ヴァンパイア・サマータイム
石川博品
エンターブレイン
頭の疲れないラノベでも、と思ったもののあまりこの分野に詳しくなく、そしたらこれが面白いと紹介されたサイトがあったのでKindleでダウンロード。
青春ものといってしまえばそれまでのお話し だけど、これうまく工夫していくと、安楽椅子探偵もののバリエーションになるなと気付いた。場所は同じだけど、時間帯が必ず異なって、当人たち同士の物理的接触ができないというのは面白い制約である。
ヴァンパイア・サマータイム
石川博品
エンターブレイン
頭の疲れないラノベでも、と思ったもののあまりこの分野に詳しくなく、そしたらこれが面白いと紹介されたサイトがあったのでKindleでダウンロード。
青春ものといってしまえばそれまでのお話し だけど、これうまく工夫していくと、安楽椅子探偵もののバリエーションになるなと気付いた。場所は同じだけど、時間帯が必ず異なって、当人たち同士の物理的接触ができないというのは面白い制約である。
殺意の風景
宮脇俊三
小学館
鉄道紀行作家の故・宮脇俊三氏の全集が、小学館の電子書籍で月刊形式になって刊行されている。もう1年以上に及んでいて、そろそろ完結しそうな勢いである。
先月は氏の著作群の中でも異色の中の異色「殺意の風景」が登場した。
紀行作家ゆえに氏の著作は、旅行記やエッセイが大部分である。「時刻表昭和史」「私の途中下車人生」のような自伝のようなものもあるが、いずれにせよノンフィクションの世界である。
その中にあって「殺意の風景」だけは小説である。それも泉鏡花賞を受賞している。
ミステリー小説と見なされることが多い本作だが、この見方はちょっと的外れだと思う。どちらかというとこれは心理小説であり、人間の心に忍び込む悪魔の囁きの物語である(巻によっては時刻表トリックなんかもあるが、これは鉄道機構作家として氏を知る読者層のためのファン・サービス的な味付けだと思う)。本来なら誰もが持つはずの、普段は眠っている心の闇が、特異な自然風景の下で、ふと姿を現す。それは、疑心だったり、現実逃避だったり、禁断の好奇心だったり。あるいはこいつなんかいなくなればいいのに、という心理だったり。
その心理変容を、いっそう効果的に描いているのが背景の自然の描写だ。圧巻で威容な大自然の姿が、人の心理を追い込んでいくともいえる。
各巻の出来具合はけっこうばらつきもあるが、暮れゆく断崖絶壁で被害妄想が極大にまで膨れ上がる「潮汐の巻」、アンビバレントな感情と寒々しい光景の対比がめちゃめちゃ恐怖な「砂丘の巻」あたりは特に傑作だと思う。また、最終章の「海の見える家の巻」で静かに閉じる虚脱感がなんともいえない。
氏の長女、宮脇灯子女史のエッセイによれば、泉鏡花賞の受賞もあって、一度は氏は「お父さんは小説も書けるんだぞ」と自信がついたらしい。
ところが、氏の死後に出版されたエッセイ集「終着駅」で、この「殺意の風景」の創作について書かれた一文があった。本人曰く「うまくいったのが5、6作。失敗したのが10作くらい。このあと各出版社からミステリー小説のオファーがきたが2作しか書けなかった。要するに私には無理だった。」とのことである。
作家人生というのも試行錯誤の連続なのだな。
飢餓海峡
水上勉
新潮社
名作の誉れ高い昭和の小説だが、実は読んだことがなくて手に取ってみた。読み始めたらとまらない。
最近また「貧困」というのがソーシャルイシューとしてキーワードになってきているけれど、貧困というのは本当に人生の選択肢を狭くしてしまう。この小説の舞台のあったころは、日本全体がまだ貧しく、貧困が社会に可視化されていたのだが、今はそれがとても見えにくくなっている。風俗業や肉体労働が貧困者の受け皿になっていることは今も変わらないわけである。
かわいそうだね?
綿矢りさ
数年前の本なので時期遅れだが、面白かったのでとりあげる。表題作の「かわいそうだね?」と、「亜美ちゃんは美人」の二作品が収録されている。
「勝手にふるえてろ」につづく饒舌妄想炸裂小説。女のひとって、短い時間のあいだにこんなにたくさんのことを考えているのか、それとも、もう本能反射的に叩き込まれていて、あえて言葉にするとこんな風な暴走したコンピュータのようになるのか。
それに比べれば、男のひとというのは考えることが少なくて楽かもしれない。
表題作である「かわいそうだね?」は、「かわいそう」という言葉が持つ一見慎ましやかでありながら、その言葉が発現される場面というのは原則として「上から目線」の姿勢が内包されているという身もフタもない指摘を、映画「火垂るの墓」で多くの日本人にとって戦慄の記憶をつくった「親せきのおばさん」の言動を引き合いに出すことで逆説的に証明している。そう、あのおばさんは、清太と節子を「かわいそう」と思わなかった。思えなかった。そこには「上から目線」などなかった。対等であり、言い分は通し、不具合は正そうとしたのである。
「かわいそう」と思うメンタリティは、確かに自分が安全なところにいるところから生まれる感情かもしれない。本当に自分も切った張ったの修羅場に立つのなら、「かわいそう」という感情は芽生えない。「『かわいそう』と思えなければならない」という道義めいた感情が起こるとすれば、それは自分は安全な場所にある、と信じたいからだ。
「火垂るの墓」のあのおばさんは、自分の生活環境もまだ安全ではなかった。だから、あの映画を見て、節子をかわいそうと思える気持ち、あるいはあのおばさんはひどいと思う気持ちは、そこから遥かなる時空を超えた安全な場所からの鑑賞ゆえに沸き起こる感情であることを、この「かわいそうだね?」は看破している。
この小説の勝利は、多くの日本人が、共通として抱え込んでいる「あの『火垂るの墓』のおばさんはなんだったのか」をうまくとりいれたところにあると思う。
「亜美ちゃんは美人」のほうは、「さかきちゃんは美人。亜美ちゃんはもっと美人」という冒頭で始まる「さかきちゃん」が主人公の小説。
この小説のポイントは三人称と一人称の微妙な破格にある。僕はこの小説は叙述トリック、つまり、三人称のようでありながら実は一人称小説とみた。ほら、いるでしょう。自分を名前で呼ぶ人。子供だけかと思いきや、苗字を用いて自分を三人称的にあつかう大人はわりといる。
冒頭の「さかきちゃんは美人。亜美ちゃんはもっと美人」というこのくだりを、神の目線である三人称と見なすか、実はおどけつつもプライドを隠せない一人称、語り手は実はさかきちゃんでみなすかでこの小説の味わいはだいぶ違う。
自分を名前ないし苗字で呼ぶ人のメンタリティというのはどういうのなんだろう。私見ではこれは圧倒的に女性に多い。
ここには、自分を客体視する冷めた視線があると同時に、客体視することで本心を隠せる、つまり第三者的てへぺろのコーティングで自分の行為を正当化するとか、事実を語っているようでどこかに自分のの尊厳を担保しようとしているというか、そういうふかーい事情を感じるのである。
これは逆に、男性が自分のことを第三者よわばりすることが少ない理由はなにかという話にもつながる。
この二編の小説に出てくる男性はどうも煮え切らず、完全に外堀を埋めてからでないと行動できない人物が多いのだが(唯一の例外が亜美ちゃんが惚れた彼氏というこの毒)、自分を客体視するすべを持たない人はつい守りに入ってぐだぐたしてしまうのかもしれない。
落日燃ゆ
城山三郎
新潮社
日本経済新聞社刊の「リーダーの本棚」では、各界の経営者やリーダー50人が、座右の本や、人生で影響を受けたという本を挙げている。彼らが挙げる本には、当然被るものも出てくるわけで、必然的に、「経営者が座右とする本」ランキングができる。
第1位は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」である。
やはり、という感じ。ある年代以上のビジネスマンにとっては定番の1冊といえる(とは言え、文庫だと8冊に相当)。僕も読んでいた。
で、第2位が何かというと、それがこの城山三郎の「落日燃ゆ」なのである。
恥ずかしながら、僕はこの作品を読んでいなかった。聞き及んでいたのはタイトルくらいで、中身もろくに知らなかった。
なので、あわてて、この新潮文庫を買って読んだのである。
後半の東京裁判が始まってからは、途中でとめることができなくて、夜を徹して読んでしまった。
広田弘毅が、実際に戦争責任としてどう評価されるべきかというのは、自分はまだそれを判じるだけの知識はなく、本当のところはわからない。
広田を断じた東京裁判そのものの正当性については、色々な見方があるのは周知の事実だが、一方で、本書のように、広田は軍部の「統帥権の干犯」に翻弄された悲劇の文官であり、不当にも戦争責任を負わされた、と言いきるのは、それはそれで極論なのかもしれないとも思う。
というわけで、自分としては本書を語るにあたって、広田弘毅をどう評価するかというのはさておき、やはりこの作品が「坂の上の雲」に次いで「リーダーの座右とする本」に挙げられたというところが興味深いわけである。
それはやはり、戦後の日本のリーダーたちが、この「落日燃ゆ」描くところの広田弘毅の人となりに思うところがあったということだろう。
「坂の上の雲」が、明治時代における日本の近代化のために、大志を掲げ、栄光を目指し、ついには勝利をもぎ取る群像の物語ならば、「落日燃ゆ」は昭和時代において破滅にむかっていく大日本帝国の中で正義と清廉を守りぬき、ついに死する一人の男の物語ということになろう。ある意味で対極といえる。
広田の人生哲学は、「自ら計らわぬ」ことであり、「物来順応」に生きていくことであった。
出しゃばらず、ごまかさず、華美をきらい、出世欲もなく、誠実に執務を行う。しかし、故事に「桃李もの言わざれど自ずからみちを成す」とあるように、見ている人はちゃんと見ていて困難な局面で大役を担うようになる。そして、絶望的といえる状況の進行の中にありながら、あきらめず、透徹した態度で執務を行い、事後は言いわけも悪あがきもせずに、自分の運命を受け入れていくという、この態度。世のリーダーたちはこれに共感と感動をしたのだろう。確かに、「生き方の美しさ」という点では後光がさしているかのようにまばゆい。こういう人についていきたいと思うし、自分もこのように生きていきたい、と思うものである。
「坂の上の雲」のような志で人生を歩み、ふりかえれば「落日燃ゆ」のような態度を貫いていたというのが、パーフェクトヒューマンの姿ということであろう。
とはいえ、広田弘毅のありようは美しいという一方で、彼は軍部の暴走によって結局は初志を貫徹できず、悲劇的な結末を迎えたわけでもある。そして、この作品にはもう一人の主人公として吉田茂が出てくるわけだが、彼は戦前戦中戦後をふてぶてしくも生き抜き、何はともあれ戦後の日本の礎をつくった。個人的にはまったく好きになれないタイプではあるものの、現実のリーダーとしては、この吉田茂のような清濁併せ飲むタイプのほうが、本当の意味では結果を出すんじゃないかな、とも思ったりする。苦いことである。
海賊とよばれた男
講談社文庫
百田尚樹
出光石油を見直すきっかけになることは間違いない本ではあるし、エンターテイメントとしてもとても面白いのだが、なんか圧倒的な事実背景を持っておきながら2時間ドラマっぽいような鼻白む思いもずっと感じていた。
要するに、人物描写が浅いのである。国岡鐵造は確かに立派な人物ではあるが、あまりにも葛藤がないというか、決断の裏側の逡巡や苦悩が描かれていないのである。国岡だけでなく、他の登場人物も、正義漢はどこまでいっても骨の髄まで正義だし、嫌味なやつは心底イヤミなだけだし、忠臣は果てしなく忠誠心だけ持っている。
プロットだけで上下巻もっていく力量こそが放送作家出身の技なのかもしれないが、もうすこし人物に陰影があってもよいと思う。
神無き月十番目の夜
飯嶋和一
今回は旧作をとりあげている。
今年はひさしぶりに飯嶋和一の新刊「狗賓童子の島」が出た。
なにしろ飯嶋和一という人は寡作として有名で、デビューして四半世紀になるが、作品が単行本で新刊含めて7冊しかなく、そのすべてが傑作と言われている。
新聞広告で飯嶋和一新刊の報をみて、そういえばとずいぶん気になっていながら僕がよんでいなかったのが本書「神無き月十番目の夜」である。
最初の数ページは読んでいたのだが、その後引っ越しのどさくさで本を見失い、そのままにしていた。先日kindleでおとせることを知ってダウンロードしたのである。
江戸時代初期に実際にあったとされるいまは茨城県、かつて常陸の国のとある村でおきた老若男女村民全員虐殺事件が題材になっている。とはいえ、資料は乏しく、不確かなものばかりで、それを著者の丹念な調べと、たぐいまれな想像力、そしてストーリーテーリングで、この事件をあたかもドキュメンタリーのごとくせまっている。
あらすじをごく簡単に言ってしまえば、戦国時代に、常陸の国の小生瀬村という、北と藩境を接するために軍役を担っていた村が、平和な江戸時代となって旧領主が移封されて退き、徳川の直轄地になったことで、これまで軍役のために免除されていた年貢を負うことになってしまい、村人がそれに対して蜂起し、そして徹底的に鎮圧されたという内容である。
書いてしまえばなんてことないけれど、これに至る村側や支配者側の様々な人間ドラマや、小さなほころびが取り返しのつかない大事件になっていく有様が圧巻であり、一方で当時の生活習慣や風俗をていねいに描いていたり、戦の光景も克明で、重厚な映画でもみているような気になる。
サスペンスとしても時代小説としても十分に面白いが、たまたま先ごろ「社内政治の教科書」なんて本を読んでしまったためか、僕はだんだんなんだかサラリーマン小説のような気になってきたのだった。と思ったのは、大量殺戮こそないけれど、こういうことは会社勤めでやはりあるよなあということなのである。
今まで現場と一緒に働いていたような管理職の人が遠くにやられ、まったくなじみのない人が新たな長となって経営層からつかわされてくるとか、現場は現場で自分のところの特殊事情は例外的に認められるんじゃないかとついつい期待してしまうとか。そして、現場からたたき上げであがった中間管理職の人が現場と経営の板挟みに苦しむとか。
とくに例外を認めさせたい現場と標準化を強行したい経営の衝突というのは永遠の課題である。まあ本書は年貢制度という百姓にとって迷惑千万なものでしかない圧政を描くので、どうしたって村側に同情的であり、施政者側は敵役であるから、村のほうに正義はあるように思うし、この村が持つ「例外」についても一理あるように思うが、だがしかし、施政者側、つまりマネジメント側からすれば「例外」というのは面倒なものである。グローバルスタンダードとは、例外なき標準化ということであるし、むしろ「例外」だらけの各所をどう標準化させるのかがそもそも行政というものである、とだって言えるのである。そしてそのギャップを埋めるにあたってはどうしても犠牲が払われる。
それから、冷静に対処しなければならない事態、理性を駆使して究極の均衡状態を保たなければならないときに、誰かが軽率な行いをしてそれをご破算にしてしまう、ということもよくある話である。当人は正義のつもりだったりするのだが、基本的にエゴイズムな行為で、それが綻びの発端となって、事態を悪くさせたりする。こういうのはなかなか防げない。
この小説は、圧政に敷かれそうになった小生瀬村の肝煎(村長みたいなもの)石橋藤九郎が、それでも生き抜くことが大事であるとして恭順の姿勢をとろうとしたにもかかわらず、一村人の軽率な行為からそれがわずかな綻びとなってあらわれる。うそを隠すためにまたうそをつき、発覚を恐れて殺人事件を起こし、またその真実を知るものを殺し、隠すものも隠せなくなって、藤九郎の意思とは関係なく、事態はどんどん悪くなってやがて破滅への道を進むことになる。
マネジメントの観点からみれば、どこかで折り返すことはできなかったか、後戻りできなくなったのはどこか、なども考えるが、ここでひとつ危険なのは人の「やっかみ」という感情だ。やっかみは自尊心を損ない、そして自尊心を得るために自ら余計なことをしてしまう。本人は正義のつもりで、はたから見ればとんでもないことをしでかす例は古今東西いくらでもあるが、やっかみを抱えている人はいつ爆弾になるとも限らない。
というわけで、飯嶋和一の作品にしては、人の暗い面、弱い面があらわになった小説であるともいえる。「始祖鳥記」とか「雷電本紀」とかのさわやか路線と真逆である。ではいよいよ「狗賓童子の島」も読んでみるかな。
思い出のマーニー(ネタばれなし)
著:ジョーン・G・ロビンソン
訳:高見浩
原作の評判が高かったのでそちらを先に読んだ上で、映画を見た。両方とも見ようと思っている人であれば、イギリスを舞台にした原作のほうを先におススメしたい。映画のほうは舞台が日本になるなど、わりとパラフレーズしていて、原作の展開もわりと(時間の制約があるためか)はしょられていたり、原作とは異なる重大な時系列の入れ替えを行っていて(なぜそんなことしたのか)、原作とは物語効果がそもそも違うのではないかと思う。
原作の醍醐味は、自然の描写がたっぷりと書かれていること。イギリスの地方特有の湿った地、潮の緩慢、そして風。地形と環境は舞台装置として物語に大きく寄与しており、「嵐が丘」も彷彿させる。
坊っちゃん
夏目漱石
朝日新聞に「こころ」が再連載されたことが機になって、漱石本が売れているそうである。
漱石の代表作といえばみんな筆頭に「吾輩は猫である」を思い浮かべそうだが、傑作となるとやはり「こころ」に人気があるようだ。「こころ」には、世界観と美意識の深刻さ、小説としてのプロットの秀逸さ、巧みな描写と現代人でも意外に読みやすい文体という、ベストなバランスがある。
いっぽう、「坊っちゃん」であるが、これは漱石文学の入門として位置づけられやすい。シンプルにして明快なストーリー、特徴あふれる登場人物たち、快活な文章は、近代日本文学の中でも極めてハードルの低い作品だと思う。小学6年生の国語の教科書に登場するくらいである(僕が小学生のときの話)。
さて、この国語の教科書では、もちろん「坊っちゃん」全文は載らない。収録されているのは「親譲りの無鉄砲で・・」に始まる冒頭で有名な第一部のみ、つまり「坊っちゃん」の生い立ちの部分であり、この小説の本編ともいうべき、松山での教師生活は触れられない。ある意味“いよいよこれから面白くなる”手前で終わってしまう。
ところで、当時の文部省指導要綱では、この「坊っちゃん」第一部を読ませた後、最後に「この作品で作者の夏目漱石が伝えたかったことは何か」というのを生徒たちに考えさせることになっている。僕自身明快に覚えているのだが、生徒にいろいろ発表させたあと、先生から出た答えはなんと「清への愛」であった。(ちなみに「坊っちゃん」未読の方のために説明すると、「清」というのは、坊っちゃんが東京で育っていたときに住みこみで働いていた下女のばあさんのことである)。
このころ、生徒たちの間では教科書ガイド、つまり先生用の指導用テキストをどこからか入手して閲覧することがはやっていて、たしかに国語の教科書ガイドではここに「清への愛」と書いてあるのだった。
もっとも、そのときの先生は、なぜ、どの部分が、「清への愛」を伝える部分と言えるのかという説明は終ぞしなかった。
それからずいぶんして、小説家の清水義範のエッセイで、この「清への愛」指導要綱の話が出ていて、こんなひどい話があるかと義憤を訴えているのを読んで、やはりそうかと思った。
やっぱりこれはどう考えても不自然である。本編もはじまっていないたかだか冒頭の一部だけ読ませて、「作者の伝えたかったことは何か」を問いかけるのも無茶苦茶だし、その答えが言うに事欠いて「清への愛」とは何事か。「坊っちゃん」で作者の伝えたかったことは色々あるに違いないが、断じて「清への愛」がその代表的な答えとはならないだろう。まったく文科省というのはこれだから食えない。
というのが長年の僕の思いだった。
いったいどこのどいつが、この小説で漱石が伝えたかったことを「清への愛」などと言ったのか。
ここはほとんどうろ覚えなので、間違っている可能性大なのだが、何かのときに、それは文芸評論家の勝本清一郎の説だというのを見知った。いまネットで調べても一切出てこないので、ほんとにただの勘違いかもしれないのだが、だとすれば、あながち的外れでもないのだろう。だが、どこをどう読めばこの小説が「清への愛」となるのか。
そんなこんなで、先ごろ「坊っちゃん」を読み返してみた。
そして、もしかしたら本当にこの小説の主題は「清への愛」かもしれない、と思ったのである。それどころか、この「清への愛」が浮かび上がるからこそ、この小説は単なる痛快娯楽小説に終始しない、近代日本文学の一端を担うようになっているとさえ思えたのである。
どういうことか。
まず、この小説は「坊っちゃん」こと「俺」の手記という体裁をとっている。
で、この手記はいつ書かれたことになっているかというと、清が「今年の二月に肺炎で亡くなった」すぐあとに書かれている。状況証拠としては亡くなって2カ月以内に書かれた手記である。このとき、既に「俺」は松山の教師生活を辞めて東京に戻り、街鉄手を仕事にしながら清と住んでいたのである。
東京に戻ってからの、清との共同生活はわずか4か月程度だったとみられる。その4か月を清はたいへん幸せそうだったと述懐する。
この小説は、家族の中の鼻つまみ者であった「俺」が、清にだけは可愛がられた思い出を第一部とし、しかしその清にもう金輪際会えないかもしれませんと泣いて見送られながら、松山にむかって出発する。そこからは例の赤シャツだ狸だ山嵐だ、と個性豊かな面々と丁々発止を繰り広げるわけだが、しかし随所随所で清への手紙が来たり、清のことを懐かしんだりする。その場面は必ずしも多くないが、しかし、これは必ず松山の連中との対比であり、「俺」はそのたびに清の美しい人間性を思い出す。なにしろ清は唯一「俺」によってあだ名ではなく本名で呼ばれる待遇を受けている。清のことを思えば、ここの人たちは「化け物」であり、この場所は「不浄の地」である。
つまり、松山は「俺」にとって「清の不在の地」なのである。
で、ここがミソなのだが、この「俺」の本名は、この小説ではとうとう最後までわからない。松山の面々も、「俺」のことをなんと呼んでいたのか、この小説では判明しない。この小説のタイトルである「坊っちゃん」、これは清だけが呼んでいた「俺」の呼称なのである。言うならば「俺」は、清によってアイデンティティを与えられている。
清の亡くなったすぐあとに書かれた手記、そこには清によって与えられた呼称「坊っちゃん」がタイトルとして与えられ、「清の不在の地」での悪戦苦闘を真ん中に両端に清との共同生活の話を配置した追想録である。
この手記を書かせたのはまぎれもなく「俺」の「清への愛」である。それももはや「今となっては十倍にして返したくても返せない」追想の募る愛である。
もちろんこれは無責任な深読みであるが、「坊っちゃん」で伝えたかったことは「清への愛」というのはそれはそれでひとつの真実な気がする。いずれにしたって、小学生に第一部だけ読ませてこんな回答出るわけはないのだが。
鉄塔 武蔵野線 (ネタばれ)
銀林みのる
ハードカバーが平積みされていた頃から気になっていたのだが、帯や裏表紙のあらすじで全てを悟ったつもりで、それ以上手を出しそびれているうちに年月がたってしまった。つい先日古本屋のエサ箱で見つけて買ったものである。
コンセプトととしては単純明快で、鉄塔に見せられた少年2人が、自宅近所の80号のナンバーをふられた高圧線鉄塔をみて、この先には何があるのだろう、と自転車で徹底的に追跡していく物語である。つまりロードムービー型ストーリーであり、それを少年2人が行うのだから、スタンドバイミーに近いとも言える。
といっても、要するにひとつずつ鉄塔の番号が若くなりながら基本的にはダラダラと続くわけで、このまま1号までこれにつきあわされるのか、とだんだんうんざりしてくる。鉄塔を辿りたくなる誘惑とマニアックな探究心(タモリ倶楽部的とでもいおうか)はわかっているつもりだが、あまりの山なしオチなしの連続に、正直途中で読むのを放棄したくなった。これこそが鉄塔をたどるリアリズムかもしれないが、ものには限度があろう。しかし、ファンタジーノベルの大賞であり、映画化もされている。このまま終わるわけではないだろうと頑張って読んだら、なんとなんと不覚にも終盤の展開で涙してしまった。
立派にファンタジーノベルであった。作者の術に見事にはまった感がある。
鉄塔でも道でも鉄道でも川でも、目の前に流れているそれを見て、この先には何があるんだろうという好奇心は不変だ。これをたどっていってみよう、という冒険心は少年ならば多かれ少なかれあるだろう。自転車と言う便利な移動道具を手に入れれば、行動にうつしてしまうことは必須である。
でも、たいていはロクな結果にならない。案外つまらない終着だったり、行きつかずに引き返したり、迷子になったり叱られたり。そうしているうちに、普段使っている路線から見知らぬ土地へ道路や線路が伸びていても、もはやこの先には何があるんだろう、という興味は起きなくなってくる。「いずれたいしたことはない」と脳内処理される。これが「オトナの分別」だ。
だが、もしこの小説のような結末があったら、どんなによかっただろう。僕が涙してしまったのは、この冒険の先に出会った “ひがしでん”の計らいである。ロードムービーは自力で何かの真実をつかむものが多いが、この小説で主人公の少年を最後に救うのは他人である“ひがしでん”である。だが、これで主人公の少年は、卑屈でも調整屋でもない立派ないい大人になるであろう。
こういう“ひがしでん”のようなふるまいができるオトナになりたいと思う。
3.11があってから、東京電力にはネガティブなイメージがつきすぎてしまって、素直にこの小説を味わいにくい時代背景になってしまった。良作のファンタジーノベルなのに、現実のほうにつまらないケチがついてしまったのはとても残念だ。
異邦人
アルベール・カミュ 訳:窪田啓作
今年はカミュ生誕100周年である。
といってもとくに文檀上で話題になっているわけでもなさそうだ。
カミュに限らず、カフカにしてもサルトルにしても、20世紀文学の旗手というのは逆に21世紀今日においては陳腐なのかもしれない。
久しぶりに「異邦人」を読んでみて、実はけっこう面白かった。
「これ、今こそもっと読まれていいんじゃないの?」と思った。(ものすごくざっくりしたあらすじはウィキペディアにも書いてある)
冒頭の「今日ママンが死んだ」というセリフや、殺人の理由を「太陽が眩しかったから」と答えるところなど、部分的に有名ではあるが、この小説のあらすじこそが今一度顧みられてよいと思う。というのは、この小説全体を覆っている病理は現在なお健在というか、むしろ進んでいるのではないかと感じるからだ。少なくとも日本ではそう思う。
日本社会は原則的に多様性を信じていないので、異質なものが紛れると恐怖心と排除心が顕著に働く。しかも最近はWEB検索やSNSで、「自分と近しい人」と接点を持つことがかつてより容易になっているから、その分、異質な他者とは距離がおかれやすい。そして、異質な人間が現れたときのその排他的感情は、ネット等でみていると実に厳しいものがある。
何か社会的な事件、とくにワイドショー的な事件がおこると、マスコミも掲示板もその容疑者の背景を迫ろうとする。犯行の動機を解明しようとし、社会学者や心理学者、犯罪学の権威などが呼び集めあられてあーでもないこーでもない、と議論する。で、その結果、ある種の説明がなされたとして、ではその容疑者の行為を自分たちの延長上ととらえるかとすると、そんなことはなくて、逆にこれはもう徹底的に隔離し、排除しようとする。もともと日本は死刑という制度があり、日本の死刑制度賛成派は80%を超すといわれている。
だから、この「異邦人」の主人公であるムルソーは、今の社会ではやはりなお「異邦人」であろう。
ムルソーはとあるなりゆきで殺人事件を起こす。裁判はその事件の動機やなりゆきよりもムルソーの人間性に注目する。
“母親の葬儀に涙を見せず、その翌日に恋人と情事に耽けた”というこの事実に、彼の異常性を見出し、彼を抹殺しようとする。
ある種の寓話とみてよい。
ワイドショーでも掲示板でも、かならず容疑者の生い立ちとか普段の生活のたちふるまいから、何かの異常性を見つけようとする。むしろ、異常性を見つけることで、この人はわたしたち「通常」の人とは異なる違う人種の人である。だからこそこのような犯行をするのだ、というストーリーをつくる。(しかもこれが容疑者だけでなく、被害者にまでこのようなストーリーをつくる傾向がある。)
この「異邦人」はいわば神の視点で書かれており、彼の行動は首尾一貫としていて、決して「異邦人」ではない。親と子の関係のありようは人の数だけあるし、殺人に至る過程や伏線は、その突発的な衝動もふくめて、まあありうると思われる描写で説明される(もちろん殺人という行為そのものは言語道断だが)。余談だが、 浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた引き金となったのは太陽が眩しかったからだという説がある。人は太陽光線を瞳に浴びるとカッとなりやすいのはひとつの真実ではあろう。
そういう「人の衝動」を、我々の社会はあってはならぬものとみなす。「衝動」を抑えるこそが社会であり、人間としてのまっとうな立ち振る舞いであろうとする。
「衝動」を抑制することこそ社会秩序であるというのはまったくもってその通りで異論もないが、世間は「衝動」に理由や背景を作ろうとする。それも「健全な我々には本来持ち得ない」理由や背景を探し当てて、仕立て上げる。つまり、ふつうの人間はそもそも「衝動」を持たない、という原則論であり、「衝動」を起こした人間は(たぶん恐怖心も手伝って)、完膚なきまで殲滅しようとするのだ。「太陽が眩しかったから」というのは異常性のエビデンスとするのである。
小説「異邦人」では、主人公ムルソーが何かと予定調和を探ろうとする弁護士や司祭を排斥し、最後まで自分自身の思考パターンに疑いを持たず、その結果死んだママンの気持ちを確信をもって把握し、世間にとっては異質であるらしい自分を異質のまま全うさせるために、罵声を浴びながら死刑台に上ることを望むという結末に至る。
この小説は不条理を描くとされるが、本来的には小説「異邦人」の不条理の対象とは、ムルローの周囲の社会そのものを指すとみられる。だが、今なお社会の大多数はムルローの存在こそ不条理と映るのだろうと思う。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上春樹
今更かよ、と言われそうだけど。
村上春樹の他の作品にもれず、意味深な小道具と登場人物で溢れている。
いくらでも深読みができる小説であり、推理小説のようにパズルを解いていく読み方もあるが、ここではより骨太に、構造と寓意に着目した見立てをしてみたい。
個人的に拾いたい要素は「駅」と「プール」である。
主人公の多崎つくる君は、駅の設計を仕事にしている。それだけでなく、何か考え事があると駅に行ってぼーっとまわりを眺める。
一方、彼はプールで泳ぐのを習慣にしている。そのときも考え事をしながら泳ぐ。
「駅」は雑踏であり、社会である。多崎つくる君は、その社会装置をつくる仕事をしており、その社会を遠くから眺める。そんな彼は孤独である。
プールで泳ぐことは真に自問自答の閉ざされた空間であり、彼はその孤独に没頭する。
「駅」とは群像の中の孤独であり、「プール」とは誰もいない無人の空間の中でさらに内省化していく孤独である。
さて、この物語は、高校生時代の5人組仲良しグループ、7人の侍のように明確に役割分担された、究極に調和のとれたグループにいた多崎くんが、突然他の4人の仲間から謎の絶縁宣言を受けるところから始まる。この5人のうち、多崎くん以外の4人は、名字に「色」を持つ。すなわち赤松、青海、白松、黒埜である。
理由のわからぬまま絶縁宣言を受け、絶望のどん底におちた多崎くんは死を観念しながらしかし生きながらえ、その半年の過程で顔つきも体つきも生まれ変わる。
彼はプールへ通うことを日課とするようになる。
そしてそのプールで「灰田」という年下の青年にあう。
灰田は多崎のよき理解者であり、親友となったが、あるとき忽然と姿を消し、多崎は再び孤独になる。
その後、多崎は念願の駅を設計する仕事につく。
やがて、多崎は、木元沙羅という聡明な年上の女性と知り合う。
そして、物語は、沙羅の意見によって多崎が16年前になぜ突然4人に絶縁されたのかの理由を探しに、再び4人に会いにいく、ということになるのだが、物語の具体的な成り行き、彼ら4人がその後具体的に何があってどうなっていったかを追跡してもあまり意味がないように思う。いや、あるのかもしれないが、少なくとも絶縁の理由とか、今の4人の境遇が何をあらわすかとかは、この小説を読み解く上で絶対条件である必要もないように思う。
やはり、ここでキーになるのは、「色」のついた名前を持つ彼らの意味、その中で「色彩」をもたない多崎の人生のプロセス、そこに思いだすように現れる「駅」と「プール」である。
個人的に得た結論は、人生とは途中まで「加色混合」であり、あるときを境に「減色混合」になる、ということだ。
「加色混合」とは絵の具のように色を重ねれば重ねるほど色が濃くなる、厚みが増すことである。
友達百人できるかな? という歌があるように(いまどき同学年に100人もいないわけだが)、子どもから大人への過程で、人生は人と知り合い、群れ会い、その中で情報を蓄積し、グループの中の調和の一員を過ごす。
だが、やがて調和は停滞と限界に行きつく。何かをきっかけにして、それは本人も気づかないくらいゆるい峠のこともあれば、ショッキングな断崖であることもあるが、そこを境に人生は知り合いを、群れを減らしていく。いくらSNSでつながっていようと、ママ友をつくろうと本質的にはそうなる。それがオトナになるということだ。
だが、それは後退ではない。減らしていくことで、人生はシンプルに、よりベクトルが明りょうになる。つまり、減らすことで自分自身の厚みはむしろ増えていく。これが「減色混合」である。光は「減色混合」である。集まりすぎた光は真っ白になってしまい正体を失う。
「色彩」をもたない多崎君はアカ、アオ、シロ、クロの仲間たちによってそのポジションをもらい、そして最も色が重なったときに突然孤独に放り投げられる。
やがて顔つき、体つきともに生まれ変わり、孤独とむきあい、プールの中に安寧する多崎が出会った人物がすべての色を混ぜ合わせてできる灰色を名に持つ「灰田」である。
灰田はここで、不思議なジャズピアニストの話をする。それはかつて6本指を持っていたことをうかがわせるピアニストの話で、しかし6本目の指はけっきょく邪魔であり、それを切り離して5本指になったそのピアニストはこれ以上はないという演奏を行い、そして去っていく。5つ以上要素を重ねることはもはや調和を破壊する。
灰田はそうして多崎の目の前から姿を消す。
この「灰色」の時代を峠にして、「生まれ変わった」多崎はここから減色混合の人生を歩む。
雑踏の中の孤独、「駅」の人生を歩む。彼は「駅」を、その「人生」を、少なくとも満足しながら日々を送る。
突然の絶縁から16年目にして、彼が過去の4人の元(正確にいうと3人)を巡礼し、得た答えは、そんな彼の人生が、本筋としては理不尽でも奇妙奇天烈でもなく、しごく全うであるという解釈を得ることである。物語上は解決されない謎がしかけられているが、作者がこの謎を解決させていないということは、この謎を解くことは物語の本質において必ずしも大事ではないことを意味する。
むしろポイントは巡礼の果てに多作の行きついた心境である。
真っ白の世界、フィンランドの白樺と白夜の世界(しかも内省に沈むプールにも入れなかった)で16年前の真実を知った多崎は、この先は何もない白の世界から引き返し、新宿駅の雑踏を見つめ、今の今までの自分の人生を肯定し(それは透明な諦観をともなうものだけど)、しかしここまでシンプルに引き算していって最後に沙羅を求める自分を強く自覚する。
人生は減色混合であり、もしかしたらこの先、沙羅さえも多崎の元を去りそうな予感さえ与える(一見隠されているが彼女は「黄色」である。沙羅という花は白い花弁の中に黄色い花芯を持つ。これこそフィンランドの白い世界の中でみつけた真実である。)のだが、それでも多崎は彼女こそはいろいろ引き算した結果、ゆいいつ確保しなければならない色と自覚するのである。
最後のことば「すべてが時の流れに消えてしまったわけではないんだ。僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」。
人生のどこかで加色混合から減色混合への峠をこえ、そこを境に生まれ変わっている。
だが、峠の手前だからといって加色混合の時代が無意味なわけでもなく、減色混合だからといって価値が失われていくわけではない。むしろ減ることで意味は研ぎ澄まされていく。
かくして人生はつくり続けられる。
終わらざる夏
浅田次郎
たいそう評判を呼んだ小説。文庫化を待っていたら3巻ものになって現れた。
太平洋戦争末期における占守島の戦いを扱っている。
占守島というのは千島列島の北端、すぐその先にはカムチャッカ半島がある。
とはいうものの、実は戦闘場面はこの小説の主眼ではない。実に本編8割くらいまで進まないと戦闘は始まらないのである。
では、この小説は何かというと、太平洋戦争末期の異常な国家総動員と、その総動員に翻弄され、不条理と悲しみと耐え忍ぶひとりひとりの国民の姿を丹念に描いたものである。召集される小市民だけでなく、誰を徴兵するか決める立場の者、赤紙を届けにいく者、留守を預かる者、地方に疎開するその子ども、引率の先生などひとりひとりをクローズアップしていく。
巨大かつ虚無といってよい太平洋戦争末期の抗うことのできない絶望的な潮流の中をひとりひとりが生きている。
で、戦争というものは畢竟このようにひとりひとりを襲う不条理な悲しみの上に遂行されるのだ、ということがこの小説ではいやというほど味わされるのではあるが、一方で、この小説は大事な人、愛する人を守ることができた人、守ることができなかった人の話でもある。
もしかしたら、隠れた主題はこちらかもしれない。
本書の主人公は翻訳書の編集者である片岡直哉ということになるだろうが、彼とともに占守島にむかったのが医師の菊池忠彦と、歴戦の軍曹、鬼熊こと富永熊男である。
菊池は「守ってきた人」だった。
彼は、徴兵のための健康検査を担当していた。彼は、その人が徴兵されると家が立ち行かなくなるような場合、わざと病気持ちの診断書を発行し、徴兵不合格にさせた。そうすることで、その人の命やその家族を守った。
だが、彼のこうした行為はやがて官憲の知るところとなり、そして占守島に赴くことになる。
鬼熊の唯一の身寄りは母親であった。
彼は非常に素行の悪い乱暴者であったが、出征の日、一世一代の大狂言で、この貧しく弱い母親が飢えることのない環境下をつくって占守島に行った。
片岡の息子、譲は疎開先で供え物のつまみ食いをした譲以外の級友全員の罪を被り、級友を守った。
その譲は、近所に住む上級生、吉岡静代に守られ、疎開先から東京への逃避行を始める。その静代は、やくざ上がりの岩井に守られ、上野駅まで無事に帰還させる。譲は母親の久子と再会を果たす。
占守島には缶詰工場で働く女子挺員が400名近くいた。ソ連上陸を目前に控え、決死の脱出行で彼女たちを守ったのが、缶詰工場の主任である森本と軍関係者、中でも小舟で荒海の航海を負った岸上等兵だろう。
この岸上等兵も三陸の貧しい出自から守り守りぬいて果てにこの北洋に来た人物である。
守ろうと思って悪戦苦闘しながら守り切れなかった人たちもいる。
疎開先の教員、小山と浅井は銃後の不条理に悩みながら、教育と子どもの将来を信じ、軍国教育と一線をひいて指導を行い、玉音放送の際も子どもたちにその真実を伝えた。そういう意味では、彼らも子どもたちを守った。
しかし一方で、彼らは譲と静代の逃亡を許し、その後のエピソードは本小説からは現れない。この教師二人は大奮戦したものの、譲と静代を守ることができなかった。
我が村での徴兵される者を決め、赤紙を発行する立場にある佐々木曹長は、母親に鬼と言われながらも苦渋の仕事を続ける。そんな呪われた己の運命に玉音放送の日に泣き崩れる。守りたいのに守ることのできない絶望的な苦悩が佐々木曹長にはある。
片岡直哉の妻久子は実母に守られない幼少時代を過ごし、それがために今なお母を恨み、その果てに実弟は南洋で玉砕したことを後から悔いる。実弟を守ることができなかったと思うのである。そして夫の出征に改めて何もできず、ただ新宿の街かどで千人針に立つ自分に泣く。
大事な人が死地に赴くことは必ずしも自分ひとりのせいではないが、しかし自分が守れなかったからだ、と思ってしまうのは人情だろう。
最も守ることができなかったのは流れ流れて占守島に赴任した戦車乗りの大屋准尉だ。
彼は戦車乗りこそ自分の使命と自分を言い聞かせてしまったがために、満州の厳しい大地に後妻である千和をひとり残してしまった。その後の満州はソ連の猛軍に蹂躙されることになる。
大屋はそのことを悔みながら、しかし戦車乗りに憧れた少年兵中村とともに最後の戦いをソ連軍と交わし、そして果てる。
個人的には、この小説の膨大な登場人物の中でも、この満州に残されたか弱い千和と、戦車にあこがれながら身長が足らず最後まで味噌っかす扱いされた中村がもっとも不憫に思えた。
そして、あまりにも多くの人を巻き込んだこの占守島の攻防で、既に無条件降伏を果たしたにも関わらず、日本軍がソ連軍とたたかったのは、祖国のいわれなき蹂躙を守るためであった。
昭和20年8月17日、つまりソ連軍が占守島に上陸してきた時点で占守島に無傷の強力な戦隊が保存されていたのは歴史的事実である。
終戦直前の日本は、お話にならない脆弱な武装で無謀な攻撃と無残な敗退を繰り返してきたわけだが、奇蹟か神のいたずらか北方の辺境の小さな島におそらく太平洋戦史上でみても超強力な軍隊が占守島にいた。
これがもし他の戦場のようなありさまだったら、今頃北海道はロシアだったかもしれない、とまで言われている。事実、満州の関東軍は壊滅し、民間人含めて大きな犠牲を生んだ。また、樺太でも真岡電話交換手事件のような悲劇の敗走劇があった。
400人の女子挺員を守った占守島の日本兵は、けっきょく最後は武装解除し、生存者は全員捕虜としてシベリアに連れて行かれた。シベリア抑留もまた、太平洋戦争の不条理の大きなもののひとつである。彼らの多くがまたシベリアの大地で命を落とし、残った生存者が日本に戻ったのは何年も先である。日本という「国」が対米の戦後政策の中で、対ソ問題が遅れに遅れ、シベリア抑留の日本人の保護が後回しになったのである。
こうしてみると、いちばん人の命を守らなかったのは「国」である。
これは「それでも、日本人は戦争を選んだ」でも指摘されているが、日本という国は、あまりにもひとりひとりの命を軽視してきた。一人一人が大事な人、愛する人の命を守るために、限界までの悪戦苦闘をしてきたのに対し、「国」はあまりにも国民の命を安く見積もってきた。それが近代日本の歴史である。
そしていまなお、択捉島以南のいわゆる北方領土は返ってこない。
二島返還論や、プーチン大統領の「引き分け」発言など、外交努力は続いているようだが、既に択捉島や国後島にはロシア人の二世三世が生まれている。
ソ連軍の占領時、北海道に逃れた島民は17000人いたそうだが、高齢化と寿命で今も生存しているのは7000人とのことである。