祈りというのはどういうものかというのは、
考えれば考える程わからなくなる。まじめな信者さん
である程そういう質問をよく受けます。
そういう人ほど良心的で考え込んでしまって、
自分が出来ていないのに人に薦める訳にはいかない
とか、共に祈るような資格は私にはないんじゃないかとか。
そうなるとちょっとノイローゼに近い位に悩み込んで
しまっている。
祈りというものは、神様と私の対話なのです。と同時に、
世界人類と私の祈りでもあります。
この場合の世界人類というのは、地球の世界人類だけ
ではなくて、宇宙全体の宇宙の星の兄弟たちとの
一人一人との、その交信も含みますね。
ですから、真に広い幅になる訳です。そこまで考えていくと、
私共の世界人類が平和でありますようにという祈りというのは、
非常に大きいし深い。
そして、自分が出来るか出来ないかということではなくて、
もう向こうの方で抱きとってもらってる訳なんですね。
ですから、何も考えずに祈るというのが一番いい訳
なのです。四の五の言ってる間は理屈なんです。
祈りというのは理屈を超えたものなんです。
そんなこと言ったって祈れませんという時は、
祈れなくていいのです。集会に行きたくないのに
無理に集会に行ったり、何か行事があるから絶対に
人数がいるからといって集めたって、それはどうにも
ならないんです。その人の気持ちがどうにも向かない
という時に、無理に薦めたってそれは萎びるだけなんです。
本体と肉体は違う訳だから、本体は行きたければ、
さっさと霊体が行っちゃってる訳です。
自分の肉体がどうであれ、霊体は行って統一会に出たり
などしている訳ですから、そこまで我々の肉体人間が
神経質になることはないんです。
ですから、真面目な人ほど色々色々考えるけれども、
しかし、そうじゃなくて、もう一回、子供みたいに
無邪気になって、世界人類が平和でありますように
という風に祈る。祈って任せる。
そこからでないと我々の道というのは開いていかない。
そういう風に思います。
五井 昌久