読書の記録

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知の逆転

2013年05月01日 | サイエンス

知の逆転

インタビュー・編 吉成真由美


 超豪華なシンポジウムというか、神々の共演というか。

 ジャレッド・ダイヤモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、そしてジェームズ・ワトソンのインタビュー数である。

 たとえ名前に覚えがなくても、「銃・病原菌・鉄」の人、「生成文法論」の人、「妻を帽子とまちがえた男」の人、「人工知能の父」、アカマイ社の代表取締役、「DNA二重らせん」を発見した人、と書いていけば、その超ド級具合がわかるかもしれない。(白状すると、僕はアカマイ社のトム・レイトンは、まったく知らなかったのだけど)。

 いわば最先端の科学者たちにこれからの世界や教育などについてインタビューしている。
 彼らのコメントはなかなか興味深く、またタイトルの「知の逆転」にあるように市井の一般論をひっくりかえすよう鋭い指摘も多い。
 本書は一人の発言にコミットしてもよいし、ある共通の課題に対し、それぞれがどう答えているかを横串で比較してもよい。


 僕がひとつ気づいたのは、あろうことか、みんな民主主義、あるいは集合知的なものを信用していないということである。
 「みんなの考えは案外正しい」なんてウソだ、ということである。

 ジャレッド・ダイヤモンドは「個人の優れた判断力は、民主主義のための必須条件ではない。」という。「民主主義プロセスでは困難だが、世界の生活水準が均一にならないと世界秩序は崩壊する(この場合、アメリカや日本は今より生活水準を落とすことになる)。選択の余地はない。」と警鐘を鳴らす。民主主義と安定的生存の相いれなさを指摘しているのである。

 ノーム・チョムスキーは「民間ビジネスは実は政府の介入を望み、完全な市場原理主義は実は社会を破たんする」という見解を示す。なるほどその通りだなあと思う。我が日本でも、実際は政府が肩入れしたり規制や保護をかけているものはたくさんある。だが、本当に市場原理に任せると絶対に破滅するとし、ここに民主主義の限界を見ている。インターネットによる情報アクセスのオープン化も、「垂れ流しの情報があってもそれは情報がないのと同じ」と喝破し、「理解あるいは解釈の枠組み」を持っていなければならない、とする。

 また、人工知能のマービン・ミンスキーも「集合知」に懐疑的な発言をしており、「多くの人が大賛成した場合のほとんどは、大惨事になるか、文化が崩壊するか、大衆をうまく説得するヒットラーのような人物があらわれる」と指摘して、「科学の叡智はいつも個人知能によってもたらせた」と言う。(ポピュラリティに流されて「犬のロボット」をつくって喜んでいてけっきょくフクシマに送り込めるロボットをつくれなかったロボット業界に痛烈な批判を浴びせている)。

 ジェームズ・ワトソンは「総意というのは往々にして間違っている。あくまで「個人」が際立つ必要がある。科学を促進させるということは、とりもなおさず「個人」を尊重すること」と言って、「国富論」を引き合いに「文明の大きな進歩というものは「個人」が生み出すもので、「政府」からはけっして生まれてこない。だから集団の一員ということではなく、独立した「個人」というものが尊重されなければならない」としている。

 要するにみんな近いことを言っていて、目先の利潤や生存に左右されがちな民主主義的意思決定の限界が、いま先進国を中心に襲っており、これを超える強力な決断は、理解や解釈を備えた個人の判断力にならざるを得ないというものである。ただ、そのちょっとした判断で簡単に文明は崩壊する。まじかよ。


 つまり、宗教とか集合知とか空気とか、外部に理由と結果を求める限り、間違った未来にいきやすい、ということなのである。(なんとここに上がる人はみんな「宗教」に懐疑的である)。個人の理解力と決断力と実行力こそが、未来を切り開き、社会を伸展させるのである。


 さすが知の巨人たちは違うなあと思うわけだが、なかなかわれわれ一般人にはだまって拝聴するしかないようなところもある。

 だが、ここでオリバー・サックスの発言がなかなか生きていく上で示唆にとむ。
 こういう個人の力を引き出すにはどうすればよいか。一部の超優秀な人間がトップランナーで走って、あとは暗愚な大衆であれ、ということか。
 それに対して、サックスは「人はみんな脳(思考)の傾向が違うものである」と指摘している。その脳の傾向は遺伝で決まるということでもなくて、環境と育ちが充分に作用する。遺伝的要素を持っていたとしてもそれを引き出すのは環境的要因だということである。
 で、個人が遺伝的に持っていた脳の良さをもっとも引きだすのはやはり教育であり、「教育におけるもっとも大事なことは先生と生徒のポジティブな関係」ということになる。この意味するところは、先生と生徒は脳が違うのだから、先生の「脳」のようになれ、といってもなれない。先生は、生徒の「脳」のポテンシャルを引き出すことに情熱を傾けなければならない。
 さらに、このネット全盛の時代にあって「没頭する時間」と「音楽に身をゆだねる時間」が脳には必要とのことである。

 こうすることで、己のパワーは無限のポテンシャルを持つ。その自分に自信を持って、理解と決断と実行をはかったその最大の例が、アカマイ社のトム・レイトンということになるだろう。

 

 などなど。本書はいろんな縦軸、横軸で読めそうである。
 おりをみて、もういちど読み返して、また別の補助線や対角線をみつけてみたい。


 


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