(前日からの続き)
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
てんちをすべるは、たそ
というこえをきけば、
ほしはほほえみてあいをちになげ、
ひとのこころのすがたをかたりて
やまず
この天地、あめつちのすべて、すべてを
統(お)さめていらっしゃるのはどなた
でしょうと、問いかけ、これは、人間からの
問いかけですよ。
問いかけを耳にした星は、にっこりして
人の心の真実の相について語りはじめた、
それは、倦(う)むことなく
語りつづけられた…という意味です。
ここでは、人の心というものに主眼を
おいています。
この天地すべてを治めておられるのは
どなたなんだろう、こういう人間の
呟(つぶや)きがきこえてきた時、星が、
地上に投げたものは愛だったというのです。
神様という言葉を、ここでは使って
おりませんけれど、愛を投げた、しかも、
にっこり笑って投げたということで、この愛が、
神様の愛だということをあらわして
いるわけです。
いつも申しますように、神様という方を、
別の言葉におきかえるとすれば、それは
極みのない愛なのです。
徹底した愛なのです。
その神の愛を地にふりそそいで、そうして
人の心、本心の姿というものについて、
倦(う)むことなく語りつづけたところですね。
人の心が、神の愛をあらわす主体である
ことをここでいいたいのであります。
心をさかのぼれば、本心、本体になってゆく
のであります。
すなわちきかずや、その
じっそうはかみの
あいじにして、こうげんは
うちゅうにきし、
えいえんのいのちは
おのれにおうかんす
さあききなさい、と、こううながしている
わけですよ。
人間の心、本心というものの真実、それに
人間というものは、神様のいとし児なんだ
ということね。
人間っていうのは、神からきて、神に帰る
いのちですからね。
よく帰命(きみょう)帰命っていうけども、
帰命ってのは、これをあらわした言葉なんです。
もっというと、神様から分かれてきた人間は、
我々自身のなかに神そのものの愛とゆるしと
智恵を、持ってるわけなんです。
本当に神の子なんです。
ですから、自分をみがいてみがいて、
祈って祈って、心を澄ませてゆけばね。
人智ではない神智がかがやきとともにあらわれ
出るんですよ。
その神様の光でもって、人間は、いのちを
養ってるんです。
その光は、どこまでたずねることが
出来るかっていえば、勿論神様ですけど、
それをここでは、愛の気、平和の気、世界人類が
平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねる
ことができる、源は宇宙から来てるって
いってるんです。
そうして、その光の源、いいかえれば、
永遠のいのち、生命(せいめい)はですね、
もうすでに、一人の人間のなかに自由に
内包(ほう)されて、ぐるぐるとまわって、
幾万世代にもわたっていのちというものの
場所になってる。
それが、この器である人間の肉体であり、また、
人間それ自身の真性なんだ。
自在な、いのちのなかに、人間は遊んでるんだ。
それが、人間の本来の相であり、肉体人間を
生かしている直霊、本心の真実の相なんだと
こういうことです。
(つづく)
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
てんちをすべるは、たそ
というこえをきけば、
ほしはほほえみてあいをちになげ、
ひとのこころのすがたをかたりて
やまず
この天地、あめつちのすべて、すべてを
統(お)さめていらっしゃるのはどなた
でしょうと、問いかけ、これは、人間からの
問いかけですよ。
問いかけを耳にした星は、にっこりして
人の心の真実の相について語りはじめた、
それは、倦(う)むことなく
語りつづけられた…という意味です。
ここでは、人の心というものに主眼を
おいています。
この天地すべてを治めておられるのは
どなたなんだろう、こういう人間の
呟(つぶや)きがきこえてきた時、星が、
地上に投げたものは愛だったというのです。
神様という言葉を、ここでは使って
おりませんけれど、愛を投げた、しかも、
にっこり笑って投げたということで、この愛が、
神様の愛だということをあらわして
いるわけです。
いつも申しますように、神様という方を、
別の言葉におきかえるとすれば、それは
極みのない愛なのです。
徹底した愛なのです。
その神の愛を地にふりそそいで、そうして
人の心、本心の姿というものについて、
倦(う)むことなく語りつづけたところですね。
人の心が、神の愛をあらわす主体である
ことをここでいいたいのであります。
心をさかのぼれば、本心、本体になってゆく
のであります。
すなわちきかずや、その
じっそうはかみの
あいじにして、こうげんは
うちゅうにきし、
えいえんのいのちは
おのれにおうかんす
さあききなさい、と、こううながしている
わけですよ。
人間の心、本心というものの真実、それに
人間というものは、神様のいとし児なんだ
ということね。
人間っていうのは、神からきて、神に帰る
いのちですからね。
よく帰命(きみょう)帰命っていうけども、
帰命ってのは、これをあらわした言葉なんです。
もっというと、神様から分かれてきた人間は、
我々自身のなかに神そのものの愛とゆるしと
智恵を、持ってるわけなんです。
本当に神の子なんです。
ですから、自分をみがいてみがいて、
祈って祈って、心を澄ませてゆけばね。
人智ではない神智がかがやきとともにあらわれ
出るんですよ。
その神様の光でもって、人間は、いのちを
養ってるんです。
その光は、どこまでたずねることが
出来るかっていえば、勿論神様ですけど、
それをここでは、愛の気、平和の気、世界人類が
平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねる
ことができる、源は宇宙から来てるって
いってるんです。
そうして、その光の源、いいかえれば、
永遠のいのち、生命(せいめい)はですね、
もうすでに、一人の人間のなかに自由に
内包(ほう)されて、ぐるぐるとまわって、
幾万世代にもわたっていのちというものの
場所になってる。
それが、この器である人間の肉体であり、また、
人間それ自身の真性なんだ。
自在な、いのちのなかに、人間は遊んでるんだ。
それが、人間の本来の相であり、肉体人間を
生かしている直霊、本心の真実の相なんだと
こういうことです。
(つづく)