宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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神の愛を感じて生きている

2010-12-23 13:47:23 | 祈り
 自分を知ってくれ、理解してくれている人に

出合うと、本当にうれしいものだ。そういう人には

中々出合えないからね、ところが、神様は、実に

私達一人一人のことを、よく理解して下さって

いるのだよ。

 私は瞬々刻々、その神の愛を感じて生きている。

いのり

2010-12-23 13:42:40 | 祈り
 祈りというのはどういうものかというのは、

考えれば考える程わからなくなる。まじめな信者さん

である程そういう質問をよく受けます。

 そういう人ほど良心的で考え込んでしまって、

自分が出来ていないのに人に薦める訳にはいかない

とか、共に祈るような資格は私にはないんじゃないかとか。

 そうなるとちょっとノイローゼに近い位に悩み込んで

しまっている。


 祈りというものは、神様と私の対話なのです。と同時に、

世界人類と私の祈りでもあります。

 この場合の世界人類というのは、地球の世界人類だけ

ではなくて、宇宙全体の宇宙の星の兄弟たちとの

一人一人との、その交信も含みますね。

 ですから、真に広い幅になる訳です。そこまで考えていくと、

私共の世界人類が平和でありますようにという祈りというのは、

非常に大きいし深い。

 そして、自分が出来るか出来ないかということではなくて、

もう向こうの方で抱きとってもらってる訳なんですね。

 ですから、何も考えずに祈るというのが一番いい訳

なのです。四の五の言ってる間は理屈なんです。

 祈りというのは理屈を超えたものなんです。


 そんなこと言ったって祈れませんという時は、

祈れなくていいのです。集会に行きたくないのに

無理に集会に行ったり、何か行事があるから絶対に

人数がいるからといって集めたって、それはどうにも

ならないんです。その人の気持ちがどうにも向かない

という時に、無理に薦めたってそれは萎びるだけなんです。

 本体と肉体は違う訳だから、本体は行きたければ、

さっさと霊体が行っちゃってる訳です。

 自分の肉体がどうであれ、霊体は行って統一会に出たり

などしている訳ですから、そこまで我々の肉体人間が

神経質になることはないんです。


 ですから、真面目な人ほど色々色々考えるけれども、

しかし、そうじゃなくて、もう一回、子供みたいに

無邪気になって、世界人類が平和でありますように

という風に祈る。祈って任せる。

 そこからでないと我々の道というのは開いていかない。

 そういう風に思います。

               五井 昌久

宝について

2010-12-23 13:25:47 | 祈り
 私のところへ色んな人が来ます。まあこういう言い方をすると

誤解する人もあるかもしれないけれども、地位のある人も来るし、

お金を持ってる人も来るし、社会的に名誉をもってる人にも会った

ことはあるし、かと思うと、その日をどうやってお米代を出そうか

といって悩んでる悲しんでる人も来ましたし、未だに色んな人の

姿をこちらから見ておりますが、つくづく思う事は、余分なものを

持たないことの清しさ。


 ところが、人間というのは余分なものを持ちたくなる。で又、

持ちたいと想う時、持たされている時というのは、余分なものだ

とは思わないですね。

 例えば、会社に勤めていて、月給が上がっていく。上がっていく

ことはそれで生活が楽になってくる事だから、それは安心立命の元

なんで、良かったですね、としか言い様がない。

 普通ならばそうなんだけれども、段々段々10万円で生活して

いたものが20万になって、20万円で生活していたんが30万に

なっていくと、これは、30万の生活に慣れると、今度逆に、

20万にする10万にするというのは非常に難しいんですね。


 今までの生活の習慣といいますか、これだけの経済で

これだけの事をやっていくというのが、もう多ければ多いことに

慣れているから、それを減らしてやっていくというのは、何か

自分の立場とか自尊心とか、今までの経歴とかいうものも全部

否定されるような気になる。

 だから、なかなか諦めていくということは難しい。経済一つ

とっても、人間というのはなかなか不自由に出来ているんです。


 たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲とあってですね。

 悪い欲というととらわれているみたいだけれども。

 何が何でもお金が欲しい地位が欲しい名誉が欲しいというので、

ガリガリ亡者の様に、そういう気持ちでものを求めていって

手にしている人というのを見ると、中身がカラッポと申しますか、

外見だけ色々あるんだけれども、中身が非常に空虚な

感じがする。物質的に色々持っていても何か非常に虚しい。

 何によってこの人の心は救われていくんだろうかと気になる。


 そういう事をつくづく考えてみると、人間がどういう時に一番

自由になるんだろうか、どういう時に朗らかになるんだろうか

ということになると、自分を忘れている時ですね。

 自分が何処に属していて、どういう給料をもらっていて、

あるいは今どういう立場で、どういう顔して生きていくか、生きて

いかなきゃいけないか、そういう色んな煩いを忘れていって、

そして、本当に赤児の様な本当の自分の顔を出してる、

その一瞬の時に人間というのは救われていく訳ですね。


 それは別に、宗教を持ってるもってないに関わりなく

そうなんです。私共はそういう我を忘れた本来の自分の素顔、

ふっと出すその素顔が、5分でも10分でも15分でも

長続きをして、自分も人も良くなっていくように祈っていく。

 光が満ちてく様に祈っていく、想いや願いではなく、そこへ

祈りが加わって、ついには祈りによって、自分も人も皆が救われて

いくといいますかね、そういう大きな愛情に包まれる。そこを

目指す訳なんですね。


 だから、実は、そういう風にして空になって無になって、

そこも突き抜けていきますと、本当に人間というのは、先程から

言ってるように、自由になって解き放たれる。その時に、人間

というのは何も持っていないようだけれども、実は身も心も

突き抜けて、一番の宝物を持ってることになる、それは何か

というと、何ものにも煩わされない、何ものにも強制されない

自分自身というのがそこへ素直に出せる。

 その時に人間というのは一番安心するんです。


 それは私の方から言いますと、神様の愛というものを知って、

神様の自分が子供であるということを知って、神様が全部知って

下すってるそのふるさとへ帰って、ふっと安らぐ時に、人間

というのは一番安心するんです。そいういう風に人間というのは

出来てるもんなんです。




 神様というのは我々のふるさとだから、別に宗教でなくても、

芸術であっても何であってもとに角人間というのは、

そのふるさとを目指して歩いている旅人みたいなものですから、

そこへ我々は、どんな形であっても、その人達を連れて行きたいと

思う訳です。


 自分の中にある宝というものを持ち腐れにしないで、その宝を

確認して祈ってやっていくと、益々自分自身も張り切ることが

出来るし、輝くことが出来るし、まわりも喜ぶことが出来る。


 これはもう、自分も他人も両方の成道なんでしてね。道が

成っていくのであります。ですから、そこをすべての宗教家は

目指しましたし、私自身もそれを目指して今までやって来ている

訳だし、これからもやっていく訳であります。

 その為に、世界人類が平和でありますようにという祈りは、

誠に絶大な力を発揮する訳でありまして、唯無心にこの祈りを

唱えて、そうして神様に任せていく。その時に本当に自分自身が

自分自身として生きる。

 その喜びの瞬間というものを取り戻すことが出来る。そうして、

それがずっと続いていくと、やがて道がついていって、自分も

知らない間に、あーこんな所まで来てしまったかというような所

まで、神様というのは連れていって下さる。

 そういう事を信じて、そうして謙虚になって、この祈りを

唱えていきたいものだと思います。