないほうがいいな』ってことだった。その時、マークはもう結婚していて、最初の子供が生まれていた。それでね、僕は彼が過去を乗り越えて、夢も叶えて幸福な結婚もしていることが羨ましいって言って、そのことを祝福したんだ。今もよく覚えてる……その時、マークはそのことを肯定しなかった。どちらかというと、首を捻って『よくわからない』というような顔をしていた。でも、言葉にしては何も言わず、彼は僕のことのほうが羨ましいと言ったんだ。『その美貌で、女性にもモテモテで、天才的なピアノの腕があって――そんな正統派のレオンに比べたら、俺は自分のやってる音楽が恥かしいよ』って。その時、僕たちは色んなことをいっぱい話した。なんでかっていうと、もう二度と顔を合わせて話をすることはないだろうってわかってたからさ。同じ養護施設にいたってことが世間にバレるとまずいとか、そんなことじゃない。ただ、お互いに危険だとわかっていた。親しく何度も会えば、マークも僕も、昔何があったか、自分たちが性の奴隷のように扱われ、そんなことでもしなかったら何も物を食べさせてもらえなかったとか、そうした惨めな過去のことを、再び克明に思いだすだけのことだからね……』
このあとも、独白にも近いようなレオンの話は続いた。君貴はただ、無言でありながらも真剣に彼の話を聞き、片手でパソコンを操作して、自分のスケジュールを確認していた。これはたぶん、マキが相手では荷が重すぎるだろう。自分がなるべく早く直接レオンに会いにいったほうがいいと思った。
『だけど、僕たちはその後ずっと、長く会わなかったにしても――お互いがただ「どこかで生きていて、一般に成功した側、勝者の側にいる」ことを確認しあい、心のどこかでほっとしてたんだと思う。実際、僕も時々こう思うことがあった……ほら、クォーターランドのライブ・パフォーマンスって、痛々しいところがあるだろ?それがオーディエンスが一番求めてることであったにしても――僕も、マークが自分に起きた過去のことを歌って、神のことを呪ったり、ファックって叫んでるのをCDで聞くだけでもつらいくらいなんだ。でも、それはマークがすでに過去を乗り越えた証拠なんだって、成功者・勝利者として、今彼はそれを叫んでるんだと思うことにしていた。こんな話、僕はおまえにもしたことなかったけど……僕は今までに、死にたいと思ったことが何度かある』
「俺とつきあってる間もか?」
君貴は、本当はそんなことを聞きたいわけではなかった。けれど、ただ何か言わずにはいられなかったのである。
『ううん、違うよ。君貴と出会ってからは……自殺するとかなんとか、そんなことは考えなくなった。これは本当なんだ。ショパン・コンクールで優勝したとか、ゲイなのに女性にもてるとか――人から見れば僕もたぶん、成功した側の人間ではあるんだろうね。だけど、心のどこかでは何か虚しかった。ショパン・コンクールに出場することにしたのは、一重にそれが中国のウォン家から離れられる唯一の道だと信じていたからさ。だけど、皮肉なことには優勝するとほとんど時を同じくして、ルイ・ウォンは死んだ。まさか、僕にも結構な額の財産を残すとは思ってなかったけど……もしかしたら口止め料だったのかもしれないな。僕に色々猥褻なことをしてきたのを、金をやるから黙っていろと、そう言いたかったのかもしれない』
このことは、君貴も随分前から知っていたことである。だが、先に猥褻なことをしてきたのはウォン氏であったとはいえ、その後レオンは完全に氏のことを自分のコントロール下に置いたということだった。『ほら、法律家とか歯科医とか、真面目で四角四面な男によくいるタイプだったんだよ、ミスター・ウォンはね。僕が足をなめろと言ったら興奮して僕の足に舌を這わせてた。そういうプレイが好みだったんだよ』と……。
『ミスター・ウォンの死後、奥さんのイーランさんは結構な資産家とまた再婚したみたいだね。ハオランは事業の債権に焦げつきが出ているようだし、妹のヨウランは……あれは僕がまだジュリアードに通ってた頃だから、相当昔の話になるけど、最後に会った時、何か様子がおかしかったよ。ニューヨークのペントハウスのほうに来て、すっ裸でベッドの中で寝てたんだ。それで、「抱いて」なんて言うから、僕は君とは義理の兄と妹で、大恩あるウォン氏の娘にそんなことは出来ないと言った。そしたら彼女、気が狂ったみたいに笑いだしちゃってね。昔は内気で可愛らしい娘だったのに、一体どうしたんだろうと思ったよ。最後にヨウランは「あなた、本当は男以外ダメなんでしょ?」と言っていた。「わたし、父とあなたの関係のことも知ってるのよ」ともね。「だから、試してみたの。でも実際にあなたがわたしを抱こうとしたら、つっぱねるつもりだったわ」なんて言うんだ。可哀想な娘だよ。ようするに、人間関係を築くのが下手で、父親がせっかく結構な大金を残してくれたっていうのに――何か人に騙されたり投資に失敗したりなんだりで、彼ら兄妹はどうも、父親のウォン氏の指摘通り、事業家としての才覚はなかったみたいだ』
「そのヨウランって子、結婚は?」
君貴がそう聞いたのには、理由があった。レオンから、義兄のハオランの性格についてや、義妹のヨウランのことは聞いていた。けれど、義理の妹のほうが昔、すっ裸でレオンのベッドで寝ていた……なんていう話は初耳だった。ようするに彼女は、随分昔から金髪碧眼の血の繋がらぬ兄に恋焦がれていたのではないだろうか?しかも、結構な遺産を父親が残してくれたことにより、結婚して男に養ってもらう必要もないとなれば……果たしてヨウランはその後、自分で自分にかけた恋の魔法から覚めることが出来たのかどうか――君貴はそんなことが気になった。
『してないみたいだね。僕の知る限りだと、今は動物愛護活動に励んだりしてるってことだったけど……それもまた、ヨウランらしいよ。人と関わって傷つくより、動物を相手にしていたほうがリスクが低いものな。それに、自分の慈善心だって満足させられる……なんていう言い方は流石に意地悪だね。とにかくね、僕は賤しいことには、ウォン氏の死によって突然大金が転がり込んできたことで、突然生きる力に目覚めた。意味わかる?まあ、いずれいつかは死ぬにしても、その前に多少なりともいいことをしておこうと思ったんだよ。そこでまず、レオン・ウォン基金なんてものを設立して、慈善施設や何かに寄付をはじめた。でも大抵の人は、僕がただ金だけを渡すより、僕自身に来てもらってピアノを演奏して欲しいって言うことのほうが多かったんだ。ショパン・コンクールで優勝したなんて言っても、僕はまだ全然、クラシック音楽に関して勉強すべきことが山のようにあったから……まずは音楽大学でより専門的に学ぼうと思った。その間も刑務所を慰問して回るとか――僕の性格を知ってるおまえならわかるだろ?まったく僕には似つかわしくない行動だけど、そのことにも理由があった。なんでって、もしかしたら僕とマークは成功した側の人間かもしれないけど……あの頃、僕たちと同じ目に遭った子はほとんどが刑務所を出たり入ったりしてるか、あるいはヤク中やアル中の治療施設、じゃなかったら精神病院に入院してるといった具合だからね。正直、僕は今も思ってるよ。たまたま僕はその中でも運が良かった……じゃなかったら僕も彼らと同じく、社会のクズとかゴミと呼ばれるような生活を送っていたろうなってね』
レオンの口調は暗く、だんだんにどこか自嘲的になってきているように感じ、君貴は心配になってきた。もし同じ日本国内にいるというのであれば、北海道からでも、沖縄からだって、すぐに駆けつけただろう。だが、君貴の記憶違いでなければ、今から急いでロサンゼルス空港に駆けつけたところで――最終便はすでに出てしまっているに違いなかった。また、明日朝一番で……などと言っても、彼はすでに仕事のスケジュールが詰まっている状態なのである。
「なあ、レオン。俺はおまえを愛してる」
出し抜けにそう言われたからだろうか、レオンは驚いたようだった。受話口の向こうのハッとした気配から、少なくとも君貴にはそのように感じられた。
「今はおまえがマキのことを一番に愛してるのだとしてもいい。おまえ、前に言ってたよな。自分がもしピアノをやめたら……というか、プロのピアニストでなくなったら、俺がおまえに興味を失うんじゃなかって。そんなことはないよ。べつに、俺はこれからもたまに、レオンがプライヴェートで俺のためだけに何か弾いてくれさえしたら……それで十分満足だからな」
『うん……それは、君貴の勘違いだよ。僕は女の中ではマキのことを一番に愛してる。だけど、男の中ではおまえのことを一番に愛してるっていうそれだけだ。どちらが上とかなんとか、そんなことは関係ない。それはマキだって同じなんじゃないかな』
「そうだな。俺もレオンとまったく同じことを思ってた。とにかく、どうにかスケジュールの合間を縫って、近いうちにそっちへ行くよ。その時また、色々話しあおう」
ぐすっとレオンが鼻をすすったことで、彼が泣いていることが、君貴にもこの時はっきりわかった。
『ねえ、君貴。この間僕、おまえの実の可愛い息子を初めて怒鳴っちゃった。そのこと、懺悔してもいい?』
「まあ、俺の息子のことなんか、いくらでも怒鳴れよ。ただ、マキのいないところでやれよ。レオンの頭がおかしくなったと、彼女に思われないためにな」
『ううん……もう二度とそんなことはないと思うけど、ほら、マークが死んだあと、日本のニュースなんか見てたって埒があかないから、ネットで色々調べてたんだよ。そういう時に限って泣いたりぐずったりしだしたもんだから、「うるさいっ!」て怒鳴って、そのあと暫く放っておいた。マキは仕事でいなかったけど、結構そのあと落ち込んだよ。育児に一切関わらないおまえより、僕のほうがよっぽど父親失格だと思って』
(たったそれだけことか)と思い、君貴は笑った。すると、レオンは意外にも今度は怒りだしていた。
『笑いごとじゃないよ。第一さ、今までの僕の話聞いてて、君貴は怖くならない?僕みたいに小さい頃虐待された子供っていうのは、大きくなってから自分の子供に同じことをするってよく言うじゃないか。僕、もしそんなことが原因でマキと別れることになったらと思うと……心底ゾッとするよ』
「おまえも結構な育児の理想主義者じゃないか。大抵の家ではな、わんぱくなガキがふたりもいれば、五秒に一度は怒鳴ってるって話だぞ。あとはな、理想的と思われた夫婦の家庭に遊びにいったら、赤ん坊のうんちが部屋の片隅に落ちてて、それより三つ年上の子がそのうんちを握りしめてた……その光景を見た独身男や独身女は『結婚なんてするもんじゃないわね』と思うという、育児の現実なんてのは、俺の聞く限りそんなものらしいぞ」
『なんだよ、それ』
鼻をかむ音が聞こえたのち、今度はレオンも笑っていた。
『とにかくさ、君貴が早くうちに来てくれるとしたら、僕も嬉しい。あと、マキもさ……おまえと違って僕がヒス起こしたあと、どうしていいかわかんなかったと思うんだ。腫れ物でも触るみたいに接してくるようなところがあったから、僕はそのこともイラッときて、思いっきりドアをバタンと閉めて部屋に閉じこもったことがある。もちろん、あとからちゃんとあやまったよ。マキは優しいからすぐ許してくれたし、「むしろもっと早くにこういうことがあって不思議じゃないのに、わたしのほうこそごめんなさい」なんて言うんだ。僕はね……これはあくまで僕個人の問題だし、何よりマークがもしあんなことさえしてなかったら、貴史にも怒鳴ってないし、マキともぎくしゃくしないで済んだと思ってるんだ。だからといってもちろん、マークのせいってわけでもないんだけど……』
レオンは、ここで一度言葉を切ると、無意識のうちにも重い溜息を着くようにして、話を続けた。
『これはね、あくまで僕の勝手な推測だから、本当の理由なんてものは、当然マークにしかわからないことではある。だけど彼もね、たぶんちょっと理想的な人間をやりすぎたところがあったんじゃないかって気がする。奥さんにとっての良き夫であり、五人の子供の理想の父親……もちろん家族はみんなマークのことを愛してた。だけど、自分の過去をさらして、他の自分と同じ目に遭った子供たちのことをも救おう――なんていうのは、僕はちょっとやりすぎだと思ってた。なんでって、そういう子たちの相談に熱心にのるってことは、取りも直さず自分の過去と向き合い続けることだからだよ。でも、マークはもしかしたら、自分はもうすっかり立ち直ったんだと、錯覚してしまったのかもしれない。これは僕もそうだけど……そのくらいのことをしないと自分には生きている価値がないとか、そのくらい理想的な人間をやって初めて自分は生きていてもいいんだとか、そんなふうに彼も思うところがあったのかもしれない。とにかくね、僕にとってマークはずっと希望の星だった。そして、彼がつらい過去を乗り越えて、幸せに輝いていてくれる限り……僕もまだ生きていていいんじゃないかって、ずっとそんなふうに思ってたんだ』
その心の支えが崩れ去った……レオンが言いたかったのは、つまりはそうしたことなのだと、この時君貴も初めて理解した。そして、この重い事実を前に、君貴をして、初めてレオンとどう接すべきなのかがわからなくなってもいたのである。
『だから、逆にいうと……マークも僕に対して同じことを思ってるかもしれないと思うところが僕にはあったんだ。あいつもプロのピアニストとして頑張ってるから、俺もロックバンドで頑張ろうみたいに、マークのほうでも思うことがあったんじゃないかって。実際、彼も言ってたよ。ショパン・コンクールの模様をテレビで見ていて、ずっと泣きっぱなしだったって。だから、僕は自分が死ぬということは、マークをも自殺の道に誘いこむことになるんじゃないかと思って、ギリギリのところで思い留まったことがある。理屈じゃないんだよ。昔あったことの記憶のブラックボックスの蓋がズレると、意味もなく突然叫びだしたくなったり、物を目茶苦茶に壊したいっていう衝動に駆られたりするんだ。それが同じように自殺っていう衝動に変わると、もうほとんど発作的になる。それですべて終わりに出来ると思ったら――死ぬ瞬間の痛みや苦しみなんて、そう大したことじゃないとしか思えなくなるんだ』
「レオン、おまえ……」
『ああ、心配しなくていいよ、君貴は。マークの自殺をきっかけに、僕もおかしくなるんじゃないかなんて、心配しなくていい。とにかく僕には今、生きる希望がある。おまえとマキと、貴史と……何より生まれてくる子供の命のことを思えば、まだ当分の間は死ねないさ』
レオンのこの言葉を聞いて、君貴はとりあえずほっとした。何より、今日明日、突然彼がどうにかなるということはないだろう。とはいえ、いつものように二、三日一緒にいるというのではなく、君貴としてはレオンとマキの生活の様子を暫く見守りたい気持ちがあった。
だが、スケジュール帳を見る限り、敏腕秘書の岡田でさえ、東京に四、五日なり一週間、あるいは十日いるなど、ほとんど不可能としか思えないくらい、この先暫くの間仕事の予定が詰まっている。
『わかってるよ、君貴。おまえの気持ちは……僕の感情が不安定だから、早くこっちに来て、マキと僕の様子を少し見たほうがいいと思ってるんだろ?だけど、今はまた昔と状況が変わったものな。何分、建築物ってやつは、ひとつ何かが建て上がる際に物凄く時間がかかるから……で、その間にも人気建築デザイナーであるおまえの元には、デザインを頼みたいって依頼が次々入る。実際のところ君貴、仕事のしすぎなんじゃない?昔はただ僕の我が儘で、おまえと一緒にいたくて、もっと仕事減らせないのって言ったこともあるけど……今はさ、そういうことじゃなく純粋におまえのことが心配なんだよ。これはマキもよくそう言ってる』
「そっか。まあ、俺から仕事を取ったら何分他に何も残らんもんでな。俺もレオンみたいに父性や母性がバランスよくあって、子供のために仕事を減らして家庭にいよう……みたいな人間だったら良かったんだがな。けどまあ、忙しいうちが花ってよく言うだろ?一度どこかでコケたら、俺の会社だってドミノ倒し的に仕事なんかぱったりなくなるかもしれないんだ。一応百名以上もいる部下どもを養っていくためにも、仕事の依頼があるうちはもう暫くの間は頑張りたいというかな」
『四十歳の建築家って言ったら、一番仕事のノリがいい時期ってことなのかな。僕には、君貴のいる建築業界のことはよくわかんないけど……なんにしても、東京上空を通過するような時には、必ずうちに来てよ。っていうか、おまえが金だして買ったところだけどさ』
「それは関係ないだろ。レオンだって、もっといいところに移りたいと思ったら、自分でそこ以上のところを余裕で買える金なんかいくらでも持ってるんだから。それよりおまえ、本当に大丈夫なんだろうな?」
『うん……っていうか、今君貴に色々話したら、かなりのところ胸のつかえが下りてラクになったよ。ありがと、君貴』
「じゃあまた、近いうちにな。あと、マキに妊娠おめでとうって言っておいてくれ」
――とりあえず電話を切ったものの、君貴はレオンのことを思うと、深い溜息が洩れた。彼としては子供は貴史がひとりいれば十分なので、レオンの子である可能性がなかったとすれば、マキの妊娠を果たして喜んだかどうかはわからない。けれど、レオンの今の精神状態のことを思うと……マキの妊娠が本当にありがたかった。そして、青い瞳のぱっちりした目の赤ん坊が約七か月後に生まれてきてくれたとすれば――君貴としても完全に安心だった。その時、レオンはきっと狂喜し、マーク・クォーターランドの死の影のことなど払拭されてしまうに違いない。
>>続く。