宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

無 題

2011-01-11 12:05:04 | 祈り
自己本位
という言葉があります
 
人間はいざとなったら
自分を助けることだけで精いっぱいだ
というんですね
なるほど
この世に生きて
毎日毎日時間に追われ
自分の心がどこにあるか
それさえ見失ってしまう
肉体人間の世界では
そうかも知れない
しかし
私がここでいう人間は
そんなちゃちなものじゃないんです
死んだらおしまい
なんていうはかないものじゃないんです
 
自分をしるっていいますけどね
第一自己ってものを
どこまでみなさん突きつめて
毎日生活してますか
自己 自分 私
わたくし自身
このわたくしというものが
何処からきて
何処へ行くのか
というのは
昔々からの大問題ですよね
それは
人が
己れの存在とかいのちについて
考えはじめたときから
ずっとついてまわった問題でしょ
今もそうですよね
自分が何処からきて何処へ帰るんだろう
って
ずっと考えますよね
 
そこで我々は
我々の肉体というものと
死というものに
ぶちあたらないではいられないのです
死というものを考えたときに
はたと
自分のおもいがとまってしまう
とめられてしまうんですね
なぜか
それは
自分というものが
死をむかえた時点で
この世から消えてゆかなくてはならない
という何とも知れないこわさに
ぶちあたるからなんです
 
自分という人間が消える
いなくなる
これは恐怖ですよね
何ともいえない気持ちになる 
それで永遠なるものを求めて
神とか仏とかをみんな呼び求めるわけです

何でこういう気持ちになるか
というと
肉体を自分自身だ
すなわち
自分自身だと思いちがいをしている
ところから起こってるんですね
 
実は
肉体というのは
狭いせまい箱なんです
もっと自由自在な自分
というものは
肉体のもっと奥の奥にあるんです
私がいつも申しますように
人間には霊妙な身体が
いくつもいくつもかさなっているんです
 
人が
現在この地上で生きるために
まとっているのが肉体だということで
あってですね
たまたま、五感でとらえられるのが肉体だ
というだけの話なんです
こんな風にいうと
先生はこの世の生活を軽くみているんじゃあ
ないか
とおもう人も出てきそうだけども
そうではなくってね、そりゃあこの世に
生きてる間、肉体を軽蔑しちゃあ
駄目ですよ
何ったってやっぱり地上にいる間は大事に
しなきゃね
それで生きてるんですから
 
ただ私がいいたいのは
肉体だけが人間で、肉体がある間だけが
人間のいのちじゃないっていうんです
もしそうだったら
神も仏も大自然もこの宇宙も
もろもろのいのちの営みは
とても狭くるしいもろいものになって
しまう
だけどそんなものじゃないんです
 
真実の人間というのは
この地上にいて、神霊幽界に同時に
存在してるんです
そしてつねに祈っている
光を放っている
神からくる光をながしている
そういうすごい存在なんです
ずっとつらぬいて生きるいのち
なんですね
つまり
我々は神からわかれてきたいのちであり
霊なんです
もとはそうなんです
だから
人間というものを本当に突きつめてゆくと
虚無になるんじゃなくって
自由自在、無碍になるんです
何しろ大元の大愛までさかのぼるんですから
大変なものなんです

こういうことがわかると
もうずっと安心して
世界平和の祈りと消えてゆく姿でね
五井先生の口笛と 
柏手にのって
自分自身をつねに祈らせて下さい
役立たせて下さい
と祈ってゆくと
どんどん
自分自身が大きくなって
朗らかになって
守護霊
守護神の守りのもとに
大きく深い働きが
出来てゆくようになるんです 
 
よろしゅうございますか
それではどうもありがとうございました
      

無 題

2011-01-11 12:02:19 | 祈り
明るく
朗らかに
自分を
解き放ってゆく


やがて
神の愛へと
たどりつく
よろこばないでは
いられない
生命(いのち)が
私のなかに
いきづいている

本当の人間

2011-01-11 11:58:23 | 祈り
人間とは何か・・・

誠実に生きてくればくるほど

みんなこの質問の前に一度や二度は

立ちつくします


自分の心のなかに

いくつもの自分の想いがあって

どれが自分なのだか

わけがわからなくなってしまう

そのうち

人間というものも

何なのかわからなくなる

自分というものを

問いつめてゆくこと

それが

とりもなおさず

人間について

考えてゆくこと

なのであります


しかし

迷ったり

悩んだり

かなしんだりする

そのなかを

グルグル廻っている

それが人間だという理解で

人間をとらえていきますと

かならず

行きづまってしまうのであります


こんなものじゃない筈だ

と思ったりする

感情の世界

自分が了解している範囲内で

人間をとらえていくということは

ある限定のなかで

自分自身をとらえる

ということになるのであります


そうではなく

人間というものは

無限定の世界から

みつめたときに

はじめてその本質が

あらわれてくるものなのであります


自由自在身

本心と本心が呼び合い

光と光が結び合う

かたちが必要なときには

かたちとなり

おもいを流すことが必要なときには

おもいを流してゆく

そういう自在さを

人間は本来

持っているものなのであります


人間は神の分生命(わけいのち)であり

分霊(わけみたま)である

ということはしばしば

申し上げているところでありますが

それは

無限定の神の大愛から

わかれてきた存在である

ということなのであります


あるがままにあることが

すなわち

光となり

愛となる存在

それが

神の愛

智慧であります

真理であり

真善美の世界であります

何をおもうということもなく

成すということもなく

そのままにあることが

いのちすこやかに生きる

ということになるのであります

朗らかに天のこころに従って

生きること

これが無為であります


自分自身を解放すればするだけ

人間は自らのいのちの流れに

すなおに

生きることになるのであります


自分自身を

本当にしってゆくには

どうすればよいか

何をすれば

真実の人間のすがたを

みることが

できるようになるか

と申しますと

それは祈りであります

人間は

祈って参りますときに

真実の自己に出合うのであります


悩みなら悩みをかかえたままで

苦しみなら苦しみをかかえたままでいいから

真実祈りに入ってゆきますと

朗らかな自分自身

すなわち

本心が

ひらいてゆくのであります


人間は

神の愛が

光となり霊となって

その肉体に息吹きとして

吹き込まれたものであります

肉体は

この地球世界を

浄化してゆくために

仮に身にまとった

衣にすぎないもので

祈りに入ってゆきますと

自分を生かして下さっている

光のいのち

霊なるいのち

愛なるいのちである

神へと

かえってゆくことになるのであります


世界平和の祈りを唱えますと

私どもはかならず

この

私どものたましいを

やすませいこわせる

私どもの家、ふるさとに帰ってゆくので

ありますから

本当にこころがやすらぎ

しみじみとよろこびが

湧き上がってくるのであります

それはまったく

自然(じねん)なことでありまして

人間というものは

よろこぶようにつくられており

祈りによって光がつよまり

深くなり私ども自身の

ありどころが

神であることを

しらされるように

なっているのであります


だから

祈るということは

つねに

自分の家を

おもい出し

確認するということに

他ならないのであります

そして

自分自身の本体の朗らかさを

しらされてゆくことに

他ならないのであります


人間として生きるということは

本来

神から分けられたよろこびのいのちを

うたい上げてゆく

ということでありまして

我々の奥にある自在身は

いつも

直霊の自分自身と結びついて

光のながれのなかに

身を任せているのであります


かなしみの裡にも光はあるのであります

我々の心が

どんな歎きに直面して

もだえておりましても

しずかに

光というものは

我々を守り導いているものなのであります


光は絶えざる神の愛であり

愛はすべてをつつみすべてを溶かして

ゆくものでありますから

ただ一つ残ったものは神の愛

というこの事実にむかって

我々は歩いてゆくのであります


肉体をまとい、この世に生きることで

味わう苦しみはすべて

我々の人生を深くするものではあっても

それらは、この現し世にとどまる

ものではなく、人間というものが本来

宇宙大にもひろがって本心の光

神の光とともにあり、その光のみが愛のみが

実は私たちいのちを養い私たちの裡に

とどまっているのだ

ということに気づかされるとき

人間というものは

本当に自由になってゆくのであります

そして人間のすがたというものも

みえてくるのであります


どんなにかなしんでいても

光が裡にある

ということは

人間というもののいのちの根が

明るく朗らかな

本心によって

つくられている

ということなのであります


この宇宙に

神の愛の気が流れている

それとおなじように

我々人間もまた

小宇宙として

世界平和の祈りのなかで

絶えず

光を放ってゆく存在者

なのであります