宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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真実のすがた

2010-12-09 15:20:55 | 祈り
祈りというものを、何か一つのかたちに入らないといけないものと

考えたり、勘ちがいをしている人々が、多いようであります。


 祈りというものは、かたちではありません。では、なぜかたちが

あるかといえば、神様のみこころのなかに入りやすいように、

ある一つのきまったかたちを、みんなでとるということだけで

ありまして、常住坐臥、どんな時にもからだ中で祈っているというのが

本当の姿なのであります。


 歩いている時も、すわっている時も、食べている時も、

のんでいる時も祈っているのであります。

 祈って祈って祈り抜いているすがた、愛と光にかがやいている

すがた、そうして、光をふりまいているすがた、これが、人間の真実の

すがたなのであります。


 迷いもまどいもない神界にある人間は、このことを知っているので

あります。又、私どもの霊体は、守護霊守護神は、このことをよく

知って、真実の祈りへと私どもをみちびいているのであります。


 私どもは、このことを心にとめて、真実の祈りが、何物にも

とらわれぬものであることを識って、神への道しるべである世界平和の

祈りをささげてまいりましょう。

ひかるいのち

2010-12-09 15:13:11 | 祈り
 人間の生き方、生かされ方とは、実にさまざまであります。

 私どもが、外からみておりまして、あああんなに辛い

苦しいことばかり続いたら、さぞかし大変だろうと思って

おりましても、或る時、その辛がり、苦しがる筈の人の

あたたかいほほえみや、澄んだ眼に出会って、どきっと

することがあります。


 人間の貧しい想像と申しますか、イメージのなかで、

私どもは、その人の「心」をもわかったつもりになって、

或る種の色眼鏡でその人をみているのでありますが、

当のご本人は、そうしたまわりの勝手な思い込みには

関係なく、その人の真実の相をみせてくれているという

ことが、できるのであります。


 こういう人に出会いますと、私達が、真実に生きる、

生かされるとはどういうことかと、自分の心をたずねている

自分に気付くのでありますが、はっきり申し上げられます

ことは、生かされ方は、全くみごとに神様の愛によって

さまざまであるということであります。


私どもの貧しい予測を超えたところで、人間の心が澄み

清まり、生き生きしている、生き生きする瞬間を味わって、

自分を愛し、人を愛する方向へみちびかれるという事実の

前に、私どもは深く頭をたれるのであります。


 一切宗教というものを知らない、どこの信者でもない。

 けれども、私どもからみますと、まっすぐに本心の光を

かがやかせて、いのちの光のながれくるままに生きている

尊い人々が、多く存在されているのであります。


 これは、当然のことでありまして、誰もが神様の分霊、

分生命としての光の子なのでありますから、その人が、

この現世で、宗教というものにつながろうとつながるまいと、

神様の方で、その人をとおして、光をかがやかしておられる

のであります。


 私は、こういう人に出会う度に合掌し、礼拝し、祈りを

深めてゆくこと、自らをかえりみて、愛深い人間で

あることを、こころあらたに願い祈って参るのであります。

 そうして神様の御愛の深さ、ご計画の深さをことほぐ

のであります。

無 題

2010-12-09 15:10:31 | 祈り
自由自在な

神のこころは

そのまま

人の身とこころに

うつされているのです


このことを

おもうと

深い深い神の慈愛が

私をつらぬいて

ただ涙ぐむばかりです


一番の行はなんでしょうか

山にこもること

断食をすること

ちがいます

感謝の祈りを

ささげることです

ただ感謝だけが

身も心も

つらぬいてゆくとき

私達は

むげの

神の光を受けるのです

その光の一筋と

化して

ゆくのです


何に出会っても

ありがとうございます

神様

ありがとうございます



いえたら

すばらしいことです

そうでしょう

これは

夢物語じゃない、だって

人間の本体は

そうつくられているんだから


だから

本体さん

本体さん

出ておいで

守護霊さん

守護神さん

お願いします

とよびかけながら

いやなおもいをしたら

すぐ

平和の祈り

辛いことに出会ったら

五井先生


呼んで呼んで

神様の祈りの階段を

上ってゆきましょう

光となるために

ほがらかな

神のいのちと

なるために