異邦人
アルベール・カミュ 訳:窪田啓作
今年はカミュ生誕100周年である。
といってもとくに文檀上で話題になっているわけでもなさそうだ。
カミュに限らず、カフカにしてもサルトルにしても、20世紀文学の旗手というのは逆に21世紀今日においては陳腐なのかもしれない。
久しぶりに「異邦人」を読んでみて、実はけっこう面白かった。
「これ、今こそもっと読まれていいんじゃないの?」と思った。(ものすごくざっくりしたあらすじはウィキペディアにも書いてある)
冒頭の「今日ママンが死んだ」というセリフや、殺人の理由を「太陽が眩しかったから」と答えるところなど、部分的に有名ではあるが、この小説のあらすじこそが今一度顧みられてよいと思う。というのは、この小説全体を覆っている病理は現在なお健在というか、むしろ進んでいるのではないかと感じるからだ。少なくとも日本ではそう思う。
日本社会は原則的に多様性を信じていないので、異質なものが紛れると恐怖心と排除心が顕著に働く。しかも最近はWEB検索やSNSで、「自分と近しい人」と接点を持つことがかつてより容易になっているから、その分、異質な他者とは距離がおかれやすい。そして、異質な人間が現れたときのその排他的感情は、ネット等でみていると実に厳しいものがある。
何か社会的な事件、とくにワイドショー的な事件がおこると、マスコミも掲示板もその容疑者の背景を迫ろうとする。犯行の動機を解明しようとし、社会学者や心理学者、犯罪学の権威などが呼び集めあられてあーでもないこーでもない、と議論する。で、その結果、ある種の説明がなされたとして、ではその容疑者の行為を自分たちの延長上ととらえるかとすると、そんなことはなくて、逆にこれはもう徹底的に隔離し、排除しようとする。もともと日本は死刑という制度があり、日本の死刑制度賛成派は80%を超すといわれている。
だから、この「異邦人」の主人公であるムルソーは、今の社会ではやはりなお「異邦人」であろう。
ムルソーはとあるなりゆきで殺人事件を起こす。裁判はその事件の動機やなりゆきよりもムルソーの人間性に注目する。
“母親の葬儀に涙を見せず、その翌日に恋人と情事に耽けた”というこの事実に、彼の異常性を見出し、彼を抹殺しようとする。
ある種の寓話とみてよい。
ワイドショーでも掲示板でも、かならず容疑者の生い立ちとか普段の生活のたちふるまいから、何かの異常性を見つけようとする。むしろ、異常性を見つけることで、この人はわたしたち「通常」の人とは異なる違う人種の人である。だからこそこのような犯行をするのだ、というストーリーをつくる。(しかもこれが容疑者だけでなく、被害者にまでこのようなストーリーをつくる傾向がある。)
この「異邦人」はいわば神の視点で書かれており、彼の行動は首尾一貫としていて、決して「異邦人」ではない。親と子の関係のありようは人の数だけあるし、殺人に至る過程や伏線は、その突発的な衝動もふくめて、まあありうると思われる描写で説明される(もちろん殺人という行為そのものは言語道断だが)。余談だが、 浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた引き金となったのは太陽が眩しかったからだという説がある。人は太陽光線を瞳に浴びるとカッとなりやすいのはひとつの真実ではあろう。
そういう「人の衝動」を、我々の社会はあってはならぬものとみなす。「衝動」を抑えるこそが社会であり、人間としてのまっとうな立ち振る舞いであろうとする。
「衝動」を抑制することこそ社会秩序であるというのはまったくもってその通りで異論もないが、世間は「衝動」に理由や背景を作ろうとする。それも「健全な我々には本来持ち得ない」理由や背景を探し当てて、仕立て上げる。つまり、ふつうの人間はそもそも「衝動」を持たない、という原則論であり、「衝動」を起こした人間は(たぶん恐怖心も手伝って)、完膚なきまで殲滅しようとするのだ。「太陽が眩しかったから」というのは異常性のエビデンスとするのである。
小説「異邦人」では、主人公ムルソーが何かと予定調和を探ろうとする弁護士や司祭を排斥し、最後まで自分自身の思考パターンに疑いを持たず、その結果死んだママンの気持ちを確信をもって把握し、世間にとっては異質であるらしい自分を異質のまま全うさせるために、罵声を浴びながら死刑台に上ることを望むという結末に至る。
この小説は不条理を描くとされるが、本来的には小説「異邦人」の不条理の対象とは、ムルローの周囲の社会そのものを指すとみられる。だが、今なお社会の大多数はムルローの存在こそ不条理と映るのだろうと思う。