舟を編む (ネタばれなし)
三浦しをん
ようやく読みましたよ。面白かった。
この小説の主役は「国語辞典」である。
いやー。国語辞典をつくるって、こんなに大変なことだったんだなあ。実家の父親の書だなに「言海」があったけど、こんないわれがある辞書だったんだ。(正しくいうと、改訂版の「大言海」)。
なるほど。ウィキペディアを改めてみると、おなじみ「広辞苑」に始まり、「日本国語大辞典」に「大辞林」に「大辞泉」、例の「新明解国語辞典」までいろいろある。
ウィキペディア情報ではあるけれど、三省堂の「大辞林」は、1988年に初版が発行。だけど、企画があがったのは1959年とのこと。小学館の「大辞泉」は、1995年に初版が発行されたが、企画があがったのは1966年。
つまり、企画が上がってから、刊行にたどりつくまでに30年近くかかっているということだ。
他にも「広辞苑」に使われている紙には薄くても丈夫にするためにチタンが入っているとか、「辞海」のように改訂されることなく品切れで終わった辞典の話とか、改めて見てみると、かなり異様な世界である。
それにしても、国語辞典。すっかり引かなくなってしまった。
小学生のころはご多分にもれず、様々なエロワードをひいたりしたものだが、基本的に辞書を引くという行為はめんどうくさいものだった。だから、なにか文章を読んでいて知らないコトバに出くわしても、それを調べる手間をとるよりは、前後の文脈で類推したり、まあいいやで読みすごしていた。よほどのことがない限り支障はないものだ。
だからこの小説は、国語辞典というものの新しい読み方、楽しみ方を提供してくれた。
国語辞典というのは、コトバをコトバで説明する、という試みの挑戦と限界が詰まっていることなのである。
そして、コトバというのは世界そのものなのだ。世界はコトバでできている、我々の認識はコトバで建てつけられている。言ってみれば自分の世界認識そのものなのである。
我々の生きている空間はユークリッド幾何学空間の秩序に他ならないが、認識し、解釈し、他人と共有するのは、コトバによって秩序化された認識空間なのである。
ふだんそんなことはまったく気がつかないが、国語辞典を真剣に読んでいると、ふと世界が相転移して、広大無辺な虚無な空間に放り出されたかのような一瞬のめまいにとらわれる。ゲシュタルト崩壊に近い感覚とでもいおうか。
しかし、コトバというのは、もともとその成り立ちの根源までさかのぼれば、自分でない他人に何かを伝えるためにある。手段である。コミュニケーションなのである。
何かを自分ではない誰かに伝えたくて、コトバは生まれた。
本書の主人公は、コトバの世界にのめりこんだ人物でありながら、コミュニケーションは下手(とくに若い頃)という矛盾を抱え込んでいる。つまり、コミュニケーションのためのコトバ使いとしては不全であり、コトバが自己目的化した人種として描かれる。
おしゃべりがうまい人、話好きな人、コミュニケーションが上手な人は、必ずしもボキャブラリー豊富な人ではない。
むしろ反対かもしれない。
だけど、そこにそういうコトバがある、もしくはあった、のだとすれば、それはそのコトバでしか言いようのない、他のコトバでは相容れない微妙なニュアンスがそこにあり、その微妙なニュアンスを他人と共有したいとかつて誰かが思ったことの証しであり、名残なのだなあと思う。
ひとつひとつのコトバには、なんとかこれをあなたに伝えたい、というまじめで真剣な思いのDNAがつまっているということなんだなあ。