宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

短 信(二)

2011-01-27 09:25:43 | 祈り
 お手紙拝致しました。次から次へと御病気にかかられて、気も
弱っていらっしゃることでしょう。けれど、人間は肉体のいのちが
すべてではありません。むしろ、肉体のいのちをやしなって
いるのは、霊であります。神様のいのちであります。肉体は
こういうことを思うと本当に不自由な場ですね。自由自在身、
これが、分生命(わけいのち)、分霊(わけみたま)である人間の
本来なのです。ですから肉体だけのいのちではないということ
なのです。肉体だけのいのちなら、病気をしつづけて、ずっと
あなたのように病院ですごしている人にとって、いのちとは、
何とつまらないものだということになる筈です。
 そうではないのです。すこやかな人も病んでいる人も、神様は
等しくそのいのちを用いられる、各々の光を用いられるのであります。
 ですから、どうぞそのままで心に世界平和の祈りをうかべ、日々、
あなたのいのちをかがやかせて下さい。
                    昌 久

短 信(一)

2011-01-26 09:57:47 | 祈り
 久しくごぶさたしたが元気でやっているかい。

 色々おもいなやむこともあるようだが、神様がすべて

みていて下さるのだ。祈りを忘れないことだよ。

 実際、祈りがすべてなのだ。祈りの他には何もない

といってもいいぐらいなのだ。

 けれども以前よりは短気が治ってきたと嬉しく思っている。

 五井先生だって毎日色々な人に接したからね、いきおい

気が長くなったよ。

 いらいらしなくなったというより、自分の本体を

みちゃったからね、光りかがやく人間の本体をみたら、

とたんにはらを立てるのが馬鹿馬鹿しくなったのだよ。

 だから感情の波がゆれ動いているようにみえても、

私は決してゆるがなかった。

 私の守護霊守護神がしっかりと神に土台をすえて

下さったのだ。

 神からすべては流れている。僕らは生かされている

生命(いのち)なのだ。

 生きている生命とつい信仰をしているんでもおもいがち

だけれど、そうじゃない、徹底して生かされたいのちなのだ。

 生かされているとおもうと、何もかもがありがたく

なってくる。自分に対していやなことをいう相手でさえも

ありがたくなるものだ。なぜなら、自分というもの、我

というものがなくなっているんだから、ね、そうだろう。私

なんかありがたいことだらけだよ、神界にいる今も情けなく

なったり思わず怒鳴りたくなるようなことにも出会うけれど、

それは、いつもいうように、私が怒るんじゃない、みんなの

守護霊、守護神をとおしてのその人への業が五井昌久という

場をかりるだけだ。

 私はみんなの我を預かって、そしてそれを光にして返して

いるんだよ。嫌なこと、辛いこと、そういうみんなの思いが、

つぶてのように私のところに飛んでくる。

 よく目にとまらぬ早技というけれどそんなものじゃない。

 でも、奥の奥のいのちが、光そのものだということを

知っているから、おそれる気持ちなんかないし、いくらでも

いらっしゃい、みんな引き受けましょうということに

なったんだ。これは神様と私との約束事だよ。

 業想念のつよさを私はよく知っている。そして光がそれに

倍してすべてを明るくかえてゆくことを、私は一番知って

いるんだ。

 だから安心している。未来永劫安心しているよ。

 君、人間というのは光だよ。それ以外の何物でもない。

 ただ、だからといって人間の心を粗末にしていいなどとは

いわないよ。

 まだまだ、色々な気持ちも味わい、ゆれ動くことも

多いだろうが、いつも、私が君の側にいることを忘れないで、

日々世界平和の祈りを唱え精進してくれ給え。

                    昌 久



 

 

うちのおばちゃんへ

2011-01-25 13:11:34 | 祈り
 僕が神界に帰ってから、よく心をくだいて昌美のため、

会のために尽くしてくれてありがとう。

 おばちゃんの支えがなければ、みんなここまでやって

こられなかったろう。

 僕が今、自在身を得て、君のことを想うと、つくづく君の

思慮の深さと明るさに救われ支えられた一生だったと思う。

 僕は君に出合って、君によって真実の宗教家としての

自分を育てられたと思う。そして君と出合ったことを、本当に

これは神の愛念だったと深く識る僕なのだ。

 ことに、最後の十年余り、僕は君にだけ、この身に

おそってくる痛みや業想念のものすごさを訴えた。この地上で、

唯一僕が、痛い寂しいということの許されるのが君だった。

 このことを僕はどれだけ感謝したか、又、今もしているか

わかるだろうか。

 人間というものは、どこか一カ所に風穴を持っていなければ、

どんな聖人でも身が持つものではない。まして僕は、五井昌久

という個性をそのまま肉体にのこした宗教者だった。

 僕のいたみ、僕の苦しみは、誰にもわかりはしない。

 ただ地上でそれを知っているのは君だけだ。そうして、その君が

僕の妻であったことを、僕は神慮だったとおもう。

 しみじみと今、僕は君をおもっている。自在身となった僕は

解き放たれた自在身として、一層君のもとに光をおくっている自分に

気付くのだよ。

 どうか元気でいておくれ。風邪などひかないようにして、自分の心を

大事に生きておくれ。僕が地上にいる間、君は君の心を

僕にささげてくれた。今、光となった僕が、君をしっかりと

受けとめる番だ。

 又かくよ。祈っている。
                     昌 久

親しき人々への短信 序

2011-01-24 11:09:55 | 祈り
 ここには、私がかきおくりたいと現在
おもっている親しい諸兄姉への書簡を
あつめてみた。
 プライベートなものも多々ある。けれども
第一通目のおばちゃん(妻美登里)への
書簡をのぞいては個人名を記していない。
 それは、その人への私の心の短信である
という事実と、これを読む人々が、少しでも
勇気づけられることを目ざしているから
なのである。
 大生命の源から分かれた朗らかな光である
人類に対する短信であるといってもいいので
ある。

  昭和62年2月10日
           五井 昌久