(前日からの続き)
ところが、やっぱり人間というのは弱い
でしょう。
斉藤さんが、おれがおれがという
そのがを取ってと書いたでしょ。
そのが(我)を取ってというけども、
なかなか我というものはなくならないん
ですよ。
だから、世界平和の祈りがある。
その我をもって、すいません任せ切れ
ない私ですけれども、どうぞ世界平和の
祈りの中で、祈りのエレベーターの中で、
五井先生の柏手によって口笛によって、
あるいは霊団の皆さんの光によって、
神様の愛によって、そうして、この我を
少しでも少なくして下さい、消して下さい
と言って祈る。
その時には、少なくして欲しいと想って
祈っていても、こっちから見ていれば、
もう空っぽになってるんです、皆さんは。
だけども、皆私なんてとか私なんかが
祈ったってとか、そういう想いが
しみついちゃってるからね、だから
できないんですよね。
空っぽになっていると想えないんですね。
昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命
やっている、それというのは、皆がね、
空っぽになってる、つまり、任せて
しまうと器になれるんだということね。
それは、私がやってるとか何とか想って
しまうと、苦しくってなれないんですね。
肉体の人間というものは、余分なものを
地球上に降りてから一杯くっつけちゃった
から、その肉体の人間を自分自身だと
思っている以上はね。
自分の感情の動き快不快だけを自分だと
思ってる以上は、そこへとどまっちゃうんですよ。
それが自分だと思っちゃう。
ところが、神様というのはそうじゃない。
あなた方の生き方とかおもい方とかね、
それから、過去の苦しみとか、全部、歴史
というものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命
そのものを引っぱり出そう引っぱり出そう
と思ってる訳ね。
で、素直にさせよう素直にさせようとね。
苦しいけども行ったらこうなるよという
ことを示しながら、何とか明るい方へ
明るい方へというのが神様なんですよ。
何故かというと、あなた方の元の生命
というのは明るいんだから。
神様が明るい方へ明るい方へ、光明の方へ
光明の方へ、光の方へ光の方へなんです。
だから皆が光の子なんです。
(つづく)
ところが、やっぱり人間というのは弱い
でしょう。
斉藤さんが、おれがおれがという
そのがを取ってと書いたでしょ。
そのが(我)を取ってというけども、
なかなか我というものはなくならないん
ですよ。
だから、世界平和の祈りがある。
その我をもって、すいません任せ切れ
ない私ですけれども、どうぞ世界平和の
祈りの中で、祈りのエレベーターの中で、
五井先生の柏手によって口笛によって、
あるいは霊団の皆さんの光によって、
神様の愛によって、そうして、この我を
少しでも少なくして下さい、消して下さい
と言って祈る。
その時には、少なくして欲しいと想って
祈っていても、こっちから見ていれば、
もう空っぽになってるんです、皆さんは。
だけども、皆私なんてとか私なんかが
祈ったってとか、そういう想いが
しみついちゃってるからね、だから
できないんですよね。
空っぽになっていると想えないんですね。
昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命
やっている、それというのは、皆がね、
空っぽになってる、つまり、任せて
しまうと器になれるんだということね。
それは、私がやってるとか何とか想って
しまうと、苦しくってなれないんですね。
肉体の人間というものは、余分なものを
地球上に降りてから一杯くっつけちゃった
から、その肉体の人間を自分自身だと
思っている以上はね。
自分の感情の動き快不快だけを自分だと
思ってる以上は、そこへとどまっちゃうんですよ。
それが自分だと思っちゃう。
ところが、神様というのはそうじゃない。
あなた方の生き方とかおもい方とかね、
それから、過去の苦しみとか、全部、歴史
というものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命
そのものを引っぱり出そう引っぱり出そう
と思ってる訳ね。
で、素直にさせよう素直にさせようとね。
苦しいけども行ったらこうなるよという
ことを示しながら、何とか明るい方へ
明るい方へというのが神様なんですよ。
何故かというと、あなた方の元の生命
というのは明るいんだから。
神様が明るい方へ明るい方へ、光明の方へ
光明の方へ、光の方へ光の方へなんです。
だから皆が光の子なんです。
(つづく)