宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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偶々成詩献友(3)

2021-11-15 08:18:49 | 祈り
  (前日からの続き)
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳



すでにあいにみちたるせかい
としりてた ⦅足⦆ らい、
こころこそてんちとわれは
ほがらかにうたわん



こうやって、人間、またこの世界という
ものの実相を内観してきますと、もう愛で
満ちている。
あふれている。
こういうことがわかってきますと、本当に
満足するんです。
嬉しさでいっぱいになってくる。
そうでしょう?
そこで、自分自身を生かして下さっている
心-本心ですよね、本心こそ、自由の天地
だと高らかに唱いましょう、というんです。
さしずめここは、ベートーベンの歓喜。
合唱にあたる部分ですね。



じんかんのむをこえくうを
はなれて、
いのりをささげ、おのずから
ひかりをはなつことをもわする。
ぼうぼうくうくうしかれども
きょ ⦅虚⦆ ならず



さあそうなってくると、人間という
ものはですね、もう本体だけ、光だけに
なってるんですよ。
無とか空を超えちゃって、はなれて本当に
自由になって、ただ、神様と一体になって、
祈りをささげている。
もう自分のからだから、すばらしい光が出てる
ということも忘れている。
忘れているというよりね、もうそれはどっちでも
いいんだということになる。
そんなことどっちだっていいんです、全く我(が)
というものをはなれた、輝きにかがやいた
そういう人間の本当の姿があるんです。
それは、ひろびろとしてね、ひろやかに
なって、何にもとらわれるものがないという
そういう状態なんで、決して、うつろな、
むなしい状態じゃないと、こういうことですね。
祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる、
それほどに、神様と一体になっていると
そういうことです。



くおんのながれにみをまかせて、
たいがとなる。
たいがしょうがを
いだきてすなわちひとつ。
いのちは、たいしょに、ひとを
はこびゆけば、
そのながれはゆうゆうとして、
たいがのごとし



で、こういう私たち、すみきわまった人間
というものは、久遠の神様の愛の流れへと
身をまかせて、宇宙そのものになると
いうんです。
宇宙というものは、もう何物をも呑み込ん
でしまう。
とらわれにみちた肉体我といったものも、
全部抱きとって、宇宙そのものとなった
自分自身があるだけだ、つまりは、限りなく
一つとなるのだ、ということです。
これは、神と一つということでもありますし、
直霊と一つになるということもありますが、
さらに、宇宙神が、混沌のなかから、愛の気を
みたして宇宙をつくられた、そのおおもと
である一に帰る、つまり、いのちに帰るのだ
ということであります。
いのちというもののはじまりに、祈りは、
世界平和の祈りは、こうして、私どもを運んで
ゆくのでありまして、この祈りによって、
いのちの流れのなかに溶け込みますとき、
全くその流れが、大河のようにゆったりと
おおらかな朗らかなものであることを、
私どもは知るのであります。



しんりょはあいにして、じん、
みらい、ざい。
やむことなくひとをひかりの
おくにいこわせん。
じざいなるいのちよ。かんきの
こえをてんにいたらしめ、
われひとともに、
とこしえなるじゆうしん、を
うたわん



神様の心というものは、未来永劫、ずっと
愛なんだということですよね、そうして、
つねに、一人びとりを、ひかりの家にみちびいて
休ませているということです。
自在なるいのちよ、これは、自分への
語りかけです。
よろこびの声を天に到らせて、私も、
天地の霊人たちも、ともどもに、この
朗らかな自由身、自在身のよろこびを
うたおうではないか…
と、ざっといいますと、こういう詩なんです。
これは、真実の相であって、しかも、我々は
毎日の生活に疲れ果てているけれども、
ひとたび、世界平和の祈り言を唱えて祈って
ゆけば、こうした真実の本来の自分に
出会えるんだということなんです。
自分自身に出会うために祈りはあるんです。
その自分というのは、朗らかな神のいのち、大我、
宇宙そのものであるということなのであります。
        昭和62年3月6日 夜
           「偶々成詩献友」の稿 終了